2014/12/14

Post #1348

Moulay Idriss,Morocco
写真は、2012年の1月に行ったモロッコの聖都ムーレイ・イドリスで撮ったもの。
男性の背後には、俺が訪れる少し前の2011年11月25日に行われた選挙のポスターを貼っていたとおぼしき枠が、スプレーか何かで直接書かれた壁がある。
詳しいことは忘れてしまったけれど、モロッコは王政なので、それまでは首相は国王によって任命されていたけれど、この選挙で初めて占拠で多数議席を獲得した政党から選出されることになったのだそうだ。
モロッコの人々が、初めて自分たちのリーダーを自分たちの手で選ぶことが出来たと、熱っぽく語っていたのを想い出す。

民主主義というのは、当たり前のようで当たり前ではない。
そして、民主主義がたんなる多数決であるのなら、小学校の学級会と変わりない。
大多数がなんとか承服できる方針に、どれだけ少数派の思いを汲み取ってやることが出来るか?そこが大人にしかできない高等テクニックなのだと思うけれど、昨今の政治は、何かと白黒はっきり決めたがる。
モノクロ写真といえども、実は白と黒のあわいのグレーゾーンによって成立しているというのに、複雑な現実社会を相手にするのに、白黒つけるのは難しい。
何事も白黒つけたがるのは、子供の理屈だ。
世の中は、光と闇、正義と悪、敵味方などといった単純な二元論では割り切れないんだ。
この21世紀、男と女だって、その中間に位置するようなアイデンティティーの人もたくさんいるというのに。
しかし、俺個人としては、一つを選ばないとな。
さまざまな意見の奴らが、それぞれに自分の意見を託して投票するのがイイんだ。
そして、出来る事ならば、違う意見の政党勢力が、均衡している方が望ましいんだけどなぁ・・・。大政翼賛会とか挙国一致だとかってのは、俺は御免蒙るぜ。

さて、選挙に行ってくるとするか。

読者諸君、失礼する。何にもしないより退屈しないぜって、むかしキヨシローも歌っていたしな。

2014/12/13

Post #1347

Kathmandu,Nepal
ここんところ、俺のブログはシリアス展開だった。
仕方ない、人生にはシリアスにならざるを得ない局面があるものだ。
けれど、ほんとうは俺、シリアスに社会を憂いたり、自らの如何ともしがたい境遇を嘆いたりしているよりも、もののあわれのほうが好きなのだ。
『もののあわれ』って何よって、人間のほれ、男と女の話だよ。

古典だったら伊勢物語とかね。
詩人だったら、良く取り上げてる金子光晴とかね。
男の俺にとっては、女の人っては、うん、これはもう少しで解かりそうでいながら、どこまで行ってもよく解からない不思議なものだから、それを少しでも知るってのは、世界の半分を理解していく営みだと思えるよ。

だからいつも、女の人を見かけると、つい写真を撮ってしまう。

名前が出たついでに、金子光晴の詩を一つご紹介してみようかな。

もう一篇の詩

恋人よ。
たうとう僕は
あなたのうんこになりました。

そして狭い糞壺のなかで
ほかのうんこといっしょに
蠅がうみつけた幼虫どもに
くすぐられてゐる。

あなたにのこりなく消化され、
あなたの滓になって
あなたからおし出されたことに
つゆほどの怨みもありません。

うきながら、しづみながら
あなたをみあげてよびかけても
恋人よ。あなたは、もはや
うんことなった僕に気づくよしなく
ぎい、ばたんと出ていってしまった。

(金子光晴『人間の悲劇』より)

ええなぁ、と心底思う。
こんなことを書けるのは天才だなぁってホントに感心するよ。
こんなのも行っとこうかな。
この詩も好きだ。

愛情1

愛情のめかたは
二百グラム。

 僕の胸のなかを
茶匙でかき廻しても
かまはない。
どう?からっぽだらう。

―愛情をさがすのには
熟練がいるのだ。
錠前を、そっと
あけるやうな。

―愛情をつかまへるには
辛抱が要る。
 狐のわなを
しかけるやうな。

―つまり、愛情をおのがものにするには大そうな覚悟が要るのさ。
愛情とひきかへにして、
ただより安く、おのれをくれてやる勇気もいる。

 おのれ。そいつのねだんは
十三ルピ。

(金子光晴『愛情69』より「愛情1」)

作家の高橋源一郎は、金子光晴を読めば、あなたの人生で確実に恋人が一人は増える、しかも、質の高い恋人が!と保証してくれているけど、ほんとにそう思うよ。
とはいえ、そんなにたくさん恋人がいたら、それはそれで身が持たないけどな。

読者諸君、失礼する。それにしても13ルピーとは、ずいぶんと安いものさね。ネパールの田舎でも、チャイ一杯飲めやしないさ。

2014/12/12

Post #1346

HongKong
路上占拠を75日に渡って続けてきた香港の民主化運動が、強制的に排除された。
いずれ、そうなることは判っていた。残念ながら。
デモをするだけで、世界が変わるとは思ってはいない。俺たちは、少なくとも俺はそこまでナイーブではない。残念ながら。
2014年の香港は、1792年のパリではないのだ。残念ながら。
当局に拘束された若者たちの将来を思うと、暗澹たる気持ちにならざるを得ない。
社会に戻ることが出来れば、幸いだが、天安門事件のことや、中国本国で行われている共産党に異議申し立てをした多くの人々が行方不明になっていることを考えると、どうなるものか、何とも言えないようにも思える。
拘束されなかった人々も、敗北者として苦難の道のりが待っていることだと思う。残念ながら。

戦後最大の思想家、吉本隆明が自らの労働争議体験を通じて、60年安保について語った言葉を記したい。
とっても長いけど、引用することを許してほしい。

『わたしは、どのような小さな闘争であれ、また、大きな闘争であれ、発端の盛り上がりから、敗北後の孤立裏における後処理(現在では闘争は徹底的にやれば敗北にきまっている)にいたる全過程を、体験したものを信じている。どんな小さな大衆闘争の指導をも、やらしてみればできない口先の政治運動家などを全く信じていない。とくに、敗北の過程の体験こそ重要である。そこには、闘争とは何であるか、労働者の「実存」が何であるのか、知的労働者とは何であるのか、権力に敗北するということは何であるのか、を語るすべての問題が秘されている。(中略)
 また、現在の情況の下では、徹底的に闘わずしては、敗北することすら、誰にも許されていない。
かれは、おおくの進歩派がやっているように、闘わずして、つねに勝利するだろう、架空の勝利を。しかし、重要なことは、積み重ねによって着々と勝利したふりをすることではなく、敗北につぐ敗北を底までおし通して、そこから何ものかを体得することである。わたしたちの時代は、まだまだどのような意味でも、勝利について語る時代に這入っていない。それについて語っているものは、架空の存在か、よほどの馬鹿である。』
(吉本隆明『背景の記憶』平凡社ライブラリー刊より)

自分の乏しい人生経験を通じていえることは、どんな小さな権力に対する闘争も、徹底的に行えば、敗北し、孤独な退却戦を強いられることになるということだ。これに関しては、吉本隆明の言葉を、地に足の着いたものとして理解することが出来る。
問題は、そこから以後、どのように生き抜いてゆくかだ。

既に物故して久しい写真評論家西井一夫は、自らの安保闘争体験を振り返って、次のように述べている。再び、引用を許してほしい。

『闘いに敗れること(さまざまな戦線で、だ)によって、にもかかわらず依然として敗れ去ってはいない(忘れることと忘れ去ることの違いは、ただの忘却には想い出す潜在的可能性があるが、忘却していることを忘れるのが忘れ去ることである)思想・心情・精神を抱きながら、いかにして不在な「以後」を生きるのか?』
(西井一夫『なぜ未だ「プロヴォーク」か』青弓社刊より)

香港の若者たちが、自らの敗北を忘れ去ることなく、『以後』を生き抜いてくれることを祈らずには、いられない。それによってこそ、時代はじりじりと変わってゆくのだから。

読者諸君、失礼する。そういえば、日本には敗北を忘れ去った人々がたくさんいる。だからこそ、いまこんなていたらくだ。