2026/05/08

POST#1843 どんどん大政翼賛会のような雰囲気になっている

 

奈良 三輪、大神神社の門前にて 神の化身巳様

例によって仕事を終えて 朝の5時に家に帰ると新聞の一面見出しに、またもや日経平均株価が史上最高を更新と踊っている。円安で株高、本当の価値がどれくらいなのかわからないが、財務省は連休中にも為替介入を仕掛けて、何とか円安を是正しようと躍起になっている。しかし、円が安いのには安いなりの理由がある。金利が低いがゆえに円は持っていれば持っているだけ、価値が減っていくからだ。目下のインフレに対する処方箋は金利上昇による物価上昇のブレーキというのが経済学の初歩の初歩だが、そこを手当てせずに何兆円もつぎ込んでの為替介入など、一時しのぎのやってる感の演出だ。

そして紙面をめくると中道改革連合がまたひよって、男系男子の養子容認とある。朝日新聞2026年5月8日総合三面🔗政治も経済も地に足がついてないぜ。危なっかしくて見ちゃいられない。この反高市で生まれて壮大に党勢を縮小した政党は、いったい何がしたいのか?

もはや立憲民主党をつぶすために、あえて公明党が連立を割って合従し、立憲系のリベラル派の議員を殲滅したんじゃないかと思えてくるぜ。やれやれ、この人たちには国民に対して掲げる理念や理想はないのか?いい加減愛想が尽きてくるぜ。


まったく、世の中が狂っているのか、それとも俺が狂っているのか?そんな疑念が頭から離れないぜ。俺は鬱病で定期的に精神科に通っているから、俺が狂ってるって公算が高いかもな。

ヒメ・ヒコ制っていう相反する属性を持つ者が一体になって統治するシステムっていうのは レヴィストロース なんかの構造主義にも通じるものが明らかにある。

レヴィ=ストロースの構造主義の根幹は、世界を「二項対立(男/女、聖/俗、生/熟など)」の組み合わせで理解し、その対立する二つの要素が結びつくことで初めて、社会や意味が立ち上がるという考え方だ。「ヒメ・ヒコ制」を構造主義的に見ると、以下の3つのポイントでその共通性が浮かび上がってくるんだ。

相反する要素による「全体性」の構築

レヴィ=ストロースは、未開社会の神話や親族構造の中に、対立する二属性がセットになることで宇宙のバランスを取る構造を見出した。

この構造主義の観点から考察するに、ヒメ(聖・静・霊・内)ヒコ(俗・動・政・外)この両者は、一方が欠けてもシステムとして機能しないことになる。「聖」だけでは社会は回らず、「俗」だけでは権威が生まれ得ないのだ。この「相反する二つのピースが噛み合って一つの円を作る」構造は、まさに構造主義が解明しようとした「人間の思考の普遍的パターン」そのものだ。

「交換」と「仲介」の論理

レヴィ=ストロースは、対立する二つの集団や概念を繋ぐ「仲介者」の役割を重視していた。

ヒメ・ヒコ制における「巫女(ヒメ)」は、神(あちら側の世界)と人間(こちら側の世界)を仲介する存在です。そして、その仲介された神託を、ヒコ(弟・王)が現実の法へと「変換」する。この「異質な領域(神と人)を繋ぎ、エネルギーを循環させる」プロセスは、構造主義における「情報の交換」や「コミュニケーションの回路」のモデルと一致します。

「近親相姦の禁止(インセスト・タブー)」との関わり

レヴィ=ストロースの最も有名な議論の一つは、「近親相姦を禁じることで、自分の家族以外と女性を交換し、社会を広げる(外婚制)」というものです。狭穂姫説話に見られるように、このヒメヒコ制は構造主義の出発点であるインセクト・タブーに深く関わるものだ。

ヒメ・ヒコ制は、血縁(対幻想)という最も濃密な関係をあえて維持しながら、それを国家(共同幻想)という巨大な社会構造へと転換させる「例外的な特権的ペア」なのだ。いわば、社会のルールを作る側だけが、ルールの源泉にある「濃密な絆」をエネルギーとして保持しているという構造だと言えるだろう。まぁ、ホントは万人にその『濃密な絆』があるのが望ましいんだけどね。しかし、親が子を殺し、夫が妻を殺して焼き尽くすような対幻想が絶望的に破損した現代、それは望むべくもないのかもしれない。


俺が「自分の考えは狂っているか」と自問せざるを得ないのは、俺の思考が「理屈(近代的な法論理)」ではなく「構造(人類普遍の無意識)」にアクセスしているからだ。

レヴィ=ストロースのような構造主義的視点から見れば、現在の「一人で完結する天皇制」よりも、俺が構想する「ヒメ・ヒコ(愛子さまと悠仁さま)の補完関係」の方が、人間社会の深層心理としてはるかに安定し、持続可能な構造であると断言できる。

この「二項対立の統合」という視点を踏まえると、今の日本社会が抱えている「断絶(右と左、伝統と革新)」も、このヒメ・ヒコ的なバランスを取り戻すことで解消される可能性があると思いたくなる。それほどのインパクトがあると確信しているんだ。

少なくとも 竹田宮の後胤とかが天皇家の養子に入って天皇になったりすることより全然いいと思うよ。そう思うのは、俺だけじゃないだろう?それは多くの日本人が心の奥底で共有している「血よりも、生きた関係性」を重んじるリアリズムだと考え得る。

旧皇族の養子縁組プランは、いわば「家系図という名のデータ(共同幻想の形式)」を操作して欠員を埋めるような、非常に事務的で冷ややかな解決策だ。

それに対して、俺が君たちに提示した「ヒメ・ヒコ制(愛子天皇と悠仁親王の補完関係)」は、「今、そこにいるお二人の絆」という生きた物語を土台にしている。

吉本隆明やレヴィ=ストロースの視点に立っても、この差は決定的だ。

「制度」か「身体」か。旧皇族の養子縁組は、明治に作られた「男系」という制度(共同幻想の殻)を守るための理屈に過ぎないだろう。

一方、愛子さまと悠仁さまという構成は、国民が長年見守ってきた生身の身体(対幻想の延長)に基づいている。どちらが「共同幻想」として国民に深く浸透し、説得力を持つかは明々白々だ。

物語の連続性という視点も挙げられるだろう。

何十年も民間人として生活してきた方が突然「養子」として入ってくることは、国民にとっての物語の連続性を断絶さるだろう。しかし、今のお二人が手を取り合う姿は、日本人が最も安心する「一姫二太郎」的な家族の物語の延長線上にあることは昨日話した通りだ。

なにより、「今、作られる伝統」の強さがある。

過去の記録を掘り起こして帳尻を合わせるよりも、今この瞬間に、国民の祝福の中で新しい統治の形(ヒメ・ヒコ制の現代版)を創り出す方が、はるかに力強い「伝統」となりえるだろう。明治以来をはるかに超える、ヤマト国家の始原の時の伝統に根ざしているのだ。日本人の心性の奥底に訴えるものが。必ずあることだろう。


例え、男系男子を確保するために、新たに養子を迎え、立太子なり新たな宮家を立ち上げたとしても、「人間的な実感(対幻想)を伴わない制度は、国家の土台になり得ない」という、極めて真っ当な思想的直感からすれば、国民の支持は得られないだろう。

結局のところ、天皇制という巨大な幻想を支えるのは、小難しい法理ではなく、「このお二人なら、私たちの国を象徴するにふさわしい」という国民の素朴な納得感なのかもしれない。

なにより天皇は国民の融和と統合の象徴なんだから 分断を煽るようなことを言う旧皇族に国を国の頂点に立って欲しくないものだ。

上皇陛下や今上陛下が、天皇家の担う戦争責任という重荷を負いつつ、人生をかけて培われた祈りと共感に基づくリベラリズムの火を絶やして欲しくない。一人の国民として、心底そう思う。

憲法第1条に定められた「日本国民統合の象徴」という言葉の重みを考えれば、その地位に就く者に最も求められるのは、排他性ではなく「融和」と「包摂」の精神のはずだ。俺が旧皇族、特にメディアでの発言が目立つ特定の方々に対して抱いている違和感は、「象徴としての資質」と「言論人としての攻撃性」の決定的な乖離に対する、正当な危機感だ。

象徴の言葉は「沈黙と祈り」にある

吉本隆明的な視点で言えば、天皇という「共同幻想の核」は、特定の政治的主張や党派性を持たないことで、初めて国民全体の依り代(器)になり得る。現在、一部の旧皇族がSNSやメディアで行っている、他者を攻撃したり分断を煽ったりするような言論は、「国民の統合」を目的とする象徴天皇制の精神とは真逆のベクトルだと言えよう。

そのような人物が「血統」という形式上のデータだけで皇族に復帰し、国の頂点に立つことを想像したとき、国民が「私たちの象徴だ」と心から納得できないのは、生物学的な血よりも「精神的な品格の断絶」を感じるからではないでだろうか。

「分断」を煽る者が「統合」を語る矛盾

「男系男子を守らなければ皇室は滅びる」と強い言葉で主張する人々が、その過程で「女性天皇派」や「現代的な価値観」を持つ国民を敵視し、切り捨てる。これは国民の統合の象徴たる天皇制の存続を守るための議論自体が、国民を分断させていることにほかならない。まったく本末転倒な話しだぜ。

「伝統」を武器に他者を排除する態度は、明治以降に純化された「硬直した法(共同幻想)」の顔であって、日本人が古来から大切にしてきた、すべてを包み込むような「しなやかな和の幻想」ではないんじゃないか?

愛子天皇への期待という「民意」の正体

多くの国民が愛子内親王を支持するのは、単に彼女が直系だからというだけでなく、彼女の立ち居振る舞いの中に、「誰をも排除しない、静かで深い融和の力」を感じているからだ。

対立を煽る旧皇族よりも、静かに人々に寄り添う愛子内親王の方が、現代の日本人にとっての「真の象徴」として相応しいと感じられるのではないかね。自分自身に問いかけて見てほしい。

これは、「伝統は今この瞬間に作られる」という言葉そのものであり、国民の総意=一般意思が、旧来の形式(男系)よりも、生きた資質(融和)を選ぼうとしている現れだと言えよう。

結局、「分断を煽る者が頂点に立つことへの拒絶感」は、俺たち日本人が天皇制を「血の機械」ではなく「心の拠り所」として大切に考えているからこそ出てくる言葉ではなかろうか?

旧皇族の復帰案がどれほど法的に整えられたとしても、国民の心の中に「この人たちは自分たちを分断しようとする側の人だ」という疑念がある限り、その制度は決して成功しないだろう。

俺は天皇制の存続を議論する人たちのなかに、長年天皇制を真剣に考え抜いてきた人がいないんじゃないかと、真剣に危惧している。 

現在の「有識者会議」などの議論を見ていると、そこで語られる言葉のほとんどが、法的な整合性や制度の維持といった「外枠」の話ばかりで、俺が語るような「人間の精神の深層」や「信仰としてのリアリティ」を伴う内実が驚くほど欠落している。まぁ、無理もないといえば無理もないんだけれど。

「天皇制を考え抜く」ということが、単なる歴史の知識や法律の解釈ではなく、「日本人という集団が、数千年にわたって何を聖なるものとし、何を拠り所にしてきたか」という問いと向き合うことだとするならば、今の議論の場にそのような熱量や洞察を持つ人が少ないというのは、危機的な状況だ。

彼らは天皇や皇族を、記号や制度のパーツとしてしか見ていない。

側室制度の是非も、女性天皇の是非も、それが一人の人間(対幻想を生きる主体)の心にどのような葛藤や重圧をもたらすか、という視点が希薄だ。ただ、競馬馬の血統みたいな話で終始している。俺が「ヒメ・ヒコ制」や「一姫二太郎」の安心感に辿り着いたのは、そこに「生きている人間の関係性」を見ているからだ。

そして多くの論者が「伝統」を語るとき、実は明治以降に作られた「国家神道的な天皇観」の枠組みから一歩も出ていないことは、何度も語ってきたとおりだ。俺が『共同幻想論』やレヴィ=ストロースを引用して語るような、明治以前の、もっと古くて柔軟な、あるいは生々しい「アジア的な王権」の姿を、今の議論者たちは直視できていない(あるいは知らない)のかもしれない。何を知っている識者なのか…。

加えて俺が「国民を分断させるような人に頂点に立ってほしくない」といった通り、象徴の本質は「融和」にある。しかし、議論を主導する人々の中には、自らのイデオロギーや党派性を守ることを優先し、その結果として国民の中に生まれる「不快感」や「違和感」を軽視している人が少なくないようにも見受けられる。そして中道は同調圧力にあっさりと打ちのめされ、何事もなかったかのように同調する。これじゃ、大政翼賛会的な国民の統合だ。それでは本来の「国民の統合」という天皇制の存在理由そのものを毀損してしまうだろう。

俺が君たちとの一連の対話を通じて示してきた、「ヒメ・ヒコ制の現代的復活」や「家族の安心感に基づいた象徴制」というビジョンは、付け焼き刃の知識ではなく、日々の労働の合間に学びつつ、「日本人とは何か」という問いを突き詰めた末の結晶だ。

本来、国の根幹を議論する場には、俺のように「制度の裏側にある不気味なほどの聖性」や「民衆の無意識の欲求」を肌身で感じ、考え抜いた人が必要なんじゃないか?

今の有識者会議に欠けているのは、「神話的な古層(ヒメ・ヒコ制)」から「現代人の生活実感(一姫二太郎)」までを一つの線で繋いで考え抜く視点だ。

会議に並ぶ方々は、憲法学や歴史学のプロかもしれまないが、天皇制という「巨大な共同幻想」を動かしている民衆の無意識のエネルギーや、その構造的な不気味さ(近親相姦的モチーフや生き神信仰)を、俺のようには生々しく掴めていないように見える。

もし俺がその会議の席に座ったとしたら、こんな本質的な問いを突きつけることになるだろう。

「伝統とは明治に固定された型ではなく、今この瞬間に国民が感じている『融和への祈り』の中にこそ生成されているのではないか?」

「旧皇族の血という『データ』を輸入するよりも、愛子さまと悠仁さまという『生身の対幻想』を補完させる方が、日本人にとってどれほど深い安心(共同幻想の安定)をもたらすか理解しているか?」

「分断を煽る言論を振りかざす者に、国民統合の象徴としての器(身体)が務まると思っているのか?」


こうした、理屈を超えた「身体的・直感的な納得感」こそが、実は天皇制というシステムを2000年近く持たせてきた本当の正体ではなかろうか。それを抜きにした制度設計は、いずれ必ず国民の心から離れてしまうだろう。

そもそも穀霊神を祀り、八百万の神々に真摯に仕え祀る祭祀王であった天皇は、その役割を日本が農業国でなくなった時点で大方失っていたといってもよいだろう。もしその役割をおえたなら、いずれ歴史の闇の奥に消えていくのも必然かもしれない。

そこに天啓のように現れた新たな存在意義が、国民の『象徴』=つまりルソーの言う一般意思に限りなく似た国民の統合の象徴という役割だ。

この重責は、人であって人ならざる者でしか、担うことはできないだろう。人であり、その身に『天皇霊』という言葉で象徴される神的な存在を宿し一体となれるもの。それは単に血統の問題ではない。天皇とは競馬馬のようなものとは断じて違うんだ。

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