2026/05/09

POST#1844 吉本隆明とレヴィ=ストロースの次は網野善彦と宇沢弘文を召喚するかな!

 

いつかどこかで見た
俺が君たちに提唱している『天皇制リベラリズム』ってのは、俺の中では実は網野善彦🔗が、その名著『無縁・公界・楽🔗』に淵源を持っている。日本全土の山河海浜津々浦々の無主の土地(つまりコモンズ)の保持者としての天皇が、定住することなく、諸国をめぐり生きる一所不住の徒の自由を保障するとともに、その人々からの様々な供御を通じて密接な関係を築いていたという、想像力を刺激する内容だ。

網野善彦の『無縁・公界・楽』などの議論を援用すると、日本の天皇制とリベラリズムの連結は、「世俗の権力(支配・所有)が及ばない自由領域の保障」という視点から、以下のように簡潔にまとめらるだろう。

「無縁」と「無主」の空間

網野は、中世日本において、市(いち)、宿(しゅく)、山林原野などは、誰の私的な所有も及ばない「無主(むしゅ)」の土地であり、世俗的な絆や隷属から切り離された「無縁(むえん)」の場であったと指摘している。

ここでは平和と自由が保障され、逃亡者さえも保護される一種の「聖域=アジール🔗」だった。

 天皇の役割は自由領域の「あるじ」

この「無主・無縁」の土地は、誰の所有物でもないがゆえに、論理的には世俗のヒエラルキーを超越した存在である「天皇」にのみ属すると見なされていたとされる。

天皇の公界性: 

天皇は世俗の権力闘争の外側に位置するがゆえに、位相が転換するようにして、あらゆる私的な支配を否定する「無縁」の原理の体現者となってしまうわけだ。

自由の保障: 

「無主の土地は天皇のもの」という論理は、特定の権力者(幕府や領主)がその土地を私物化することを防ぎ、結果としてそこでの人々の自由や交流を担保する盾として機能した。つまりこれらの土地は、天皇の権威のもとに、きわめてリベラルな共有地=コモンズ🔗となったわけだ。

リベラリズムとの連結:

そこには世俗の権威を超越したことによる保護が働いており、自由で無縁な空間が成立していた。自由で無縁であるがゆえに、モノはその来歴を消し去り、商品として交換することが可能となり、ここに市が立つこととなった。自由の保障のもと、資本が流通する拠点にもなったわけだ。

このシステムを現代的なリベラリズム(自由主義)の文脈で読み解くと、次のような構造が立ち現れてくる。

権力の限定:

 あらゆるものを所有し尽くそうとする世俗権力(それは現在では新自由市議やリバタリアニズムとして俺たちの前に立ちはだかっている)に対し、天皇という「超越的な空無」を置くことで、権力が介入できない「聖域(自由な空間)」を確保するわけだ。

「私」を拒むシステム: 

先にも述べたように「天皇のもの」=「誰のものでもない(無主)」という擬制が、個人の自由な活動(商売、移動、芸能など)を保護する公共空間(公界)を成立させた。例えば、京都の南座やそのすぐそばに立つ出雲阿国🔗の像などが、鴨川のほとりに位置するのも、この鴨川の河川敷がだれのものでもない=天皇の土地とされていた一種のコモンズだったからだ。彼ら漂泊の芸能者は、定住民=柳田國男の言うところの 

いつかどこかで見た

俺が君たちに提唱している『天皇制リベラリズム』ってのは、俺の中では実は網野善彦🔗が、その名著『無縁・公界・楽🔗』に淵源を持っている。日本全土の山河海浜津々浦々の無主の土地(つまりコモンズ)の保持者としての天皇が、定住することなく、諸国をめぐり生きる一所不住の徒の自由を保障するとともに、その人々からの様々な供御を通じて密接な関係を築いていたという、想像力を刺激する内容だ。


網野善彦の『無縁・公界・楽』などの議論を援用すると、日本の天皇制とリベラリズムの連結は、「世俗の権力(支配・所有)が及ばない自由領域の保障」という視点から、以下のように簡潔にまとめらるだろう。


「無縁」と「無主」の空間


網野は、中世日本において、市(いち)、宿(しゅく)、山林原野などは、誰の私的な所有も及ばない「無主(むしゅ)」の土地であり、世俗的な絆や隷属から切り離された「無縁(むえん)」の場であったと指摘している。


ここでは平和と自由が保障され、逃亡者さえも保護される一種の「聖域=アジール🔗」だった。


 天皇の役割は自由領域の「あるじ」


この「無主・無縁」の土地は、誰の所有物でもないがゆえに、論理的には世俗のヒエラルキーを超越した存在である「天皇」にのみ属すると見なされていたとされる。


天皇の公界性: 


天皇は世俗の権力闘争の外側に位置するがゆえに、位相が転換するようにして、あらゆる私的な支配を否定する「無縁」の原理の体現者となってしまうわけだ。


自由の保障: 


「無主の土地は天皇のもの」という論理は、特定の権力者(幕府や領主)がその土地を私物化することを防ぎ、結果としてそこでの人々の自由や交流を担保する盾として機能した。つまりこれらの土地は、天皇の権威のもとに、きわめてリベラルな共有地=コモンズ🔗となったわけだ。


リベラリズムとの連結:


そこには世俗の権威を超越したことによる保護が働いており、自由で無縁な空間が成立していた。自由で無縁であるがゆえに、モノはその来歴を消し去り、商品として交換することが可能となり、ここに市が立つこととなった。自由の保障のもと、資本が流通する拠点にもなったわけだ。

このシステムを現代的なリベラリズム(自由主義)の文脈で読み解くと、次のような構造が立ち現れてくる。

権力の限定

 あらゆるものを所有し尽くそうとする世俗権力(それは現在では新自由市議やリバタリアニズムとして俺たちの前に立ちはだかっている)に対し、天皇という「超越的な空無」を置くことで、権力が介入できない「聖域(自由な空間)」を確保するわけだ。

「私」を拒むシステム

先にも述べたように「天皇のもの」=「誰のものでもない(無主)」という擬制が、個人の自由な活動(商売、移動、芸能など)を保護する公共空間(公界)を成立させた。例えば、京都の南座やそのすぐそばに立つ出雲阿国🔗の像などが、鴨川のほとりに位置するのも、この鴨川の河川敷がだれのものでもない=天皇の土地とされていた一種のコモンズだったからこそそこに位置しているのだ。彼ら漂泊の芸能者は、定住民=柳田國男の言うところの常民🔗から差別されていた。故にこそ、被差別の芸能民のことをかつては河原者🔗と称したのだ。

網野史学における天皇制のシステムは、「天皇という唯一の超越者を設定することで、逆に世俗権力の独占を排し、人々の自由な活動領域(無縁)を歴史的に担保してきた」という点において、権力を制限し自由を確保しようとするリベラリズムの精神と通底しているといえるだろう。俺はこの網野史学に触れることによって、天皇制リベラリズムの萌芽を自分の中に芽生えさせることができた。

さて、この『無主の土地の主』といういささか矛盾したような存在が、公共財=コモンズの再生とかそういった経済学者宇沢弘文🔗(新自由主義のイデオローグ・ミルトン・フリードマン🔗と激しく論争を繰り広げたナイスガイだ)的な視点に繋がってくるんじゃないかなって考えてるわけだ。

網野善彦が描いた「無縁・公界」の原理は、「コモンズ(共有財)」の再生という視点と非常に強力に共鳴している。この跳躍がぴんと来ないのなら、なぜこれらが繋がるのか、その接点を整理してみるとしますか。

「私的所有」でも「国家所有」でもない第三の道

リベラリズムにおける「コモンズ」の議論は、あらゆるものを「私有(マーケット)」か「国有(行政)」のどちらかに振り分ける現代の二分法を批判している。まぁ、そもそもそれはイギリスでの産業革命期における共有地の囲い込み🔗=エンクロージャーに由来するんだけどね。

網野善彦が示した「無縁」の空間(市、山林、原野)は、天皇という『超越者』を頂点に置くことで、実質的には「誰の所有物でもない(=みんなのもの)」という状態を維持していたわけだ。

これがまさに、宇沢弘文が提唱する「コモンズ(特定の誰かに独占されない共有空間)」の歴史的プロトタイプといえるだろう。

「天皇」という空虚な器によるコモンズの防衛

宇沢弘文のような視点で見れば、福祉や環境といった「生存の基盤」は、利潤追求の論理から切り離されていなければならない。(しかし、皆の衆ご存じの通り、今の日本政府の方針は福祉や環境に利潤追求の理論を導入し、現場を貧困化している。どうおもう?)

網野史学における天皇は、世俗の欲望(私的所有権の拡張)をストップさせる「蓋」のような役割を果たしていた。

「ここは天皇の土地(無主の地)だから、大名や武士が勝手に囲い込んではいけない」という論理は、コモンズが私的な資本に飲み込まれるのを防ぐ防波堤として機能していたと考えられるだろう。

「アソシエーション」の場としての無縁

網野氏は「無縁」の場こそが、芸能、商業、職能集団などの自由な結びつき(アソシエーション)を生んだと説いた。

これは、現代のリベラリズムが模索している「国家に依存しすぎず、市場に魂を売らない、市民同士の自律的なネットワーク」の再生と重なるだろう。

天皇というシンボルを介して確保された「自由な空間」を、現代においてどうやって「民主的な管理によるコモンズ」として再構築するか、という問いに直結しているといえよう。

この課題を援用することで得られる現代への示唆は非常に意義あるものではないだろうか?

宇沢弘文的な視点を踏まえると、網野善彦の議論は単なる中世史ではなく、以下の現代的課題へのヒントになるだろう。

まずは私的所有権の絶対性の相対化だ。フランス革命以来、近代法の法理では私有権は絶対に尊重されるという建前になっている。ここにこの視点を網野→宇沢ラインでRe解釈してみることで、「天皇のもの」という古い形式の中にあった「公共性」を、現代の「市民の共有的権利」へと翻訳しうるのではないだろうか。

そして「縁」からの解放だ家族や企業といった既存の「しがらみ(縁)」から自由になれる空間を、社会の中に制度として確保するんだ。網野善彦の「無主・無縁」の議論を、宇沢弘文らの「コモンズ」の視点で捉え直すと、「天皇制という歴史的装置が、実は私的所有の暴走を抑え、人々の共有領域を守るための高度な(あるいは逆説的な)システムとして機能していた」という、極めて現代的なリベラリズムの再解釈が可能になるんだ。

これは俺がPOST#1793🔗で語ったような、リバタリアン的なゾーンの確立に対抗する力強い反撃になるだろう。この「超越的な存在による公共性の担保」というロジックは、現代の民主主義における「憲法」や「法による支配」のあり方と比較してみるのも面白いかもしれまないが、今夜も仕事なので、一旦それは措く。

俺の妄想、いやさ構想はまだまだ続く。続くったら続く(オーキド博士風にね!)

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