2012/07/07

Post #587 帰郷 あるいは家庭円満の秘訣

土砂降りの雨の中、高速を駆け抜けて帰ってきた。
やれやれだ。とはいえまたもう一度、残工事で12日に箱根まで行かなけりゃならんのだけどね。
さて、こう見えて俺は家庭円満の秘訣を心得ている。出張したらお土産を買っていくことだ。今回は小田原名物鈴廣かまぼこ、一番安いので1本何と900円!俺が普段食っている1本98円のかまぼことは、えらい違いだ。しかし、高いだけあって、そのぶりぶりした歯ごたえがたまらないぜ。シリコンでも入ってるんじゃないかっていうくらいだ。
芍薬、俺の好きな花
それだけではない、わざわざ旧東海道に回り込んで、しゃれたバームクーヘンも買ってきた。ホールで1200円。先日、芦ノ湖にドライブに行った帰りに見かけてから、ずっと気になっていたんだ。箱根だからって、温泉まんじゅうばかりってのも、芸がないからな。
こんな時に、変な置物なんかを買ってくると、いつまでも残ってて、そのうちゴミになる。で、捨てる棄てないで言い争いなんかになったりすることもあり得る。要は不安要因だ。それならばやはり食べ物が一番だ。おいしいものを食べている時には、人はそんなに不幸な気分にはならないモノだからな。それになにより、あとはウンチになっておしまいだ。始末もいい。おいしかった記憶だけ残る。これも家庭円満の秘訣の一つだ。
しかし、やはり何と言っても家庭を円満に保っておく秘訣は、アレだ、意外なことに適度に家をあけることだ。いつもいつも顔を突き合わせていると、どんなに仲が良くてもストレスもたまるってもんだ。ストレスがたまると、些細なことで取り返しのつかない諍いになって、包丁で刺されたりすることだってあるだろう。恐ろしい世の中なのさ。
しかし、これもさじ加減が重要だ。俺の業界では、出張や単身赴任で家を空けすぎて、家庭が不仲になったり、離婚したりしたという話をよく聞くのさ。何事もバランス感覚が大切だってことだ。
しかし、3週間ぶりくらいに会った連れ合いは『私、あんたが家にいないのにすっかり慣れちゃった』とおっしゃっておいでだった。やれやれ・・・、苦笑いするしかないぜ。これが俺の人生だ。ロックンロールだ。
読者諸君、また会おう。

2012/07/06

Post #586 疼痛、もしくはイメージと現実の相克

明日で出張も終わりだ。明日、引き渡しを行えば、久々に家に帰ることができる。
今回の現場も、毎度ながら出来上がったものを見て、イメージと違うとか、なんか気持ち悪いとかいう漠然とした物言いによって苦しめられた。憤懣やるかたなく、かといってそれを誰にぶつけることもできず、ストレスを溜めこみ、挙句の果てに例によっていつもの左足の親指に疼痛を感じて、足を引きづり歩いている。毎度おなじみの痛風だ。たまらないぜ。むしろ、この疼くような痛みを感じないことには、仕事をした気がしてこない昨今だ。ロキソニンは手放せないぜ。
しかし、そんなものは放っておけばイイ。明確に伝えることができないような漠然としたイメージしか抱いていない方が悪いのさ。
出来上がったものを見て、イメージ云々なんて子供でも言える。イメージを形にするためには、地道で綿密なプロセスが必要だ。予算も工期もないのなら、それはなおさらだ。それがわかっていないタコが多すぎる。そして、その手のタコがいつもおいしいところをかっさらっていく。仕方ない、それが世の中の仕組みだ。タコが小躍りして喜んでるぜ。
実際に何かを造り上げるためには、寸法を測り、素材を加工し、それぞれの職人の技術を統合してゆかねばならない。そこには漠然としたイメージの付け込む隙は寸分もない。OK、分かったよ、次からはきっちりとそのイメージとやらを図面にしてくれや。二度手間はゴメンだぜ。
イメージ云々と抜かす分にはゼニはかからないが、実際に何かを造り上げるためには、何かと物入りになるんだ。人間は、タダでは指一本動かすもんじゃないんだぜ。どいつもこいつも、趣味でやってるんじゃないんだぜ。その技量技術を武器にして、この苛酷な資本主義社会で生き抜いているんだ、トーゼンだろう。
Ok、もし君が箱根に観光に行くことがあったなら、箱根観光の玄関口、箱根湯本駅の高架階段の下、国道一号線に面した和風の店を見つけたならば、そしてそれが某人気アニメの店だったならば、これがいつかスパークスが、痛風を起こしながら作った店だと思い出してくれ。
HomeTown/Nagoya
さて、写真でもその手の話しはよく聞く。
イメージと違うという話だ。
ファッション写真なんかの場合、多大な労力と資金をかけて、写真家の持つイメージに忠実なイメージを形作る。時には巨大なセットを組んだりすることもあるだろう。モデル、衣装、セットetc etc・・・。まるで、そこでは写真家はシャッターを押すプロデューサーのようだ。
そこまで行かなくても、モデルにあたる光の加減がイメージ違うとか、雲の具合がイメージと違うとか、まぁ、そんな話ばかりだ。御苦労なこった。とびぬけたイメージを持つ一流の人間ならいざ知らず、大抵の場合、月並みなイメージによって撮影された写真は、どこかで見たような月並みな写真にしかならない。それでも楽しければ結構だし、水を差すつもりもないが、写真は習字のお手本をなぞるのとは訳が違うと思うわけだ。
テキトーフォトグラファーたる俺の場合には、はなっからイメージなんて抱かない。
目の前にあるものにレンズを向け、盲滅法(おっとこれは差別用語か、まぁ構うもんか)シャッターを押すだけだ。所詮、写真なんて世界の断片なんだから。刻一刻と自分の周囲に展開し続ける(俺の)世界に対して、俺が勝手にどんなイメージを抱いていようが、それは容易に裏切られる。自分の抱いているイメージを世界は軽く凌駕するんだ。荒れ狂う波を両手で堰き止めるようなことをしても仕方ない。そもそも、自分の抱いているイメージなんて、所詮たかが知れている。風呂屋の富士山だ。
イメージを捨てて、現実を受け入れたらどうだい。
目の前の現実に直面した瞬間に、自分の持つイメージを超える何かを見い出し、頭で考えるよりも早く、反射的にシャッターをきる。
それによって、自分の周囲の世界との新たな関係性を構築することで、自意識は変容し、変革されてゆく、といいなぁ。
おいおい、これじゃまるで、中平卓馬ではないかい?よし、いいぞ。撮影行為における自己変革だ。
イメージ?
それは脇に置いといて、目の前のものをしっかと見ることから始めるんだ。
プリントもある意味そうだよな。イメージ通りに修正できるデジタルプリントじゃない、こちとら昔ながらのケミカルプリントだ。イメージ通りの結果なんて期待しないさ。もちろん、あるレベルまでの努力はするさ。しかし、いつだって自分の予想は裏切られる。そこで満足いくまで試行錯誤してはいけない。印画紙の無駄だ。現像液の中に現れたものを世界からのギフトとして受け取るんだ。
ようやく分かった。俺は写真の自然主義者だったんだ。

読者諸君、失礼する俺は今からもう一眠りするんだ。やっと赤だしの味噌汁が飲めるってもんだ。

2012/07/05

Post #585 憮然

まったく、どうしてどいつもこいつも、やっちまってからああだこうだ抜かすのか。不思議だ。
イメージと違うとか、気持ち悪いとか、やってる時に言ってくれるんなら、イイんだけどねぇ…。
まったく、冗談じゃないぜ。憮然として、タバコを吸うくらいしか出来ないぜ。
HomeTown/Nagoya
読者諸君、誰にだってそんなことはあるだろう。世の中はバカバカしいものさ。