2026/06/04

POST#1868 この21世紀じゃ、まともに暮らすだけで静かなテロリストになれるらしいぜ!

Katmandu、Nepal

人々を欠乏状態に置き、TVで、新聞の広告欄で、ネットで、SNSで、24時間365日休みなく資本の論理を広告として集中的に浴びせ、必要のないものを必要だと思わることで、人々の飢餓感、あだ、劣等感と羨望をあおり、人間を支配するシステムが社会を隅々まで覆いつくしていると昨日話をしたね。OK、今日はその続きでいこう。

このシステムは、マーケティングや広告という名の「洗脳」によって、人々の心に意図的に「欠乏感(私はまだ足りない)」「劣等感(あの人に負けている)」「羨望(あんな風になりたい)」を植え付けるんだ。おっかないぜ。

そうして生み出された飢餓感を埋めるために、人々は必要のないものを買い、その代金を支払うために「労働機械」として自らを資本に差し出し続けなければならないという、完璧な永久機関が完成しちまったぜ!ギャハハハハ!(チェンソーマン🔗の主人公のデンジ風にい言ってみよう(笑)。なんせ今日は最終巻24巻の発売日だもん!)

ぶっちゃけ忖度なしに言わせてもらえば、子どもたちが死を選び、大人がスマホに張り付いて窒息しかけているのは、この「欲望と支配のサーキット」に24時間体制で組み込まれているからに他ならないんだ!

この巨大なシステムを内側から解体するための、「具体的なボイコット(抵抗)の戦略」は、以下の3つのレイヤーで展開できるんだぜ。もっとも、そこから逃れる気があればの話だけどな。

1. 「アテンション(注意・関心)」のボイコット

資本の論理が俺や君たちを支配する最大の武器は、スマホやメディアを通じた「広告」と、それを俺や君に最適化して送りつけてくるアルゴリズムなんだ。

気を付けろ、俺たちがスマホを見てるとき、スマホも向こうから俺たちを見てるんだ。これってまるで、ニーチェ🔗善悪の彼岸🔗に出てくるあれみたいだな。ほら『怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。』って奴だ!気が利いてるな!

なにはさておき、俺たちや君たちの集中力と思考力を奪うスマートフォンの通知を切り、いちいち画面を見ないことだ。仕事のメールを見落とすことになりかねんけどな(笑)!

彼らデジタル領主たちにとって、俺たちの「視線」や「時間」は金鉱ともいうべき資源に他ならないんだ。スマホの画面から目を離し、アルゴリズムに自分の脳をハッキングさせないことは、最も手軽で強力なボイコットだぜ。

そして時には意識的に情報の断食、つまりデジタルデトックスをするんだ。

広告が煽る「偽の必要性」を遮断し、心の静寂を取り戻すことで、「自分は今のままで、すでに満たされている」という感覚、つまりは尊厳を回復するんだ。

鳥の声を聴き、流れる雲を見る。

子どもたちの歓声に耳を澄ませ、風に揺らぐ木々を見る。

大きく息を吸い込み、漂う香りを感じるんだ。

自分の五感で、目の前の世界に対峙するんだ。

2. 「消費」のボイコット、つまりは自給とケアの復権

「買わなければ生きていけない」という依存状態こそが、俺や君たちを21世紀の素晴らしき『労働機械』に縛り付けるボール&チェーンなのさ。

お金を介さない価値の交換を思い出すんだ。

昨日話した「面白い老人」の話のように、地域の中で手作りのものを分け合ったり、知恵を教わったり、お互いをケアし合ったりする関係性や空間を作り上げるんだ。

そして「無駄」と「不便」の愛好するんだ。

効率的でスマートで、おかげさまで高価な商品を買うのをやめ、あえて手間暇をかけてみるんだな。資本が提供する「便利さという名の家畜化」から抜け出し、自分の身体性を取り戻すんだ。大げさなことを考えなくたっていい、スーパーで買ってるパセリやシソを家のプランターで作ってみるだけでもいいんだ。そこにはダイレクトな感覚がある。しかも、家で育ったばかりのパセリは、香ばしくておいしいぜ。

ふと、思い出した一説がある。老子🔗の第八十章だ。

小国寡民使有什伯之器而不用、 使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之、使人復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗。 鄰国相望、鶏犬之声相聞、民至老死不相往来。

こいつは小難しい。ちょいと小川環樹🔗先生の中公文庫版の老子を参考にして超訳してみるわ。

「国は小さく住民は少ないとしようか。軍隊に使う便利な殺戮兵器があっても使わせないようにして、人々には命を大切にさせるとしようぜ。で、(戦争に駆り出されないから難民になったりしなくていいので)遠くに移住する必要をなくせば、舟や車があっても、みんなそれに乗ってどこか行くわけでもない。鎧や武器があったとて、(いかれた全体主義国家みたいに)それを見せびらかすこともない。

もう一度縄を結んで契約の印としたような大昔の世の中のように、なにからなにまで質素倹約、彼らのイマイチな味の飯もうまいと思わせ、粗末な服も快適だと感じさせ、狭いながらも楽しい我が家に落ち着かせて、素朴な習慣を楽しませるんだ。そうすると、隣のイカした国がすぐそばに見えて、鶏や犬の鳴き声が聞こえるほど近くても、人々は老いて死ぬまで他国の人と行き来することもないだろうぜ!』

高校だか中学の漢文でやったような気がするけれど、もうすっかり大昔のことだからな。怪しいもんだけど、漢文は漢字を追っていけばちゃんと意味が分かるからな。俺はだいたい外したことはないから、この訳文、大過ないだろうよ。

つまりだ、便利な機械があってもあえて使わず、自分の作った飯を不味いもう一杯!(笑)と食い、自分の素朴な暮らしを最高だと愛する。2500年前の中国の偏屈なニート哲学者がたどり着いた結論も、現代の俺たちがスマホを放り投げてプランターで育てたパセリを食うのも、本質はまったく同じなんだ。最強の反逆スタイルってのは、いつの時代も変わらねえってことだろうな。

人間の本質が全く変わってないことの証拠だよ。

3. 「評価(格付け)」のボイコット

社会が押し付ける「優秀さ」「勝ち組」「フォロワー数」といった一元的な価値観を、鼻で笑って無視することだな。フランクシナトラフランク・シナトラ🔗の名曲マイウェイを、自分の好きにうたったシド・ヴィシャス🔗みたいにな。蛇足ながらこのマイウェイ🔗みてみ?サイコーにロックだぜ(笑)

そこで出てくるのがまず東大至上主義や内申書の「内なる廃止」だ。

制度が変わるのを待つ必要なんかない。親や大人がまずそんな『共同幻想』を捨て去り、「そんなものは人生に何の関係もない」と開き直るんだ。そして子どもたちに「きみはきみのままで最高だ」と言い続けることだ。揺るぎのない自己肯定感を熟成するんだ。

そして羨望の廃棄だ。

資本が作った虚像でしかない他人のきらびやかな生活を羨むのをやめちまったらいいんだ。宮崎麗華🔗みたいな脱税してとっ捕まるインフルエンサーにあこがれてても仕方ないんだぜ。ばかばかしいったらありゃしない。それは俺や君の人生じゃない。

そして、目の前にある生身の自然や、他者との素朴なつながりに深く満足する「足るを知る」精神こそが、成長至上主義に対する最大の反逆な・な・なんだぜ!

こういうのをサイレント・テロっていうそうだけど、地に足をつけてまっとうに暮らすだけで静かなテロリストになれるなんて、まったくご機嫌な時代になったもんだ。

さらにもう一点付け加えようかな。

俺は君に、IKEAの創業者のイングヴァル・カンプラード🔗の言葉を伝えたい。

彼は自分の息子たちにいつもこう言っていたという。

『本当にお前が欲しいのはこれなのか。本当に欲しいのか、買う価値のあるものなのか、しっかり考えたのか。それを買ったら、手元にお金は残らないぞ』それが彼の口癖でした。(イケアの挑戦:創業者は語る🔗313頁より)

俺は自分の息子にもいつもそういっている。けど、なかなか奴はその衝動を抑えてくれないけどな。そんなにうまく考えてくれるんだったら、俺の小遣いももっと潤沢になるだろうさ。

このボイコットは、デモ行進のような大層な運動である必要はまったくないんだ。

「スマホを置いて、子どもと一緒にただぶらぶら散歩する」

「役に立たない面白い老人の長話に、あえて付き合う」

「広告に踊らされず、今あるものを大切に使う」

そんな他愛もない簡単なことばかりだ。

し・か・し、こうした、資本の論理から見れば「1円の利益も生まない、全く生産性のない時間」を俺たちが日常の中に奪い返していくこと自体が、俺たちや君たちを『消費者』から『市民』へと引き戻し、現代の超高度なデジタル資本主義システムに、致命的な打撃を与えるボイコットになるんだぜ。

人間を『機械』から『人材』というマテリアルから、生身の『人間』へと奪還する戦いは、俺たちや君たちの足元から、JUST NOW今すぐ始められるんだYO!

2026/06/03

POST#1867 金がない奴ぁ、俺んとここい、国家は信用創造でいくらでも作れるのさ

石垣島

国家の財源なんて、信用創造でいくらでも作れる。

金のない奴ぁ、俺んとここい!といってほしいもんだぜ。

もし植木等🔗演じる『無責任男』が総理大臣だったなら、そうやって大言壮語するだろうな。

これこそ金融システムの本質を突いた、極めて本質的事実だ。

みんななんとなく、自分の家の家計を考えて騙されちゃいけない。

政府の言うバランスシートとか、財政健全化っていうのを鵜呑みにしちゃいけない。将来世代にツケを払わせることになる惧れがあるからと、将来世代のために国費を投入して、より良い教育、つまり社会の歯車の鋳型にはめるようなものではなく、人間の可能性を引き出すような教育を施すことを惜しむのは、亡国の愚行だといって過言ではないだろう。

国債を発行して予算を作ることは、次世代への借金のツケ回しではなく、単なる政府による信用創造(通貨発行)である」という事実は、現代の経済学(MMT現代貨幣理論🔗など)でも明確に説明されている通りだ。もっとさかのぼったら、100年ほど前のドイツの経済学者クナップ🔗が『貨幣国定学説』で展開した表券主義🔗までさかのぼるだろう。

これは嘘でも何でもない。

金がない、財政難だといいながら、政府は国債の発行をやめる気配もない。なぜなら、それは自己増殖する貨幣そのものだからだ。年に数パーセント価値が下落していく円の価値を金利で補うもう一つの貨幣だからだ。現代の貨幣は、金本位制じゃないから、国家の信用だけでその価値と流動性を担保しているんだ。

お金はどこかから「集めてくるもの(財源論の罠)」ではなく、政府が決断すればその瞬間にキーボードの入力一つで作り出せるものものなんだ。その証拠に、アメリカからこんなだけ金出せと言われると、どこからともなく金がひねり出されてくるだろう?

「財源がない」という言葉は、子供たちを労働機械として使い潰すシステムを維持するための、単なる政治的・思想的な言い訳(プロパガンダ)に過ぎないんだぜ。

この信用創造の視点から、私たちが求める社会(子供を歓迎する社会)へシフトするための論点は以下の通りであろう。

1. 財源の壁は「嘘」である。

銀行が融資を行う際に預金を原資とせず、万年筆で通帳に数字を書き込むだけでお金を作り出す(万年筆マネー)のと同様に、政府が国債を発行して日銀がそれを受け入れるプロセスも、無から通貨を生み出す「信用創造」だ。みんな間違えちゃいけない。銀行はみんなが預金したお金を貸してるわけじゃないんだ。

真の制約は「お金」ではなく「供給能力」そのものだ。

お金をいくら刷っても、それを形にする「人間の労働」「資源」がなければインフレになりる。昨今のコストプッシュ型のインフレも、労働人口の縮小や、資源の高騰(とりわけアメリカ大統領ドナルド・トランプ氏の功績は絶大だ)によるものだといっていいだろう。

しかし今、この一連の構想で、俺たちが求めているのは「余っているリタイア世代(面白い老人)」の知恵の活用や、求職中の人たちを「事務職員」として雇ったり、「カウンセラー」として養成して、日本全国の学校に配置することでなわけだ。

社会に眠っている「人間という生身の資源」(こんな言い回しを俺が使うのも矛盾してるのは十分承知しているけれどね)は十分に余っているため、信用創造で予算を作ってもハイパーインフレなどを引き起こすことはないだろう。ナフサやコメのように目詰まりすることもないさ。

2. 「何を信用創造(創出)するか」という価値観の戦い

政府はこれまでも、必要とあらば事実上の信用創造で巨額の予算を一瞬で作ってきた。嘘だと思うかい?例えば、コロナ禍の持続化給付金や、銀行の救済、防衛費の増額など、実例は枚挙にいとまがないぜ。

問題は「お金を作れるか」ではなく、「作ったお金をミサイル(破壊の道具)に換えるのか、それとも子供たちの笑顔(生の余白)に換えるのか」という、国家の倫理観の選択にあるんだよ。子供たちを「かけがえのない存在」として歓迎するための信用創造こそ、最も正当な通貨の発行理由じゃないか。人々に死をもたらす道具か、人間の生を豊かにする余白か。君はどっちがいい?

さて、こういう話をすると、必ずや防衛費をケチって、中国に侵略されたらどうするんだ!と懸念を表明なさる方がいる。そんなお怒りの貴兄に一言申し上げさせて頂くとするならば、わが国の空気のように社会を覆う同調主義的な全体主義と、習近平の号令一下で社会の方向が決まるあからさまな全体主義と、どう違うというのかな?

そもそも中国でも日本でも、金のあるやつは政治に首を突っ込まない限り好きにやってるんだ。庶民はより良い社会の歯車を目指して精進し、搾取されるだけなのも変わりない。

政治や社会に異を唱えたときには、中国では劉暁波🔗やジミー・ライこと黎智英🔗のようにお上に拘束される。日本では、社会からバッシングされたり黙殺されるかの違いだけだ。

今のままじゃ、風呂の温度が熱いか温いかだけの違いの専制状態に変わりはないだろ。

こんな柔らかな専制政治のような社会の状況に対して、決定的な変化を生み出すためにも、これは必要なんだ。

3. 「貨幣の奴隷」から「貨幣の主人」への転換

「お金が足りないから、子供への投資を削り、労働機械を増やす」という発想は、人間がお金(システム)の奴隷になっている状態以外の何物でもない。

お金は人間が生きるための「道具」に過ぎないんだ。

「ようこそ地球へ!」という社会基盤を作るために、政府の信用創造という特権を発動させることが求められているんだ。生きた金を使うってことだ。これこそが、新自由主義的資本主義の呪縛を解き、人間の尊厳を経済の最上位に据え置くための具体的な実践とり得るだろう。人間の尊厳のための通貨発行だ。

「お金は作れる」という前提に立ったとき、俺や君たちは「財源の言い訳」に騙されることなく、堂々と「子供たちの命を救うための予算」を国に要求することになるだろう。

要は、日本政府に金はないというのは『共同幻想』なんだ。いつもずいぶん大昔に久米宏🔗がニュースステーションの中で、刻一刻と動き続けるデジタル表示、それは一瞬の休みもなく利子によって増大してゆく国債残高を示していたんだが、その前で持ち前の深刻ぶった表情を作って見せ、日本社会の行く末を案じて見せた姿を思い出す。

それからもう、二十年くらいは経ってるはずだけれど、俺たちは相変わらずだ。もちろん、国債残高が減ったわけでもない。

政府にこの「人間の尊厳のための信用創造」を決断させるために、俺や君たちたち『市民』(「消費者」じゃないぜ)はどのような世論のうねりを、あるいは政治へのアプローチを作っていくべきだろうか?

しかし、実際に行われていることは、本来の政治の役割そのものであるべき富の再分配が、富の収奪に堕してしまったことで、大多数の人間は心理的にも物理的にも欠乏状態に置かれている。

人々を欠乏状態に置くのは、権力を持ってるやつらの得意技だ。

人々を欠乏状態に置き、TVで、新聞の広告欄で、ネットで、SNSで、24時間365日休みなく資本の論理を広告として集中的に浴びせ、必要のないものを必要だと思わることで、人々の飢餓感、欠乏感、劣等感と羨望をあおり、人間を支配するシステムが社会を隅々まで覆いつくしている。まるでデジタルを使った農奴制だ。いやすでにヤニス・バルファキス🔗などの経済学者はその構造をその著書、『テクノ封建制🔗』などで解き明かしている。

これが、『市民』を『消費者』に変え、『主権者』を単なる『社会の歯車』に変えてしまうんだ。これがカール・ポランニー🔗が『悪魔の碾き臼』にたとえた近代資本主義のヴァージョンアップ版だ。

俺たちはそんなくそみたいな経済を、嘘くさい社会を静かにボイコットしないといけない。

ちなみに、バンクシー🔗はずっとそういうことを主張してきたアーティストだ。決して資本主義のアイコンとして消費していいような存在じゃないんだ。ロックだな。痺れるぜ。

2026/06/02

POST#1866 東大至上主義の解体

Sweden

さてと、この息苦しい教育現場の状況を転換し、子どもたちを『人材』から『人間』に取り戻すために、俺が提示する極論は以下の二つだ。

東大至上主義の解体。そして内申書の廃止だ。

この「東大至上主義の解体」と「内申書の廃止」は、子供たちを労働機械へと変える選別システムを根底から無力化し、学校を「ようこそ地球へ!」と歓迎する場に変えるための、極めて具体的かつ強力な実効策になりうるだろう。そんなことは無理だという前に、自分たちの常識を疑ってみるのも、時にはイイ頭の体操になるぜ!

この2つの制度的解体が、子供たちの尊厳を取り戻すことができるとしたら、それはどういうことを意味するだろう。ちょと肩の力を抜いて考えてみようよ。

1. 東大至上主義の解体:一元的な「人間格付け」の終了

日本の教育における頂点として君臨する「東大至上主義」は、社会全体の序列化(ヒエラルキー)の元凶だ。

この東京大学に入った時点の成績で将来官僚になってどこまで出世するかが決まっているという噂まである。いずれにせよ、国会答弁で出てくるような各省庁の事務次官つまり、実質的な官僚機構のトップは、例外なく東大出身だ。

しかし、そもそも東大はそんなにスゴイ大学なのか?

世界的に見たら、アメリカのハーバード大学やマサチューセッツ工科大学、イギリスのケンブリッジ、オックスフォードに比してどうなのよ。それどころか、右派の皆様の毛嫌いする中国の精華大学や北京大学にも及ばないんだ。

まぁ、俺は入る気づかいはなかったけどな。俺の経験からすると、高校の同級生で東大を目指してたやつは、みんな大なり小なりちょっとぶっ壊れてたな。

では、東京大学を頂点とする日本の大学教育のポイントは何か。そして東大ってのはその中で何を意味してるのか?

まず「正解を速く出す機械」の頂点ってことだ。東大を頂点とする受験システムは、カントの言う「手段としての人間」の優秀さを測るスクリーニング装置に過ぎないんだ。

しかし、この日本の教育制度の頂点に君臨する東京大学という存在が、全世代への呪縛となってるわけだ。この頂点が存在するおかげさまで、高校、中学、果ては幼児教育までが、上流の規格に合わせるための「前処理プロセス」と化しているわけだ。

つまり、それはどういうことかって?子どもたちは成長の過程で、この東大一直線🔗的な価値観を無意識のうちに強要される。そして、常にふるいにかけられるわけだ。頑張れば将来上級国家公務員となり、老後も天下りで心配なしだもんな。先行きくらい現代日本で、こんな将来の保証されたポジションはない。そこに残って医学部の教示とかになれば、製薬メーカーからキャバクラやソープランドの接待を受けることもできるだろう(笑)。

要は、子どもたちは、常にその数少ない椅子をめぐって熾烈な椅子取りゲームを行い、常に膨大な数の落伍者を生み出し続けてるんだ。

このシステムの解体の意味を真剣に考えてみよう。

この日本の教育システムの頂点を解体することは、社会の物差しを多元化することに他ならない。「どこの大学を出たか」という記号ではなく、「その人が何に熱中し、どう生きているか」という生身の存在へ、社会の関心を強制的に引き戻すことになるだろう。

また、オフィスに定住して働くサラリーマンや官僚が社会的な地位が高く、日々あちらこちらの現場を移動して働くような人間を二級市民として扱うような風潮、もっと言うなら、空調の利いた事務所で働く人間を常民と見立てるのに対して、建築、物流、インフラの維持、ケア労働などの社会に欠かせないエッセンシャルワーカーを漂泊民、非定住民、被差別民のように見た立てて、社会の表側から排除するような社会を変えることにもつながるだろう。


2. 内申書の廃止:「従順な奴隷」をつくる監視の排除

俺は私立の中学に行ってたから、実は内申書というやつはあまりよく知らなかった。息子が効率の小学校に入ってから知ったことだ。その少ない情報をもとにしても、内申書(調査書)は、子供たちの精神を最も内側から去勢し、窒息させている「見えない足枷」だといわざるを得ないよ。

まず、内申書ってのは内面化される検閲なんだ。

教師の主観をもとに記される内申書を意識して、子どもたちは「先生にどう見られるか」「減点されないか」を四六時中意識せざるを得ないだろう。

これはポリティカル・コレクトネスやコンプライアンスがもたらす「相互監視・同調圧力」の、最も残酷な初期訓練だ。大人になっても勤務評定とか続くこのシステムの前哨戦だといえるだろう。いや、ここでふるいにかけるのだから、もっともその威力が強いと考えても過言じゃないかもしれない。

これによって「愛すべき駄目さ」という多様性はハムスターをひねるようにして圧殺される。内申書がある限り、寅さんのような規格外の人間味や、理不尽なシステムにNOを唱える正当な反抗は「問題行動」として処理さるだけだ。四年生くらいまで、授業中探検と称して学校内をうろつきまわっていたうちの息子は、どんなにテストで頑張っても評価されない。通知表は1の行進だ。そんなもんだ。

この内申書を廃止することは、学校から「評価という名の特高警察」を追い出すことに他ならない。それによって子供たちは失敗を恐れず、自分の言葉で話し、ありのままの自分で息をすることができるようになるだろう。

この2つを断行することは、単なる入試制度の改革ではない。

それは、国や市場が子供たちにつけている「バーコード」つまり『人的資源としての値札』を剥ぎ取るという、実質的な奴隷解放宣言になるんじゃないかな。

学校という、子どもたちにとっては世界の半分に等しい世界で、『人的資源として値踏み』される恐怖から解放されたとき、初めて子どもたちは『自分はここにいていいんだ』という実感を持ち、他者や世界に対して心を開くことがでるんじゃないか。心の武装解除だ。

じゃぁ、実際にどうする。

例えばだ、これは俺が私淑する吉本隆明🔗が90年代にしばしば語っていたことだ。それをあえて今、今は亡き吉本隆明に代わって表明しよう。

ずばり、『東大の先生とそこいらの三流大学の先生を入れ替えることで、日本の偏差値重視の詰め込み教育が変わる』

まさに「コロンブスの卵」のような痛快な発想だ。

東大の看板を外して、三流大学と呼ばれている場所に最高峰の知性を投入する。逆もまた然り。そうなれば、受験生は「どこの大学か」ではなく「誰に何を学ぶか」で選ぶしかなくなります。「看板ではなく、個の対話」を重んじた、その先生らしい過激で本質的な教育改革案になるだろう。

まず、教師たちにおきる変化だ。三流大学から東大に行った教授は、理解力の優れた優秀な生徒に対応するために、自分自身も必死に研鑽し、学者としてのレベルアップを図らねばならないだろう。

また、東大からそこいらの三流大学に移動になった教授は、ふてくされるだろうけれど、勉強はいまいちでも、センスのいい、つまり非認知能力に優れ、社会的なさまざまな経験と出自を持つ学生たちに対峙することで、これまた自らの学問を深化させ、より平易で分かりやすく教えてゆく必要が生じる。中にはとんでもない逸材が潜んでるかもしれないじゃないか?

一方で、このガラガラポンが、毎年とは言わなくとも数年に一度の頻度で行わるんだとしたら、生徒たちもどこの大学でもいいというわけにいかないだろう。東大というブランドには頼れないんだしな。優秀な学生ほど、優秀な先生のいる大学を狙うようになるはずだ。

また、どうせ少子化が進んでいるんだから、大学入試自体も、ある一定のレベルを担保していたら、どこかに入ることができるように、また共通の大学入学資格があるなら、他大学の授業を受けても単位を取ることができるようにするというのも一考の価値のある施策かもしれない。

その代わり、大学を出るには徹底的に厳しい試験やハイレベルな修士論文を提出しなければいけないということにするんだ。

それは、労働市場にも大きな影響を与えるだろう。

今の労働市場が新卒の新入社員に求めているのは、高度な専門性ではなく、単なる学歴、つまり大学まで従順に社会の暗黙の要求を受け入れ、自らの組織が求める『人材』として馴致されているかかという点だろう。当然、大学のシステムが入るのは容易に、学位取得と卒業がハイレベルにと変われば、3年生の6月から就職活動をして、専門課程の教育がおろそかになることもない。

さてさて、「出口(入試)」を壊し、「中身(教員)」をかき混ぜる。偏差値という物差しで人間を序列化するシステムの根幹を、数学的かつ大胆な発想でひっくり返そうとしていう算段だ。

偏差値のチャンピオンたちが作った政財官のピラミッド組織の硬直した物差しが、日本を停滞させている。人間を人材や消費者扱いしている。

当時吉本隆明が見据えていたのは、単なる教育制度の不備ではなく、『人間を数値化して管理する思想』そのものの限界だったと今ならはっきりわかる。

偏差値という単一の物差しで勝ち上がった人々が、同じ物差しで社会(政財官)を構築してしまった。その結果、効率や前例が優先され、「個の尊厳」は言うまでもなく『社旗の風通しの良さ』『が切り捨てられてきた。

人間を『替えの利くパーツ』つまり『人材』や『消費者』として扱う今の構造は、社会の硬直化の極みと言えるだろう。もうそろそろ、違う方法を試してもいいんじゃないかのな?

こんな構想を実現するためにも、ぜひとも国家的に取り組むべきことがある。

ずばり、教育に関する国家予算を引き上げ、学校の事務を担当する専門職員、子供たちのメンタルケアを担うカウンセラー、そしてできたら学校をぶらぶらしてる教養豊かな面白い老人などを各学校に配備最低一人ずつ配備するんだ。

それは、これまでの議論のすべて(「労働機械からの脱却」「無用の用の回復」「ようこそ地球へという歓迎」)を、具体的な制度と予算として着地させる極めて具体的で、最高に魅力的なグランドデザインになるだろう。

教育予算の増額(政府支出の拡大)を原資として、学校に「3つの異なる役割を持つ大人たち」を配備することは、学校という閉塞した空間に風穴を開け、子どもたちの命を救う決定打になるんじゃないか。

それぞれの配備が持つ決定的な意味は、こんな感じだ。

1. 事務専門職員の配備、それは教員を「人間」に戻す

現在の学校の先生たちは、過酷な書類仕事や部活動の管理、コンプライアンス対応に追われ、精神的・時間的な「余白」を完全に失っていいる。ほとんど殺人的だ。

ここに事務作業を専門に受け持つスタッフを雇用して、様々な事務作業を専門職員に完全移管することで、先生たちの過重労働(ブラック化)を解消し得るだろう。

それは、教師を「労働機械」から「歓迎する大人」へと引き戻すことになる。

先生自身がシステムに搾取される労働機械から解放されて初めて、子どもたち一人ひとりと生身の人間として向き合い、「ようこそ地球へ!」と笑顔で迎え入れる精神的ゆとりが生まれるんじゃないか。

2. メンタルケアの専門カウンセラー常駐つまりアジール=逃げ場の制度化

現在のスクールカウンセラーは非常勤が多く、圧倒的にリソースが不足している。各学校に常駐・複数配置すべきだ。

そして、彼らの存在『評価』と切り離された安全地帯を学校内に生み出すんだ。だからこそカウンセラーは、内申書や成績といった『評価システム』とは完全に無関係な存在でなければならないだろう。つまりはカナリアの保護シェルターを担ってもらうわけだ。

子どもたちが「社会の部品」としてのプレッシャーに潰されそうになったとき、あるいは家庭や教室で、同調圧力などの抑圧で息ができなくなったときに、値踏みされることなく、ただそのままで保護される「駆け込み寺」=アジールが校内に担保されることになるんだ。

現在は、それを保健室の先生が担っている場合が多いだろう。そこに専門知識とノウハウを持ったカウンセラーを増強することが、子どもたちにとって、よい変化をもたらさないわけがない。

3. 学校をぶらぶらしている面白い老人:最高の「無用の用」

このアイデアこそが、現代のスマートでクリーンなディストピアを打ち破る最も革命的な一手といってもいいだろう。

定年退職した教師や、地域の高齢者でもいいだろう。いっそリタイアした職人、旅ばかりしてきた人、へんてこな学者とか、学校ごとにそれぞれに見識と寛容さがある人がぶらぶらしていてくれるといいな。どれだけ、教師やカウンセラーがフォローしても、その網をすり抜けてしまうこどもは絶対にいる。そんな子どものそばにいつのまにか寄り添って、フォローしてくれるような存在がいたっていいだろう。

学校ごとに、そんなおじさんのトレーディングカードを作って、塾とかで子どもたちが、よれたおっさんのカードを交換してたりするのを想像しても楽しいもんだ。

彼らの存在は「生産性」という物差しを無力化する。

テストの点数を上げるわけでもなく、校則を破った生徒を取り締まるわけでもない、「ただそこに楽しそうに生きている大人」が校内を徘徊していること自体が、強力なメッセージになりるだろう。

平たく言えば令和の「寅さん」の復権みたいなもんだ。

教養豊かで、世界の面白さを知っていて、でも今の社会のシステムからはみ出して楽しそうにしている老人は、子供たちにとって「あぁ、あんな風に、役に立たなくても生きていていいんだ」という生きた教科書(ロールモデル)になり得るだろう。彼らの存在が、学校のギスギスした同調圧力を中和する「文化的な余白」=緩衝地帯になるんだ。

あぁ、RCサクセションの僕の好きな先生🔗みたいな変なおじさんだ。

現在の日本の教育予算(対GDP比)は、OECD加盟国の中でも最低レベルが続いている。ます。道路やコンクリート、あるいは企業の補助金(経済成長の手段)に回している予算を180度転換し、この「学校の人間化」へ投資することは、炭鉱のカナリアを救うための最も正当な国のあり方だろう。少なくとも、トランプ大統領の顔色を窺って、アメリカから型落ちのミサイル買う金があったら、こっちに回してほしいよ。これについちゃ、まったく腹が立つったらないぜ。さんざん金がないといっておきながら、ミサイルや戦闘機を買う金はいつだって湧いて出てくるんだ。

税金つまり国家予算という国家の富(それは俺たち国民すべてのもので、麻生漫☆画太郎先生にお情けで配ってもらうようなもんじゃない)を、「人間の生命を破壊・管理する道具」に優先投資するのか、それとも「今を生きる子供たちの生命と尊厳を育む場所」に投資するのかという、国家の意思と価値観の歪みを突いた、非常に切実で正当な怒りだろう?

アメリカからの高額な兵器購入(FMS:対外有償軍事援助)に巨額の国費が投じられる一方で、教育や福祉といった「人間の生存」に関する予算が常に「財源不足」を理由に後回しにされる構造は、まさに先ほどから議論している「主客転倒した社会システム」の最たる象徴以外の何物でもないぜ。

近年の日本政府は防衛費を大幅に増額し、数兆円規模の予算を計上していいる。その中には、米国製の巡航ミサイル「トマホーク」などの大量購入がたっぷり含まれております、はい。

その一方で、日本の公教育に対する公的支出(対GDP比)は、OECD(経済協力開発機構)加盟国の中で長年最下位の争いを続けているってのは、情けない限りだ。

「人を守る」ことの定義が転倒してるんだ。国家が「他国からの脅威」に備えるという大義名分の裏で、自国の内部にいる子どもたちが社会の息苦しさによって、年間500人以上も自ら命を絶っている現実を放置しているのは、完全な論理破綻じゃないか?

国民の税金を投入して守るべきものが、子どもたちが自ら死を選びたくなるワンダーランドなんだぜ。笑いが止まらないぜ。

アメリカに支払っているその何千億円、何兆円という予算の一部をスライドさせるだけで、俺が提案した『学校の人間化』は一瞬で実現可能だよ。

具体的な試算をイメージしてみよう。

ミサイルや次世代戦闘機の購入・維持費を数機分キャンセルするだけで、全国すべての小中高校(約3万校)に「常駐のカウンセラー」と「事務専門職員」を複数名雇う人件費が余裕で捻出できちゃうよ。

「学校をぶらぶらする面白い老人」たちに、地域の知恵袋として謝礼や活動費を支払う仕組み(地域通貨やシニア雇用制度の刷新)も、兵器の爆買いをやめればお釣りが来る規模で持続可能に決まってるじゃないか。

さて、俺たちは主権者として「予算の180度反転」を突きつける時に直面してる。

「財源がない」というのは嘘なんだよ。

単に「政府が人間の尊厳や教育よりも、軍事や経済成長(手段)を優先している」という選択の裏返しに過ぎないんだから。


アメリカの軍事産業を潤すために型落ちの兵器を買い漁るのをやめ、その莫大なエネルギーを「ようこそ地球へ!」と子供たちを迎え入れるための、優しくて余白のある学校空間の構築に回すこと。これこそが、このディストピア化した社会を内側から解体し、真の「安心できる国」を作るための最も本質的な防衛策と言えます。


この「面白い老人」や「専門職」が学校にいる風景を想像すると、それだけで学校が温かい場所に変われるんじゃないかと希望が持てないか?