2012/06/10

Post #560 徒労感を抱えながら

写真は世界の断片だ。つまり、フラグメントね。
昨日もプリントするほどの元気はなかったので、まだプリントしていないネガをひたすらチェックしていた。一体いつになったら、このネガをネガアルバムにしまいこむことができるのか。気が遠くなってくる。次の旅行も決まっている。そうしたらまた不良債権のようにネガが溜まっていくことだろう。難儀なことだ。
その一方で、ふと、この営みに何の意味があるのかという問いが心に浮かび、窓の外を眺めてしまう。一言で言えば、俺のやってることは、映像的なクズ拾いだ。つまらない写真ばかりだ。報道写真のように、世界の人々に何かをアピールして、世界を動かすこともできない。全日写連のみなさんの写真のように、誰もが見て美しさに感嘆したり、共感したりするような写真でもない。単なる世界の断片に過ぎない。まさに、映像的なクズ拾いだ。印画紙の無駄と酷評されたこともあった。
どれだけ、世界の断片を積み重ねても、世界の全体性には至ることはできない。所詮、世界の全体性からすれば、誰の人生も、群盲像を撫でる式の意味しか持たないだろう?
この営みに、どんな意味があるのか?
なぜ、写真を撮るのか?それも、今時フィルムカメラにモノクロ、暗室プリントなんて時代遅れなシステムを使って。
思わず悩まずにはいられない。大いなる徒労に過ぎないのではないかとも思う。この時間にせっせと金を稼いだり、もっと有意義なことをした方がいいんではないかい?いや待て、有意義なことって、何がある?何をやっても、同じだとも思う。思考がとめどなく回りだす。空回りだ。
Osaka
遠い目をして、考える、ようなフリをしている。
何故フリか?自分の中に確信的な答えが確固としてあるはずだから。しかし、その確信の周りを俺の心は遊星のように周回し、時に離れ、時に近づく。
そうして、今や夜が明けた。カエルは鳴きやみ、鳥たちがさえずって新しい一日の始まりを告げている。明けない夜は無いものだ。これがニーチェのツァラトゥストラなら、ここはぜひとも彼の友である鷲が、同じく彼の朋である蛇を掴んで、朝日とともにツァラトゥストラのもとに舞い降りてきて欲しいものだ。鷲は勇気を、へびは智慧を現しているんだぜ
そんなことはイイんだ。脱線だ。本題に戻ろう。
結論は、いつもここにたどり着く。つまりは、『かつて、俺は、このように見た』以上の意味はないのだと思い至る。大いなる自己肯定だ。
いいかえればそれは、『かつて、おれは、確かにここに存在した。』とも言えることだろう。
さらにいいかえれば、『来た、見た、勝った』とならないかね?あぁ、ならないのね。ガリア戦記のカエサルみたいでちょっとカッコいいかなぁと思ったのに。残念・・・。まぁイイだろう。
どこの何ものとも知れない男や、街で見かけた女、ふと心に引っ掛かった風景、忘れえぬ人々、そして光と影。それは、即ち自分の中に繰り込まれ、自分自身の一部になっている。一瞬一瞬に、未知なる風景に出合うごとに、自意識の中に繰り込まれ、自分自身は変容していく。
つまり、自分にとって写真を撮り、ネガを選び、プリントすることは、自分自身を見い出すことに他ならないことに思い至る。
仕事はイイんですか?という声も心の奥から聞こえるが、なに、放っておけばいいさ。俺の仕事の代わりはいくらでもいる。俺の写真の代わりはどこにもいない。
まぁ、言うなれば所詮はこんなもの、人生の暇潰しさ。
けれど、人生に意味と彩りを与えるのは、それぞれの見出す暇潰しに他ならないだろう?

君は、どうして写真を撮るのか?
どうだっていいか、そんなこと。読者諸君、失礼する。

2012/06/09

Post #559 喉を腫らして苦しんでいた

木曜日に、仕事もなく徒然なるままにしこしことプリントしていたら、喉の奥イガイガしてきて、どうにもよくない兆候だなと思っていたんだ。
思えば、その前の日も少し微熱があって医者に行こうかと思ったんだが、お生憎様、水曜日の午後はかかりつけの医者が休みなんだ。一日手をこまねいていたら、この有様だ。参ったなぁと思いつつ、プリントしていたら、とっくに病院の診療時間をぶっちぎっていた。仕方ない、明日行くことにしよう。
で、朝目を覚ますと、喉は酷いことになっていた。喉の左側がひりつくように痛い。喉にバスケットボールをぶち込んだみたいだ。鏡で覗いてみると、熟れきった果物みたいに腫れ上がっている。痛くて朝食のパンなんて喉を通らない。コーヒーだって飲みたくないくらいだった。キヨシローも髭の殿下も咽頭癌だった。きっと俺もそうに違いない。
俺は思わず、仕事に出かける連れ合いに、蚊の鳴くような声を絞り出して『長らくお世話になりました、さようなら』と念のために言っておいた。
医者に行き、いつものセンセーに見せると、彼はあっさりと咽頭炎という診断を下した。この先生にかかると、なんでもなんとか炎ということにされてしまう。ひょっとしたら、俺を不安にさせないために、もっとシリアスな本当の病名を伏せているんじゃないのか?
『センセー、俺咽頭癌ってことはないよね?』俺は念のために訊いてみた。『それはない、安心しろ。注射打つか?』『そうしておくよ』俺は注射を打ってもらうことにした。どうにも俺はこの病院では、やたらと注射を打ちたがる患者だと思われているようだ。
『いつも注射を打ちたがるから、なんか変な趣味嗜好があるんじゃないかって気がしてくるわ』いったいどんな趣味だよ?
『そうかい?みんなフツーは注射を打ちたがらないのかい?』注射を打つ打たないは必要性の問題であって、趣味嗜好の問題じゃない気もするんだが、どうなんだろうか?
『そりゃそうよ、痛いんだもの』と看護婦。そんなものか?
『よしてくれよ、ガキじゃないんだから。変な趣味があるかどうか、一度二人きりで試してみるかい?』俺の質問には彼女は笑って答えず、さっくりと注射を打ってくれた。確かに痛い。しかし、それはほんの一瞬だ。しつこい喉の痛みに比べれば、屁でもないぜ。
Fes,Morocco
とっとと家に帰って、なんでも喉を通りそうなものを胃袋に押し込んだ。薬は食後となっていたからだ。もらってきた薬を飲んでひたすら眠っていた。ふと、子供の頃のことを思い出した。まだ、6つか7つの頃、アデノイドを切る手術を受けた時のことだ。部分麻酔をされながら、切除されたアデノイドが、喉の奥から食道へ落ちていったような気がしたモノだ。
そのあと3日ほど、スープくらいしか食べることが出来ず、うんうんうなりながら横になっていた。まるで今日の俺のように。もう、そんなことは30年以上思い出したこともなかったのに・・・。
結局、さっさと薬が効いて、喉の痛みはズイブンと楽になった。まったく、仕事が無くてよかったぜ。とはいえ、今日はまたプリントする気でいたのに残念なことだ。人生、いいことばかりはないってことだ。
一日、布団にくるまって、チャールズ・ブコウスキーの短編小説ばかり読んでいた。
酒と競馬とセックスと暴力、そんなものばかりがどの短編にも延々と描かれている。しかし、そこには人生における本質的なモノが潜んでいるような気がしてくる。

読者諸君、失礼する。言われる前に自分で言っておくけど、せいぜい大事を取って養生させてもらうよ。