2014/12/11

Post #1345

Dattatraya Temple,Bhaktapur,Nepal
ネパールの古都バクタプル。
ダッタタラヤ寺院に、日が暮れたところに老人たちが集まってくる。
日中は街の辻に設けられたあずまやで談笑したり煙草を吹かしているだけに見える老人が、日暮れとともに寺院に集まり、シヴァやヴィシュヌを讃える歌をうたい、楽器を打ち鳴らす。
老人たちは寛大で、異教徒異民族の俺にも手招きし、ともに座り、ともに手を打ち鳴らすよう促す。
現代の日本の老人たちには見られないような、しかしどこか懐かしい老人たちの姿。
君にまっとうな感受性があれば、寛大で柔和な表情のなかに、威厳を感じることが出来るだろう。
この老人たちの姿を見ると、この地の老人たちは、進んだ医療や介護サービスなんかどこにもないけれど、見事生き切ったものだな、羨ましいものだという思いを抱かずにはおれないのさ。

俺は常々疑問に思っていることがある。
どうして、日本では歳をとった人間に対して、敬意が払われないのだろう。
どうして、日本では年寄りに童謡なんかを歌わせて、子供のように扱うのだろう。
どうして、日本では老人に話しかけるのに、子供に話しかけるようにするのだろう。

俺自身がまかり間違って年寄りになった時に、童謡なんか歌わされたとしたら、屈辱だ。
頑是ない子供に言い聞かせるように話しかけられたとしたら、悲しくなってくることだろう。
人生を通じて積み重ねてきた経験を、すべて否定されたような気がするに違いない。

かつては豊かな人生経験を積んだ老人は、共同体の精神的な指導者であったし、老人そのものに人生を達観したような威厳があった。はずだ。
たしかに、現代は多様な価値観が次から次から生じ、老人たちがかつてその人生を通じて培った経験は、速やかに陳腐なものとなってしまうことは否めないだろう。
しかし、どれだけ社会や文化が急速に変わっていったとしても、人間が生きるということの本質は、そうやすやすとは変わらないのではなかろうか?
また、かつてはどのような社会にも、宗教的な価値観がしっかりと根を張っており、老人は神もしくは仏という、超越的なものの存在により近づいた存在として認知されていたのではないかとも思う。
しかし、この高度資本主義社会では、何時の間にやら富そのものが、神を至高の座から引き下ろして、あらゆる価値観の中心に居座っている。
冷静に考えてみれば、富はあくまで手段でしかない。
どう生きるのかという古今万人に共通の人生の主題は、富という空っぽの中心の周りを虚しく回るだけで、その核心に触れる事がない。
どれだけ生きても、富という手段でしかないものが、目的にすり替わっている以上、経験がもたらすものはごくわずかだ。
これでは、年齢をかさねていったとしても、ただ虚しく生を浪費したということにしかならないのかもしれない。
極論を承知であえて言わせてもらえば、現代の日本では、生産性のない老人は、その生涯でため込んだ資産を介護ビジネスや葬儀屋や、孫の教育費のために吐き出す財布ぐらいにしか思われてはいない。

なぜそうなってしまうのか?
自分自身を顧みてみれば、そのヒントに思い至る。
俺は45歳だけれど、人生五十年と言われていた時代なら、とっくに老境に差し掛かっている年齢だ。しかし、戦国時代や明治時代の二十歳そこそこの人間にも、人間的にとても及ばないような気がする。
俺は自分で言うのもなんだけれど、いろいろ考えないと面白くない性分なんだが、それでも今よりもずっと情報も少なく、寿命も短い時代の人々と比べて、人間的な厚みがあるとはとても思えない。馬齢を重ねるとはこのことだ。要するに人間性が薄っぺらいのだ。軽佻浮薄なのだ。

たしかに自分の周囲を見渡しても、そんな人間は少ない。
ただ単に爺むさく老け込んでいる人間なら見ることは容易いが、年齢を重ねるごとに、どっしりとした存在感をまとう人間は実に少ないのだ。
そして、目の前を流れ去る事物に汲汲としているだけで、時間は瞬く間に過ぎ去ってしまい、一息ついたころには、既に老人と言われる年齢になってしまう。
そうなったときに、はたしてどれだけ人間としての巨きさが培われているのか、疑問だ。

生産性を至上の価値とする社会で、生産と消費に明け暮れ、自分の内面を顧みることがなければ、老いを迎えたときに、何が残るのだろう。
社会のお荷物にされてしまうだけではなかろうか?
それでは、子供をあやすように話しかけられ、童謡を歌わされて、手拍子なんかさせられても仕方がないか。

読者諸君、失礼する。年は取りたくないが、隠者のような年寄りにならなりたいもんだ。その時には、童謡じゃなくて御詠歌や念仏でも唱えていたいぜ。

2014/12/10

Post #1344

Kathmandu,Nepal
特定秘密法が施行されてしまった。
憮然とするしかない。俺は前にも言った通り、この法律には明確に反対だ。こそこそしやがって、気持ちわりいぜ。秘密なんてのは、男と女の間だけにしておきたいもんだぜ。

さて、俺に突如として問題が降りかかってきた。
まったく俺の人生ってのは、いつだって次から次に問題が発生しやがる。
誰の人生もそうなのか?
俺が取り立てて器が小さくて大騒ぎしてるだけなのか?
それとも俺が心配性なのか?

俺の内縁のカミサン41歳が、子供が欲しいと言い出したんだ・・・。
最近やたら、スーパーなんかで見かけた子供をかわいいかわいいっていうと思ったら・・・、そういうことか・・・。

ぎょえ!

俺は今45歳。年が明けたら46歳。そっから仕込んで子供が生まれる頃には47歳。カミサンだって、42歳、高齢出産も高齢出産だ。
うちのカミサンはフルタイムで外資系の企業でガンガン働いている。育児休暇や時短勤務なんかの制度もしっかりしている。
しかし、しかしですよ・・・。

子供なんて、誰でも育ててるじゃないかっていうだろう?
けど、俺の人生、適当すぎて、先なんかまったく見えやしないんだぜ。いうなれば、お先真っ暗闇だ!
そんな男がこの年で子供って・・・。

昨日の晩も、風呂につかりながらいろいろな考えが頭をよぎる。

ダウン症の子が生まれちゃったら、たいへんだなぁ。
家の中では、英語を公用語にして育てるのがイイんじゃないか?
ゲームはどれくらいの時間やらせたらイイもんなのか?
反抗期とかになっちまったら、やっかいだなぁ・・・。
その頃には俺はすっかり爺さんだろうし。
子供連れで海外に旅行に行って、いまみたいなペースでガンガン写真撮ったりできるんかいな?
それとも、子供のことしか見えなくなって、世に蔓延る親馬鹿写真ばかり撮るようになっちまったら、どうしよう?
子供ができたら、3歳くらいまではチューしちゃだめだぞ、虫歯菌が子供に感染しちゃうからな。
RSウイルスとかに感染したら大変だぜ。
それに、子供が成人するまで、ガンガン働かなきゃならねぇじゃないかよ・・・。
俺の業界、年齢制限があるんだぜ・・・、こまったなぁ・・・。
下手したら、子守しながら仕事したりプリントしたりしなけりゃならないんじゃないか?
サッカーとかやりたいとか言い出したら、めんどうだなぁ・・・。俺はスポーツ好きじゃないんだ。
父兄参観にはヒョウ柄のズボンとかはいて行っちゃマズイかなぁ・・・。
子供がいじめとかにあったら、どうやって守ってやったらイイんだ・・・。

頭の中をいろんな考えがぐるぐる回って、止まらないぜ!最大の問題は、コウノトリってのは、どうやって子供を運んでくるのかってことだ!

俺の敬愛して止まない忌野清志郎は、初めての子供が生まれる前、子供ができたらもうロックなんかできないって思って、一日中スタジオに籠って次から次に曲を作っていたそうだ。それだって、確か清志郎が38歳くらいの頃だ。
重ねて言うが、俺は、とっくの昔に45歳だ。
俺だって、子供ができたら、もうこんな写真撮れないんじゃないのかってビビってるよ。

正直言って、あと五年早く言って欲しかったよ。

読者諸君、君たちの意見を承りたい!ひょっとしたら俺も、この年になってやっと大過なく子供を受け入れることが出来る様になってるのかもしれないけれどな。
まぁいいさ、なるようになれ。どんなことでも、最後はなるようにしてなるんだ。それが人生だ、ロックンロールだ。じじいになっても、踊り続けてればいいんだろう?

読者諸君、失礼する。こんなことブログに書いたってカミサンに知れたら、また八つ裂きにされちまうから、黙っといてくれよな。頼んだぜ、皆の衆!

2014/12/09

Post #1343

Boudhanath,Nepal
自分の写真の在り方が、物足りなくなってきた。
気の向くままに旅をして、目についたものを片っ端からフィルムに収め、小さな暗室で現像し、このブログでごく少数の読者の皆の衆に見てもらう。
悪くない。
けど、フツーだ。
どっちにしても、さほど反響もない。手ごたえのなさが物足りない。
俺は今、自分の写真を世界に還流させたいと考えているんだ。
俺の写真は、自分の目にした世界を、ある瞬間で切り取ったものだ。
いうなれば、世界の断片だ。
それを暗室の中で再生させ、スキャンして、君たちに見てもらっているんだけど、もう一歩進めてみたい。

自分の撮った写真をできるだけ大きく出力して、自分がその写真を撮った場所に掲げてみたいんだ。

写真に全く興味のない人も、その写真を目にするだろう。
同じ場所でも、瞬間瞬間によって表情は全く違う。
同じ場所でも、何時までも同じ人が佇んでいるはずもない。
同じ場所でも、かつてあった建物は打ち壊され、風景は一変しているかもしれない。
その一瞬は、絶対的に一回こっきりなんだ。

その思いの一環として、このブログには可能な限り、撮影箇所をマッピングしているんだ。PC版で見ると、下の方に場所が明示されていることを、目ざとい読者諸兄諸姉は気が付いていることだろう。
たとえば、今日の写真なら『場所 ネパール〒44600カトマンズ ブーダ』とか記されていることだろう。そこをクリックすれば、グーグルマップにリンクしているので、その場所を地図で見ることができる。写真が掲載されている場所なら、写真を見ることもできるだろうし、ストリートヴューが記録されている場所なら、それも見ることができるだろう。

それをさらに一歩進めて、その場所そのものに、俺の写真を還してみたいのさ。
そう、フィードバックって奴だ。ロックのフィードバック奏法みたいなものか。つまり、スピーカーの真ん前でエレキギターの音をスピーカーから出し、その出力された音自体をギターのピックアップで拾って再出力すると、わけの判らない音が出るというあれだ。
どんなことが起こるのか、俺にも予想がつかない。
それが面白いとは思わないか?

出来得るならば、写真という表現の枠を少し逸脱して、モダンアートの方に踏み出したい。
こじんまりとした閉じた世界から、俺の写真を解き放ってやりたい。
かつて俺がカメラを携えて、世界と対峙していたそこにこそ、モノクロで再構築された、かつての風景を還してあげたいのさ。

普段何気なく目にしている風景が、四角いフレームに収められるとどう見えるのか?

見慣れた景色や色彩が、モノクロになるとどう見えるのか?

レンズを通すと、この光が、この空が、いったいどう見えるのだろうか?

何気なく見落としているもののなかに、思わぬ美しさや面白さが潜んでいるのが見えるだろうか?

まったく写真に興味のない、そこいらのおっちゃん、おばちゃん、おにいちゃん、お嬢ちゃんに、俺の写真の持ってる力をゴリゴリと押し付けてみたいんだ。
それには、見過ごすことのできない巨大なサイズが必要だ。

いったいそれをどうやって実現するのか?
そんなことを可能にする機材を、どうやって入手するのか?
そして、そのプロジェクトを実行するための資金を、どうやって調達捻出したものか?
そんなことをして、行政や地域住民から苦情は来ないだろうか?

いろいろと具体的に形にしようと思うと、困難なことが山ほどある。
けれど、少しづつ課題をクリアして、この夢想に形を与えてみたいんだ。

俺の自己満足を越えて、俺の写真をこの世界に送り出してやりたいんだ。


読者諸君、失礼する。君たちも、何かいいアドバイスがあれば教えてくれないかい?君と一緒にワクワクしてみたいのさ。何しろ俺は正直に言えば、自分の人生に退屈してるんだ。