2012/02/26

Post #471 26/Feb/2012


Bruxelles
昨日は  現場の  なかで  ねた
とRCサクセションの名曲スローバラードのパロディのような暮らしぶりだ。
ただ、残念ながら、スローバラードと大きく違うのは、手を繋いで、ひとつの毛布にくるまるような女の子は、どこにもいなかったってことだ。
残念だ。ただただ残念な人生だ。
読者諸君、また会おう。俺は今宵も現場で眠ることになるだろうよ。

2012/02/25

Post #470 25/Feb/2012

睡眠不足で働き続けると、頭の中が白い靄で覆われていくような感覚で、まったく思考能力が低下してしまいます。
働き過ぎは、正常な思考能力や判断力を奪いさってしまいます。奴隷のような塩梅です。
せめて、ユーモアくらいは失なわず、ヘラヘラ笑って仕事がしたいものです。
イノベーションとか言って技術が進めば、余暇が増え、人間の生活にユトリが生まれるという寝言をしばしば耳にします。
Amsterdam
しかし、実際には、本来ニンゲン様に奉仕するための技術によって、仕事時間は短縮されるどころか、圧縮され、単位時間あたりの作業量が増大し、余暇なんか産み出されることなんかありません。携帯電話は便利ですが、本当に自由なプライベートな時間は、これによって失われてしまいました。僕ら鎖に繋がれた奴隷のような有り様です。時折、発作的に携帯電話を投げ棄ててしまいたくなります。
それどころか、余暇と称して僕らに与えられるものは、ネットやテレビや携帯ゲーム、或いは新奇な、つまりコストの掛かるレディメードの商品ばかり。まさに消費者が間断なく資源を消費し、自らを消耗させている有り様です。その影で誰かが莫大な利益を得ているわけです。
ビンボーな国の人々は、そこそこにしか働かず、貧しいけれども、僕らのような高度に発達した世界に生きてる者共よりも、遥かに生きる事を楽しんでいるよーに見えます。もちろん、快適便利で高コストな生活に慣れた僕らには計り知れない、ストレートな貧しさに起因する様々な問題があることは間違いないのですが、有史以前から今迄に、ニンゲンの暮らしが安逸安泰だった事などありません。僕らにとって、一体何がホントーに幸せなのか、仕事をサボって考えてみるヒツヨーがあります。
折からの雨で、寒さも緩み、じきに梅が咲くでしょう。そのあとには木蓮が、桜が、桃が次々と花を咲かせていくことでしょう。
糞忌々しい携帯電話の電源を落とし、身近な人とノンビリのほほんと花を眺めて、鳥のさえずりを聞く。
そういうのが、本当の余暇と言うもんじゃないかね?どーだろーか?
失礼する。そんなことを切望しつつも、仕事は絶望的にのし掛かってくる。まったく、息つくヒマもありゃしない。俺にとって、労働は刑罰のようなものさ。さて、現場に戻るとするか。
地球の皆さん、ご機嫌よう。

2012/02/24

Post #469 24/Feb/2012

昨日の真夜中、仕事を前途有望な若者たちに任せ、車を飛ばして家路を辿ると、コンソールにタイヤパンクのアラームが出ていた。スタンドで見てみると、後輪にがっちり釘のようなものが刺さっている。うむ、仕方あるまい。今日は世のサラリーマンの皆さんと仲良く電車通勤と洒落混むとするか。例によって痴漢に間違えられないように、注意が必要だ。この世界は悪意に満ちている。
で、今日は少し俺の考えを述べてみようか。なに、所詮は俺ごときの考える事、たかが知れてるってもんさ。気楽に行こうぜ。
ニンゲンという奴は、俺もあなたもひっくるめて、相互に交換、共有し難い、それぞれの経験を生き、その蓄積として、個々の世界認識を持っておるわけです。身の回りから宇宙の涯にまで拡張するそれぞれの世界認識という基盤が異なっているため、俺と貴方が同じ経験をしても感得認識する内容は、群盲象を撫でる が如く、似て否なるものでしかないと、思うのさ。子供の頃から思っていたが、自分の見ている信号機の赤い色が、君の見ている赤色と、同じとは限らないということさ。
しかし、俺たちニンゲンはその誤差を擦り合わせ、感覚経験を共有するなんて事は出来ないわけで、それぞれが各々の経験を基にして、コミュニケートするしかない訳でござる。

このとき、俺たちは、自分自身の経験をダイレクトに交換することぁ出来ないから、俺の経験は、俺の内部に一旦沈潜し、それまでの経験体験に基づく『概念』に統合されてしまう。
このとき、留意するべきは、この『概念』なるものも、あくまで個人の経験の蓄積に基づくものでしかないので、普遍的なものではありえないということなんだ。
つまり、君は猫を見かける。その猫は君が今までに目にした無数のネコのイメージによって受け止められる。
君のなかにあるネコの概念は、おそらく、多くの人々の持っているネコの抽象的な概念と、おおよそ重なりあっている事だろう。しかし、それが猫のように誰もが認知しているものなら、俺と君と彼等の間に、如何なる齟齬つまりギャップを生み出すこともなく、あってもごくごく僅かなギャップしか生み出さず、そのために、相互のコミュニケーションに妨げになることではなかろう。
しかし、それがより特殊性を帯びた経験体験であったなら、同じ言葉を話している両者の間にも、同じ事物を話題にしていながら、両者が脳裏に浮かべているものは、若干、或いは全く違うこととなるだろう。
これを最小限に止め、円滑なコミュニケーションを成立させるためには、あらゆる事物は、一旦我々のなかに沈潜し、個々の具体性を剥ぎ取られ、普遍的に認知されている『概念』に統合されていく必要があると言えよう。
そんなこと、考えてみた事も無くても、自らの行動体験に照らし合わせれば、何となく納得することじぁなかろーか?そのプロセスをすっ飛ばして話し合う時に、お互いの持っている『概念』のスレ違いにより、話しは噛み合わなくなるだろう。言うならば、自分の尺で物事を測っている事になるわけだ。
これはいかん、いかんぜよ。ケンカのもとだ。
どんな特別な経験でも、個人的なレベルのみで消化されている限り、そこから、誰にでも理解しうる道筋を見いだすのは、困難だ。その反面、芸術は、その辺の理解され難さによってある種の謎にも似た魅力を放つもの、つまり芸術として成立すると言えるかも知れない。そのためには、具象から抽象的な『概念』という回路を持つ言語から、ある程度の距離感を獲得する必要がある。しかし、全く『概念』や『共同幻想』に呑み込まれてはならない。その辺のさじ加減が難しいのだ。
Bruxelles
モノクロ写真の魅力には、色情報という具象具体的な情報を、画面から削ぎ落として、『概念』のほうに一歩踏み込んでいる事に由来する。と、同時に、写っているものは、二度と同じ構図を顕す事のない為に、これ以上はない程の具体性を放っている。
必要以上に、写真にキャプションは必要ないという俺の考えは、実はその辺によるものなんだ。
俺の写真が単なる俺の現実逃避のなぐさみものではなく、俺のなかで、普遍性に至る道筋を獲得して、貴方がたにとっても、ある種の経験の雛型として響くことが出来たなら、その道筋さえ明らかになれば。
読者諸君、失礼する。睡眠不足だと、いろんな妄想が頭のなかを駆け巡るのさ。