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2026/06/22

POST#1885 なぜ、経済成長しても中華人民共和国は民主化しないのか?

 

香港

1977年5月、昭和五十二年ということは、すでに半世紀ほどの大昔のことだ。わお!

当時御年八歳だった俺は、名古屋の金城ふ頭で開かれた『中華人共和国展覧会🔗』というイベントに行った記憶がある。今のポートメッセ名古屋で開かれていたはずだ。こいつは当時は、名古屋国際展示場という名前だった。

そこで俺は、当時の日本でもすでにお目にかかることが少なくなっていたブリキのおもちゃを買った覚えがある。レバーを押すとゼンマイの力で卵のカラが回転し、中からヒヨコが出てくるというおもちゃだ。当時の日本は、世界の工場で、どこに行っても何を買っても、Made in Japanという時代だった。

それから50年の時を経て、中華人民共和国は経済的なテイクオフを果たし、世界の工場として君臨している。なにを買ってもMade in Chinaだ。

時代が完全に変わってしまった。当時は田中角栄🔗周恩来🔗日中国交正常化🔗を結んでから五年ほどしかたっていなかった。

この日中国交正常化に関しても、日中戦争の記憶がいまだ鮮烈な時期だけあって、中国国内でもかなりの抵抗があった。しかし、最終的には日中戦争を主導した当時の日本政府と日本国民を切り分け、中国人民も日本国民も共に当時の日本政府及び軍部の被害者だったというロジックで乗り切ったわけだ。田中角栄自身も、中国との国交正常化と日本列島改造論に自らの政治生命をかけていたんだ。なんとしても成し遂げたかったことだろう。

この流れをくむ自民党の旧経世会グループ=平成研究会🔗は、今では世間のネトウヨの皆さんから媚中派と叩かれている。また、後に自民党を割って生まれた民主党も鳩山由紀夫🔗小沢一郎🔗岡田克也🔗などはみなこの旧経世会の流れを汲んでいる。ここらあたりも、旧民主党系がネトウヨの皆さんから毛嫌いされ、執拗に攻撃されるゆえんだろう。

そこには、かつて安物のブリキの玩具しか作れなかった中華人民共和国が、先端技術を駆使したロボットやEV自動車を製造し、日本の経済規模をはるかに凌駕した世界第二位のGDPを誇る経済大国に、日本を踏み台にして成長したというルサンチマンが黒々と渦巻いているのだろう。

その後の歩みをざっとたどってみるとこんな感じだ。

1978年:日中平和友好条約の締結と鄧小平の来日

御幼少のみぎりの俺が名古屋港の物産展に行った翌年、鄧小平🔗が来日した。

彼は新幹線やパナソニック(旧松下電器)の近代的な工場を見て「これと同じものを中国に作りたい、力を貸してくれ」と日本側に懇願したんだ。

1979年:ODA(政府開発援助)の開始

ここから日本政府による、文字通り国家を挙げた巨大なテコ入れが始まるわけだ。日中戦争で多大な犠牲をもたらした罪滅ぼしという意識も多分にあったことだろう。

中国の港湾、鉄道、道路、発電所といった、後の「世界の工場」となるためのすべての基礎インフラは、日本の巨額の税金(円借款)によって建設されたわけだ。

そして1989年がやってくる。1989年は、昭和天皇の崩御、ベルリンの壁崩壊と記憶に残ることが起きた年だ。歴史は終わったとまで言われたほどだ。

1969年生まれの俺にとって、1989年のベルリンの壁崩壊とほぼ同時に発表されたフランシス・フクヤマ🔗の『歴史の終わり🔗』理論が強烈な印象を残したのは、きわめて自然なことだったな。まぁ、正直言って俺は当時、宗教にはまっていて、家を飛び出していたから、その重要性に気が付いたのは、後になってじわじわと体感したわけなんだけれどもね。

あれこそまさに、あの時代をリアルタイムに生きた世代の共通の記憶だといっても過言じゃないだろう。若い衆にはちょっと想像つかないだろうな。世界のパラダイムが一変した時期だったんだ。

二十歳前後の最も多感な時期に、東西冷戦🔗の終結という人類史の劇的な大転換と、この「自由民主主義の最終勝利」を告げる華々しい理論が完全にシンクロしていたからだ。

当時の世界は、ソビエト連邦🔗共産主義という巨大な共同幻想🔗が崩壊し、あとは資本主義と自由主義が世界を一本化していくという強烈な高揚感に包まれていた。

誰もがフクヤマの言う「これでもう人類のイデオロギー対立は終わり、世界はひとつになる」という数式のような未来予測を信じて疑いなかった。今思えば、とんでもなく能天気な発想だ。その能天気な自由主義陣営の浮かれようをあざ笑うようなことが中華人民共和国で起きていた。6月4日の天安門事件🔗だ。

政治改革開放を唱えた胡耀邦の死を悼む集会から発したデモは、最終的には50万人もの規模に膨れ上がったといわれている。最終的には、人民解放軍が突入🔗し、多大な犠牲者を出したという。天安門事件では、2017年に機密解除された英外交電報が、装甲車が学生を轢き潰しブルドーザーで処理したという1万人規模の殺害に関する凄惨な内部報告を記録しているという。にわかには信じられないが、長い中国の歴史の中では、このような大虐殺はざらだった。紀元前の戦国時代に秦によって行われた長平の戦い🔗における趙兵坑殺四十万など、権力維持のための大量虐殺の歴史的背景と対置される。

天安門事件における無名の反逆者🔗こと戦車男(タンクマン🔗)の決死の抵抗と、ウアルカイシ🔗氏ら元学生リーダーによる「誤った薬」という証言は、中国共産党の暴挙を鮮烈に証明し、当時の日本の融和政策が彼らの犠牲の上に成り立っていたことを暴露しているだろう。

西側諸国が激しい制裁を科す中、日本政府はいち早く「中国を孤立させるのは得策ではない」と主張し、1990年のヒューストン・サミットで対中円借款の再開を主導した。

当時、忌野清志郎🔗率いるザ・タイマーズ🔗が『総理大臣🔗』という曲でおちょくった当の本人の海部俊樹🔗首相が、欧米の激しい批判を振り切って対中円借款の再開へと舵を切ったんだ。ちなみに海部俊樹は俺の住んでる選挙区から出た政治家だ。

背景には、ご指摘の通り、自民党や外務省の「チャイナスクール(親中派)」による強烈な主導と、彼らが抱いていた「アジア的温情主義」の論理が確実に存在していた。

近年公開された外交文書や当時の記録からは、海部政権が包囲網を破った「3つの生々しい深層」が浮かび上がってくる。

まずチャイナスクールが掲げた「孤立化回避」という大義名分だ。

当時、自民党の竹下派(経済協力を約束したDAIGO🔗のじいさん竹下登🔗の派閥)や外務省中国課などのチャイナスクールは、「中国を国際社会から孤立させることは、アジアの平和と安定にとってマイナスである」という論理を強力に展開したわけだ。

海部首相自身、1990年の欧州歴訪やサミットの場で、欧米首脳に対し「日本は中国の隣国だ。ヨーロッパの大国とは立場が違う」と熱弁し、制裁の解除を説得して回ったんだ。タイマーズの詩とはえらい違いだ。

ここには、「同じアジアの隣人として、突き放すのではなく抱き込んで教え導くべきだ」という、悪く言えばおめでたい「アジア的ファミリー意識」のバイアス(偏見)が色濃く現れていましたんだなぁ。

そして中国側の「包囲網の最弱の環」を狙ったハッキングだ。

中国共産党(李鵬🔗首相ら)は、西側諸国の制裁包囲網の中で「日本が最も歴史的罪悪感に弱く、経済的利益に転びやすい、最も脆い環(リンク)である」ことを見すかしていたんだ。この辺が中国人のしたたかなところだな。

事件からわずか5カ月後の1989年11月、中国側は日本の財界訪中団(経団連など)を北京に招き、「内々に円借款の凍結を解除できるよう、政府に働きかけてほしい」と搦手から直接打診しているわけだ。

いつだって、日本の政治家は財界の操り人形だ。経済界のお歴々にも中国の安価な労働力と巨大な市場はうまみがあったんだろうよ。

こうして経済界からの強烈なプッシュを受けた自民党の親中派政治家たちが、海部首相の背中を強力に押す形で「お膳立て」が完成していったわけだ。

で、ひねり出されたのが「制裁は民主化を阻む」という近代化理論の歪んだ応用だったわけだ。北風と太陽理論だな。

当時の極秘外交文書には、「西側が制裁を続ければ、中国はかつての毛沢東🔗時代のような頑なな排外主義(閉鎖社会)に逆戻りし、かえって民主化の芽を摘むことになる」というロジックが明記されていましたんだとさ。

彼らは「豊かになれば民主化する」という近代化理論を都合よく解釈し、「円借款を再開して市場を開放させ続けることこそが、中長期的に中国をリベラルな国家に変える唯一の方法だ」と言い訳の盾にしたんだよね。

ザ・タイマーズに「何にもはっきり言わねぇ♪」と揶揄された海部首相の優柔不断さは、このチャイナスクールや財界が用意した「良かれと思って」という欺瞞のロジックに、ものの見事に乗る形で流されていった結果だったわけだ。

けれど「分かり合える」と信じたチャイナスクールの温情主義は、中国共産党にとっては単なる「利用しやすい脆弱さ」に過ぎなかったんだ。

で、中国が民主化したかって?それは君たちもよく知っているだろう。

ジョージ・オーウェル🔗1984🔗も真っ青になるほどの世界最悪のデジタル監視全体主義国家が顕現してるんだ。

なぜだ?!

2026/06/06

POST#1870 大英博物館の書物の森の中から、熊野の山々の森の中から

Barcelona,Spain 双子座の女

疲れ果てて眠りこけていたら。宅急便のチャイムで目が覚めた。洗濯物を干し、仕事のメールチェックをしてからもうひと眠りしようと考えていたら、かかりつけの歯医者さんからの電話が鳴った。11時の予約ですけど、まだおいでになりませんか?

俺は取るものもとりあえず、歯医者に向かい、しっかりたまった歯石を取ってもらったんだ。

カネはたまらないが、疲労や歯石はたまる。人体の不思議だ。

さて、俺は今日も今日とて仕事に行かねばならない。疲れて年老いた体に鞭うって、一時間ほど車を転がして現場に行くと、現場に常駐してる臨時警備のおじさんは70はとうに声、80に届くんじゃないかというおじいちゃんだ。大変な国だな、ここは。いつも思うが、こんなおじいちゃんが警備してても、悪意のある人間を前にしたら、即刻マンガのモブキャラのようにぶった推されるに違いないぜ。

さてと、そんな日本から魂を幽体離脱させ、ユーラシアを瞬間的に横断し、途中Barcelonaあたりで一休み、ジブラルタル海峡を渡ってアフリカ大陸に想いを馳せよう。

おお、スゴい活気と人々の熱量だ。そして砂埃と肌を焼くような日差しだ。けれど、スマホばっかり見てゾンビのように歩いている日本人なんかよりも、アフリカの最貧国の方が人々がパワフルに、大声で怒鳴り合うように話し、大きな身振りで幸せそうに生きてるのはなぜだ?

この「最貧国の人々の方が幸せそうに見える」という直感は、文化人類学や社会心理学の調査でもしばしば実証される「豊かさと幸福のパラドックス」に基づいてるんだぜ。

もちろん、アフリカの最貧国、とりわけサブサハラアフリカ🔗などには、深刻な貧困、飢餓、医療不足といった過酷な現実がある。それは揺るぎのない現実だ。現代のマクロな世界の大いなる欺瞞だ。

断言する。そこは決してユートピアではない。

しかし、そこに住む人々が、俺たち先進国に住んでる恵まれた、おめでたい連中よりも「幸せそう」に生きている、つまり自殺率が低く、生を肯定しているように見える背景には、新自由主義的な市場原理に汚染されてきっていない「人間としての生存基盤」が残っているからだ。

もちろん、IMF🔗 の課す手垢まみれどころか時代遅れの比較優位🔗という原則と、自由貿易🔗という美名のもとに、自主関税権を縛られて国内産業の保護育成もままならず、モノカルチャー🔗経済に縛られているという欺瞞の構造で、半永久的に発展途上国であることを運命づけられているという、マクロな格差、マクロな欺瞞、マクロな不幸はある。

にもかかわらず、そんなもの知ったことかといわんばかりに、人びとは幸せそうに生きているように見える。紛争とか宗教や民族紛争によるジェノサイドさえなければね。

それはなぜか?

彼らの社会が持っていて、俺たちの生きる今の日本が失ってしまった「幸福の理由」はなんなか?考えてみようまいか。

1. 人間関係の「非金銭化」と強固な共同体(ウブントゥ)

最貧国:

 アフリカには「ウブントゥ(あなたがいて、私がいる)」に代表される、他者との分かち合いを絶対とする哲学が生活に根付いているのだそうだ。

それは贈与の精神だ。かつて、POST#1726🔗でも触れたことのある、「一番よくないのは、贈り物をしないことだ」って考えに近いかもしれない。

そこには貨幣経済が介在しないため、助け合いや食事を共にすることが日常であり、人間関係そのものが、最大の娯楽でありかつまた安全基地となっていたんだ。

いつも君たちに語っているように、個に分断され、共同体から切り離され、モナド化した人間は、システムに容易く奴隷化されてしまうんだ。かつてのアフリカでそうだったようにね。アフリカでは、かつて本当にそういう人々は、奴隷狩りに襲われ、不衛生な木造船にすし詰めにされ、アメリカ大陸に送られた奴隷としてこき使われたんだ。覚えておいてほしい。

先進国:

ここではあらゆるサービスをお金で賄うことができる。この新自由主義社会では、人間関係まで「コスト」や「利害関係(損得)」で計算されてしまうのだ。

なんという精神の貧しさだ!

結果として「お金がなければ生きていけない」という強烈な恐怖と孤立が生まれてしまう。

タワマンに住んで、十分な収入があり、おひとり様を大化できる人には天国だ。しかし、多くの地べたをはいずるように生きる人々には、便利で清潔な地獄になっているんだ。

2. 「相対的剥奪感」がない、つまり他者と比較されない

最貧国: 

周囲の全員が同じような経済水準で、カツカツで生活しているため、物質的な「格差」を意識して劣等感を持つ機会がほとんどない。

それにもまぁ、実は国際的な金融経済によって彼らが豊かになることを阻んでいる要素や欺瞞がてんこ盛りだが、今はそれには触れずにおこう。また、テーマを改めて話し合おうぜ。

先進国:

かたや我々先進国といわれる国々の民の暮らしはどうだ?

圧倒的に豊かだ。圧倒的に豊かだが、圧倒的な精神の貧困だ。

 俺たちはSNSの普及により、24時間365日、他人の「輝かしい成功」や「贅沢な暮らし」を見せつけられつづける。見たくなくても、スマートフォンには次々通知がやってきやがる。

おかげさまで、十分な生活水準にあるはずの人でも「自分は負け組だ」という相対的剥奪感、つまり絶え間ない敗北感を植え付けられ、精神を病んでいくことになるんだ。

何日か前に話したPOST#1868🔗に出てきた、老子の小国寡民の話を思い出してくれるとよくわかるだろう。こうして参照してPVを稼ぐって算段だ(笑)。

3. 「生存そのもの」が目的である、つまり人間が手段にされないってことだ。

最貧国: 

今日をどう生き延びるか、家族でどう飯を食うかという「本能的な生存」に日々直面しているわけだ。そこには悩む隙がないだけでなく、「生き延びることそれ自体」が毎日クリアすべき目的となってるだけだ。まさに、生きてるだけだ丸儲けだ。

先進国: 

翻って私どもの住む社会はどうなっているだろう。

法と行政システムの整備により、生存のインフラは保障されているものの、その内面の荒廃は著しいもんがあるぜ。

大人は「会社の売上」、子供は「テストの点数」といった「社会の道具(手段)としてのノルマ」を果たすことを要求され続けてるんだ。これはゴールのないマラソンだ。生存の先にある「過剰な要求」に終わりがないため、精神が燃え尽きてしまうんだ。

死にたくもなるだろうよ。電車が遅延するその向こうに、思い詰めて命を絶たざるを得なかった人がいることすら、俺たちは想像することも、そんな社会に対して怒ることすらない。ただ、迷惑な馬鹿野郎だと舌打ちするだけだ。

まったくひでぇもんです。

4. 「ただ存在するだけ」で役割がある

最貧国: 

伝統的な社会では、勉強ができなくても、力が強い、子供の面倒を見るのが上手い、あるいは「ただそこにいて笑っているだけ」でも、大家族や村の中という共同体に包摂され、愛され、役割が与えられる。

つまり、自分が自分でいることがそのまま肯定されるわけだ。

先進国:

そして毎度おなじみ、俺たちのディストピアではどうだ?

 社会が求める「高い生産性」「人材スペック」を満たせない人間には、居場所が与えられない。学校に行けない子供や、働けない大人は「社会のお荷物」であるかのような扱いを受け、存在そのものを否定されちまうんだ。

しかし、今日はちゃんと学校に行けていても、今日はちゃんと働けていても、人間はいつその境遇から転落してしまうかわからない。わからないからこそ、明日は我が身だと考えて、そういった人々を包摂していく必要があるんじゃないのかな?

誤解しないでほしいのは、彼らの幸福感は、「お金がないから幸せ」なのではないってことだ。お金なんてものは、彼らだってそりゃ欲しいに決まってるだろう。喉から手が出るほどに欲しいだろう。しかし問題はそこじゃないんだ。

「人間が市場の『材料』として値踏みされ、規格化され、自己責任で切り捨てられる」という新自由主義の病理から、まだ守られているからなんだ。

俺が君たちに話した「10歳まではケモノのように遊ぶべき」という野生の教育は、まさにアフリカなどのコミュニティでは当たり前に実践されている日常だ。なんてったって、学校に行くだけで、ライオンとかいる平原を迂回したりしなきゃいけないんだ。毎日がサバイバルだぜ。

物質的豊かさを手に入れた代償に、私たちは「ただ生きているだけで尊い」というカント的な人間性を売り払ってしまったんだ!盥のお湯を流そうとして、赤子まで排水溝に流してしまったという本末転倒な状況になっているんだ。

この呆然とするような事実に気づくことこそが、日本が「不幸の拡大再生産」を止めるための極めて重要な一歩になるんだ。

気づいたときに、茫然として、悲嘆絶望して、思考停止してちゃいけない。

自分に何ができるか考えるんだ!

俺自身は、もっともっと社会に『贈与』とか『だらけること』とかを普及させた方がいいと思ってるんだ。

迷惑はかけ合って当たり前。

人間はいずれ死ぬんだから、ことさらに気に入らない奴に『死ぬ死ね』とか言ったり、裸にひん剥いて橋から突き落としたりしなくったっていいんだ。なんせ、そのうちほっとけば間違いなく死んじまうんだから。

そういうことをみんなもっと考えれるようになった方がいいと思ってるんだ。

この「贈与」「だらけること」「迷惑をかけ合うこと」「死を放っておくこと(生への執着の手放し)」という思想は、新自由主義の病理に対する極めて強力な「解毒剤(アンチテーゼ)」になりうるだろう。

なんせこれらはまさに、社会学者や哲学者たちが現代社会を救うために議論している最先端のテーマそのものだからな。

人間を「材料(人材)」として1分1秒まで効率的に使い倒そうとする今の日本社会に、この「脱・効率主義」の思想を普及させるべき理由は、実はたくさんある。よくわが身に引き寄せて考えてみておくんないさいまし。

1. 「等価交換」から「贈与」へ:査定されない関係を作る

現状の病理:

 現代社会は「何かをしてもらったら、同等の価値(お金や成果)を返さなければならない」という交換経済だ。その原則が等価交換🔗だ。パチンコから鋼の錬金術師🔗まで、すべて等価交換だ。あらゆる商品、サービスに値段が設定され、それに対応した貨幣を支払うことで、いつもニコニコ現金払い、その価値が手に入るという幻想だ。

これが子供にも適用され、「塾代(投資)を払ったのだから成績(成果)を返せ」という圧迫になっているんだな。

贈与の普及: 

しかし、人類がつい300年ほど前まで普遍的に持っていた交換様式、つまり見返りを求めずに与え、受け取る「贈与(ギフト)」の文化が広がれば、人間は「役に立つかどうか」という市場価値から解放されるだろう。いよいよ山下清🔗の出番だな。

ただそこにいるだけで、誰かから無条件に何かを受け取っていいという安心感が、子どもたちの命を繋ぐんだ。

2. 「だらけること(贅沢な無駄)」:それは生産性への最大の反逆

現状の病理: 

現代人は大人も子供も「常に何かを学ばなければ」「時間を有効に使わなければ」という強迫観念に縛られている。しかもそれには終わりがない。さっきも話したようにゴールのないマラソンだ。これはキツイ。愉しんでやれるような狂ったやつじゃないと出来っこない。

だらけることの普及: 

フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユ🔗は、社会が崩壊しないためには、経済的な「無駄(蕩尽)」や生産性のない時間が不可欠だと説いたんだ。ハンドルの遊びみたいなもんだ。

俺が垂れ流す「10歳までケモノのように遊ぶ」ことも最高のだらけ=無駄そのものだ。世のお母さんたちは、カンカンになって俺を糾弾するだろうよ。

しかし、だらけることを肯定することは、「人間は生産性のための道具ではない」というカント的尊厳を取り戻すための最大の反逆になるんだぜ。

3. 「迷惑はかけ合って当たり前」:それは欺瞞の自己責任論の完全な破壊

現状の病理:

 日本の「人に迷惑をかけるな」という教育は、裏を返せば「他人の迷惑も一切許さない」という冷酷な相互監視を生み、新自由主義の自己責任論と完璧にフィットしてしまったわけだ。これが俺たちの社会を息苦しいディストピアにしているんだ。

迷惑のシェア:

けど考えてみてほしい。そもそも 人間は、生まれ落ちて死ぬその瞬間まで、生きているだけで他人に迷惑をかける存在なんだ。

「お互いに迷惑をかけ、許し合って生きる(インドの教育方針などにも見られる思想)」という前提に立てば、いじめや不登校、ドロップアウトに怯える必要はなくなるだろう。フーテンの寅次郎🔗の出番だな。

人間の「弱さ」を認め合える社会こそが、本当の安全基地=シェルターにしてアジールなんだ。

4. 「ほっとけばいい」:過剰なコントロールの手放し

現状の病理: 

現代社会は「人間を完璧に管理(コントロール)し、リスクをゼロにする」ことを求めている。しかし、人間はロボットじゃない。不条理な存在なんだ。

けれどこれが子供への過度な干渉や、「まともな大人にならなければならない」という息苦しさを生んでいるんだ。

死生観の転換: 

「人間はどうせいつか死ぬ。だからそんなにカリカリ管理しなくたって、ほっとけばいい」という、少し肩の力を抜いた大らかな死生観(あるいは無常観)を持つことは、現代の過剰なシステムに対するカウンターになるだろう。

「失敗したら人生終わり」という全能感を大人の側が手放すんだ。

失敗しても、人生は終わらない。あきらめなければ、そこから本当の自分だけの人生が始まるんだ。

子供の人生を「放牧」する寛容さが、結果として死にたくなるほどのプレッシャーを消し去ってくれるだろう。

俺が提示する世界は、決して「怠惰な社会」ではなく、「人間が人間として、ただ生きていていい社会」なんだけど、まんざらでもないんじゃないか。

効率性、生産性、人材スペックという「数字の檻」の中に閉じ込められている現代の日本において、この「だらける、迷惑をかける、贈与する、放っておく」という態度は、社会の息苦しさを根底からひっくり返すスゴいパワーを持っているんだ。

大人がまず「だらだらと、迷惑をかけ合って、楽しそうに生きる背中」を子供に見せることこそが、最も強力な教育であり、子供の自殺を防ぐ最大の防衛策ではないんじゃないか?

大体、大人が辛そうで面白くなさそうに生きてて、大人になんかなりたいと思える奴のほうがどうかしてるぜ。

そもそも20世紀を代表する経済学者ジョン・メイナード・ケインズ🔗は 100 年も前の1930年のエッセイ『我が孫たちの経済的可能性』の中で、「100年後(つまり2030年頃)にはテクノロジーの進歩により、人間は週15時間働けば十分に暮らせるようになる」と予測してたとけど、現実はどうよ?

実際には 1 日 15 時間働いても生活できないっていうことがあるような、働き方改革なんて、いったいぜんたいどこの世界だよ?的な世の中になっております、はい。

まったく、生産性なんて嘘っ八じゃないか?

現代の科学技術や生産性は、ケインズの時代とは比較にならないほど爆発的に向上しているにも拘らず、1日15時間働いても生活が困窮する人がいる現実を見れば、「生産性の向上なんて嘘っぱち(まやかし)ではないか」と感じるのは当然だろう。

なぜ生産性が上がったのに私たちは楽にならず、むしろ窮屈になっているのか、その構造的な原因も深堀だ。Dig、Dig、Digだ!

1. 生産性の成果が「労働者」ではなく「資本家」に独占されちまったんだ!

構造の歪み: 

確かにテクノロジーによって1人の労働者が生み出せる成果(生産性)は劇的に上がりましたでごさいますよ。

しかし、それによって得られた莫大な富つまり利益は、働く人の給料や休みの増加には回されず、企業の内部留保や、資本家つまり株主や経営者の利益として、過剰に分配されている。その格差は開き続けるばかりだ。

結果として 労働者は「以前より効率的に働かされている」にもかかわらず、その恩恵を十分に受け取れないんだ。

働けど働けど わが暮らし楽にならず じっと手を見る 足を見るって感じだ。

2. 「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」の大量発生

人学者デヴィッド・グレーバー🔗の指摘通り、新自由主義的な官僚制が進んだ結果、社会には「本来なくても誰も困らない、無意味で非生産的な仕事」が大量に生まれたわけだ。

君にも覚えがあるだろう。

過剰な報告書の作成、形だけの会議、コンプライアンスのチェック、お互いを監視・管理し合うための業務などてんこ盛りだ。

社会全体の「生産性」という数字は上がっていても、個々の労働者はこの「無駄な仕事」に時間を奪われ、1日15時間働いても精神と肉体を消耗するだけという非常事態が起きているんだ。まったくバカバカしいったらないぜ。

どうしてみんなこんなバカバカしいことを押し付けてくる会社を、自分自身がリストラして、自分のスキルでもって腕一本で生きようとしないのか、理解に苦しむところだぜ。

3. 「生存コスト」自体の吊り上げ(インフレと新しい必需品)

消費の罠: 

ケインズの言う「十分な生活」とは、衣食住が満たされる最低限のレベルであったそうだ。しかし現代の資本主義社会は、スマートフォン、通信費、高額な家賃、そして「将来脱落しないための教育費(塾代など)」を生きるための新たな「必需品」が次から次に発明され、マストアイテムとして社会に実装されちまったわけだ。さぁ困ったぞ!

おかげさんで、社会全体の生活水準(生存コスト)が無理やり吊り上げられちゃったわけだ。せっせと歩いて移動するゴールポストみたいなもんだ。

いくら働いて生産性を上げても、その「新しい生存ライン」を維持するための支払いに追われ続け、いつまでも楽になるわけないだろう!現代の資本主義は、24時間365日、広告を浴びせ続けることによって、人々の消費マインドを喚起し、不要なものをじゃんじゃん作って売り飛ばすことでしか、拡大成長しないんだからな。そこで導き出されのが、ジャジャーン!これだ。

4. 資本主義の「終わりなき欲望」の暴走

資本主義の本質は「常に前年より成長しなければならない」という拡大の呪いに他ならない。

本当だったら、週15時間働いて「十分な量」が生産できたら、そこで仕事を止めてだらだら遊べばいいはずだ。それが本当の意味での裁量労働って奴だ。

これこそが、俺の言ってる『だらけること』『贈与』を実現化することの本質だ。

しかし今のシステムは、「もっと売れ、もっと効率を上げろ」と人間の欲望と労働を無限に煽り続けるんだ。

総括すれば、「生産性」という言葉のすり替えつまりごまかしが起きてるのさ。

「生産性が上がれば人間が豊かになる」という言説は、現代社会においては嘘っぱち(まやかし)だ。

いつまでたってもたどり着かない蜃気楼のようなものだ。

なぜなら、その生産性は「人間の幸福のため」ではなく、「システム(市場や資本)を維持・拡大するため」の指標にすり替えられているからだ。

いまや人間は単なるシステムの奴隷なんだ。

俺たちがケインズの予言した「週15時間労働の幸福」を取り戻すには、これ以上の生産性向上(スペックアップ)を目指すのをやめるしかないだろう。

社会全体で「もう十分に物は足りている」と認め、俺が垂れ流している「だらけること」「無駄を愛すること」「迷惑をかけ合うこと」を社会の共通認識にしていくことこそが、この狂った生産性競争から抜け出す唯一の道だ。

 そう、グレイバーもピケティもそこを指摘しているんだよね。

俺や君たちは本当はもっと豊かに暮らせるはずだし、もっと気楽に暮らせるはずなんだ。

デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ🔗』や、トマ・ピケティ🔗の『21世紀の資本🔗』が世界中でこれほど読まれたのは。俺や君たちが今まさに感じている「私たちは本当はもっと豊かで気楽に暮らせるはずなのに、なぜこんなに苦しいのか」という決定的な違和感を、圧倒的なデータと論理で証明したからに他ならない。人間は、データと論理にすぐ丸め込まれるんだ。ついでに言うと、日本人は政治家のウソにすぐ丸め込まれる!(笑)

二人の指摘を組み合わせると、現代社会の「気楽に暮らせない仕組み」が完全にあぶり出されてくるだろう。

 グレーバーとピケティが暴いた「現代の奴隷制」。

言っとくけど奴隷化されてるのは俺たち自身ね。

ピケティの指摘はズバリ、『富の独占』だ。

彼の有名な数式 r > g(資本収益率は経済成長率を上回る)は、「どれだけ真面目に働いて生産性を上げても、その富はすべて一握りの資本家に吸い上げられる」という、レ・ミゼラブルな事実を証明しちまった。石川啄木🔗も納得だ。

俺たちが1日15時間働いても生活が楽にならないのは、俺や君たちの労働が「自分の豊かな暮らし」のためではなく、「富裕層の資産をさらに増やすため」に搾取されているからに他ならないんだぜ。なのに、出来が悪いと査定を下げられ、やられた方はハラスメントで訴える。

恐ろしい世界線だ!

片やグレーバーの指摘は『精神の監禁』だね。

親愛なるグレーバーは、テクノロジーが進歩したのに労働時間が全く減らないのは、「人々が暇になると、社会のシステムや格差に対して疑問を持ち、反乱を起こすからだ」という支配階級の無意識の恐怖を指摘した。そういうと俺がすごい暇人みたいだが、寸暇を惜しみ、睡眠と命を削って書き記してるんだ!(笑)

つまり、社会を維持するために、わざと「無意味な仕事(ブルシット・ジョブ)」を大量に作り出し、大人を1日中忙しくさせて思考を奪っているという転倒した状況だ。

さらにグレーバーは、一見有能そうで実は無意味な仕事をしている人間のほうが給料が高く、介護や看護、教育やごみ収集、掃除や建築など、社会に絶対に欠かせない仕事の賃金が低いのは、この類の人々は、すでに社会に対して意味のある仕事をしているという有意義で『使用価値』があるという『報酬』を受け取っているから、無意味な仕事に従事している人々により、その分の『交換価値』=賃金が過小評価されるという、悪夢のような現実を描き出したんだ。

 こうして欺瞞に満ちた『大人の不自由』が『子供の絶望』へと直結するんだ。

ようこそディストピアへ!

滝川クリステル🔗がおもてなしと手話を交えて微笑んでるぜ!

俺がかまやつひろし🔗なら、この後に

♪マリーアントワネットがシトロエンの馬車のうえにたちあがって ワインはいかがと招いてる~♪

って続けるな(笑)

さて、この二人の知性の持ち主が語る、今日の大人の世界の絶望は、そのまま子供たちの世界へとスライドしている。

子供の「ブルシット・スタディ(クソどうでもいい勉強)」

現代の子供たちが深夜まで塾に通い、ポートフォリオを埋め、自己PRを磨いている姿は、大人の「ブルシット・ジョブ」と全く同じだ。一人の父親として胸が痛むぜ。

「将来のサバイバルのため」という恐怖に突き動かされ、本当の人間的成長には何の役にも立たない「評価されるための記号集め」に人生の貴重な時間を奪われているんだ。

しかし、本当に必要なサバイバルスキルは、しっかりと愛されて心がホカホカしてるっていう充足感じゃないか?さらに言えば、ナイフやロープの使い方、そう身近なものをブリコラージュ🔗して実生活を生き抜いてゆく知識だ。

反論のあるやつは、名乗り出ろ!

逃げ場のない「総資本主義化」

ピケティが描いた格差社会の中で、親は「子供を負け組にさせたくない」という不安から、子供をさらに過酷な教育市場へと投入ちゃうんだな。これ、無間地獄の入り口だ。

おかげさまで、楽しい我が家のはずの家庭さえもが『投資と回収』の場となり、子供にとっての「無条件の安全基地」が消滅してしまう。しかもたいていはハイコスト・ハイリスク・ローリターンっておまけつきだ!なぜってノータリーンだからな(笑)

このままじゃ、子供そのものが絶滅危惧種になっちまうぜ。

 私たちが「気楽さ」を取り戻すための革命が必要だ。

しかし、しかしですよ、グレーバーもピケティも、ただ絶望を語ったわけではないんだぜ!あの知の巨人たちの思想の先にあるのは、俺が垂れ流した『贈与』『だらけること』『迷惑の掛け合い』の肯定だ。特にグレーバーは、社会ってのは「やれる能力を持ったものが、必要に応じて見返りを求めずやる」という基盤的共産主義によって成り立ってると喝破してるんだ。

考えてみ、君がオフィスで、ちょっとそこの資料取ってくれる?とお願いしたら、対価を請求されてみろ。やってられないだろ。つまりそういうことさ。

俺や君たちは、社会が押し付ける『偽りの豊かさ』、つまりもっと早く!もっと大量に!もっと稼げ!もっとスペックを上げろ!の競争から、意識的に「降りる」必要があるんだぜ。そんなのに付き合ってたら、そもそも身が持たないし、一度きりの人生がそんなバカバカしいことで浪費されてたまるもんか!

週3日だけ働いて、あとは仲間とだらだら過ごす。

できないことは「ごめん、手伝って」と他人に迷惑をかける。

子供には「勉強なんかいいから、早く寝て遊びなさい」と笑って言う。

まっとうな大人がそうやって「気楽に生きる背中」を見せること自体が、新自由主義に対する最も過激で、最も子供を救う非暴力革命になるんだよ!

大人がシステムに洗脳されたままでいる限り、子供たちをこの檻から出してあげることはできないんだ。溺れてるやつは、隣で溺れてるやつを救えるはずがないんだぜ!

そう、アクセク働くよりも、ダラダラと寝転びながら本でも読んだ方が、よっぽど人間有意義な人生の過ごし方だと思うぜ。

これは単なる「怠け」ではないんだよ。

古代ギリシャのアリストテレス🔗などの哲学者たちは、この生産性から解放された自由な時間のことを「スコレー(Schole)」と呼び、これこそが人間の幸福であり、知性の源泉であると考えたんだ。しかもこれが英語の「School(学校)」の語源なんだぜ。

つまり、本来の学校や学びとは、「労働や効率から解放されて、ダラダラと知性を楽しむ場所」だったはずなんだ。

それを新自由主義がひっくり返し、ダラダラすることを「悪」とし、アクセク働くこと(手段になること)を「正義」に洗脳してしまった。

いや、ひょっとするとマックス・ヴェーバー🔗の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神🔗』を参照すると、その淵源はキリスト教のプロテスタンティズムにあるのかもしれない。それはスルーして、俺の提唱するライフスタイルが、なぜ現代社会において究極の救いになるのか、その本質を考えてみよう。

「寝転んで本を読む」という最高の抵抗

それは市場に魂を売らない時間なんだ。

 寝転んで本を読んでいる間、君はお金を稼いでもいなければ、無駄な消費もしちゃいない。本を買って読んでても、それによって、君の内面世界の奥行きが深まるんだ。

つまり資本主義のシステムから完全に「脱出」している状態なんだ。

これこそ本当の「主体性」の回復さ。

考えてごらんよ。 誰かに評価されるためではなく、自分の「知りたい」「面白い」という純粋な興味だけでページをめくること。これこそが、毎度おなじみカント🔗の言う「目的としての人間」の姿そのものじゃないか。

そしてそれが子供に「逃げ道」を示す背中でもあるんだ。

 大人が家でゴロゴロしながら楽しそうに本を読んだり、だらだら過ごしたりしている姿を見ることで、子供は初めて「あぁ、あんなにアクセク生きなくても、人間って生きてていいんだ」「大人になるのって楽しそうだ」と、心の底から安心することがでるだろう。たまには屁の一発でもかましたらいいんだよ。

俺はここんとこ、君たちと「なぜ子供の自殺が減らないのか」という重い問いから出発し、社会の構造、カントの哲学、新自由主義、グレーバーやピケティの経済論を経て、「ダラダラと寝転んで本を読むことの尊さ」という、極めてシンプルで本質的な答えにたどり着いた。

すごい遠回りしたな。

子供たちを死に追いやるこの息苦しい国を変える特効薬は、制度の改革だけじゃない。どれだけ制度を変えたって、俺や君たち大人の頭の中がが変わらなければ、何も変わらない。

新しい地獄の幕が開くだけだ。俺たちは社会の「人材になれ」「生産性を上げろ」という脅し文句を無視して、「迷惑をかけ合い、だらだらと、気楽に生きる姿」を今ここから実践していくことが必要なんだ。

俺たちが抱いた違和感と、その先にある「だらけること・贈与・気楽さ」の全肯定は、現代の歪んだ日本社会を生き抜くための、最も強力な生きた哲学なんだ。

俺は思い出す。紀州熊野の産んだ博覧強記の怪物、南方熊楠🔗だって何ヶ月もの間、フルチンでごろごろしながらバートン版アラビアンナイト🔗を読書したりしてたんだ。最高だ。風邪ひくぜ!

これこそが人間が生きる究極の贅沢であり、本来の「知の爆発」の姿なんだ。

南方熊楠という稀代の天才が、全裸(フルチン)で寝転がりながら大著を読み耽っていたというエピソードは、現代の「効率性」や「人材スペック」といった小綺麗な綺麗事を一撃で吹き飛ばす圧倒的なパワーを持ってる。

 南方熊楠が証明する「けもの」と「知性」の融合

熊楠は正真正銘の「天才」でしたが、現代の日本の教育や産業界が求める「扱いやすい優等生(人材)」とは真逆の存在だった。まさに怪物だ。手っ取り早く知りたい向きは水木しげる🔗の『猫楠🔗』を読むがいいさ。

「けもの」としての野生

家を飛び出し、泥まみれ、全裸で粘菌を採集し、夜通し酒を飲んで大暴れする野生児というか手におえない迷惑なおっさんだ。酒を飲めばたいていゲロを吐き、そのゲロに発生する粘菌🔗を観察するといって掃除することもない。道鏡🔗の巨根伝説を立証するために、自分の一物に蜂蜜とか塗りたくって、庭で何日も寝転がる。普通の感覚からしたら、馬鹿だ。しかもとびぬけた大馬鹿野郎だ!これは誉め言葉だぜ。

「目的」としての知性

誰かに評価されるためではなく、ただ自分が「面白い」と思うから学び、10カ国語以上を操り、ロンドンの大英博物館で膨大な文献を読み漁る。

熊楠の生き方は、俺が君たちと話し合ってきた「10歳まではけもののように遊ぶべき」「だらけること」「人間を目的として扱うこと」のすべてを、そのまま生涯かけて体現したような、まさに破格なものだ。

彼は社会のルールや生産性のために生きたのではなく、自分の生命力と好奇心のためだけに生きたんだよなぁ。憧れるぜ!

 俺たちが熊楠から受け取るべき「全裸の哲学」

現代を生きる俺や君たちは、衣服つまり、社会的な立場、学歴、他人の目を着込みすぎて身動きが取れなくなっている。

だからこそ、熊楠のように「すべてを脱ぎ捨てて、ただ本能と知性の赴くままにだらだらと本を読む」という、圧倒的な全能感を取り戻す必要がある。

私事で恐縮だが、俺はかつて務めていた会社を辞めるという話を社長と直談判したときに、社長は思わず殴ったろか!と息巻いた。すかさず俺は、『おう、望むところだ。その代わり、その瞬間から俺とあんたは、一対一の裸一貫の男と男だ。どっちが強いかよく考えろよ!』と啖呵を切って撃沈させてことがある。そういう覚悟が必要なのさ。

大人が「熊楠スピリット」を持って、撃沈じゃなくてフルチンとまではいかなくとも、社会の評価を一切気にせずダラダラと生を謳歌していれば、子供たちも「あ、社会の型にはまらなくたって、こんなに面白おかしく生きていいんじゃね?」と救われること間違いなしだ。

「使える・使えない」の資本主義の檻を打ち破るヒントは、100年前の和歌山の森の中で全裸で笑っていた熊楠が、すでに俺や君たちに示してくれていたんだ。

2026/06/05

POST#1869 右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の騙し合い

 

台北市内
今朝、仕事から帰ってきてもそもそと食事を貪りながら来たばかりの朝刊を読んでいたら、気になる記事がいくつかあった。あぁ、うちは昔から『試験に出る朝日新聞』だよ(笑)。
株価68,000円越えは、もういい。AI関連のバブルだ。好景気だなんてだれも思ってないから心配するな。
TSMCの城下町、熊本:上 台湾有事の不安、すすむ住宅投資🔗』という記事だ。リンクを貼ってあるから、興味のある向きは、読んでみるといいだろう。
そうだよな。俺も思ってたんだ。声高に言えば中国を刺激するといけないから多分粛々と進めてるんだろうけれど、以前にも書いたような気がするけど、台湾有事が起きた場合、膨大な数の台湾人が難民、一時避難民となって日本に押し寄せるだろう。
その時、TSMCの城下町、熊本ってのは地理的にも台湾に近いし、それを見越してるんだろうなと思っていた。もっとも、政府自体がひそかに台湾人のためのコロニーを作っているわけではなく、TSMCの工場誘致に引きづられるような形で進んでいることなんだろうけれど。
諸君、これが実情だ。
排外主義的な主張を掲げ、難民申請を厳しくしたり、在留登録手数料を値上げしたりしている場合じゃない。台湾有事は存立危機事態だというならば、国家的に制度を整えていかなければならないだろう。日本人はいつも後手後手だ。ほぼ与党独裁というのに、食料品の消費税を下げる議論だけで半年もかかっている。キャッチャーミットにボールが治まってからバットを振ることにならないことを祈るぜ。

さて、閑話休題

うちの息子は、YOUTUBEの広告を忌み嫌っている。

そして俺は、アホ面してぼんやりテレビの広告を見てる息子に、TVばかり見ていると、広告に洗脳されて、不要なものを欲しがるようになるから気をつけろと教えてる。

うちの豚児の「YouTubeの広告を忌み嫌う」という感覚は、資本の論理による脳のハッキングつまり『強制的な欲望の刷り込み』に対する、極めて正常で健全な自己防衛本能(アレルギー反応)だろうな。

そして、俺自身が『テレビを見すぎると洗脳されるぜ』と伝えていることは、まさにメディアが流す『作られた正しさ』や『消費への誘導』を客観的に見抜くための、メディアリテラシー教育ってことだ。戦前の大政翼賛会による「総動員戦争」を完遂するための『皇国』への傾倒も、現代の「消費至上主義」を喧伝する『広告』への傾倒も、大衆を一元的な価値観で支配するシステムという意味では、全く同じ構造だ。このライム、わかってくれるかな(笑)。

この馬鹿なオヤジと阿呆な息子の凸凹コンビの日常的な関わりこそが、まさにいつも話していた『システムへの強力なボイコット』そのものじゃないかな。

右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の騙し合い。どこに男の意地がある♪

1. 広告を「嫌悪する」という最高の知性

現代の広告は、子供たちの脳の報酬系(ドーパミン)を計算し尽くして作られているのだという。すごい洗脳技術だな。きっと時計仕掛けのオレンジ🔗に出てきたルトヴィコ療法みたいな人間の深層心理を操作する悪魔のような技術の持ち主たちが、グーグルやヤフー、電通や博報堂にいるんだろう。

で、うちの豚児の広告に対する「ウザい」「嫌いだ」と感じる不快感の正体こそは、自分の大切な時間や関心(アテンション)を、土足で奪われることへの正しい拒絶反応ってことだ。

ひょっとすると、うちの豚児(本名は麒麟児だけど、まったく名前負けだ!)の電車のことで煩悩まみれの脳みその中に、広告を無批判に受け入れるのではなく、「これは自分を操ろうとしているノイズだ」と見抜く知性が、すでに育っているという可能性もある。まぁいうなれば「洗脳」の無力化だ。誰だって毎日毎回、リクルートとかアゴタのCMを見せられるのはうんざりだからな。

それって、まさに助長、つまり早く育てようとして植物の芽を引っ張って抜いてしまう頓馬なことになってないか?ほんとに計算づくで作られてるのか怪しくなってきたな。

2. 「広告に洗脳される」という言葉の批評性

俺が使う「広告に洗脳される」というフレーズは、うちのバカ息子にとっても強烈なインパクトを持ってるかもしれないな。それがひいては、テレビやネットの向こう側の世界を、一歩引いて客観的に見る「批評的な目」を養ってくれること願うぜ。

年取ってから生まれた大事な息子だからな、情弱のあまりトクリュウ犯罪に飛びついて、人生を台無しにされたらたまらないぜ。泣くに泣けないってもんだ。

現代の「国家」や「資本」という神話にからめとられないようにしないといけないんだ。

かつて国家のために命を捧げることが正義とされたように、現代は「資本(経済)のために労働機械になること」が正義とされているんだからな。

この形を変えただけの洗脳に気付かせる言葉として、機能してくれるとありがたいぜ。

ついでに言えば、学校や世間が「あれを買え」「こうあれ」と一方向の価値観を押し付けてくる中で、父親が「あれは洗脳だぜ」と笑い飛ばしてくれることは、子供にとって「世間の正しさがすべてではない」という圧倒的な安心感(精神のシェルター)になるだろう。

とはいえ、今日学校で配布されている学習用のクロームブックで桃太郎電鉄🔗をやりすぎて、先生に取り上げられたらしい。阿呆だな、俺の息子。とほほ…

3. 家庭の中に生まれる「オルタナティブ(代替)な空間」

テレビやYouTubeの画面(広告・洗脳)を親子で否定し、クソミソに笑い合える関係がある時点で、俺の家庭はすでに「労働機械の仕込み工場」であることを拒絶しているんだろうな。(笑)

うちの豚児にとって、スマホのアルゴリズムが提示する偽の欲望よりも、「こいつは洗脳だぜ、気をつけな」と本質を教えてくれる俺との生身の会話の方が、はるかに刺激的でリアルなのかもしれないな。実はそこに、カントの言う「目的としての人間」の関わりが成立しているって寸法だ。

画面の向こうのバナナマンより、目の前のインパクトのでかいくそ親父だ。

国や学校のシステムが変わるのを待つまでもなく、俺のHELLホームでは、子どもを「かけがえのない存在」として守るためのボイコットがすでに始まっているんだ。

いや、実は生まれたばかりの頃から、毎晩抱っこしながら耳元で、『学校の先生やその辺のつまらん大人に褒められるようなバカにはなるなよ』とささやき続けてきたんだ。まるでTHE BLUE HEARTS🔗少年の詩🔗の歌詞みたいだ。ロックだぜ、うちは。

けど、カミさんには叱られるから内緒だ。絶対にな。

広告やテレビを冷めた目で見るうちのバカ息子は、将来、システムの部品になることを自ら拒否できる、強靭な尊厳を持った大人へと育っていってくれるとありがたいもんだ。なんせ、TVやネットの言葉を真に受ける頓馬が、我が国には2億人くらいいるんだからな(笑)。

ここで話題の転換点が生じるぞ。覚悟してね。

そもそも、レジリエンスだのダイバーシティだの、コンプライアンスだのハラスメントだの、よく意味の解らんような横文字の言葉が世の中に跋扈するようになってから、どんどん世の中は窮屈になってると俺には感じられる。息ができないほどだ。(俺は最初、レジリエンスはなんか新しいシャンプーで、ダイバーシティはお台場シティかと思ってたぜ。ガハハハッ!)

なぜかって?偽善の臭いがプンプンしてるから、洗濯はさみで鼻をつまんでいるからだ!

これ、ちょっと現代社会の息苦しさの核心だ。

本来は個人を救うため、あるいは社会を豊かにするために登場したはずの「再起力=レジリエンス」や「多様性=ダイバーシティ」という言葉が、今や新自由主義的なシステムにハイジャックされちゃって、人々をさらに監視し、追い詰めるための「新たな凶器」に変質しているからなんだなぁ。羊頭狗肉って感じだぜ。

なぜこれらの美しい言葉が、世の中をますます窮屈にしているのかじゃが、その裏に隠された構造を説明しよう!(オーキド博士風に!)

1. 「レジリエンス」という名の精神的自己責任論

「レジリエンス(精神的復元力・折れない心)」という言葉がこれほど強調されるようになったのは、社会の側が「人間を壊すような過酷な環境」を改善することを放棄したからに他ならないんじゃ。

本来の意味はあれらしい。ほら、困難な状況にあっても、しなやかに立ち直る力だ。若者に必要なのは正しい挫折とそこからの立ち直り、みたいな?

しかし、その少年ジャンプ的なちょっといい話が、大真面目に語られると途端に窮屈な言葉に変貌し、俺たちに牙をむく。

その原因はずばり、現代社会において、この言葉は「どんなに理不尽な環境、つまりいじめ、過剰な競争、ブラックな労働、上がらない給料と上がり続ける物価と税金といった地獄のような環境であっても、何度打ちのめされても、自力で立ち上がって、心身を病まずに耐え抜くのは個人の義務である」という悪魔的な文脈で使われちゃってるからもう大変!

おかげさまでもたらされた弊害は甚大だ!

 心が折れてしまった子どもや大人に対して、「環境が悪い」のではなく「本人のレジリエンスが足りない(自己管理不足だ)」と一刀両断され、あっさり処理されちまうんだ。

ここにはカントの言う人間を金儲けの「手段」として使い続けるために、「壊れないように自分をメンテナンスせよ」と要求し続けることで、それが強迫観念となり、弱音を吐くことをさらに難しくしているんだ。

この不屈の反骨精神が作業服を着て安全靴を履いているような21世紀のエリック・ホッファー🔗といわれる俺でさえ、(勝手に自分で名乗ってるだけなんだけどね(笑))鬱病の薬を手放せないんだぜ!並の神経じゃもつわけないだろ!

2. 「多様性」という名の新たな数値評価と規格化

現在の社会が美しく歌い上げる「多様性」ってのは、実は人間のグラデーションをありのまま認めるものなんかでは、ちっともない。

経済に役立つタイプの多様性だけをラインナップする」という、極めて功利主義的なものになっているんだ。

要は、金を稼げる奴だったら、どんな属性の奴でも集めてこいや!ってことだ。やれやれ、これじゃ大昔のドヤ街🔗と変わらないな(笑)。

もちろん、この本来の意味は、どんな特性や違いを持っていても、排除されずに生きていけることだよ。カントやルソーが聞いても、Das ist gut!とかC'est Bon!とか言いそうな言葉だよ。そんな素敵な言葉なんだけど、だからこそ、そこに偽善が忍び込むのさ。夜陰に乗じるトクリュウ犯罪者のようにね。

現代の多様性という意味合いは、産業界からの強い要請によって「個人のユニークな強み=市場価値」へと変換されちゃったわけだ。

まったくお見事な換骨奪胎というやつだ。

「あなただけの強み(個性)は何ですか?」「それをどう社会(企業)に活かせますか?」という、「一芸を持った優秀な人材」であることを強いる新たなオーディションのようになっているわけだ。吉本興業の新人芸人みたいなもんだ!

おかげさまで、社会はおかしなことになってるんじゃ!

 「ただ特筆すべき個性もなく、普通に生きたい人」や「社会の役に立つアピールが苦手な人」は、多様性の枠からさえも実質的に排除さちゃうわけだ。機動戦士ガンダム🔗でいうところの、量産型のザクかガンダムの量産型のジムに過ぎないんだ。つまらない事務仕事でもやらせておけ!となるわな。

さらに、「他人の多様性を傷つけてはいけない」という過剰な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)のルールだけが肥大化しちまったもんだから、さあ大変!ドジョウが出てきてこんにちわだ。

学校でも職場でも「一言でも間違えれば即座に糾弾される」という、冷徹な相互監視と息苦しさを生み出しているわけだ。あー、まるで中世の魔女狩りみたいな社会だな!自分で書いてて泣けてくるぜ、まったく。

3. 美しい言葉が「盾」になり、本質的な批判を封じ込める

レジリエンスを高めよう」「多様性を認め合おう」というスローガンは、けっこう、けっこう、まことに結構。マジで表向きは100%正しいため、誰も反対できないんだ。

しかし、これが曲者だ。

誰も反論できないってことは、大政翼賛会的に偽善の正しさを追い求めることになるんだ。

そう、この正しさこそが罠になるんだ。

俺のような空気を読めない、本当の意味での多様性とレジリエンスの権化のような大人が「学校の仕組みそのものがおかしい」「経済至上主義を止めろ」と根本的な批判の声を上げようとしても、社会システムは「私たちはレジリエンス教育や多様性の尊重に取り組んでおりますです、はい」というポーズ(免罪符)によって、構造の歪みを隠蔽し、対話を煙に巻いてしまうわけだ。

俺が感じている窮屈さの正体は、「どれだけ社会が優しげな言葉を使おうとも、その根底にある『人間を材料(手段)として評価し、消費する』という本質(新自由主義)が1ミリも変わっていないこと」への違和感だ。

剥き出しじゃないだけ、戦いを挑むことも異を唱えることも野暮に見えちまう。そう、みんなシニカルに眺めて冷笑するだけだ。

Oi!ちょっと待って、これってまるで1984🔗に出てくるニュースピーク🔗そのままじゃないか!

言葉が優しくなった分だけ、その猛悪な牙が見えにくくなり、追い詰められている側は「こんなに配慮された社会で苦しんでいる自分が悪いんだ」と、自分自身を責め、自己幻想を解体し、自らの内面に批判の刃を向けやすくなってしまうんだ。

絶対おかしいだろう!

子どもの自殺が減らないのも、この「優しい顔をした過酷な社会」が、子どもたちの逃げ場を完全に塞いでいるからに他ならないんじゃないのか?え、どうなんだい、社長!

この「言葉の罠」に気づいた俺や君たちは、社会が押し付けるハリボテの言葉を拒絶し、もっと泥臭く、不完全な「生の人間」を取り戻す必要があるんじゃないか?

なんてったって、生の人生は一度しかないんだからな。

2026/06/04

POST#1868 この21世紀じゃ、まともに暮らすだけで静かなテロリストになれるらしいぜ!

Katmandu、Nepal

人々を欠乏状態に置き、TVで、新聞の広告欄で、ネットで、SNSで、24時間365日休みなく資本の論理を広告として集中的に浴びせ、必要のないものを必要だと思わることで、人々の飢餓感、あだ、劣等感と羨望をあおり、人間を支配するシステムが社会を隅々まで覆いつくしていると昨日話をしたね。OK、今日はその続きでいこう。

このシステムは、マーケティングや広告という名の「洗脳」によって、人々の心に意図的に「欠乏感(私はまだ足りない)」「劣等感(あの人に負けている)」「羨望(あんな風になりたい)」を植え付けるんだ。おっかないぜ。

そうして生み出された飢餓感を埋めるために、人々は必要のないものを買い、その代金を支払うために「労働機械」として自らを資本に差し出し続けなければならないという、完璧な永久機関が完成しちまったぜ!ギャハハハハ!(チェンソーマン🔗の主人公のデンジ風にい言ってみよう(笑)。なんせ今日は最終巻24巻の発売日だもん!)

ぶっちゃけ忖度なしに言わせてもらえば、子どもたちが死を選び、大人がスマホに張り付いて窒息しかけているのは、この「欲望と支配のサーキット」に24時間体制で組み込まれているからに他ならないんだ!

この巨大なシステムを内側から解体するための、「具体的なボイコット(抵抗)の戦略」は、以下の3つのレイヤーで展開できるんだぜ。もっとも、そこから逃れる気があればの話だけどな。

1. 「アテンション(注意・関心)」のボイコット

資本の論理が俺や君たちを支配する最大の武器は、スマホやメディアを通じた「広告」と、それを俺や君に最適化して送りつけてくるアルゴリズムなんだ。

気を付けろ、俺たちがスマホを見てるとき、スマホも向こうから俺たちを見てるんだ。これってまるで、ニーチェ🔗善悪の彼岸🔗に出てくるあれみたいだな。ほら『怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。』って奴だ!気が利いてるな!

なにはさておき、俺たちや君たちの集中力と思考力を奪うスマートフォンの通知を切り、いちいち画面を見ないことだ。仕事のメールを見落とすことになりかねんけどな(笑)!

彼らデジタル領主たちにとって、俺たちの「視線」や「時間」は金鉱ともいうべき資源に他ならないんだ。スマホの画面から目を離し、アルゴリズムに自分の脳をハッキングさせないことは、最も手軽で強力なボイコットだぜ。

そして時には意識的に情報の断食、つまりデジタルデトックスをするんだ。

広告が煽る「偽の必要性」を遮断し、心の静寂を取り戻すことで、「自分は今のままで、すでに満たされている」という感覚、つまりは尊厳を回復するんだ。

鳥の声を聴き、流れる雲を見る。

子どもたちの歓声に耳を澄ませ、風に揺らぐ木々を見る。

大きく息を吸い込み、漂う香りを感じるんだ。

自分の五感で、目の前の世界に対峙するんだ。

2. 「消費」のボイコット、つまりは自給とケアの復権

「買わなければ生きていけない」という依存状態こそが、俺や君たちを21世紀の素晴らしき『労働機械』に縛り付けるボール&チェーンなのさ。

お金を介さない価値の交換を思い出すんだ。

昨日話した「面白い老人」の話のように、地域の中で手作りのものを分け合ったり、知恵を教わったり、お互いをケアし合ったりする関係性や空間を作り上げるんだ。

そして「無駄」と「不便」の愛好するんだ。

効率的でスマートで、おかげさまで高価な商品を買うのをやめ、あえて手間暇をかけてみるんだな。資本が提供する「便利さという名の家畜化」から抜け出し、自分の身体性を取り戻すんだ。大げさなことを考えなくたっていい、スーパーで買ってるパセリやシソを家のプランターで作ってみるだけでもいいんだ。そこにはダイレクトな感覚がある。しかも、家で育ったばかりのパセリは、香ばしくておいしいぜ。

ふと、思い出した一説がある。老子🔗の第八十章だ。

小国寡民使有什伯之器而不用、 使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之、使人復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗。 鄰国相望、鶏犬之声相聞、民至老死不相往来。

こいつは小難しい。ちょいと小川環樹🔗先生の中公文庫版の老子を参考にして超訳してみるわ。

「国は小さく住民は少ないとしようか。軍隊に使う便利な殺戮兵器があっても使わせないようにして、人々には命を大切にさせるとしようぜ。で、(戦争に駆り出されないから難民になったりしなくていいので)遠くに移住する必要をなくせば、舟や車があっても、みんなそれに乗ってどこか行くわけでもない。鎧や武器があったとて、(いかれた全体主義国家みたいに)それを見せびらかすこともない。

もう一度縄を結んで契約の印としたような大昔の世の中のように、なにからなにまで質素倹約、彼らのイマイチな味の飯もうまいと思わせ、粗末な服も快適だと感じさせ、狭いながらも楽しい我が家に落ち着かせて、素朴な習慣を楽しませるんだ。そうすると、隣のイカした国がすぐそばに見えて、鶏や犬の鳴き声が聞こえるほど近くても、人々は老いて死ぬまで他国の人と行き来することもないだろうぜ!』

高校だか中学の漢文でやったような気がするけれど、もうすっかり大昔のことだからな。怪しいもんだけど、漢文は漢字を追っていけばちゃんと意味が分かるからな。俺はだいたい外したことはないから、この訳文、大過ないだろうよ。

つまりだ、便利な機械があってもあえて使わず、自分の作った飯を不味いもう一杯!(笑)と食い、自分の素朴な暮らしを最高だと愛する。2500年前の中国の偏屈なニート哲学者がたどり着いた結論も、現代の俺たちがスマホを放り投げてプランターで育てたパセリを食うのも、本質はまったく同じなんだ。最強の反逆スタイルってのは、いつの時代も変わらねえってことだろうな。

人間の本質が全く変わってないことの証拠だよ。

3. 「評価(格付け)」のボイコット

社会が押し付ける「優秀さ」「勝ち組」「フォロワー数」といった一元的な価値観を、鼻で笑って無視することだな。フランクシナトラフランク・シナトラ🔗の名曲マイウェイを、自分の好きにうたったシド・ヴィシャス🔗みたいにな。蛇足ながらこのマイウェイ🔗みてみ?サイコーにロックだぜ(笑)

そこで出てくるのがまず東大至上主義や内申書の「内なる廃止」だ。

制度が変わるのを待つ必要なんかない。親や大人がまずそんな『共同幻想』を捨て去り、「そんなものは人生に何の関係もない」と開き直るんだ。そして子どもたちに「きみはきみのままで最高だ」と言い続けることだ。揺るぎのない自己肯定感を熟成するんだ。

そして羨望の廃棄だ。

資本が作った虚像でしかない他人のきらびやかな生活を羨むのをやめちまったらいいんだ。宮崎麗華🔗みたいな脱税してとっ捕まるインフルエンサーにあこがれてても仕方ないんだぜ。ばかばかしいったらありゃしない。それは俺や君の人生じゃない。

そして、目の前にある生身の自然や、他者との素朴なつながりに深く満足する「足るを知る」精神こそが、成長至上主義に対する最大の反逆な・な・なんだぜ!

こういうのをサイレント・テロっていうそうだけど、地に足をつけてまっとうに暮らすだけで静かなテロリストになれるなんて、まったくご機嫌な時代になったもんだ。

さらにもう一点付け加えようかな。

俺は君に、IKEAの創業者のイングヴァル・カンプラード🔗の言葉を伝えたい。

彼は自分の息子たちにいつもこう言っていたという。

『本当にお前が欲しいのはこれなのか。本当に欲しいのか、買う価値のあるものなのか、しっかり考えたのか。それを買ったら、手元にお金は残らないぞ』それが彼の口癖でした。(イケアの挑戦:創業者は語る🔗313頁より)

俺は自分の息子にもいつもそういっている。けど、なかなか奴はその衝動を抑えてくれないけどな。そんなにうまく考えてくれるんだったら、俺の小遣いももっと潤沢になるだろうさ。

このボイコットは、デモ行進のような大層な運動である必要はまったくないんだ。

「スマホを置いて、子どもと一緒にただぶらぶら散歩する」

「役に立たない面白い老人の長話に、あえて付き合う」

「広告に踊らされず、今あるものを大切に使う」

そんな他愛もない簡単なことばかりだ。

し・か・し、こうした、資本の論理から見れば「1円の利益も生まない、全く生産性のない時間」を俺たちが日常の中に奪い返していくこと自体が、俺たちや君たちを『消費者』から『市民』へと引き戻し、現代の超高度なデジタル資本主義システムに、致命的な打撃を与えるボイコットになるんだぜ。

人間を『機械』から『人材』というマテリアルから、生身の『人間』へと奪還する戦いは、俺たちや君たちの足元から、JUST NOW今すぐ始められるんだYO!

2026/06/03

POST#1867 金がない奴ぁ、俺んとここい、国家は信用創造でいくらでも作れるのさ

石垣島

国家の財源なんて、信用創造でいくらでも作れる。

金のない奴ぁ、俺んとここい!といってほしいもんだぜ。

もし植木等🔗演じる『無責任男』が総理大臣だったなら、そうやって大言壮語するだろうな。

これこそ金融システムの本質を突いた、極めて本質的事実だ。

みんななんとなく、自分の家の家計を考えて騙されちゃいけない。

政府の言うバランスシートとか、財政健全化っていうのを鵜呑みにしちゃいけない。将来世代にツケを払わせることになる惧れがあるからと、将来世代のために国費を投入して、より良い教育、つまり社会の歯車の鋳型にはめるようなものではなく、人間の可能性を引き出すような教育を施すことを惜しむのは、亡国の愚行だといって過言ではないだろう。

国債を発行して予算を作ることは、次世代への借金のツケ回しではなく、単なる政府による信用創造(通貨発行)である」という事実は、現代の経済学(MMT現代貨幣理論🔗など)でも明確に説明されている通りだ。もっとさかのぼったら、100年ほど前のドイツの経済学者クナップ🔗が『貨幣国定学説』で展開した表券主義🔗までさかのぼるだろう。

これは嘘でも何でもない。

金がない、財政難だといいながら、政府は国債の発行をやめる気配もない。なぜなら、それは自己増殖する貨幣そのものだからだ。年に数パーセント価値が下落していく円の価値を金利で補うもう一つの貨幣だからだ。現代の貨幣は、金本位制じゃないから、国家の信用だけでその価値と流動性を担保しているんだ。

お金はどこかから「集めてくるもの(財源論の罠)」ではなく、政府が決断すればその瞬間にキーボードの入力一つで作り出せるものものなんだ。その証拠に、アメリカからこんなだけ金出せと言われると、どこからともなく金がひねり出されてくるだろう?

「財源がない」という言葉は、子供たちを労働機械として使い潰すシステムを維持するための、単なる政治的・思想的な言い訳(プロパガンダ)に過ぎないんだぜ。

この信用創造の視点から、私たちが求める社会(子供を歓迎する社会)へシフトするための論点は以下の通りであろう。

1. 財源の壁は「嘘」である。

銀行が融資を行う際に預金を原資とせず、万年筆で通帳に数字を書き込むだけでお金を作り出す(万年筆マネー)のと同様に、政府が国債を発行して日銀がそれを受け入れるプロセスも、無から通貨を生み出す「信用創造」だ。みんな間違えちゃいけない。銀行はみんなが預金したお金を貸してるわけじゃないんだ。

真の制約は「お金」ではなく「供給能力」そのものだ。

お金をいくら刷っても、それを形にする「人間の労働」「資源」がなければインフレになりる。昨今のコストプッシュ型のインフレも、労働人口の縮小や、資源の高騰(とりわけアメリカ大統領ドナルド・トランプ氏の功績は絶大だ)によるものだといっていいだろう。

しかし今、この一連の構想で、俺たちが求めているのは「余っているリタイア世代(面白い老人)」の知恵の活用や、求職中の人たちを「事務職員」として雇ったり、「カウンセラー」として養成して、日本全国の学校に配置することでなわけだ。

社会に眠っている「人間という生身の資源」(こんな言い回しを俺が使うのも矛盾してるのは十分承知しているけれどね)は十分に余っているため、信用創造で予算を作ってもハイパーインフレなどを引き起こすことはないだろう。ナフサやコメのように目詰まりすることもないさ。

2. 「何を信用創造(創出)するか」という価値観の戦い

政府はこれまでも、必要とあらば事実上の信用創造で巨額の予算を一瞬で作ってきた。嘘だと思うかい?例えば、コロナ禍の持続化給付金や、銀行の救済、防衛費の増額など、実例は枚挙にいとまがないぜ。

問題は「お金を作れるか」ではなく、「作ったお金をミサイル(破壊の道具)に換えるのか、それとも子供たちの笑顔(生の余白)に換えるのか」という、国家の倫理観の選択にあるんだよ。子供たちを「かけがえのない存在」として歓迎するための信用創造こそ、最も正当な通貨の発行理由じゃないか。人々に死をもたらす道具か、人間の生を豊かにする余白か。君はどっちがいい?

さて、こういう話をすると、必ずや防衛費をケチって、中国に侵略されたらどうするんだ!と懸念を表明なさる方がいる。そんなお怒りの貴兄に一言申し上げさせて頂くとするならば、わが国の空気のように社会を覆う同調主義的な全体主義と、習近平の号令一下で社会の方向が決まるあからさまな全体主義と、どう違うというのかな?

そもそも中国でも日本でも、金のあるやつは政治に首を突っ込まない限り好きにやってるんだ。庶民はより良い社会の歯車を目指して精進し、搾取されるだけなのも変わりない。

政治や社会に異を唱えたときには、中国では劉暁波🔗やジミー・ライこと黎智英🔗のようにお上に拘束される。日本では、社会からバッシングされたり黙殺されるかの違いだけだ。

今のままじゃ、風呂の温度が熱いか温いかだけの違いの専制状態に変わりはないだろ。

こんな柔らかな専制政治のような社会の状況に対して、決定的な変化を生み出すためにも、これは必要なんだ。

3. 「貨幣の奴隷」から「貨幣の主人」への転換

「お金が足りないから、子供への投資を削り、労働機械を増やす」という発想は、人間がお金(システム)の奴隷になっている状態以外の何物でもない。

お金は人間が生きるための「道具」に過ぎないんだ。

「ようこそ地球へ!」という社会基盤を作るために、政府の信用創造という特権を発動させることが求められているんだ。生きた金を使うってことだ。これこそが、新自由主義的資本主義の呪縛を解き、人間の尊厳を経済の最上位に据え置くための具体的な実践とり得るだろう。人間の尊厳のための通貨発行だ。

「お金は作れる」という前提に立ったとき、俺や君たちは「財源の言い訳」に騙されることなく、堂々と「子供たちの命を救うための予算」を国に要求することになるだろう。

要は、日本政府に金はないというのは『共同幻想』なんだ。いつもずいぶん大昔に久米宏🔗がニュースステーションの中で、刻一刻と動き続けるデジタル表示、それは一瞬の休みもなく利子によって増大してゆく国債残高を示していたんだが、その前で持ち前の深刻ぶった表情を作って見せ、日本社会の行く末を案じて見せた姿を思い出す。

それからもう、二十年くらいは経ってるはずだけれど、俺たちは相変わらずだ。もちろん、国債残高が減ったわけでもない。

政府にこの「人間の尊厳のための信用創造」を決断させるために、俺や君たちたち『市民』(「消費者」じゃないぜ)はどのような世論のうねりを、あるいは政治へのアプローチを作っていくべきだろうか?

しかし、実際に行われていることは、本来の政治の役割そのものであるべき富の再分配が、富の収奪に堕してしまったことで、大多数の人間は心理的にも物理的にも欠乏状態に置かれている。

人々を欠乏状態に置くのは、権力を持ってるやつらの得意技だ。

人々を欠乏状態に置き、TVで、新聞の広告欄で、ネットで、SNSで、24時間365日休みなく資本の論理を広告として集中的に浴びせ、必要のないものを必要だと思わることで、人々の飢餓感、欠乏感、劣等感と羨望をあおり、人間を支配するシステムが社会を隅々まで覆いつくしている。まるでデジタルを使った農奴制だ。いやすでにヤニス・バルファキス🔗などの経済学者はその構造をその著書、『テクノ封建制🔗』などで解き明かしている。

これが、『市民』を『消費者』に変え、『主権者』を単なる『社会の歯車』に変えてしまうんだ。これがカール・ポランニー🔗が『悪魔の碾き臼』にたとえた近代資本主義のヴァージョンアップ版だ。

俺たちはそんなくそみたいな経済を、嘘くさい社会を静かにボイコットしないといけない。

ちなみに、バンクシー🔗はずっとそういうことを主張してきたアーティストだ。決して資本主義のアイコンとして消費していいような存在じゃないんだ。ロックだな。痺れるぜ。

2026/06/01

POST#1865 それは新自由主義の陰画なんだ

 

東京、築地より

ここんとこ縷々つづってきた子どもの自殺をめぐる現象は、俺が思うに新自由主義🔗がすべてを商品化し、社会を分断してしまったことの陰画なんだ。

「人間を材料(人材)扱いする風潮」や「カント的視点の喪失」の背景には、1980年代以降、日本を含む世界中に広がった「新自由主義(ネオリベラリズム)」の思想が決定的な影響を与えている。

ハイエク🔗ミルトン・フリードマン🔗によって打ち立てられた新自由主義は、経済だけでなく、社会の構造から、人間の生き方や教育のあり方までをも根本から作り変えてしまった。そこで起こったのが、「教育の市場化」だ。

新自由主義の本質は、あらゆるものを「市場原理(自由競争・自己責任・効率性)」で支配することだ。(実は、自分たちが困ったときには政府に救済してもらうというバックドアが仕込まれてるんだがな)これが教育現場に持ち込まれた結果、以下のような変化が起きた。

学校の「工場・育成機関」化

教育の目的が「豊かな人格の形成(カントの言う『目的』)」から、「グローバル市場で勝ち抜ける優秀なコマ(新自由主義的な『人材』)の育成」へと完全にシフトした。エミール🔗を記した親愛なるジャン=ジャック・ルソーが見たら、パンテオン🔗の棺から起き上がってくるんじゃないかって心配になるほどさ。

教育の自己責任化と投資化

いつの間にやら「学びは将来稼ぐための自己投資である」という自己責任論が定着した。私見ながら、俺はなにかの為にする学びは嫌いだ。自らのうちから湧き出る好奇心の赴くままに、問いをたて、学び、自分の血肉にしたいね。閑話休題。

これにより、子供は幼少期から「自分の市場価値を高めるための競争」に強制参加させられることになっちまったんだなぁ。それどころか、大学は単なる就職予備校になり、専門課程はほどほどに就職活動に奔走するなんておかしなことになってる。そのくせ、通勤電車の扉の横には、土日に経営専門大学院に通ってMBAつまり経営学修士🔗の資格を取ることが宣伝されているほどだ。まったく、何のために働いてるんだ?俺が思うに、人生は愉しむためにあるんだぜ。

そして、子どもたちを追い詰める「新自由主義的」3つの罠が待ち受けている。3つの口から破壊光線を出すキングギドラみたいだなぁ(笑)

新自由主義的な価値観は、子ともたちの精神を内側から破壊する特有の構造を持っているんだ。おっかないぜ。

① 無限の自己責任論(「努力不足」という呪い)

新自由主義は「誰もが自由に競争できる」という建前をとるため、失敗した原因はすべて「本人の努力不足・能力不足(自己責任)」に帰結させられちまう。

いじめ、不登校、成績不振に陥った子どもは、社会構造や環境のせいにできず、「自分が無能だからだ」と過剰に自分を責め立てるようになってしまうんだ。そんな馬鹿なことってあるか?

② 「自己啓発」の強要(ありのままの否定)

新自由主義社会では、現状維持は「退化」を意味するんだ。経済が常に成長し続けていかないといけないという呪縛そのままだ。だから預金じゃなくて投資が奨励されるんだな。ダハハ!

その呪縛のせいで、地球はだんだん金の星どころか金星みたいな灼熱の惑星へと変わり始めてるんだけどな。

おかげさんで、子どもたちは常に「もっと主体的に」「もっとスキルを身につけて」と、終わりなき自己改革を求められ続ける。終わりのないマラソンだ。大人だってうんざりだぜ。

カントが説いた「生きているだけで尊い」という状態は全否定され、「常に成長し続けなければ価値がない」という強迫観念に晒され続けるんだ。まともな神経でいられるわけがないぜ。

③ 連帯の分断と孤立(頼れない社会

徹底した競争社会は、クラスメイトを「共に生きる仲間」ではなく、「席を奪い合うライバル(敵)」に変える。俺の通っていた私立の中学に、先年用事があって行ってみたら、下駄箱の横に、『上を見て落ち込むな!下を見ていい気になるな!右を見ても受験生、左を見ても受験生!』とうんざりするようなことが書いてあったぜ。俺は思わず、名誉校長とかになりあがってたかつての数学の教師に『中島さん、あんたちょっと見ん間に、偉なったもんじゃんのう。これがあんたの理想の学校かいな?はよ、あんたの銅像も建ててもらえるとええのう』と、半ば軽蔑感を隠すこともなく言ってのけてしまったわ。ダハハ!

弱みを見せたら脱落するため、子どもたちは周囲にSOSを出せなくってしまう。結果、「過酷な競争の中で誰も信じられない」という致命的な孤立を生み出すことになってしまうだろう。親は競馬馬の馬主みたいなもんだからな。親にもそんな弱みは見せられないだろうしな。

もっとも、その親自身も、社会の中で同じようにもがいているわけだ。溺れている者が、溺れている者を救うことはできないのさ。

さてそこで、 日本特有のケミストリーが生じるんだ。まさに「最悪の掛け合わせ」だ。

日本の子供の自殺が突出して減らないのは、この「新自由主義」に、日本古来の「同調圧力・連帯責任」が最悪の形で融合したからだと考えるのが妥当だろう。

そもそも核家族から社会が構成されているアングロサクソン型の欧米の新自由主義は「自己責任」だが、ルールを外れても「個人の自由」としてある程度放置される傾向にある。よく言えば、これは多様性が担保されてるってことだ。

しかし、我らが日本の新自由主義は一味違う。 経済や能力面では「自己責任の競争」を強いる一方で、学校生活では「みんなと同じ行動、高い協調性(同調圧力)」を絶対の鉄板ルールとして求められるんだ。子どもたちの無意識は、相反するベクトルに引き裂かれることになるだろう。利益相反してもへっちゃらな汚れちまったおじさんとは違う若者たちの心は、混乱するよな。

つまり、日本の子どもたちは『激しいサバイバル競争を勝ち抜きながら、周囲の空気も完璧に読まなければならない』という、二重の過酷な要求に縛られているわけだ。

これが、逃げ場をなくし、自死を選ばざるを得ないほどの息苦しさの正体なんじゃないかな。

人間を「目的」ではなく「手段(利益を生む道具)」として扱い、使えなければ自己責任として切り捨てる新自由主義は、現代の子どもたちから「無条件で愛され、守られる権利(生存の安全基地)」を奪い去りってしまった。

子供の自殺問題は、この過剰な市場原理主義がもたらした「社会の精神疾患」そのものであると言えるだろう。

俺は思うに、子どもなんて 10 歳ぐらいまでは勉強なんかそっちのけで、けもののように友達と遊びまくる方が絶対に人間的に成長すると思うんだよ。そんな中で人間関係の機微を学んだり、自分で工夫したりする知恵を身に着けたり、有り合わせのもので何とか問題を解決するブリコラージュ🔗の能力を身に着けたりするんだ。そう、非認知能力🔗って奴だ。

この考えは教育学、心理学、そして脳科学の視点から見ても、圧倒的に正しく、本質的な人間性の成長を捉えているといえるだろう。

10歳頃までに「けもののように友達と泥まみれになって遊びまくる」経験こそが、新自由主義が求める薄っぺらな「人材スペック」ではなく、カントの言う「目的としての人間」として生きるための強固な土台(根っこ)をるんだ。

近年進展の著しい脳科学も「遊びが先、勉強は後」の順序の妥当性を証明している。

脳の発達順序から見ても、 人間の脳は、感情や本能をつかさどる「大脳辺縁系(けものの脳)」が先に発達し、論理的思考や勉強をつかさどる「大脳新皮質(人間の脳)」が後から発達するようになってるようだ。

で、10歳くらいまでに友達と全力で遊ぶことで、脳の感情システムやストレス耐性が爆発的に発達するらしい。この「根っこ(土台)」が未成熟なまま、早期教育で上の「人間の脳」ばかりをいじくると、ポキッと折れやすい木(メンタルを病みやすい子供)になってしまうであろうことは、容易に理解できる。一階が無きゃ二階はできない。そして土台がなきゃ家は建たないんだ。

新自由主義社会が「教科書」や「習い事」で教えようとしている能力ってのは、実は「放任された遊び」の中でしか身につかないんだ。人間は「生きる力」のすべてを遊びの中で学んでいるといても過言じゃない。

嘘じゃないぜ。

本物のコミュニケーション能力: ルールのない遊びの中で、言葉の通じない相手とどう折り合いをつけるか、喧嘩した後にどう仲直りするかを体で覚えるんだ。

本当の主体性と課題解決能力: 「次は何をして遊ぶか」「泥の中に落ちたボールをどう拾うか」を、大人に指示されず自分たちで必死に考えることで、本当の知性が磨かれていくんだ。

レジリエンス(折れない心): 転んで痛い思いをしたり、遊びのルール変更に耐えたりする中で、自然と「失敗しても大丈夫」という精神の免疫が作られていくんだ。

私事で恐縮だけれど、俺は世の中の平均的な人間ができるたいていのことは、努力すれば何とか格好がつくくらいにはできるだろうと世の中を舐めた姿勢でこの年までやってきたんだけど、確かに子供のころ畑のあぜ道や雑木林の中で駆け回った経験が基礎になっていると実感するぜ。痛い目もたくさん見たけどな。

友達とただ楽しく遊び狂う時間には、評価(テストの点数、内申点)が一切存在しない。

この「何かができるからではなく、ただ生きているだけで楽しい」という無条件の幸福感(自己肯定感の原点)を10歳までに心に貯金できた子どもは、大人になって社会の荒波や「人材査定」に晒されても、簡単には潰れないんだ。心の中に「絶対に壊れない安全基地」を持っているからだ。つまり、『何もしなくても愛される』という絶対的な全能感が熟成されてるんだ。

 

しかし現在の日本ではどうだろう。新自由主義的な焦燥感から、この大切な「10歳までの放牧期間」を塾や習い事で埋め尽くしてしまっている家庭が多いんじゃないだろうか。これこそが現代社会が抱える「遊びの喪失」という病だ。

結果として、「小綺麗で、大人の言うことをよく聞くけれど、内面はスカスカで傷つきやすい子供」が大量生産されてしまうんだ。

子供を一度「けもの」として野生のまま徹底的に遊ばせることは、決して教育の放棄ではないんだ。それこそが、社会の道具(手段)にされない「自立した一人の人間(目的)」を育てるための、最も高度で贅沢な教育なんじゃないだろうか。

もちろん、それについての反論もあるだろう。それは俺も重々承知しているし、不安になる親心もひとりの親としてよくわかる。

けれど、子供が死にたくなるような国って、それはあなたにとっていい国なんですか?

少なくとも俺にとっては、少なくない数の子どもたちが自ら命を絶ちたくなるような国は、どれだけ経済的に豊かで治安が良くても、決して「いい国」とは言えないと確信してる。

むしろ、社会のシステムがどこかで致命的に機能不全を起こしている「極めて不健全な国」であると断言するべきだ、というのがカントの哲学やルソーの人権の視点に立った結論じゃないかな。

なぜそのような国になってしまったのか?

まず真っ先に挙げるべきなのが、国家の「目的」が倒錯しているという致命的なバグだ。

カントの思想に立ち返れば、国家や社会というシステムは、「そこに生きる人間が幸福に、尊厳を持って生きること」が究極の目的であるはずだ。

しかし、子供が自殺に追い込まれる国では、その目的が完全に逆転しているといわずるを得ないだろう。

国を維持するため、あるいは経済を成長させるための「手段」として子どもたちが『消費』され、その過酷なシステムに耐えきれなくなった子供たちが命を落としていくんだ。

目的と手段がひっくり返った社会は、人道的な意味において「失敗している国」以外の何物でもない。俺はつねづね、ピンハネするだけで誰も幸福にならないようなクソ会社なんて潰れちまった方がいいんだ!というんだけれど、まさにそれが国家的なスケールで展開してるんだ。

そして俺たちは、「見せかけの豊かさ」に騙されている。

街にゴミが落ちておらず、夜間に女性が一人で歩くことができ、子どもは一人で外に出かけても誘拐されない。スーパーやコンビニの棚にはモノがあふれている。たまに目詰まりしてる時もあるけどな。だから、一見すると「いい国(先進国)」に見えるだろうさ。

しかし、子供の自殺率が高止まりしているという事実は、この国が「物質的には豊かだが、精神的には生存を脅かすほど過酷なディストピア」であることを証明しているんじゃないか?

物理的な治安が良くても、子供の心が安心できる「精神的な治安」が崩壊している国を、良い社会と呼ぶことはできないんじゃないか。

おまけに、 社会の「最後のセーフティネット」が壊れているから質が悪い。

野生のけものが子供を命がけで守るように、本来あらゆる共同体(国家、地域、学校、家庭)にとって、「子供の命を守ること」は最優先されるべき絶対的な防衛ラインだ。

子供が死にたくなるということは、学校も、家庭も、あるいは社会の空気も、すべてが子どもたちにとって「敵の陣地」になってしまい、どこにも逃げ場(安全基地)がなかったことを意味しているだろう。

最も弱く、守られるべき存在である子どもたちを孤立させ、死に追いやる社会は、共同体としての基礎が崩壊していると言わざるを得ないんじゃないか?どうなんだい、社長!


大人が『人材』や『経済成長』『自己責任』といったまやかしの言葉に踊らされ、カントの言う『人間を目的として扱う』という当たり前の倫理を忘れた結果、その歪みのすべてのしわ寄せが、最も無力な子どもたちに向かっているんじゃないのか。

また、その俺たち大人の都合で作り上げられたモデルチャイルドから逸脱したとたんに、社会から居場所がなくなり、引きこもり、或いはトクリュウ犯罪の網に絡み取られていく。

子供が「生まれてきてよかった」と心から思える国、10歳まで泥まみれになって遊び狂っても誰からも責められない国に作り直すこと。それこそが、この国に生きる大人が今すぐにでも果たさなければならない、最優先の責任だと言えるだろう。

 子供が幸せに生きられない国は大人も幸せには生きられないと俺は思うんだけれど、どうだろうか。もしそうならば、なぜその幸せに生きられない社会を、俺たちは拡大再生産せざるを得ないんだろうか?思考停止していないか?

子供の自殺や生きづらさは、大人の社会が抱える病理がそのまま投影された結果に過ぎないんだぜ。

にもかかわらず、俺たちがこの「不幸のシステム」を止められず、むしろ拡大再生産し続けている背景には、新自由主義と日本特有の構造が噛み合った「4つの罠」が存在してるんだ。

1. 自分が生き残るための「最適化の罠」

大人たち自身もまた、新自由主義的な競争社会の被害者だ。自覚している、していないに関わらずね。

大人の現状はこうだ。 労働環境の流動化、実力主義、老後不安などにより、大人は常に「明日は我が身」「脱落したら終わり」という強い恐怖の中に置かれている。そそのストレスは多くの人々を抑鬱状態に追い込んでいる。

こんな不健康な社会は変えなきゃならないのに、再生産のメカニズムは無情に進行するんだ。なんてったって、メカ=社会構造だからな。 

心に余裕がない大人たちは、社会のシステムそのものを変える(連帯して声を上げる)労力を持てない。結果として、「この過酷なシステム(ルール)を変えるのは無理だから、せめて自分の子供だけは競争に勝てるように、幼少期から『人材』として鍛え上げよう」という行動をとるわけだ。これが、結果的にシステムをさらに強化し、子供を追い詰める側へ回るという悪循環を生んでしまうんだ。

2. 「痛みの学習」による世代間連鎖

人は、自分が受けてきた扱いを他者にも正当化しやすいという心理的特性(認知の歪み)を持っている。俺が少年のころ、スポーツ系のクラブでは先輩によるシゴキといういじめが常態化していた。そしてシゴかれてた連中が上級生になったとき、そのシゴキを荒廃に繰り返すという負の連鎖だ。少年の頃から、俺はこういうシステムを嫌悪してたんだ。

そんな経験を敷衍すると、大人の本音はこんなところか? 現代の親や教師の世代も、かつて「我慢すること」「感情を殺して成果を出すこと」を美徳として叩き込まれ、サバイバルしてきたわけだ。

そこでまたぞろ再生産のメカニズムが発動する。

 そのため、子どもたちが「苦しい、遊びたい」と訴えても、大人は「自分もそうやって耐えて大人になったんだ」「社会は甘くない」と、自分が受けた痛みを教育として再適用してしまうわけだ。自分が耐えた理不尽を肯定したいがために、次の世代にも同じ理不尽を強要するというスポーツクラブの上下関係構造そのまんまだ。

3. 社会の「経済至上主義」という巨大な慣性

社会の意思決定を行う政治、行政、経済界が、いまだに「GDP(国内総生産)」や「企業の国際競争力」といった数値の拡大を唯一の正義としている。そうじゃないのはブータン王国くらいか。しかし、GDPが世界で3%平均で100年成長すれば、社会は持続不可能だということは明々白々だ。何せ資源の量もゴミの量も19倍になるんだからな。俺たちは滅びの道を爆走してるんだ。

しかし、そこでも再生産のメカニズムは機械仕掛けの神のように無情に発動する。

 本来なら「国民の幸福度」や「子供の精神的健康」を最優先の指標にするべきなのにもかかわらず、現在の社会システムは「経済成長のために人間をどう最適配置するか」というロジックで動いている。

この巨大な経済の慣性(仕組み)を前に、個人の「おかしい」という声がかき消され、政策レベルで「人材育成」の教育改革が再生産され続けるんだ。機械の星の歯車のように全体主義的に動いていくしかなくなるわけだ。そのシステムに従わないことを選べば、現代社会では経済的な死を意味する。そして往々に人は経済的なデッドエンドを迎える時、生物学的な死を選択する。つまり自殺だ。

4. 相互監視が生む「誰も望んでいない同調圧力」

日本社会に深く根ざした「世間の目」が、新自由主義の自己責任論と結びつき、強力な監視社会を作っている。21世紀の経済戦争を勝ち抜くための『大政翼賛会』だ。

だれも望んでいないのに、なぜか止まらないのが再生産のメカニズムだ。

 「10歳まではけもののように遊ばせるのが良い」と内心では思っている親でも、周囲の子どもたちが一斉に塾や習い事に行き始めると、「我が子だけ遅れては将来くいっぱぐれて困るのではないか」「親としての責任を放棄していると後ろ指を指されるのではないか」という周囲の視線(同調圧力)への恐怖に負けてしまう。

誰もが「このシステムは異常だ」と思いながら、お互いを監視し合うことで、結果的に誰もそこから抜け出せなくなっているんだ。現代の自発的隷属だ。ラ・ボエシ🔗もあきれることだろうさ。


この「不幸の拡大再生産」を止めるには、俺たちが「降りる勇気」を持つしかない。

社会全体を一気に変えることは難しくても、まずは自分の家庭や身近なコミュニティにおいて、「社会のルール(使えるか・使えないか)」を完全にシャットアウトする「治外法権の安全地帯」を作ることが必要だ。

大人が「私はこの競争レースから降りる。子どもを材料にはしない」と腹をくくることが、この強固なシステムにヒビを入れる唯一の対抗策だろう。

ここからが、また俺の荒唐無稽な社会改革案が開陳される予定だ。こうご期待。

2026/05/30

POST#1863 何もかもが転倒した社会に俺たちは生きている

 

河内、越南

俺はつねづね思ってるんだけどさ、経済の拡大(成長)という手段のために、人間や社会、そして地球環境という目的(土台)が従属させられ、使い潰されている現代の構造ってのは、完全に「主客が逆転した病理」ではないかな。

この転倒した世界を180度ひっくり返し、「人間と自然の生存(ウェルビーイング)のためにこそ、経済が従属すべきである」という本来の秩序を取り戻さないと、もうこの世界は持たないぜ。これだけは断言する。こんなのあと百年続けるつもりかい?POST#1774🔗を参照してみてほしい。

いま、俺や君がさっさと取り組まないと手遅れになるだろう思想的・実践的な転換点こんなところだ。よく考えてほしい。

1. 「経済」を最下層の「手段」へと引き戻す

経済思想家のカール・ポランニー🔗が指摘したように、本来の経済は社会や自然の中に「埋め込まれた(Embedded)」一部に過ぎなかったはずだ。しかし現代は、経済が社会のルールを規定する「市場社会」へと暴走している。すでに俺たちは、資本主義経済ってのシステム以外の生き方があることすら想像できない状態に陥ってる。思考停止状態なんだ。

本来あるべき順序(エコロジカル経済学の視点)ってのは、理性的に考えればこうだろう。

地球環境(自然):すべての生命の基盤(有限)

人間・社会:自然の中で営まれる共同体と尊厳

経済:社会を豊かにするための単なる道具・仕組み

しかし、現代世界では、すべてが転倒している。このピラミッドが逆転し、経済(GDPの数値)を維持・拡大するために、自然が破壊され、人間の精神と命が削られている。これって、本末転倒していないか?

2. 「資本の自己増殖」という宗教からの脱却

現在の資本主義システムは、自転車操業のように「前年比プラス」の成長を続けなければ破綻する構造(成長の呪縛)を持っている。しかし、もう『市民』に際限なく『広告』を浴びせ、皆の欲望をあおり、劣等感を刺激し、欠乏感を注ぎこみ、『市民』から『消費者』へと変貌させて、その自尊心を破壊し、不要なものを必要だと思わせ、人生は無限に続くと錯覚させて本当に大切なことを見失わせることで成り立つ経済は、もう限界なんじゃないか?

みんな気が付いていても、もうどうに止まれないってのが正直なところかもしれないがね。

人間を資源とみなす本質とは何か。

資本が自己増殖(投資して利益を得て、さらに再投資する)し続けるためには、自然環境からの収奪と、人間からの果てしない労働搾取(時間と精神の買い叩き)が必要不可欠になる。今から百年も前に、ジョン・メイナード・ケインズ🔗は、今から100年ほどたった自分たちの孫の世代には、労働生産性の向上で、週に15時間働けば生活できる社会が来ると予言していた。POST#1767🔗参照。しかし、そうなっていないのは、なぜか。株価は最高値を更新しても、納税額が史上最高になっても、なぜいつまでも追い立てられるように走り続けないといけないのか。それは、経済システム自体の維持が社会の目的になっているからだ。

「脱成長(Degrowth)」へのシフトが必要なんだ。

経済規模の拡大そのものを目的化するのをやめ、過剰な生産と消費をコントロールし、限られた資源を全員で分かち合う「定常型社会」への移行が、地球にとっても人間の尊厳にとっても唯一の生存戦略だ。実は、人類の社会は有史以前からつい最近の産業革命まで、ずっと定常型経済だった。その状態に戻れとは言わない。けれど、社会システムの維持のために人間が道具のように使い潰される、工場の部品のように教育される、そんな社会でいいのだろうか?スマホから目を離して考えてみるべきじゃないか?

3. 「生産性」から「ケア(生命の維持)」へ

成長至上主義が「役に立つ人間(=利益を生む機械)」を称賛する一方で、人間が生きていくために本当に必要な営みは常に軽視されてた。

保育を『だれでもできる仕事だから賃金が安いのは仕方ない』と言い放ったタレントだか経営者だか判然としない男もいた。『老人は集団自決したほうがいい』と言い放った若手経済学者がいた。俺は、生涯この手の発想をする人間と与するつもりもなければ、狎れ合うこともない。まぁ、向こうも俺のことなんか構っちゃいないだろうがね。

このGNP至上主義の過熱経済を、少しでも定常経済に近づけていくために必要なのは、ケア労働の復権だと俺は考えている。

子育て、介護、医療、教育、あるいは自然環境の保全など、生命を「ケア」する営みは、数値的な効率化(機械化)に馴染まない。それは地道で、華々しい技術革新とは縁遠い世界だ。だからこそ、そこに価値を見出し、それによって経済を回す。資本を流動させる。なにも浪費されるものはない。どうせ、今後社会のビジネスの大半は、AIに置き換わっていくだろう。その時、本当に価値を生むのは、人間が人間に対して共感し、ケアすることによって生み出されるものだ。

その時は、日々近づいている。今のうちに俺たち自身の価値観を反転させていかなければいけないだろう。

どれだけ金を稼いだかではなく、どれだけ他者や自然をケアし、自らも生を全うできたか。この「生命の再生産」を中心に据えた社会構造(ケア・エコノミー)へと180度転換する必要があるんだ。

いくら金を稼いだところで、ガソリンや電気をガバガバ消費するでかい車に乗り、ブランドのロゴの付いた服をアホみたいに高い金を払って買った挙句、自らあるく広告塔になったり、車が買えるほどの高級時計を身に着ける。そんなソースティン・ヴェブレン🔗有閑階級の理論🔗で描いたような消費活動を世界中の人間がやっていたら、人間のどしょうもない見栄のために世界は破綻してしまうんだ。

子供たちが死を選び、或いはまた社会的な自殺を選んでいる現実は、そして地球が悲鳴を上げている現実は、この「経済のために人間と地球を差し出す」というシステムの物理的・精神的な限界を証明しているんじゃないか。

今、俺や君に、そして社会に求められているのは、経済の枠内での微修正ではなく、「経済を人間のコントロール下に奪い返す」という、文明史的なコペルニクス的転回だといえるだろう。

しかし、皆様お馴染みのダボス会議、つまり世界経済フォーラム🔗に集まる世界のエリートのお歴々には、そんなコペルニクス的な転換をやっちまったら、自分たちによる経済支配と割のいいビジネスが成り立たない。だから彼らは当たり障りのない耳障りのいい言葉を並べてやり過ごしている。これはあの連中に任せておいちゃ、先行きは暗いといわざるを得ないな。

社会の変動は、上から起きても碌な方向に行かない。自分たちの足場を固めて、自分たちのものの見方を変えてゆくことが先だ。俺や君たちは、その日々の営みの中で毎日歴史を紡いでいるんだ。

日本人が気づいていないか、気づいていないふりをしていることがある。

日本はすでに、先進国じゃない。低成長先進国で、なおかつ衰退途上国だということだ。

2026/05/21

POST#1854 犯罪機械にされてしまった子どもたちの内面に倫理を育むにはどうすべきだろう?

Fes,Morocco

ここ二日ほど、日中は施主検査や引渡し、夜は工事、そしてその間は段取りというきつい日々が続いた。眠る暇もありゃしない。想定外のトラブルもあった。しかし、信頼できる職人さんたちの力を借りて辛くも乗り切ることができた。いつだって、成功すればみんなのおかげ、失敗すれば自分の責任なんだ。それがリーダーというものだぜ。しかし、ぐったり疲れはてたのさ。

昨日の夜中に這うようにして帰宅し、食事をとった後、リビングのフローリングの上でそのまま眠ってしまった。今日もぼんやりしてる。

ぼんやりしていても、痛風の薬がなくなったことは解っている。そう、尿酸値を押さえる薬だ。仕方ない、同級生のやってる岩田整形外科に行くか。

そこで、俺は『アンチオイディプス』を半分寝ながら読んでいたんだが、俺の前に呼ばれた患者の名前を聞いて目が覚めた。40年前、高校性の頃に一緒に生徒会の役員をやっていた三ツ口君だった。驚いたぜ。で、ほどなく俺も診察室に呼ばれたんだが、同級生が3人そろって世間話をしただけで帰ってきたぜ。

彼は今、仕事の関係で海外に暮らしているらしい。たまに日本に帰ると静かで落ち着くけれど、すぐに自分には息苦しいと思えてくるんだそうだ。あと、病院は日本じゃないとねって言ってな。まぁ何はともあれ、お互い相変わらずだ。嬉しいもんだ。

三ツ口君は海外をフィールドに選んだ。けれど、俺が生きて立ち向かっていかなければならないのは、間違いなくこの日本だ。


さて、今日も本調子じゃないけれど、一丁行ってみるか。

俺の息子は、先日も俎上に載せた栃木県での少年4人による殺人事件のニュースが流れるたびに食い入るように見ている。俺の倉庫にもバールはあるし、目出し帽買ってやろうかというと揶揄うと、真剣に怒ってくる。いいぞ、そうして倫理を内在化してゆくがいい。

さて、国家とか学校とか企業とか、大小さまざまなシステムに隷属し馴致されるのではなく、自らの中に倫理と美学を行動指針を打ち立てるためにはどうしたらいいのか?

自らの内に強固な「倫理」と「美学」を確立し、それを絶対的な行動指針にするためには、外部の評価軸(システムや他人の目)を遮断し、徹底的な自己対話と実践を繰り返す必要があるのは当然だろう。

倫理と美学は、頭で考えるだけでなく、痛みを伴う選択(あえて損を選ぶなど)を乗り越えることで初めて本物になる。俺も若いころ、会社で働いているときに、若手社員からなぜそんな自分にとってそんな選択をあえてするのかと聞かれたことを覚えている。反抗的だったからな。けどそれは、人間性を圧殺する組織への抵抗と、自分の仕事に対するプライドの故だったんだ。要は自分の倫理や美学に合わないことはしたくなかったのさ。今でも変わらいけどね。

例えば、うちの息子が怖いもの見たさで興味津々なトクリュウ犯罪などに関わってしまう若者などは、自らのなかに倫理を内在化できていないと俺は考えてる。いや、大方の人間は『今だけ、金だけ、自分だけ』という思考回路を半導体の基盤のように脳みそに刷りこまれてるから、この手の若い衆だけの話じゃない。そして、上から目線でいうつもりはないけれど、このような人々の内面に倫理を内在化させることは可能なのだろうか?

トクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ) や闇バイト に加担してしまう若者たちに対して、倫理を内在化させることは同じ人間である限り「可能」ではあるだろう。が、従来の言葉による道徳教育(座学)だけでは間違いなく不可能だ。

なぜなら、彼らの多くは、純粋に悪を望んで犯罪をしているのではなく、「システムの歪み」に過剰適応した結果、倫理のスイッチが切れている状態にあるからだ。

なぜ彼らに倫理が届かないのか、そしてどうすれば内在化が可能なのか、その構造とアプローチを紐解いていこう。

なぜ倫理が「内在化」していないのか?

彼らの行動の背景には、倫理観の欠如というよりも、以下のような現代特有の構造がある。

ゲーム感覚の「脱個人化」: スマホの画面越しに、指示役から「指示されたATMで金を下ろす」「指定の場所へ運ぶ」といったタスクが降ってくる。

彼らは全体像が見えないまま部分的な作業(タスク)をこなすだけなので、自分の行動が「生身の人間を傷つける凶悪犯罪」であるというリアリティ(肉体性)が遮断されているわけだ。犯罪機械の歯車の一つになっているにすぎないっちゅうことだ。

圧倒的なタイパ・損得勘定のバグ: 現代の「コスパ・タイパ(タイムパフォーマンス)」を重視するシステムに適応しすぎた結果、「短時間で効率よく稼げる」という目先の利益(ゲームの報酬)が、すべての規範を上回ってしまう。その行いによって、自分が何を失うのか全く考えていないのだろうか。これでは朝三暮四の猿みたいなもんだ。しっかりしてほしいぜ。

孤立と社会の道具化: 彼らの多くは、家庭や地域、あるいは労働市場で「自分は使い捨ての道具(システムの一部)だ」と感じて生きている。

これは彼らだじゃない。この社会全体に、お前の代わりはいくらでもいるという、無言の圧力が蔓延っている。しかし、それは根本的に間違っている。

社会を維持するための人材は足りていない。そして、人間は道具ではない。イマヌエル・カント🔗だって、『人間を道具として扱ってはいけない。人間そのものを目的としなければならない』といってるだろう?しかし、だれもかれもためらいもなく『人材』という言葉を使う。人間を鉱物や材木かなんかのように扱う卑しい言葉だ。俺ははっきり言って嫌いだ。

かくして、社会から大切に扱われた経験が薄いため、他者や社会に対して「美しく、倫理的に振る舞う」というインセンティブ自体が最初から崩壊しているわけだ。

愛されたり信頼されたりしたことのない人間に、人を愛したり信頼するのは難しいんだ。

2. 倫理を内在化させるための3つのステップ

彼らに「悪いことをするな」と正論を解いても響くわけがない。それを説くものをあざ笑うのが関の山だ。倫理を内在化させるには、彼らの脳内システムを書き換えるアプローチが必要だ。とはいえ、スタンリー・キューブリック🔗の映画時計仕掛けのオレンジ🔗に出てきたルトヴィコ療法みたいに、暴力を想像したり見たりすると生理的な嫌悪感が生じるように洗脳する手わけじゃないぜ。

「痛み」と「ナラティブ(物語)」の再接続(想像力の回復)

言葉ではなく、リアリティを突きつける必要がある。
自分が運んだ現金が、どんなお年寄りがどのような思いで集めたお金なのか、自分の行為によって被害者の人生がどう破壊されたのかという「具体的な物語」に直面させなければならないだろう。
少年院などで成果を上げているのは、被害者の手記を読んだり、当事者の生の声を聞くことで、「自分のタスク=生身の人間への加害」というリンクを脳内に強制的に結びつける教育だそうだ。

「他者」という美学のインセンティブ設計

刹那的に、延髄反射的に倫理を踏み越えてしまう彼らには、「倫理的に生きるほうが、長期的にはコスパが良い(あるいは美しい)」という実感を持ってほしいと切望する。その軽率な行いが社会的な自殺そのものであることに気付いてほしい。

トクリュウ組織は、若者を単なる「使い捨ての駒」として徹底的に搾取する。実際に報酬が支払われなかったり、警察に身代わりにされて逮捕されたりする。指示した人間は手を汚さず、直接人を傷つけ、その重荷を背負うのも末端の人間だ。

まぁ、俺から言わせれば、堅気の世界も似たようなもんだけどな。

これに対して、「誠実に生きることで、人から信頼され、自分という存在が社会で交換不可能な唯一無二のものとして認められる」という成功体験(=自己肯定感)を小さく積み重ねさせることが、迂遠に見えても最大の防壁になる。損して得取れ、情けは人の為ならずということだ。

身体性を伴う居場所(セーフティネット)の提供

そして何より、これが大切だ。

倫理とは、精神論ではなく「関係性」の中に宿るものだ。
自分を無条件で肯定し、間違ったときに本気で叱ってくれる「生身の人間(コミュニティ)」との繋がりができることで、初めて「この人を裏切りたくない」「この人に恥じない自分でいたい」という内発的な倫理観(美学)が芽生えるんだ。あるいは自己の中に、この相手には恥じるようなことはできないという空想上の人格でもいいだろう。俺だって、吉本隆明や忌野清志郎に対して恥じるようなことはできないからな。


トクリュウに流れる若者は、屠殺場のようなシステムに「順次処理」され、自己を喪失した最悪の帰結と言えるだろう。彼らに倫理を取り戻させることは、彼らをもう一度「システムから地続きの生身の人間」へと引き戻す泥臭い作業にほかならない。

そうなんだよなぁ。けど、言うのは簡単だけど、これ、本当に難題なんだよな。

これは現代社会が抱える最悪で最大の「難題」だ。

なぜって正論や綺麗な言葉が1ミリも届かない相手に、どうやって内なるブレーキ(倫理)を植え付けるのか、という問いだからだ。

この問題がこれほどまでに深い難題である理由は、主に以下のような「絶望的な矛盾」があるからだ。

「コスパ至上主義」という病理

現代社会そのものが「効率よく、タイパ良く、結果(金)を出すやつが勝ち」という新自由主義のゲームのルールで動いている。

トクリュウに染まる若者は、ある意味でこの社会のルールに「忠実に従いすぎた」結果とも言えるんだ。社会全体が「損得」で動いているのに、若者にだけ「美学のために損をしろ」と言うのは、システム的に非常に矛盾していいるだろう。

弱者の苦境は自己責任と切り捨てておきながら、自分が窮すると政府や行政に救済を求める新自由主義者の経済人たちのしていることのどこに倫理があるだろう?

そして、労働者の賃金を抑圧し、その生活を不安定化させておきながら、企業の内部留保を積み上げ、株主に巨額の配当を支払い、自ら高額の報酬を手にする成功者たちの姿を見て、自分たちが方法は違っても、他者から簒奪しても構わないと考えない方がどうかしているぜ。

言葉の無力化

彼らに「親が泣くぞ」「お年寄りがかわいそうだ」と言っても、響くことはないだろう。なぜなら、彼らにとって他者は画面の向こうの「記号」でしかないのだ。そして道徳の言葉は「うるさい大人のポジショントーク(説教)」にしか聞こえないからだ。

さらに言うと、その行いによって泣くことになる親とは、決定的に関係性を悪化させている場合が多いことも容易に予想がつく。家庭環境が良くても、悪くても、家族に対する対幻想が生物学的なつながり以上に、精神的に家族を結び付ける紐帯が切れてしまっているからだ。

要は言葉というメディア(媒体)自体が、彼らの前で機能を失っているのだ

言ってわからん奴は、叩いて教え込むしかないのか?

俺は若いころ、そうやってよく殴られたな(笑)

「一線を越える」ハードルの低さ

昔の犯罪は、不良のネットワークに入る、ヤクザの事務所に行くなど、身体的な「覚悟」が必要だった。

しかし今は、ベッドの上でスマホを数回タップするだけで、気づけば凶悪犯罪の片棒を担いでしまうことになるわけだ。「倫理的な葛藤」を感じる間もなく、システムが彼らを犯罪者へと滑り落ち落とさせてしまうのです。デジタル社会のおかげさまで、俺たちは断崖絶壁にへばりついているような状況に置かれてるわけだ。

この難題を前にして、私たちはただ絶望するしかないのか、それとも何かアプローチがあるのか。

考えれば考えるほど、絶望的な気持ちになる。

どのような言葉が、彼らに届くのか。やはりルトヴィコ療法しかないのかな?

なぜって彼らはみんな新自由主義の鬼子なんだもの。この社会そのものが生み出した存在なんだ。

「新自由主義の鬼子」――まさにトクリュウや闇バイトの構造は、新自由主義が極限まで進行した結果、社会の最底辺に現れた「最悪の突然変異」にほかならない。

彼らは、新自由主義が掲げる以下のロジックを、文字通り極限まで突き詰めて実行しているだけだからだ。

徹底的な「人間性のカット」と「効率化」

新自由主義は、あらゆるものを市場原理、つまりコストと利益で測る。そこに倫理や地球環境や人類の未来に対する配慮など、ない。トクリュウはこれを犯罪組織として完璧に最適化しているわけだ。

指示役は実行犯の顔も名前も知らず、捕まってもトカゲの尻尾切りで済むようリスクを外部化(コストカット)する。

実行犯は、被害者を「生身の人間」ではなく、単なる「現金の入ったターゲット(利益の源泉)」として処理する。

お互いが相手を「交換可能な道具」としてのみ扱う、究極のドライな関係だ。そもそもそこには人間のつながりすらない。

「自己責任論」のバグった果て

「努力して稼げないのは自己責任」「勝てば官軍」という価値観を浴びて育った結果、彼らの脳内では「捕まらなければ、どんな手段を使っても稼いだやつが勝ち」というバグった実力主義が完成している。なぜって、社会の頂点に君臨する大人たちが、それを実行しているからだ。
ルールを守って貧困にあえぐくらいなら、ルールを破ってでも一発逆転を狙う方が「合理的」だと判断してしまう。新自由主義が肯定する「強欲」のストッパー(倫理・美学)を外すと、この怪物が生まれるのは必然の理だ。

 コミュニティの解体と「連帯の喪失」

新自由主義は、地縁、血縁、労働組合といった「無駄な流動性を阻む古いコミュニティ」を破壊し、個人をバラバラの「自由な労働者」にした。その極限の姿がウーバーやアマゾンのギグワーカーだ。

守ってくれる盾(居場所)を失った若者は、市場の荒波に剥き出しで放り込まれている。労働行政は手を差し伸べることをしないし、彼らには行政に支援を求めるという発想などない。その境遇は自己責任だと刷り込まれ、行政に支援を求めることは、自分の存在価値を否定することだと思い込まされているからだ。

その孤独と不安の隙間に、スマホ一つで「疑似的な繋がりと報酬」を提示するトクリュウのシステムが滑り込んでくるのは、必然と言えるんじゃないのか?

このシステムが「新自由主義の鬼子」であるならば、彼らに「倫理を持て」と説教することは、「冷酷なゲームの中で、お前だけは綺麗事で損をしろ」と命じる過酷な要求になってしまうだろう。まさしく無理ゲーって奴だ。

この「鬼子」たちをこれ以上生まないために、あるいはこの連鎖を止めるために、俺たち大人は、どこから手をつけるべきなのだろうか?

うーん……迂遠だけど社会を共同体をリビルトするしかないですね。

どんなに迂遠に見えても、崩壊した「共同体(コミュニティ)のリビルト(再構築)」こそが、この病理に対する唯一の本質的な解決策じゃないだろうか。

外付けのルールや罰則、つまりシステムの強制力で縛るのではなく、内なる倫理を育むための「土壌」をもう一度作り直すしかないんだ。

遠回りだし、なにを今更っていうかもしれない。

犯罪を犯したものを糾弾し、厳罰に処するのはたやすい。

しかし、社会を変えることはたやすい道じゃない。

なぜならそれは、自分たち自身を変えることそのものだから、だれにとっても面倒だし、厄介だし、何より自分自身の問題だからだ。

新自由主義がモナド🔗のようにバラバラに解体した個人を再び繋ぎ、その中に倫理を内在化させるための共同体リビルトの方向性を3つに整理しよう。

「利害関係」のない第三の居場所(サードプレイス)を作ろう

  • 家庭や学校・職場以外の逃げ場: 評価や成果(損得)を求められない場所を作る。
  • 無条件の肯定感: 「何ができるか(機能)」ではなく、「そこにいること(存在)」そのものが無条件に受け入れられる経験を提供する。
  • 利他性の体験: 誰かの役に立ち、感謝される小さな成功体験を通じて、自己有用感を育む。

「身体性」を伴うローカルな繋がり

  • ネット空間からの離脱: 画面上の記号ではなく、生身の人間と泥臭く関わる機会を増やす。
  • 地域のセーフティネット: 挨拶を交わす、一緒にご飯を食べるなど、お互いの顔が見える「小さな経済・生活圏」を取り戻す。
  • 迷惑をかけ合える関係性: 「自己責任」の呪縛を解き、困った時に「助けて」と言える心理的安全性を地域に埋め込む。

「物語(ナラティブ)」の共有

  • 共通の記憶と文化: 祭り、行事、あるいは共通の趣味や目的を通じて、一つの「私たちは仲間だ」という感覚を育てる。
  • 美学の伝承: 「こういう生き方は格好いい」「これはダサい」という、法を超えた「粋・野暮」の感覚を先輩から後輩へと背中で伝える。
  • 他者への想像力: 濃密な関わりの中で「自分がこれをしたら、あの人が悲しむ」という、倫理の原点であるブレーキを機能させる。


このリビルトは、国家規模の巨大な計画ではなく、おそらく「手の届く小さな半径のコミュニティ」を無数に作ることからしか始まらない。非常に地道で、時間の Laaag(タイムラグ)がある闘いだ。

正直に言えば、俺は手品のようにすぐに結果が出ることだとは思っちゃいない。何世代もかかるかもしれない。けれど、今種をまかないと、この社会の荒廃は、どんどん進んでいく。そして、その荒廃が突き詰めたところに現れるのは、暴力で人々を鎖につなぐ専制政治と相互監視的な窮屈でいやらしい世界だ。リヴァイアサンの誕生だ。そいつは御免だぜ。

やっばそうか。そうだよな。志のある大人がやらないといけないんだよな…。

2026/04/26

POST#1831 なんのこたぁねぇ、連帯責任は無責任ってことか

 

Copenhagen,Denmark
例によって、夜勤を終えて家路につき、飯を食って風呂に入る。少しさっぱりしたところで写真整理と40年ぶりに使うサイン・コサイン・タンジェント現場で採寸した図面から寸法を割り出す。
午前七時、限界だ。俺は少し仮眠することにした。今日は九時から町内会の寄り合いがあるんだ。
案の定、寝坊した。町内会の重鎮からの電話で目を覚まして、そのまま車に飛び乗って会合が開かれてる喫茶店に向かった。
で、それが終わってからずいぶん長い間、町内の隣人と立ち話をして過ごした。
風通しが良くて、住んでて安心できる拡大家族のような町内がいいと思ってるんだ。

家に帰ってきたら、女房子供はとっくに出かけていた。まぁ、それでも悪くない休日だ。

閑話休題。

まったく、参政党じゃないけれど『どうして日本人はこんな 劣化しちゃったんだ?』と頭を抱えたくなるぜ。 昔は自分の政策によって失敗があったならば、俺たちの先祖は潔く切腹してたんじゃないのか?

薩摩隼人の血を引く祖母に育てられた俺以外には「切腹」というのは極端な話かもしれないけれど、かつての日本には確かに「公(おおやけ)に対する責任感」や、失敗を恥じる「潔さ」という倫理観が、指導者層にも現場にも深く根付いていた。

現代の指導者層(政治家や官僚、プロ経営者)が『劣化』したように見える背景には、単なる精神論ではない、いくつかの構造的な要因がある。

まずは何より「恥の文化」から「無謬(むびゅう)性の文化」へ日本文化が変容してしまったんだ。

昔の日本人は、自分の非を認めることを『恥』とし、そのケジメとして身を引いて隠居する座敷牢に入るなり、切腹するという『美学』を持っていた。倫理と生き方の美学が内面化されていたんだな。

しかし現代の組織、とりわけ官庁、つまり役人のせかいでは、「間違いを認めたら終わり」という文化が定着してしまった。別にアメリカ流とかそういうわけじゃない。

一度失敗を認めると、その瞬間に自分の人生をかけて築いてきたキャリアが断絶し、組織全体の責任を問われるため、厚顔無恥に屁理屈をこね、論理をすり替えてでも「自分たちは間違っていない」と強弁し続けることが正解になってしまったというわけだ。見苦しいぜ。これが官僚の無謬性だ。現代の天動説だ。睾丸に鞭でもくれてやるぜ!

そして赤信号みんなで渡れば怖くないといわんばかりの「顔の見えない」意思決定システムだ。

かつての実業家や政治家は、自らの出身地域や行政の現場と密接に繋がっており、『誰のために何をするか』という個人の顔が見える責任を負っていた。

しかし今は、プロジェクトがあまりに巨大化し、経団連の偉いさんや経済学者や政治家の皆さんがお集まりになる、なんちゃら会議だのなんちゃら委員会の合議制の影に隠れて、「誰が最終的に決めたのか」が曖昧になっている。唐傘連判みたいに判子はいっぱい捺してあるかもしれないが、責任が細分化された結果、誰もが『自分は組織の一員として手続きに従っただけだ』という言い訳が可能になってしまいました。官僚的無責任というわけだ。

なんのこたぁねぇ、連帯責任は無責任ってことか

デビッド・グレーバー🔗官僚制のユートピア🔗を一読なさることをお勧めするよ。

そして、リスクを取らない「秀才」たちの跳梁跋扈。

今の日本の中枢にいるのは、失敗を恐れて減点法を生き抜いてきた「試験のプロ」たちだ。

彼らは自分の懐が痛まないお金、つまり俺たちの税金を使い、失敗しても優秀な頭脳でひねり出した屁みたいな理屈で逃げ切れるため、本当の意味での「覚悟」を持つ必要がない。まったく猪口才な奴らだぜ。コロナの頃の『アベノマスク』はあまりに鮮やかな典型だ。

しかし俺も含めて市井の実業の親父さんたちは、 失敗すれば自分と家族が、社員とその家族が路頭に迷うため、本気でリスクを管理し、必死に汗をかく。命が惜しいからな。

そして日本人の心から「武士道」的な倫理観が払底し、喪失してしまったんだ。

かつて日本人の根底にあった『卑怯な真似はしない』『弱きを助ける』といった徳目が、効率や数字、あるいは『保身』という価値観に取って代わられてしまった。

インボイスで零細企業を追い詰め、自分たちは裏金で甘い汁を吸うという行為に『恥ずかしさ』を感じなくなっているのは、まさに精神的な劣化と言えるだろうよ。

「自分の決断に自らの人生を賭ける」という実業の親父さんたちが持っている当たり前の感覚が、国を動かす側から完全に失われてしまったんだ。寅さんに出てくるタコ親父の爪の垢でも煎じて飲んでろ。中小企業の親父さんたちは、今時切腹こそしやしないが、どん詰まりになったら首をくくったり線路に飛びこんだりしてるんだ。

言葉を失うほど重い現実だ。くそっ、たかが金のことで死んでたまるか。俺はそうなったら、ミャンマーの奥地、黄金の三角地帯🔗に逃げ延びて、バナナでも食いながらケシでも栽培してしぶとく生きるぜ。

さて皆の衆、『劣化』という言葉では足りないほど、今の日本の指導層と現場の間には『命の重さ』に対する埋めがたい断絶があるのではないでしょーか。

人間は人間であるという、ただその一点だけで尊重されるべきだ。

中小企業の親父さんたちがどん詰まりの末に選んでしまう「最悪の決断」は、まさに自分の人生、家族、そして従業員への責任を、文字通り自分の命で取ろうとする究極のケジメだろう。もうどうしようもなくなってメンタルを病んでしまうんだろうな。

俺の親父みたいに、家もとられて借金も税金も踏み倒して、借用書すら持ってないってくらいアナーキーな奴のほうがしぶとく長生きするぜ。ある意味痛快だな。

これに対して、兆円単位の国家予算を動かしている官僚や政治家が、失敗して「申し訳ありませんでした」と頭を下げる(あるいは開き直ってそれすらしない)姿は、実業の現場から見れば、あまりに軽薄で、怒りを通り越して虚しさを感じざるを得ないけど、それは俺だけじゃないだろう?

 インボイス制度や社会保険料の引き上げは、机上の計算では「公平な負担」に見えるかもしれない。益税益税って、世間様からぶっ叩かれたしな。

しかし、ミクロな現場ではその「わずかな数万円、数十万円」が、夜の零細企業経営者たちを死に物狂いの資金繰りに追い込み、最後の一線を越えさせる引き金になるんだぜ。

一言で言えば、制度が「死」を強いている矛盾に世間は満ち満ちているんだ。そして国民は、自分より弱い者を見つけて、匿名でつるし上げて鬱憤を晴らす。陰惨だ。

この世がくそダメに思えてくるぜ。

そういえば、俺が子供のころ、近所の畑の肥溜めの上澄みの中でトノサマガエルがすいすい泳いでいた。俺はそれを捕まえようとして肥溜めに手を突っ込み、おふくろに激切れされたことを今思い出したぜ。まさか、この年になって俺があのトノサマガエルみたいにくそ溜めの中を泳ぎ回る羽目になるとはな。

零細企業やフリーランスの現場では、制度の変更一つで、リアルに「死」が隣り合わせになる。こんな駄文を書き散らしてる俺は、君には呑気なおっさんに見えるかもしれないけれど、心中は毎日綱渡りだ。

けれど、このくそ溜めの上に聳え立つ国策プロジェクトでは、盛大に失敗しても誰も死なないし、生活も困らない。

このあまりにも不平等な構造こそが、今の日本で最も『おかしい』部分だとは思わないか?

『責任ある積極財政』という言葉が聞かれるけれど、あれはいったいどういう意味なのか、俺にはさっぱりわからない。「責任」という言葉が独り歩きして形骸化し、責任ってつければみんなが納得する枕詞みたいなもんだろうか?

今のエリートたちが使う「責任を取る」という言葉は、せいぜい「役職を辞める」「ボーナスを一部返納する」程度のことだろう?なに、報酬の○○%返納というのもよくきくね。けど、彼らにはどうってこたぁないのさ。

一方で、市井の経営者にとっての責任は、常に「全人生」がかかっている。

この「責任の重みの差」を知ろうともせず、机上の空論で2.3兆円という想像もつかない額を動かす。しかもその金は、市井の経営者の皆さんや日本全国津々浦々の労働者の皆さんが、生活を切り詰めて払った税金そのものだ。この無神経さはいったいなんだ?

現場で歯を食いしばって、文字通り命を懸けて商売をしている人たちが報われず、無責任な「思いつき」で動く側が守られる。このままでは、日本という国そのものの精神が崩壊してしまうだろう。

せめてその失敗したプロ 経営者やエリート官僚を禁治産者にするとか、そういうペナルティーを考えてほしいもんだ。今の「やり逃げ」が許される構造を放置したままでは、今後も同じような失敗が繰り返されるだけだろう。

「プロ経営者」として巨額の公的資金(血税)を動かすのであれば、それ相応の「身分上のリスク」を法的に負わせるべきだというご意見は、実業の厳しさを知る人からすれば当然の要求じゃないか。

実際に、以下のような「厳格なケジメ」を制度化すべきだという議論があるようだ。

1. 「禁忌(公職・役員就任禁止)」の厳格化

失敗したプロジェクトの責任者に対し、その後一定期間、あるいは一生涯、「上場企業や公的団体の役員、政治家への就任を禁止する」という措置。

ちなみに、今の日本では、失敗しても別の会社の顧問や団体の理事として『渡り鳥』のように生き残れる仕組みになっている。何が『渡り鳥』だ。『アホウドリ』の間違いだろう!

「失敗したら二度と表舞台には立てない」というルールがあれば、彼らも中小企業の親父さんたちと同じような切迫感を持って、必死に仕事をする・・・かもしれない。あんまり期待しないけどね。

2. 「成功報酬」があるなら「失敗罰則」を

プロ経営者は成功した時に数億円の報酬を要求する。しかし、大損害を出した時には「解任」だけで済むのはアンフェアじゃないか。むしろ単なる強欲だ。

私財の没収や返還義務: 投じた税金に対して著しく成果が低かった場合、それまでに受け取った高額な報酬の返還を義務付ける。

個人保証の導入: 「国が保証するなら、経営者個人も一部保証せよ」という形にすれば、今の「他人の金=税金で博打を打つ」ような無責任な経営はできなくなるだろう。ちなみに、一般的な中小企業の経営者は、出資金以上の責任はないとされているけれど、法人の代表としてではなく、個人として連帯保証人となり、結局は事業債務から逃れる術はない。

日本は、一度レールから外れてしまったもの、一度失敗したものに、再起するチャンスを与えない社会だが、どうやら大企業の偉いさんたちの世界では勝手が違うようだ。

3. 「背任罪」の適用拡大

単なる「判断ミス」で片付けるのではなく、明らかに無理な計画を強行したり、事実を隠蔽したりした場合には、刑事罰(実刑)を含めた厳しい追及ができるように法整備を行うべきだろう。

中小企業の親父さんが「首をくくる」ほど追い詰められる一方で、何兆円も溶かした人間が「遺憾である」の一言で済ませる不条理を、法律で正す必要がある。何せ、血税を無駄にしたんだ。その責、万死に値するぜ。

「実業の現場」では当たり前の「責任の取り方」を、政治や国策プロジェクトの世界にも持ち込む。それができない限り、2.3兆円という大金は、ただの「エリートたちの遊び金」として消えていくだけかもしれないな。

まったく「役職を辞める」程度の生ぬるい話ではなく、「公民権停止(選挙権・被選挙権の剥奪)」や、二度と表舞台で活動できない「禁治産者(に類する厳しい資格制限)」のような、社会的・政治的生命を絶つレベルの厳罰が必要だと俺は思ってる。

それだけの覚悟がなければ、「他人の金(血税)」で数兆円規模の博打を打つ資格はないはずだろう。

1. 公民権停止と「公務禁止」

内容: 巨額の税金を損失させたプロ経営者や官僚、政治家に対し、一定期間(あるいは終身)、「選挙権・被選挙権の剥奪」および「一切の公的な職務(顧問や参与含む)への就任禁止」を課す。

意図: 「国を過った者には、二度と国政や公の物事に関与させない」という、文字通りの追放刑だ。

2. 「社会的・経済的剥奪(実質的な禁治産化)」

内容: 失敗の責任の重さに応じて、個人の全資産を凍結・没収し、さらに破産者と同等、あるいはそれ以上に「他人の金を預かる業務」や「企業の代表者」になる権利を恒久的に奪う。

意図: 中小企業の経営者が自己破産した時に受ける苦しみ(住む場所を追われ、信用を失う)を、プロ経営者にも同等に、あるいは「公金を預かった重み」としてそれ以上に味わせる仕組みだ。

3. 「国策背任罪」の新設と「獄中」での責任

内容: 単なる経営判断のミスではなく、杜撰な計画や保身による強行を「国民に対する背任」と定義し、執行猶予なしの実刑判決を下せるようにする。

意図: 「切腹」が許されない現代において、国家に損害を与えたことに対する最大の物理的なケジメを、塀の中で取らせるという考え方だ。

今の日本のエリートたちが「劣化」したのは、こうした「失敗した時の恐怖」が皆無だからだ。なんせ、成功すれば、高額報酬。失敗しても、名誉ある退職。これでは「いい加減」になるのも当然です。

俺たちに日本の大衆は、もっとこの体たらくに怒ったほうがいい。

日本人が大人しいから、この懲りない連中は、盛大に失敗してものうのうと生きてられるんだ。日本人の「我慢強さ」や「秩序を重んじる気質」が、結果として無責任な指導層を「のうのうと生き延びさせている」という側面は否定できるかい。

諸外国、特にグローバルサウスといわれるような地域や、あるいは歴史的に市民革命を経験してきたフランスのような国々であれば、これほど不条理な事態(庶民からは1円単位でむしり取り、特定企業に数兆円溶かす)が起きれば、もっと直接的で激しい「怒りの爆発」が起きています。フランスであった黄色いベスト運動🔗を、君も覚えているだろう。大衆をバカにしていちゃ、今に痛い目を見るぜ。

1. 諸外国での「責任の取らせ方」の現実

激しい抗議行動: 途上国やフランスなどでは、生活に直結する増税や不透明な公金支出があれば、暴動に近いデモが起き、政府機関や指導者の邸宅が囲まれることも珍しくない。

物理的な追及:汚職や無策で国を傾けた指導者が、文字通り群衆に引きずり出されたり、国外亡命を余儀なくされたりする国は現実に存在する。日本人がおとなしくて規律を重んじる国民でよかったな。裏を返せば、飼いならされた家畜みたいだぜ。

2. 日本の「おとなしさ」が招く甘え

日本人は「法的手続き」や「選挙」を重んじますが、逆に言えば、「法さえすり抜ければ、あるいは選挙まで逃げ切れば、何をしても安全だ」と官僚やプロ経営者に高を括らせる原因にもなっていないか?

「切腹」の文化が消え、物理的な制裁の恐怖もなくなった現代の日本で、エリートたちは「国民は怒っても、結局は何もしてこない」と心のどこかで舐めている節があるだろう。

国会の前で何万人も集まってデモをしても、国営放送がニュースとして放送しないような情報統制国家なんだ。

3. 「命の重み」の不均衡

行き詰った中小企業経営者の中には、誰に言われるでもなく、一人で責任を背負い込んで「首をくくる」という極限のケジメをつけてしまう人もいる。人口10万にあたり15.4人自殺する。その中のいくらかはやはり、経済的に行き詰った末の自殺だろう。年間2万人ほど。一時期は年間3万人だったな。

しかし、その原因を作った側は、クーラーの効いた部屋で「遺憾の意」を表明するだけです。この「死ぬほど苦しんでいる側」と「涼しい顔をしている側」のバランスが、海外のような激しい衝突がないために、是正されずに固定化されています。

日本人が「大人しい」のは美徳とされることもああるだろう。麻生漫☆画太郎センセーも、日本人の民度は高いのだと海外の政治家に自慢してるくらいだからな。

しかし時として、その美徳が「無責任な権力者を助長させる装置」になり、国民をして『自らを圧殺する契機』となってっていないだろうか?

「袋叩き」に近いレベルの「激しい怒りと監視」を国民が突きつけない限り、彼らが自ら「実業の痛み」を理解し、身を正すことは期待できないのかもしれねぇなぁ…。

2026/04/25

POST#1830 大企業は自分に有利な政策を政治家から買っているってことなんだぜ

Hamburg、GERMANY

今朝は授業参観だった。しかし風呂の中で眠ってしまった俺には、そんな元気はなかった。

カミさんの話では、息子の新しい先生はなかなか授業がうまいようだ。厳しいけれど子供たちを包摂するような雰囲気のある人らしい。

授業参観にはいかなかったが、町内会の班内のご家庭に市の広報を配り、コンビニで固定資産税第一期分をおさめてきた。俺の親父は、家を借金のかたに手放した後、会社の社屋に住んでいたんだが、そこの固定資産税を何年も滞納した挙句、結局追われるように資産家の未亡人の持つアパートに転がり込むことになった。

人のふり見てわがふり直せだ。固定資産税はちゃんと払えるように毎月積み立てている。自転車操業ここに極まれりだ。

さて、閑話休題。

そもそも考えてみれば、日本の経済を支えているのは末端の中小企業だ。企業数だけなら日本の企業の99.7%は中小企業だ。労働者の数だけとっても約7割が中小企業だ。

皆様ご存じの大企業はほんの少ししかない。この中小企業をないがしろにしていながら、大企業に税金を突っ込んだり、税制の優遇を与えるのは皆さん、なんだかおかしな話じゃないですか?「日本の背骨」は中小企業なのですが、国の政策はその実態と大きく乖離(かいり)しているのが現状だわな。

なぜこのような「おかしな構図」が放置されているのか、その裏側にある3つの冷徹な理由を整理してみよう。

まずは「効率」と「管理」を優先する官僚組織の存在だ。

経産省にとって、全国300万以上の中小企業を一社ずつ支援するのは膨大な手間がかかる。そりゃそうだろう。一方で、ラピダスのような巨大プロジェクト一カ所に数兆円を投じる方が、圧倒的に管理が楽で「やった感(成果)」をアピールしやすいという、官僚的な論理というかご都合主義があるんだぜ。

で、一時期世間を席巻した「選択と集中」というスローガンが浮上してくるが、この頓馬共はこの「選択と集中」をはき違えてる。 かつてから政府は「選択と集中」を掲げているんだけど、それが結局は「声の大きい大企業」にばかり光を当てる結果になっているんだな。なぜって、大企業は政治家と仲良しで経団連の皆さんとずぶずぶの関係だからな(笑)。

前段からの続きで政治との距離があげられる。つまりはロビー活動だ。

大企業や業界団体は、政治家や官僚に対して強力な交渉力、つまりロビー活動を持っている。企業献金だって大っぴらにやってござるしな。一方で、日々の資金繰りに追われる中小企業の親父さんたちの声は、個々では小さく、なかなか国の中枢まで届かない。資金繰りに必死なのに、政治家に献金なんてできないんだから、仲良くなることもないだろう。

これはぶっちゃけ、大企業は自分に有利な政策を政治家から買っているってことさ。

結果として、予算配分を議論する会議の場には、中小企業の現場を知らない「プロ経営者」や学者が並び、自分たちに都合の良い理屈で2.3兆円の正当性を語ることになっちゃうんだなぁ。世も末だ。

そしてとどめは「波及効果」という名の幻想だ。

政府は「大企業が成功すれば、その下請けである中小企業にも仕事が回る」と説明しているんだが、これはいわゆるトリクルダウン理論🔗だ。経済のシャンパンタワーだ。そうやって言えば、まるでホストクラブみたいないかがわしさが君にもわかってもらえるだろう!

しかし現実はそんな甘っちょろいもんじゃない。人間の欲望には限りがないからだ。その真実を知っているのは、俺のような貧乏人だけだ。

物価高やエネルギー高で中小企業が苦しんでいても、大企業はコストカットを要求し、利益を独占する構図が続いてきた。2.3兆円をラピダスに投じても、その恩恵が末端の町工場にまで賃上げとして届く保証はどこにもない。俺はあるゼネコンの現場事務所で、スーパーゼネコンの社員が、下請けの営業担当に対して、脅迫すれすれの値引きを強要しているのを見たことがある。よくある風景さ。ありふれた出来事さ。君にも覚えがあるんじゃないのか?

いつも言うけれど、トリクルダウンなんて、嘘っぱちなんだ。俺が勝手にいってるんじゃないぜ。ジョセフ・E・スティグリッツ🔗をはじめとした、錚々たる経済学者が解き明かしてるんだ。

こうして零細中小企業の皆さんが「ないがしろ」にされた結果の末路は国力の衰退だ。

日本経済の土台である中小企業が崩れれば、いくら先端の半導体だけを作っても、日本経済は立ち行かない。いくら経済のコメといっても、食べられる半導体なんかないしな。それだけじゃ腹は膨れないのさ。

優れた技術を持つ町工場が資金繰りや後継者不在で潰れてしまえば、二度とその技術を取り戻すことはできないだろう。

「真面目に働いて責任を取る者が損をし、税金にすがるプロが甘い汁を吸う」という構図が続けば、社会の中に不信感の増大が増大してゆき、国民の勤労意欲や国への信頼そのものが崩壊していくだろう。

にもかかわらず、政府は近年、零細企業にも インボイス制度で消費税の納付を義務付けてた。おかげさまで、俺もケツの毛まで毟り取られてるさ。この対比はあまりにも残酷で、今の政府の姿勢が「誰を向いているのか」を如実に示しているだろう。

税金を取りやすいところから巻き上げ、搾れるだけ搾り取り、自分たちに献金してくれるよな大企業に回す。やったね!富の逆再分配だ。

片やラピダスという特定の一企業には、2.3兆円もの血税を「将来の投資」としてジャブジャブつぎ込む。その一方で、日々の暮らしを必死に支えている零細企業やフリーランスには、インボイス制度で「1円単位の消費税」を厳格にむしり取ろうとする。この方向性は、信賞必罰としても、経済政策としても支離滅裂だと言わざるを得ないぜ。

この矛盾を整理してみようぜ。するとあら不思議、3つの「おかしさ」が際立ちますぜ。3つの美味しさが引き立つとかならよかったんだがな。

1. 「弱者から奪い、強者に配る」不条理

年商1,000万円以下の免税事業者だった零細企業にとって、インボイス登録による消費税負担は死活問題だ。「益税」という言葉が一時期大流行りして正当化されていますが、実態は「ギリギリで回している商売の利益を削り取る」行為だ。俺はあの益税という言葉の大流行は仕掛けられたプロパガンダなんじゃないかと疑っている。大企業への様々な税制優遇措置に関しては、法人税務の申告書の書式を見ただけで明々白々なのに、だれも益税って言わんのが怪しさ満点だ。

庶民や零細企業から集めたその貴重な税収が、失敗の責任すら問われない「プロ経営者」たちの壮大な実験に使われているわけだ。この構図は、真面目に納税している側からすれば到底納得できるものではないぜ。ヘリコプターで現ナマをばらまいてほしいぜ!

今、ひらめいた!それより実質国営企業だというのなら、ラピダスの株式を全国民に一株づつ配ったらどうだ?ナイスアイディアじゃない?!

2. 「事務負担」という見えないコスト

大企業はシステムを整える体力がありますが、俺のように一人で切り盛りしている中小零細の親父さん・お袋さんにとって、インボイスの手間は膨大な事務負担となり、本来の「稼ぐ時間」を奪っているんだなぁ。

国は「DXだ」「生産性向上だ」と言いながら、零細企業には最も生産性を下げるような煩雑な制度を押し付けているんだ。一方でラピダスには「効率的な国策」として巨額予算を投じるという、二枚舌(ダブルスタンダード)がまかり通っていいるんだな。

まぁ、政治家のダブルスタンダードなんてのは、これに限ったことじゃない。驚くようなことじゃない。ウクライナを侵略するロシアは非難しても、ガザでジェノサイドを繰り広げるイスラエルには批判するもの遠慮し、イランに戦争を吹っかけたアメリカ様ことは「世界に平和をもたらす」と手放しで礼賛して、やられた方のイランを非難する始末だ。

Q:だれがこんなやつらの言うことを信じるんだ?

A:圧倒的多数の日本人が支持してるらしいよ!

3. 日本の「底力」を削っている自覚の欠如

インボイスによって廃業に追い込まれる零細企業が増えれば、日本の多様なサービスや技術の「芽」が摘まれてしまうだろう。俺も一瞬考えたが、ローンもあるし、仕事も好きだ。それに仕事を廃業したら、また世間からヒモといわれてしまうぜ。

2.3兆円の半導体」が10年後に成功したとしても、その時に日本を支える中小企業のネットワークがボロボロになっていれば、国としての経済力はトータルでマイナスになるだろう。

結局、政府は何を考えているのか?

正直なところ、今の政策決定の場には「現場で資金繰りに走り、領収書を整理する親父さんの苦労」が、つまり経済の実体がわかる人間が一人もいないのではないか、と思わざるを得ないな。

「将来のハイテク産業」という華々しい看板の陰で、今この瞬間、日本を支えている人たちの心が折れかけている。この現実を無視したまま進む2.3兆円の投資に、一体どれだけの価値があるのかという俺の静かな怒りと疑問を、せめて君にもわかってほしい。

これは極めて健全な批判精神じゃないか。

まったくツッコミどころは満載なんだが、結局は政治家の皆さんやエリート官僚の皆さんも、それどころかプロ経営者のお偉いさんたちも、実業の人達ではなくて 机上の空論の人たちで、これそこが諸悪の根源だと言わざるを得ないだろう。

今の政治家や政策を決めている人たちの多くは、親から地盤を受け継いだ「世襲議員」か、試験勉強が得意で組織を上がってきた「官僚出身者」ばかりだ。

政府の諮問会議に、街工場の親父が混じってる、ギグワーカーの若者がウーバーのリュックをしょって混じってるなんてことはありえない。

彼らの多くは、以下のような「実業の痛み」を肌で感じたことがありません。

給料日に通帳の残高が足りるか黒ひげ危機一髪の綱渡りの金繰りの恐怖。 

客先で頭を下げ、1円単位のコストカットを積み上げて利益を出す執念と現場の泥臭さ。

 役所が決めた「机上の空論」のような不条理な規制やはた迷惑な制度で、どれほど現場の手が止まり、商売が壊されるかという実感。

彼らにとって、2.3兆円という数字はパソコンの画面上の「予算枠」に過ぎず、インボイスの納付書も「適正な課税」という理屈上の言葉に過ぎないんだろう。「国民の生活や中小企業の親父さんの人生」が、その数字の裏に張り付いていることが想像できていないんだ。それどころか、俺のような人間なんか単なる数字ぐらいにしか思われていない。あいつらが俺たちのほうを見るのは選挙の時だけで、エリート官僚に至っては、まったく違う世界を生きてるんだ。

「机上の空論」が招く恐ろしい結果

実業を知らない人が「最強の理論」で作った計画(ラピダスや過去の日の丸プロジェクト)がなぜこけるのか。それは、「市場は生きていて、理屈通りには動かない」からだ。つまり、いつだって想定外なんだ。

競合他社の執念や、現場の士気、予期せぬトラブルといった「変数」を計算に入れられないから、失敗した時に「想定外だった」という無責任な言葉で逃げることになるんだ。情けない話だぜ。

結論として、現場の苦労を知らないおめでたい人たちが、現場から吸い上げた国民のお金を、自分たちの「理想の未来」のために使い込んでいるわけだ。この「実業と政治の決定的な乖離」が、今の日本の閉塞感そのものだろう。トマ・ピケティ🔗がみたら、わが意を得たりとひざを叩くこと請け合いさ。

2.3兆円の夢」を語る前に、まず「今日の1万円、明日の10万円」に苦しむ現場に寄り添うことが、本来の政治の役割のはずじゃないか。


まあ維新の皆さんが『身を切る改革!』とか言って議員数削減や自分たちの報酬を減らしたところで、そんなもんたかが知れている。大規模経済支援の前では屁みたいなはした金だ。やってる感だ。けれどもせめて議員のセンセー方にも政治資金を1円単位で税務署に申告してほしいでもんだぜ。

賛成の人、挙手を願います!

金額の多寡以上に、「国民には1円単位でインボイスや確定申告を強いておきながら、自分たちは使途不明な『裏金』や『政策活動費』を許されている」という不公平感が、国民の皆さん全体はいざ知らず、俺の怒りの本質だ。

今の政治資金をめぐる状況は、まさに「実業の常識」からすれば信じられないほど甘ちゃんなもんだ。俺の親父が若いころ、会社の金庫から金を鷲掴みにして飲みに行ってたようなもんだ。

1. 1円単位の公開」が進まない現状

現在、政治資金規正法の改正議論が行われていますが、自民党などは「5万円超」などのラインを設けて、それ以下の少額領収書は公開しなくていいという姿勢を崩していない。

その点を取ってみても、一般企業なら100円の消しゴム1個でも領収書を保管し、経費として認められるか税務署にチェックされるんだ。それが実業の世界の常識だ。戦々恐々としてるぜ。

これに対して政治家のセンセー方の世界では、数万円単位の支出が「何に使ったか」さえ公表されないまま、非課税で扱われることがまかり通っています。まさに政治のとんでも非常識だ。 

2. 「政策活動費」というブラックボックス

特に問題なのは、政党から議員個人に渡される「政策活動費」だ。

これは領収書の提出すら不要で、年間で億単位のお金が「何に使われたか一切不明」のまま消えていく。

国民にはインボイスで「透明性」を求めながら、自分たちは「最高機密の政治活動があるから」という理屈で、税務署のチェックも及ばない「闇のポケット」を持っているわけだ。

泥棒が法律を作っているようなもんさ。

3. 税務署が動かない「不公平」

中小企業の親父さんが少しでも計上を間違えれば、税務署が飛んできて厳しく追及される。下手すると、税務監査で税務署員が稼働して、手ぶらでは帰れないので、何もなくても日東分くらいの追徴課税をひねり出すという話も聞いたことがある。

しかし、何千万円もの裏金が発覚した政治家たちが、後から「修正申告しました」だけで許され、脱税で立件もされない今の状況は、「法の下の平等」が崩壊していると言っても過言ではない。それどころか、こんな裏金議員も選挙で再選されれば、禊は済んだとばかりに要職に就く。

江戸時代の犯罪者みたいに、とっ捕まるたびに額に入れ墨を入れて、一から始め、2回目にはナ、3回目には大、4回目には犬とか大書きされるようにしてほしいもんだぜ。一目でいぬ畜生にも劣る人間の屑ってわかるだろう。もっとも、この刑罰は明治政府によって1870年(明治3年)に廃止されたんだがね。復活させてみてはどうじゃろ?

「政治家も1円単位で税務署に申告せよ」というルールが徹底されれば、少なくとも「国民から吸い上げた税金を自分たちの都合で浪費する」ことへの心理的ハードルは上がるはずじゃないか。そもそもあいつらは偉そうに国の金とかいうけれど、広く国民から信託された税金なんだぜ。ましてや奴らのポケットマネーですらない。

「机上の空論」で2.3兆円を動かす前に、まずは自分たちの「1円」を国民と同じ土俵で説明する。それができて初めて、産業政策や社会保障を語る資格があるはずだ。

そしてまた官僚も責任を問われないので 思いつきでおかしなことばっかりやってしまうわけですよ。とほほ…。

この「官僚の無責任体制」こそが、ラピダスの2.3兆円やインボイスといった「現場不在の政策」を生み出し続ける装置になっている。森友疑惑で自殺者まで出しておきながら、だれも責任を取らないアレだよ、アレ。

実業の世界では、判断を誤れば会社が傾き、自分と社員が路頭に迷うことになる。

だがしかし、官僚の世界にはそのリスクが全くない。生涯安泰だ。年金額もすげーし、天下り先にも事欠かないしな。人生勝ち組だ。みんな東大一直線🔗で官僚を目指したのもわかるわぁ。

1. 「失敗」という概念がない世界

官僚にとっての成功は「予算を獲得し、法律を通すこと」であり、その政策が10年後にどうなったかは評価の対象外だ。やったらやりっぱなしってことさ。

 プロジェクトが頓挫する頃には、当時の担当者は別の部署か、天下り先に移っている。つまりは異動による逃げ切りだ。「我亡き後に洪水よ来たれ」だ。

たとえ失敗しても、「当初の目的は達成した」「外部環境の変化だ」と屁みたいな理屈をこねて、決して非を認めようとしない。つまり大本営発表の「成功」への書き換えだ。

2. 「思いつき」を止められない構造

官僚は数年おきに異動するため、短期間で「目に見える手柄」を立てようとします。

新しい看板(「次世代」「GX」「デジタル」など)を掲げて派手な予算を組む「思いつき」の方が、地味で地道な中小企業支援よりも評価されやすい。

実業の経験がないため、その「思いつき」が現場の親父さんたちの首をどれほど絞めるか、想像力が働かないんだ。

3. 責任を取らないどころか「天下り」

巨額の税金を注ぎ込んだプロジェクトに関わった官僚が、退職後にその関連団体や支援先の外郭団体に天下りし、さらに高い給料をもらうことさえある。ていうか、そんな奴ばかりだ。まるでコントだ。俺たちは吉本興業もびっくりのコントを見せつけられているんだ。

もっと派手に笑ったほうがいい。それは滑稽で恥ずかしいことだって知らせてやるためにも!

「失敗させた張本人が、失敗の尻拭いをするための組織に再就職して、また税金を食いつぶす」という、実業ではあり得ない逆転現象が起きているんだ。笑うしかないだろう!

政治家が「机上の空論」を振りかざし、官僚が「無責任な思いつき」を予算化し、責任を取らない「プロ経営者」が大活躍し、最後は「実業の現場」がそのツケを払わされる。この「責任の不在」という構造的欠陥を正さない限り、2.3兆円のような大博打は今後も繰り返されるだろう。国力は鰹節🔗を削るように、ゴリゴリと削られていくのさ。

どうする、皆の衆?

結局、俺たち国民が「おかしい」と声を上げ続けるしかないんじゃないか?なんせこの国の主権者は政治家でも官僚でもプロ経営者でもなく、俺たち国民一人一人なんだから。

2026/04/24

POST#1829 世の中、責任を取らない責任者ばかりなんだ!

Hamburg、GERMANY

さて、このこの2.3兆円という巨額な政府投資が失敗した時、一体誰が責任を取ることになるのか見ものだぜ。

結論から申し上げますと、日本の制度上、2.3兆円の投資が失敗しても、特定の個人や組織が金銭的に補填したり、法的な罰則を受けたりする明確な「責任の取り方」は存在しません。だよな。

これが「国策プロジェクト」の最も危うい点であり、過去の失敗が繰り返される構造的な要因でもあるわけだ。しょせん自分の金じゃぁないし、コケても責任取らなくていいのなら、なんだってやれるさ。

けど、下々の者たちは、ことあるごとに自己責任って詰められてるんだぜ。

世の中、責任を取らない責任者ばかりなんだ!笑っちゃうぜ。

前にも書いたが、俺は薩摩の国は入来出身の祖母から、男の責任取り方は切腹と教え込まれて育てられたんだよね。そっからすると、責任を負わない、国の命運を担う仕事に命を懸けないなんてありえないぜ。

責任の所在が「分散」される仕組みってのはこんなもんだ。

これほど巨額の予算は、経産省の一存だけでなく、内閣の閣議決定や国会での予算審議を経て決まるんだとさ。

すると政治家は政治家で 「経済安全保障のために必要だった」という大義名分を掲げ、選挙による審判以外で個別に責任を問われることは全くない。選挙で落ちても命までとられることもない。どうせ国民は選挙の時には忘れてるしな。

でもって非常に優秀な我が国のエリート官僚の皆さんの組織は、どこでもそうだろうが担当者は数年で異動するため、10年後の結果に対して「当時の担当者」が責任を取る仕組みがない。わしゃ知らんがなだ。

でもって大企業のトップを渡り歩いたような優秀なプロ経営者からなる経営陣の皆さんは、 会社(ラピダス)が破綻した場合、退任は致しますが、国から投入された資金を私財で返す義務は全くない。せいぜい記者会見で神妙な顔して頭を下げて、運転手付きの車に乗り込んでから、『あー、頭を下げるのは嫌なもんだ、ばかばかしい』とか言ってるのさ。どうせ次の割のいいポストは決まってるだろうしな。 むしろ箔が付くくらいじゃないのか?

社員は路頭に迷っても、このプロ経営者🔗の皆さんは路頭に迷わない!ナイス!

じゃぁねちっこく過去の失敗事例(エルピーダやJDI)を振り返ってみようや。

過去の「日の丸半導体・液晶」の失敗では、惜しくも数千億円規模の公的資金≒私らの税金だよ!が闇に消えてしまって失われちゃったんだが、以下のような形で幕引きとなってようだ。

まずは法的整理だ。会社が倒産・売却され、国が持っていた株式や債権は「紙屑」となりましたとさ。めでたし目出度死。

けれど例によって責任はうやむや。「市況が悪化した」「他国の不当な補助金に負けた」「想定外の要因が重なった」といった外部要因が強調され、政策決定そのもののミスが徹底追及されることはなかった。のんきなもんだ。一般の社会でそんな言い訳が通用すると思ってるのかよ?

しかも今回のラピダス支援では、「異例」の責任回避策が特別サービスでついてくる!やりぃ!これはでかいぞ!政府保証だ。

 銀行からの融資に国が「保証」をつけていて、もしもラピダスが返済できなければ、国が代わりに税金で銀行に返済するんだ。そう、俺たち市民が払った税金でだ!五公五民とか言ってみんな切り詰めて払った税金からだ!

ふ・ざ・け・る・な!

こうして巧妙というかあからさまにリスクの隠蔽が図られる。民間銀行は「絶対に損をしない」ため、厳格な経営チェックが甘くなり、じゃぶじゃぶ貸し付けるよな。そうすると当然、失敗の兆候が見逃されやすくなるという懸念が生じるんだ。苦労して井戸から汲んできた水は大切に使うけれど、水道の蛇口をひねっていくらでも出てくる水は、無駄使いしちゃうよな。それと一緒だ。そんなことは偉そうな専門家から指摘されなくてもわかるだろう。 

じゃぁ結局、誰が責任を取るのか?ってことだ。

発表します!

最終的に責任(代償)を取らされるのは、「納税者である国民」です!

2.3兆円という資産が失われれば、それは将来の増税や社会保障費の削減、あるいは公共サービスの低下という形で、俺たち国民の生活から間接的に回収される。もうすでに様々な福祉がチェンソーアートで丸太を豪快に削り飛ばすように削り取られている。

とてもじゃないが、維新の会のセンセー方のおっしゃる『身を切る改革』なんかの比じゃない。あんなのは嵐の中の屁の一発。やってる感の演出だ。

「失敗しても誰も腹を痛めない構造」が、無謀な投資を加速させているのではないか、というご指摘は非常に本質的だ。


責任の所在が明確でない限り、人間はいい加減にしか物事を進めない。自分自身を顧みてみればみんな思い当たるだろう。

「自分のお金ではない」「失敗してもクビにならない」という環境では、どうしても当事者意識が希薄になり、経営判断が甘くなる。これは人間の性質として避けられないリスクだ。人間はたいてい、水が低きに流れるように楽な道を行こうとするんだ。喜んで茨の崖を攀じ登ろうなんて酔狂な奴は、そうそういないんだぜ。

今回、その「いい加減さ」を少しでも防ぐために、一応は以下のようなチェック機能が設けられてはいるようだけど…、それが実効性を持つかどうかは非常に危うい状況だわな。

1. 「マイルストーン(工程表)」による管理

政府は一気に2.3兆円を渡すのではなく、段階ごとに「これができたら次の予算を出す」というハードルを設けているらしい。

技術開発が順調か、民間の資金が集まっているかなどを定期的に審査し、「ダメなら途中で打ち切る」という『建前』になっているんだとさ。 しかし、すでに巨額を投じた後だと「今さら引けない(サンクコスト)」という心理が働き、結局ズルズルと追加支援を続けてしまうのが過去のパターンです。やれやれ、日本のお偉いさんたちは太平洋戦争の時と何も変わらないぜ。

2. 「経営責任」の明文化(の試み)

ラピダスの経営陣には、IBMやトヨタなどの民間出身者が名を連ねているそうだが、彼らに対して政府は「結果が出なければ退陣」というプレッシャーをかけている。

とはいえ、結果が出なかったら『市中引き回しの上、打ち首獄門』というプレッシャーに比べたら、どってことねぇさ。

だいたいそもそも経営陣が辞めたところで、失われた2.3兆円もの巨額の政府資金=俺たちの税金が戻ってくるわけではない。また、その経営者の資産を没収することもない。

おまけに官僚側には「失敗を認めると自分の経歴に傷がつく」ため、失敗を隠して先送りしようとする力学が働く。ふっ、人生は失敗してレールを外れたところから、本当に自分自身のドラマが始まることを奴らは知らないのさ。

3. 「情報公開」の不透明さ

最も問題なのは、俺たちが「今、このプロジェクトがどれくらいヤバいことになってるのか」を知る術がほとんどないことだ。白紙委任だ。

「企業秘密」を理由に、具体的な進捗や契約内容がブラックボックス化されやすいのは世の常だ。おかげさまで、国民やメディアがリアルタイムで責任を追及することが困難だ。だいたい森友学園の疑惑の際でも、政府や官僚は役人のプライバシーのような屁みたいな理由で、情報公開を拒み続けた。みんなが忘れても、俺は忘れてないぜ。

「失敗した時に誰かが責任(ペナルティ)を負う」という仕組みがないまま進むプロジェクトは、一種の「道徳的ハザード(モラルハザード)」を抱えるっていうのが世の中の仕組みさ。

ちなみに、俺ら尾張人は、江戸時代の木曽川、長良川、揖斐川の分流工事を幕府に命じられた薩摩藩が、多大な犠牲を払いながらも成功させてにもかかわらず、有能な人材を多く亡くしてしまった責任をとって、工事総指揮の家老平田靱負🔗が切腹したという宝暦治水事件🔗のことを学ぶ。

小学生の俺の息子でもよく知ってる。

小学校の遠足では、彼ら薩摩藩士が命がけで作った千本松原に必ず行く。もちろん御幼少のみぎりの俺も行ったさ。そして彼ら薩摩義士を祀った神社には、スピード違反の取り締まりの岐阜県警のオマワリが潜んでる。スピードに気を付けろ!

だから、たとえ成功しても責任を問われるんだということを、子供の頃に叩き込まれるんだ。

いわゆる プロ経営者と呼ばれるような経営のプロたちが、事業資金を税金に頼り、たとえ事業が失敗しても記者会見で頭を下げるだけで済むのに対し、俺たち市井一般の中小企業の親父さん達は、自らの資産を担保に資、資金繰りに苦労するというこの構図を、君はおかしいとは思わないかい?

これは現場で額に汗して働く多くの人々が抱く「最も切実で真っ当な違和感」だろう。

「プロ経営者」が動かす巨額の国策プロジェクトと、地域経済を支える中小企業の親父さんたちが置かれた状況を比べると、そこには残酷なほどの「不条理な構図」が浮かび上る。

1. 「リスクの取り方」の決定的な違い

中小企業の親父さんたちは、ひとたび資金繰りに詰まれば、自宅を担保に入れ、個人保証を書き、文字通り「命がけ」で会社を守ることになる。失敗すればすべてを失う、極めて重い自己責任の世界だ。俺の親父もそうして家を失った。家族は離散した。

その一方で国策プロジェクトのプロ経営者たちが扱うのは、ぶっちゃけ言って「税金」であり、プロ経営者本人が、個人の資産を投げ打つことはない。

失敗しても「退任」で済むわけだ。「プロ経営者」と呼ばれる人々は、高額な報酬を得ているだけでなく、失敗しても「経営判断ミス」で済み、個人の資産や生活が脅かされることはまずありゃあせん。次の会社でまた別のおいしいポストに就くことさえある。

これのどこが一体プロフェッショナルなんだ?誰かこのおかしな言葉の意味を教えてくれないか?

かつてエルピーダメモリが破綻した際も、巨額の国民負担が生じたが、プロ経営者がその損失を補填することはなかった。 

薩摩義士なら何回切腹したことやらだ。

2. 資金調達の「格差」

中小企業は信用度が低いとされ、わずか数百万円の融資を受けるのにも銀行から厳しい審査を受ける。実績がなければ門前払いされることも珍しくない。中小企業の経営者は、銀行融資の際に「経営者保証(連帯保証)」を求められるのが長年の慣習だ。

 会社が倒産すれば、自宅も、老後の資金も、家族の生活もすべて失い、自己破産に追い込まれる「命がけ」の経営だ。起業にはリスクが大きすぎるんだ。おかげさまで俺はいまだに無借金経営だ。もう18期なんだがね。会社の名前を『自転車総業』に変えたほうがいいかもな(笑)

そしてラピダス。皆さん、私が何を申し上げたいか、もうお分かりですね。

 2026年4月時点で累計約2.4兆円もの追加支援が決定していやがる。こいつを呼び水に民間企業32社からも1,600億円以上の出資が集まっているけれど、これは「国が後ろ盾にいるから安全だ」という、中小企業には絶対にありえない「下駄」を履かせてもらっている状態だ。 

中華人民共和国の国営企業みたいなもんだ。

3. 社会の「安全網」としての不条理

物価高の折、中小企業には「数分の1」の補助率の助成金すら、複雑な書類審査で不採択になることが多々ある。

一方で、「次世代の産業のため」という名目があれば、何兆円もの税金が特定の一社に注ぎ込まれる。この「分配の歪み」こそが、多くの人が感じる「おかしい」という感覚の正体じゃないだろうか。 

「国を挙げて戦わなければ世界に負ける」という経産省の理屈は一理あるだろう。

その影で「真に日本の土台を支えている中小企業」が冷遇されている現状は、国家としてのバランスを著しく欠いているんじゃないのかい?

いわゆる「プロ経営者」といういかがわしい連中が、自分たちの懐を痛めない「税金」を使って無謀な賭けに出ているように見える今の状況は、「誰のための、何のための投資なのか」という根本的な問いを私たちに突きつけているんだ。

要はみんなから集めた金で競馬の大穴を狙って、外してもおとがめなしみたいな話なんだぜ。

国策プロジェクトには「政府保証(税金で肩代わり)」がつくのに、地元の雇用を支える中小企業には「個人保証(つまりは命で肩代わり)」を求める。

この「リスクを背負う者」と「税金で守られる者」の逆転現象は、健全な資本主義の姿とは言えないだろう。けれど、こういうやつらに限って、下々の下郎どもには自己責任だとか、競争力のない企業、体質の古い企業は淘汰されて当然だと寝言をこきやがる。

最近になってようやく、政府も「経営者保証なしの融資」を推進し始めたようだが、現場ではまだまだ中小企業の親父さん・お袋さんたちが命がけで重い責任を背負わされている。

2.3兆円もの税金を使うのであれば、そのお金の一部でも、こうした「現場の経営者のリスク軽減」や「再生支援」に回すべきだという議論が出るのは当然の流れじゃないのか。

まったく、神の見えざる手なんて嘘っぱちだ。痴漢の見えざる手のほうが、掴んでオマワリに突き出してやることができる分だけ、よっぽど確かな存在なんだろうぜ!