2011/12/13

Post #396 投稿に対する批判

本日の投稿に対して、次のような批判的なコメントをお寄せいただきました。
一度は、スパムとして処理したのですが、改めて、以下に全文掲載させて頂き、反省の材料としたいと考えております。

『旅→ただの現実逃避
 くだらない仕事→そう思うならさっさと辞めてしまえ
そこで働いてる人にたいする冒涜だ
忘年会→これは一番大事な行事だ 社会人なら100%はずせない


 総括
あなた終わってるよ
ブログでさんざん俺のこと叩いておきながら
失礼 無礼きわまりない
以上』

本当はこの後に、コメントを下さった方の会社名とお名前が入っていたのですが、あまりに忍びないので、削除したうえで掲載させて頂きました。
もちろん、会社名と実名を入れていただいているというのは、実生活の上でも、事実上の絶縁宣言であると、重く受け止めております。

いろんな考え方があるのは承知しておりますが、未だかつて、これほどの批判にさらされたことはなかったかと思います。
これに関して、逐一反論することは可能ですが、それはこの方のお怒りを和らげることにはならないでしょうから、一切反論することなく、この批判を甘受することと致します。

おそらくこちらの方は、終わってる人間のブログには、もうおいでになることもないとは思いますが、ご不快な思いをさせてしまいましたことを、心より陳謝いたします。

自分自身にも至らないところがあり、熟慮の上勢いに任せて書き飛ばしている日々のブログで、不快感を感じて見える方も、明らかにおいでになるということを再認識させて頂きました。ご指導ご鞭撻、有難く頂戴いたします。

最後に、この方は、仕事上のお付き合いもある方ですし、よい友人だと考えておりましたので、重ね重ね残念です。

Post #395 13/Dec/2011

注文していたフィルムが届いたと、行きつけのカメラ屋さんから連絡が入った。KodakのTX-400だ。モノクロ写真はやはりこれでなければね。本当はイルフォードでもフジでも、モノクロフィルムならなんでもイイんだけれど、あの黄色いパッケージ、そして今日まで、実に多くの名作傑作が、このトライXで撮影されてきたってことを思うと、こいつがしこたまなければ、何も始まらないと思うのさ。そう、ぐっとやる気が出るのさ。
そそくさと仕事を終えると、さっさとスーツを脱ぎ捨てて、銀行に向かい、真新しい札を引き出しては、マネークリップに挟み、無造作にポケットにねじ込む。財布なんて野暮ったいもんは持っちゃいないさ。以前、バルセロナの地下鉄で、スリに財布を盗まれてから、小銭は小銭入れ、札はマネークリップ、カードは名刺入れと、分散している俺なのさ。そう、リスク管理という奴だ。しかし、そんなことは今はイイ。車のアクセルを踏み、まっすぐカメラ屋に向かうのさ。
カメラ屋で支払いを済ませて、フィルムを受け取ると、まとまった本数のフィルムは、結構かさばるもんだと改めて実感したぜ。今時のデジカメならば、SDカードが1枚か2枚あれば充分なんだろう。便利なもんだ。結構なこった。しかし、俺は自分の流儀を貫くんだ。セバスチャン・サルガド大先生も、デジタルカメラは、せっかく撮った写真が、万が一の操作ミスですべて消えてしまう恐れがあるから使いたくないって言っていたのを、どこかで読んだ記憶がある。
そう、フィルムカメラこそ、写真の保守本流なのさ。正統派なのさ。
さっそく、家に持ち帰り、今回のために先日買っておいたNORTH FACEのメッセンジャーバックの中に入れてみた。ぴったりだ。この中には既に、コンタックスTVSが一台、飛行機のEチケットや、ホテルのバウチャー、パスポート、それに以前アムステルダムで買ったステッドラーの油性ペンも入っている。フィルムのパトローネに、日付を入れるのに、油性ペンは必需品なんだ。
そう、もういつだって出撃可能なんだ。あとは、愛用のサムソナイトに着替えを詰め込めば、何時だって旅に出ることができるんだ。なんてったって、俺は旅慣れているからな。旅の準備はいつだってあっという間に完了だ。本当に必要なモノさえあれば、何時でもOKなんだ。俺の場合は、カメラとフィルムとパスポート。そして、ほんの少しの金くらいさ。これだけあれば、世界中どこにだって行けるさ。
カメラバックなんて肩の凝るものは、今回は持っていかないぜ。なにしろ、今回の行先はモロッコだ。モロッコにはカメラは一人2台しか持ち込めないんだ。前にも書いた通り、俺はデカい一眼レフなんか持っていく気はないんだ。使い方ももう忘れちまったくらいだ。小さなコンパクトカメラを2台持っていくだけだ。レンズ交換なんてまどろっこしいことはしないぜ。そんなことしてる間に、シャッターチャンスは過ぎ去ってしまい、二度とふたたび廻っちゃ来ないんだ。どんな強打者だって、ボールがキャッチャーミットに収まってから、バットをどれだけスイングしてみたところで、空振ることしか出来やしないのさ。そうさ、大きく撮りたきゃ走って近づき、広く撮りたきゃバックするのさ。気持ちのズームって奴だ。そういや、天才アラーキーもそんなこと言ってたっけ。
だから、手荷物はメッセンジャーバック一つっきりさ。なかには、フィルムがみっしりぶち込まれてる。どうだい、旅慣れてる感じがむんむんするだろう。俺は時代に逆行することで、前に進むのさ。
Paris
いいかい諸君、俺は毎日の退屈な仕事にうんざりしてるんだ。せめて、濡れ手に粟の勢いでどっかんどっかん儲かるんなら、我慢もできるってもんだが、残念ながら人生はそんなに甘くはないんだ。社会の底辺から少し上くらいで、落穂ひろいの様につましく稼いでいくしかないのさ。
だからこそ、俺はさっさと旅の準備を済ましちまったんだ。あとは旅立つだけだ。何時でもGo!だ。まさにスタンバイOKだ。待ってろよ、もう少しの辛抱だ。今年はくだらない忘年会はお断りしよう。旅の軍資金が目減りしちまうぜ。どうせ、むさくるしい男どもが、酒の勢いでやたらと気勢を上げてるだけの虚しいものさ。年末年始の親戚の集まりも、日本にいないからぶっちぎりだ。お年玉をバラまかなくて済むってもんだ。
そう、なんと言っても今度の旅はモロッコだ。マラケッシュだ、フェズだ、カサブランカだ。アフリカ大陸だ。俺は遠足を控えた子供のようにウキウキしてるんだ。お菓子の代わりにしこたまフィルムを詰め込んで、俺は旅に出るのさ。君たちに、素敵な写真を見せびらかしてやりたいんだ。
読者諸君、失礼する。もういくつ寝ると、お正月さ。俺の新年は、君達より9時間ほど遅れて、遠い北アフリカはモロッコで迎えることになるだろう。まったく待ち切れないぜ。

2011/12/12

Post #394 12/Dec/2011

朝、起きて開口一番、今日は何して遊ぼうかななんて、子供から学校をとったようなことを口にしながら、結局、これということもせず、一日が無為に終わってしまった。まるで、冬眠するケモノのように、いくらでも眠ることができるのさ。
久しぶりに知り合いの女性から連絡があって、このしょうもないブログを読んでくれているっていうんだ。ブログを読んでくれているのもうれしいが、女性から連絡があるってのが、これまた何って訳じゃないけれど、心がときめく男の性さ。
ありがとう、Yさん。懐かしい君の為にも、オジサン頑張っちゃうぜ。
Paris
本日、暇潰しに近所の本屋に行き、スーザン・ソンタグの歴史的名著『写真論』(近藤耕人訳 晶文社刊)を購入。まだ一章読んだだけなんだけど、写真についての考察が、恐ろしく深い。一章よんだだけでも、写真に関して、さまざまな考察が行われている。もちろん、誰か特定の写真家の撮った写真に対する評論ではない。いわゆる写真全般に関する論が展開されているんだが、なるほど、これは『写真とは何か』についての記念碑的な書物だと納得したぜ。
そこでいつものように、引用してみよう。
『・・・(前略)・・・、写真をとる行為にはなにか略奪的なものがある。人びとを撮影するということは、彼らを自分では決して見ることがないふうに見ることによって、また自分では決して持つことのない知識を彼らについてもつことによって、彼らを犯すことである。それは人々を象徴的に所有できるような対象物に変えてしまう。ちょうどカメラが銃の昇華であるのと同じで、だれかを撮影することは昇華された殺人、悲しげでおびえた時代にはふさわしい、ソフトな殺人なのである。・・・(以下略)』
ふむ、なるほどね。この事自体は、俺も自分で常日頃から意識していたことなんだけどね。その感覚は、写真を撮ることの持つ、ある種のうしろめたさに裏打ちされている。
俺が写真を撮って歩いていると、オマワリによく職務質問されたり、時には自分が写されたと思いこんだ女性や黒人男性から、抗議されたりする原因の根源は、どうやらこのあたりにありそうだ。だとしたら、それで生計を立てているかどうかにかかわらず、警察によって職務質問されたり、被写体とされたと感じた人々から抗議されることによって、俺は本当にフォトグラファー=カメラを持った略奪者だと周囲から認知されたってことにならないかい?イイね、調子にのっちゃうよ。

そう、カメラを持ったソフトな殺人者。それが俺なのさ。

しかし、その一方で写真によって、消え去りゆく景色やいずれは死にゆく定めの人々を、無情な忘却と、無差別な破壊から、救っているようにも感じているんだけれど。

そう、カメラを持った無力な救済者。それが私です。

読者諸君、そろそろ眠くなってきた。失礼させてもらうぜ。殺人者だろうが、救済者だろうが、どっちだってかまやしないさ。俺が写真を撮り続けることに、何の変りもないんだからな。
では御機嫌よう。また会おう。