2011/09/19

Post #310 Gypsy Queen

ありがたい事に今日も仕事はOFFだった。しかし、遊んでいたわけじゃない。忙しさにかまけてサボっていた帳簿をみっちり時間をかけてシコシコとやっていたのさ。自分のこととはいえ、こいつはたまらないぜ。お金もたまらないぜ。まぁ、金がないのは悪い事でもないけどね。金子光晴の詩にも『剽軽者の俺の人生だったが 金がないのでまだ助かった』なんて文句があったしな。
で、朝TVを見ながらコーヒーを飲んだりしていると、モデルの道端ジェシカがトルコを旅して、トルコの街を走るっていう番組をやっていたんだ。イスタンブルにエフェス、そしていつかは行ってみたいカッパドキア・・・。俺は連れ合いと一緒に旅した去年の夏のトルコを思い出したぜ。実際、道端ジェシカが走っていた界隈を、俺はカメラを持って歩き回っていたんだ。また行きたいもんだぜ。

で、今日はまた思い出したように、イスタンブルの写真をお送りしよう。先日の慕情海峡ボスポラスの続きだ。慕情海峡ボスポラス#4で、アジア側のカドキョイに着いて、花を売るジプシーの女性を目にしながら、信号待ちをしているふりをして、そっと写真を撮ったとこまで書いたと思うけど、今日はその目抜き通りの信号を渡ったところの話しだ。
横断歩道を渡って、右に曲がって歩き出した俺の目に、一人の異様な女性の姿が映った。広い石畳みの歩道で、異国情緒あふれる音楽に合わせて踊っている。
Istanbul,Turk
これが生演奏だったらばっちりだったんだろうけれど、生憎小さなラジカセからその旋律は流れていた。ちょいと残念だ。道行く人々は、そんな彼女が目に入らないかのように足早に過ぎていく。しかし、彼女はそんなことにはお構いなしといった風情で、いささか疲れのにじんだ足取りでステップを踏み、何かに憑かれたように踊り続けていた。
よく見れば、彼女の足は裸足だ。手の甲にも、足の甲にも、血管が浮き出しているのが見て取れる。髪の艶も無く、肌は日にさらされてなめしたようになっていた。それでも、俺は思ったのさ。彼女はきっと誇り高いジプシークイーンなのさ。おっと、むかしの中森明菜の歌じゃないぜ。そんなこと言ったら、俺の感じてた旅情が、一挙に安っぽくなっちまうだろう?
Istanbul,Turk
他のジプシーの女性たちが、トルコ人や観光客に花を売って稼いでいるのを横目に見ながらも、それを良しとしないような矜持が、そう、かつて歌舞音曲で人々を魅了していた頃の暮らしを頑なに変えようとはしない厳しい意志が、その深いしわが刻まれた顔に読み取れるような気がした。
彼女が踊ることを、誰も気に留めようともせず、足早に通り過ぎ、彼女にお金を与える者がいなくても、彼女はそんなことは微塵も気にしていないような風情だった。ひたむきに、夕陽を浴びて踊り続ける姿は、何か価値が逆転し、途轍もなく高貴な姿にすら見えてきた。
Istanbul,Turk
俺は写真を撮る。彼女は踊る。そこに何も理由などなく、ただ、踊るべく生まれたものが踊るのだと言わんばかりに。その姿は、ボスポラス海峡に沈みゆく夕陽に照らし出され、気高さすら漂っていたのさ。俺は確信したんだ。『彼女こそ、落ちぶれてしまったけれど、生まれながらのジプシークイーンなんだ』ってね。
読者諸君、こんばんはこれで失礼させてもらうぜ。ちなみに、日本じゃ最近、ジプシーってのは差別用語の放送禁止用語なんだそうだ。日本じゃ、言葉がどんどん狩られていく。事なかれ主義の上っ面の平等主義者たちの手によって、血の通った言葉が刈り取られていく。馴染のない、持って回った言葉が、イメージの手垢のついてないピカピカの言葉がかわりに与えられる。
冗談じゃないぜ。そんな言葉の上っ面だけ取り繕っても、世の中は何も変わりはしないし、1ミリだってよくはなりはしないのさ。むしろ、物事の本質は覆い隠され、世の中はどんどん悪くなっていくんだ。ふざけるんじゃないぜ。その言葉が背負う歴史を、自ら背負って使う覚悟が無いだけの話しさ。
おっと、いけないぜ。思わぬところで、本音が出ちまった。読者諸君、おやすみなさい。君たちに会う夢を、俺は今夜も見ていることだろう。

2011/09/18

Post #309 休日を楽しんできたのさ

今日から名古屋では、何十年かぶりに歩行者天国が再開されったってことで、街に繰り出してみたんだ。もっとも、最近地元じゃあんまり写真を撮らないんでいけないけれどね。もうスッカリお馴染みなんで、新味がないっていうか・・・。中平卓馬みたいに、毎日同じ場所で写真を撮りながら、ぬけぬけと『ここは初めての場所だねぇ・・・』なんて言える図太さというか、忘却力が欲しくなるくらいだ。しかし、あんまりジャンジャンとってもプリントするヒマがないからなぁ、まぁイイかな?
HomeTown
いや、本当は名古屋PARCOのPARCO Galleryで開催中の岡本太郎の展覧会『顔は宇宙だ』ってのを見に行ったんだ。面白かったぁ!いきなり岡本太郎の等身大マネキン、ただし、顔はめちゃリアルが出迎えてくれて、嬉しくなって笑いこけてしまった。サイコーだ。岡本太郎、実は身長156センチって、今からするとずいぶん小柄な人だったんだなぁと意外の感に打たれたぜ。あの小さな体で、あれだけのエネルギッシュな人生を生きたんだ。間違いなく、この世にミッションを持って生まれてきたに違いない。
大阪万博の太陽の塔とか、未完成の絶筆『雷神』とか、まじまじ見てきたんだ。『グラスの底に顔があってもいいじゃないか』グラスとか、子供の頃CMで見たよ!懐かしいー!
名古屋会場では、特別企画で、犬山にあるモンキーパークの敷地内にある『若い太陽の塔』の1/20マケットと名古屋市北区のお寺にある梵鐘『歓喜』の1/2試作品が展示されているんだぜ、Yahooh!
『若い太陽の塔』はご当地出身の俺にはガキの頃からお馴染みだ。本家の太陽の塔を作っている頃に作られた太陽の塔の兄弟みたいな塔だ。2003年から老朽化を理由に公開されていなかったんだけれど、太郎誕生100年の今年、修復公開の予定なんだ。これも楽しみだ。10月に公開されたら、ぜひ見に行きたいぜ。
『歓喜』1/2試作品は、大昔のマクセルのCM、そう、あの名ゼリフ『芸術は爆発だ!』って言うあの伝説のCMで、岡本太郎自身が、でっかいハンマーを両手に持って打ち鳴らしていた角だらけの鐘だよ、そう、アレだよ、アレ。この『歓喜』という梵鐘は名古屋市北区大杉の久国寺ってお寺の依頼で、1965年に製作され、今もなお使用されているそうだ。その縁で、『歓喜』試作品名古屋会場にて特別展示だ。ううっ、実際に叩きたかった。仕方ない。一度このお寺に伺って、叩かせてもらうとしよう。毎年大晦日には先着108人が叩かせてもらっているらしいぜ、羨ましいことだ。
HomeTown
俺はそんな素敵な作品の前で、両手を顔の横で広げ、目ん玉を剥いて、『なんだこれは!』って岡本太郎の真似をしながら楽しんでみてきたぜ。当然だろう?静かに真面目に見ていたかった人、ゴメン。けど、俺は眉間にしわを寄せてじっと見るよりも、楽しんで岡本太郎とシンクロするように見る方が、太郎さんにふさわしいかなぁって思ったんだ。
入場料たったの300円。渋谷、仙台、名古屋と来て、この後札幌、福岡と巡回するそうだぜ。楽しみなこった。
で、そのあとCDを大人買いだ。仕方ない。ノエル・ギャラガーの抜けたオアシスの残りのメンバー(もちろんボーカルはリアム・ギャラガー)の新バンド、ビーディーアイの1stアルバムと、ドアーズのアルバム6枚セット。これが実にお買い得。6枚セットでお値段なんと3240円!一枚当たり、なんとなんとたったの540円ですよ。買わずにはいられないぜ。
ドアーズは好きだったんですけど、なかなか戦線拡大するのに躊躇してましてねぇ、それが一挙に制圧できたわけで、永年の宿願が叶ったイイ休日だったってことさ。
読者諸君、また会おう。たまの休みにはゲージュツにふれてみるってのは、とても楽しいことだぜ。君もどうだい?

2011/09/17

Post #308 My Photo Is The Reflection Of Me Myself

ここんところ、俺を寝かせてくれなかった仕事が終わった。
しかし、みんな覚えておくがいい、終わりは新しい始まりの序章に過ぎないのさ。また、キビシー仕事の日々が巡ってくるに違いない。永劫回帰だ。
まぁ、そうでなきゃ俺もオマンマの食い上げだ。冗談じゃないぜ、いくら最近下っ腹が気になりはじめて、これじゃロックンロールらしくないな、いや、年食って腹が出てても気にせずロックし続けてるブライアン・セッツァーみたいな奴もいるからな、気にすることないかって、優柔不断に悩んでいる俺でも、オマンマの食い上げはゴメン蒙る。何十年も断食してぴんぴん生きてるインドの驚異のグルじゃないんだぜ。俺だってどうも日本社会では絶滅危惧種の珍獣扱いだが、インドの仙人みたいな奴とは一緒にしてもらっちゃ困る。俗臭ぷんぷんだ。トーゼンながら飯は食わなけりゃ生きていけないのさ。そう、何よりも肉を喰わなけりゃな。痛風もちの名が廃るってもんだ。せいぜい肉食って腹筋でもするか。
Paris/Parisienne Of Peep Show Club
俺は、いつも写真を撮るときには、野の獣が獲物を捕らえ、大空を舞うタカが獲物を鷲頭掴みにするよーに、本能的に写真を撮っているんだ。しかし、その本能的な動きの陰では、俺の脳みその中で三角帽子を被った小人どもが、ガンガン働いているのさ。つまり、俺の脳の中では自分のまわりの世界を、目にしている出来事物事が語りかけてくる言葉にならない意味を、光の速さで認識し、言葉なんてまどろっこしいもんに置き換えることなく、そのまんま、魚を網で一網打尽に漁るよーにして、状況を判断してシャッターをきるっちゅう、アクロバテイックな脳内活動を展開しているわけだ。もっとぶっちゃけて言えば、一を聴いて十を知りつつも、2から9は潔くすっ飛ばされているわけだ。思考のワープ航法だ。
きっと信じてもらえないだろうけど、どうだいスゲーだろう?
このケーカは残念ながらなかなか説明し辛い。ロジカルなんだけれど、言葉になってなかったりするからね。自分でも、反射的に撮って、すっかり忘れていたネガを見て、初めてその時の心の動きを思い出したり、この糞っ垂にしてすんばらしい社会に対する批評批判がぶっ込まれていることに気が付いて、俺天才、しかし、そんなの誰も気が付きゃしないだろうってニンマリしてる始末だ。おかげで、俺のブログは人気がない!ダッハッハ!
あ~、こういうことは、あまり言わない方がイイんだろうな。けど、構うもんか、今日は言ってしまえ。
なんだか実は写真が、社会に対する批評批判なんだなんて、夜のニュース番組の司会者みたいでケーハクでカッコ悪いんだ、俺的には。とんでもなカッコーをしたおねーちゃんの写真を、何だか風紀の乱れを摘発している写真として見てもらうのは本意じゃないしね。第一、写真は道徳の授業じゃないんだから、そんなのゴメン蒙る。単に、いい女だから、反射的に撮りました、ごめんなさい、っていう方がカッコEだろう!
本当はどの写真にも、俺の怒りが悲しみが、希望や絶望が、共感と反感が、諦めと憧れが、ドッカんブッ込まれているんだぜ。あー、そんな事を言うと、なんかカッコ悪りぃでかんわ。けど、俺の愛する読者の皆の衆は、ずっと俺の写真を見てくれている一部の読者の皆さんは、とっくに気が付いていてくれるだろう。
そう、いつも俺は思ってる。俺の糞ったれな写真を何百枚、何千枚と集めて体育館の床みたいなだだっ広いところに並べた時、そこに俺自身が一枚も写っていなくても、(そりゃ当然だろう、俺が撮ってるんだから、俺以外のものが写っているのさ)そのボーダイな映像的なクズ写真が、下手糞なモノクロの写真たちが、俺の輪郭を影絵のように描いてくれることを、俺の心の中を、まどろっこしい言葉なんて抜きでクロスワードパズルのように君に示してくれることを。
俺の写真は、一枚で完結しない。ゲージュツなんてクソ喰らえだ。毎日まいにちランダムに君たちにお届けしている一枚一枚の写真全てが一つながりのもので、俺のむっちりブリブリ詰まった中身が、この糞っ垂な世界と向き合った時に瞬間的にスパークした思考の軌跡を描くものであって欲しーなと思ってるんだ。
Paris
だからと言っちゃなんだけれど、スライドショーを暇な時には見てやってほしい。昨日までで575カットだ。こりゃちょっとした数だ。
自分で言うのもなんだけれど、これが結構おもしれーんだぜ。絶大な自信を持って君におすすめするぜ。木を見て森を見ずの反対、つまり一本一本の木を見ることで、森が見えてくるって奴だ。俺の写真が、俺の出会った世界の断片の寄せ集めだけれど、同時に俺そのものを表現してる事に関しては、自分で言うのもなんだが、自信満々だ。
あ~、なんか今日は調子にのってまた訳の分からんことをほざいていやがるぜ。こんなことダラダラ酔っぱらいみたいにほざいてないで、とっとと眠ればいいものを、やれやれ・・・。
読者諸君、また会おう。そろそろ暗室が俺を呼んでいる。仕事が空くのは、実に結構なこったぜ。