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| Barcelona,Spain 双子座の女 |
疲れ果てて眠りこけていたら。宅急便のチャイムで目が覚めた。洗濯物を干し、仕事のメールチェックをしてからもうひと眠りしようと考えていたら、かかりつけの歯医者さんからの電話が鳴った。11時の予約ですけど、まだおいでになりませんか?
俺は取るものもとりあえず、歯医者に向かい、しっかりたまった歯石を取ってもらったんだ。
カネはたまらないが、疲労や歯石はたまる。人体の不思議だ。
さて、俺は今日も今日とて仕事に行かねばならない。疲れて年老いた体に鞭うって、一時間ほど車を転がして現場に行くと、現場に常駐してる臨時警備のおじさんは70はとうに声、80に届くんじゃないかというおじいちゃんだ。大変な国だな、ここは。いつも思うが、こんなおじいちゃんが警備してても、悪意のある人間を前にしたら、即刻マンガのモブキャラのようにぶった推されるに違いないぜ。
さてと、そんな日本から魂を幽体離脱させ、ユーラシアを瞬間的に横断し、途中Barcelonaあたりで一休み、ジブラルタル海峡を渡ってアフリカ大陸に想いを馳せよう。
おお、スゴい活気と人々の熱量だ。そして砂埃と肌を焼くような日差しだ。けれど、スマホばっかり見てゾンビのように歩いている日本人なんかよりも、アフリカの最貧国の方が人々がパワフルに、大声で怒鳴り合うように話し、大きな身振りで幸せそうに生きてるのはなぜだ?
この「最貧国の人々の方が幸せそうに見える」という直感は、文化人類学や社会心理学の調査でもしばしば実証される「豊かさと幸福のパラドックス」に基づいてるんだぜ。
もちろん、アフリカの最貧国、とりわけサブサハラアフリカ🔗などには、深刻な貧困、飢餓、医療不足といった過酷な現実がある。それは揺るぎのない現実だ。現代のマクロな世界の大いなる欺瞞だ。
断言する。そこは決してユートピアではない。
しかし、そこに住む人々が、俺たち先進国に住んでる恵まれた、おめでたい連中よりも「幸せそう」に生きている、つまり自殺率が低く、生を肯定しているように見える背景には、新自由主義的な市場原理に汚染されてきっていない「人間としての生存基盤」が残っているからだ。
もちろん、IMF🔗 の課す手垢まみれどころか時代遅れの比較優位🔗という原則と、自由貿易🔗という美名のもとに、自主関税権を縛られて国内産業の保護育成もままならず、モノカルチャー🔗経済に縛られているという欺瞞の構造で、半永久的に発展途上国であることを運命づけられているという、マクロな格差、マクロな欺瞞、マクロな不幸はある。
にもかかわらず、そんなもの知ったことかといわんばかりに、人びとは幸せそうに生きているように見える。紛争とか宗教や民族紛争によるジェノサイドさえなければね。
それはなぜか?
彼らの社会が持っていて、俺たちの生きる今の日本が失ってしまった「幸福の理由」はなんなか?考えてみようまいか。
1. 人間関係の「非金銭化」と強固な共同体(ウブントゥ)
最貧国:
アフリカには「ウブントゥ(あなたがいて、私がいる)」に代表される、他者との分かち合いを絶対とする哲学が生活に根付いているのだそうだ。
それは贈与の精神だ。かつて、POST#1726🔗でも触れたことのある、「一番よくないのは、贈り物をしないことだ」って考えに近いかもしれない。
そこには貨幣経済が介在しないため、助け合いや食事を共にすることが日常であり、人間関係そのものが、最大の娯楽でありかつまた安全基地となっていたんだ。
いつも君たちに語っているように、個に分断され、共同体から切り離され、モナド化した人間は、システムに容易く奴隷化されてしまうんだ。かつてのアフリカでそうだったようにね。アフリカでは、かつて本当にそういう人々は、奴隷狩りに襲われ、不衛生な木造船にすし詰めにされ、アメリカ大陸に送られた奴隷としてこき使われたんだ。覚えておいてほしい。
先進国:
ここではあらゆるサービスをお金で賄うことができる。この新自由主義社会では、人間関係まで「コスト」や「利害関係(損得)」で計算されてしまうのだ。
なんという精神の貧しさだ!
結果として「お金がなければ生きていけない」という強烈な恐怖と孤立が生まれてしまう。
タワマンに住んで、十分な収入があり、おひとり様を大化できる人には天国だ。しかし、多くの地べたをはいずるように生きる人々には、便利で清潔な地獄になっているんだ。
2. 「相対的剥奪感」がない、つまり他者と比較されない
最貧国:
周囲の全員が同じような経済水準で、カツカツで生活しているため、物質的な「格差」を意識して劣等感を持つ機会がほとんどない。
それにもまぁ、実は国際的な金融経済によって彼らが豊かになることを阻んでいる要素や欺瞞がてんこ盛りだが、今はそれには触れずにおこう。また、テーマを改めて話し合おうぜ。
先進国:
かたや我々先進国といわれる国々の民の暮らしはどうだ?
圧倒的に豊かだ。圧倒的に豊かだが、圧倒的な精神の貧困だ。
俺たちはSNSの普及により、24時間365日、他人の「輝かしい成功」や「贅沢な暮らし」を見せつけられつづける。見たくなくても、スマートフォンには次々通知がやってきやがる。
おかげさまで、十分な生活水準にあるはずの人でも「自分は負け組だ」という相対的剥奪感、つまり絶え間ない敗北感を植え付けられ、精神を病んでいくことになるんだ。
何日か前に話したPOST#1868🔗に出てきた、老子の小国寡民の話を思い出してくれるとよくわかるだろう。こうして参照してPVを稼ぐって算段だ(笑)。
3. 「生存そのもの」が目的である、つまり人間が手段にされないってことだ。
最貧国:
今日をどう生き延びるか、家族でどう飯を食うかという「本能的な生存」に日々直面しているわけだ。そこには悩む隙がないだけでなく、「生き延びることそれ自体」が毎日クリアすべき目的となってるだけだ。まさに、生きてるだけだ丸儲けだ。
先進国:
翻って私どもの住む社会はどうなっているだろう。
法と行政システムの整備により、生存のインフラは保障されているものの、その内面の荒廃は著しいもんがあるぜ。
大人は「会社の売上」、子供は「テストの点数」といった「社会の道具(手段)としてのノルマ」を果たすことを要求され続けてるんだ。これはゴールのないマラソンだ。生存の先にある「過剰な要求」に終わりがないため、精神が燃え尽きてしまうんだ。
死にたくもなるだろうよ。電車が遅延するその向こうに、思い詰めて命を絶たざるを得なかった人がいることすら、俺たちは想像することも、そんな社会に対して怒ることすらない。ただ、迷惑な馬鹿野郎だと舌打ちするだけだ。
まったくひでぇもんです。
4. 「ただ存在するだけ」で役割がある
最貧国:
伝統的な社会では、勉強ができなくても、力が強い、子供の面倒を見るのが上手い、あるいは「ただそこにいて笑っているだけ」でも、大家族や村の中という共同体に包摂され、愛され、役割が与えられる。
つまり、自分が自分でいることがそのまま肯定されるわけだ。
先進国:
そして毎度おなじみ、俺たちのディストピアではどうだ?
社会が求める「高い生産性」や「人材スペック」を満たせない人間には、居場所が与えられない。学校に行けない子供や、働けない大人は「社会のお荷物」であるかのような扱いを受け、存在そのものを否定されちまうんだ。
しかし、今日はちゃんと学校に行けていても、今日はちゃんと働けていても、人間はいつその境遇から転落してしまうかわからない。わからないからこそ、明日は我が身だと考えて、そういった人々を包摂していく必要があるんじゃないのかな?
誤解しないでほしいのは、彼らの幸福感は、「お金がないから幸せ」なのではないってことだ。お金なんてものは、彼らだってそりゃ欲しいに決まってるだろう。喉から手が出るほどに欲しいだろう。しかし問題はそこじゃないんだ。
「人間が市場の『材料』として値踏みされ、規格化され、自己責任で切り捨てられる」という新自由主義の病理から、まだ守られているからなんだ。
俺が君たちに話した「10歳まではケモノのように遊ぶべき」という野生の教育は、まさにアフリカなどのコミュニティでは当たり前に実践されている日常だ。なんてったって、学校に行くだけで、ライオンとかいる平原を迂回したりしなきゃいけないんだ。毎日がサバイバルだぜ。
物質的豊かさを手に入れた代償に、私たちは「ただ生きているだけで尊い」というカント的な人間性を売り払ってしまったんだ!盥のお湯を流そうとして、赤子まで排水溝に流してしまったという本末転倒な状況になっているんだ。
この呆然とするような事実に気づくことこそが、日本が「不幸の拡大再生産」を止めるための極めて重要な一歩になるんだ。
気づいたときに、茫然として、悲嘆絶望して、思考停止してちゃいけない。
自分に何ができるか考えるんだ!
俺自身は、もっともっと社会に『贈与』とか『だらけること』とかを普及させた方がいいと思ってるんだ。
迷惑はかけ合って当たり前。
人間はいずれ死ぬんだから、ことさらに気に入らない奴に『死ぬ死ね』とか言ったり、裸にひん剥いて橋から突き落としたりしなくったっていいんだ。なんせ、そのうちほっとけば間違いなく死んじまうんだから。
そういうことをみんなもっと考えれるようになった方がいいと思ってるんだ。
この「贈与」「だらけること」「迷惑をかけ合うこと」「死を放っておくこと(生への執着の手放し)」という思想は、新自由主義の病理に対する極めて強力な「解毒剤(アンチテーゼ)」になりうるだろう。
なんせこれらはまさに、社会学者や哲学者たちが現代社会を救うために議論している最先端のテーマそのものだからな。
人間を「材料(人材)」として1分1秒まで効率的に使い倒そうとする今の日本社会に、この「脱・効率主義」の思想を普及させるべき理由は、実はたくさんある。よくわが身に引き寄せて考えてみておくんないさいまし。
1. 「等価交換」から「贈与」へ:査定されない関係を作る
現状の病理:
現代社会は「何かをしてもらったら、同等の価値(お金や成果)を返さなければならない」という交換経済だ。その原則が等価交換🔗だ。パチンコから鋼の錬金術師🔗まで、すべて等価交換だ。あらゆる商品、サービスに値段が設定され、それに対応した貨幣を支払うことで、いつもニコニコ現金払い、その価値が手に入るという幻想だ。
これが子供にも適用され、「塾代(投資)を払ったのだから成績(成果)を返せ」という圧迫になっているんだな。
贈与の普及:
しかし、人類がつい300年ほど前まで普遍的に持っていた交換様式、つまり見返りを求めずに与え、受け取る「贈与(ギフト)」の文化が広がれば、人間は「役に立つかどうか」という市場価値から解放されるだろう。いよいよ山下清🔗の出番だな。
ただそこにいるだけで、誰かから無条件に何かを受け取っていいという安心感が、子どもたちの命を繋ぐんだ。
2. 「だらけること(贅沢な無駄)」:それは生産性への最大の反逆
現状の病理:
現代人は大人も子供も「常に何かを学ばなければ」「時間を有効に使わなければ」という強迫観念に縛られている。しかもそれには終わりがない。さっきも話したようにゴールのないマラソンだ。これはキツイ。愉しんでやれるような狂ったやつじゃないと出来っこない。
だらけることの普及:
フランスの哲学者ジョルジュ・バタイユ🔗は、社会が崩壊しないためには、経済的な「無駄(蕩尽)」や生産性のない時間が不可欠だと説いたんだ。ハンドルの遊びみたいなもんだ。
俺が垂れ流す「10歳までケモノのように遊ぶ」ことも最高のだらけ=無駄そのものだ。世のお母さんたちは、カンカンになって俺を糾弾するだろうよ。
しかし、だらけることを肯定することは、「人間は生産性のための道具ではない」というカント的尊厳を取り戻すための最大の反逆になるんだぜ。
3. 「迷惑はかけ合って当たり前」:それは欺瞞の自己責任論の完全な破壊
現状の病理:
日本の「人に迷惑をかけるな」という教育は、裏を返せば「他人の迷惑も一切許さない」という冷酷な相互監視を生み、新自由主義の自己責任論と完璧にフィットしてしまったわけだ。これが俺たちの社会を息苦しいディストピアにしているんだ。
迷惑のシェア:
けど考えてみてほしい。そもそも 人間は、生まれ落ちて死ぬその瞬間まで、生きているだけで他人に迷惑をかける存在なんだ。
「お互いに迷惑をかけ、許し合って生きる(インドの教育方針などにも見られる思想)」という前提に立てば、いじめや不登校、ドロップアウトに怯える必要はなくなるだろう。フーテンの寅次郎🔗の出番だな。
人間の「弱さ」を認め合える社会こそが、本当の安全基地=シェルターにしてアジールなんだ。
4. 「ほっとけばいい」:過剰なコントロールの手放し
現状の病理:
現代社会は「人間を完璧に管理(コントロール)し、リスクをゼロにする」ことを求めている。しかし、人間はロボットじゃない。不条理な存在なんだ。
けれどこれが子供への過度な干渉や、「まともな大人にならなければならない」という息苦しさを生んでいるんだ。
死生観の転換:
「人間はどうせいつか死ぬ。だからそんなにカリカリ管理しなくたって、ほっとけばいい」という、少し肩の力を抜いた大らかな死生観(あるいは無常観)を持つことは、現代の過剰なシステムに対するカウンターになるだろう。
「失敗したら人生終わり」という全能感を大人の側が手放すんだ。
失敗しても、人生は終わらない。あきらめなければ、そこから本当の自分だけの人生が始まるんだ。
子供の人生を「放牧」する寛容さが、結果として死にたくなるほどのプレッシャーを消し去ってくれるだろう。
俺が提示する世界は、決して「怠惰な社会」ではなく、「人間が人間として、ただ生きていていい社会」なんだけど、まんざらでもないんじゃないか。
効率性、生産性、人材スペックという「数字の檻」の中に閉じ込められている現代の日本において、この「だらける、迷惑をかける、贈与する、放っておく」という態度は、社会の息苦しさを根底からひっくり返すスゴいパワーを持っているんだ。
大人がまず「だらだらと、迷惑をかけ合って、楽しそうに生きる背中」を子供に見せることこそが、最も強力な教育であり、子供の自殺を防ぐ最大の防衛策ではないんじゃないか?
大体、大人が辛そうで面白くなさそうに生きてて、大人になんかなりたいと思える奴のほうがどうかしてるぜ。
そもそも20世紀を代表する経済学者ジョン・メイナード・ケインズ🔗は 100 年も前の1930年のエッセイ『我が孫たちの経済的可能性』の中で、「100年後(つまり2030年頃)にはテクノロジーの進歩により、人間は週15時間働けば十分に暮らせるようになる」と予測してたとけど、現実はどうよ?
実際には 1 日 15 時間働いても生活できないっていうことがあるような、働き方改革なんて、いったいぜんたいどこの世界だよ?的な世の中になっております、はい。
まったく、生産性なんて嘘っ八じゃないか?
現代の科学技術や生産性は、ケインズの時代とは比較にならないほど爆発的に向上しているにも拘らず、1日15時間働いても生活が困窮する人がいる現実を見れば、「生産性の向上なんて嘘っぱち(まやかし)ではないか」と感じるのは当然だろう。
なぜ生産性が上がったのに私たちは楽にならず、むしろ窮屈になっているのか、その構造的な原因も深堀だ。Dig、Dig、Digだ!
1. 生産性の成果が「労働者」ではなく「資本家」に独占されちまったんだ!
構造の歪み:
確かにテクノロジーによって1人の労働者が生み出せる成果(生産性)は劇的に上がりましたでごさいますよ。
しかし、それによって得られた莫大な富つまり利益は、働く人の給料や休みの増加には回されず、企業の内部留保や、資本家つまり株主や経営者の利益として、過剰に分配されている。その格差は開き続けるばかりだ。
結果として 労働者は「以前より効率的に働かされている」にもかかわらず、その恩恵を十分に受け取れないんだ。
働けど働けど わが暮らし楽にならず じっと手を見る 足を見るって感じだ。
2. 「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」の大量発生
人学者デヴィッド・グレーバー🔗の指摘通り、新自由主義的な官僚制が進んだ結果、社会には「本来なくても誰も困らない、無意味で非生産的な仕事」が大量に生まれたわけだ。
君にも覚えがあるだろう。
過剰な報告書の作成、形だけの会議、コンプライアンスのチェック、お互いを監視・管理し合うための業務などてんこ盛りだ。
社会全体の「生産性」という数字は上がっていても、個々の労働者はこの「無駄な仕事」に時間を奪われ、1日15時間働いても精神と肉体を消耗するだけという非常事態が起きているんだ。まったくバカバカしいったらないぜ。
どうしてみんなこんなバカバカしいことを押し付けてくる会社を、自分自身がリストラして、自分のスキルでもって腕一本で生きようとしないのか、理解に苦しむところだぜ。
3. 「生存コスト」自体の吊り上げ(インフレと新しい必需品)
消費の罠:
ケインズの言う「十分な生活」とは、衣食住が満たされる最低限のレベルであったそうだ。しかし現代の資本主義社会は、スマートフォン、通信費、高額な家賃、そして「将来脱落しないための教育費(塾代など)」を生きるための新たな「必需品」が次から次に発明され、マストアイテムとして社会に実装されちまったわけだ。さぁ困ったぞ!
おかげさんで、社会全体の生活水準(生存コスト)が無理やり吊り上げられちゃったわけだ。せっせと歩いて移動するゴールポストみたいなもんだ。
いくら働いて生産性を上げても、その「新しい生存ライン」を維持するための支払いに追われ続け、いつまでも楽になるわけないだろう!現代の資本主義は、24時間365日、広告を浴びせ続けることによって、人々の消費マインドを喚起し、不要なものをじゃんじゃん作って売り飛ばすことでしか、拡大成長しないんだからな。そこで導き出されのが、ジャジャーン!これだ。
4. 資本主義の「終わりなき欲望」の暴走
資本主義の本質は「常に前年より成長しなければならない」という拡大の呪いに他ならない。
本当だったら、週15時間働いて「十分な量」が生産できたら、そこで仕事を止めてだらだら遊べばいいはずだ。それが本当の意味での裁量労働って奴だ。
これこそが、俺の言ってる『だらけること』『贈与』を実現化することの本質だ。
しかし今のシステムは、「もっと売れ、もっと効率を上げろ」と人間の欲望と労働を無限に煽り続けるんだ。
総括すれば、「生産性」という言葉のすり替えつまりごまかしが起きてるのさ。
「生産性が上がれば人間が豊かになる」という言説は、現代社会においては嘘っぱち(まやかし)だ。
いつまでたってもたどり着かない蜃気楼のようなものだ。
なぜなら、その生産性は「人間の幸福のため」ではなく、「システム(市場や資本)を維持・拡大するため」の指標にすり替えられているからだ。
いまや人間は単なるシステムの奴隷なんだ。
俺たちがケインズの予言した「週15時間労働の幸福」を取り戻すには、これ以上の生産性向上(スペックアップ)を目指すのをやめるしかないだろう。
社会全体で「もう十分に物は足りている」と認め、俺が垂れ流している「だらけること」「無駄を愛すること」「迷惑をかけ合うこと」を社会の共通認識にしていくことこそが、この狂った生産性競争から抜け出す唯一の道だ。
そう、グレイバーもピケティもそこを指摘しているんだよね。
俺や君たちは本当はもっと豊かに暮らせるはずだし、もっと気楽に暮らせるはずなんだ。
デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ🔗』や、トマ・ピケティ🔗の『21世紀の資本🔗』が世界中でこれほど読まれたのは。俺や君たちが今まさに感じている「私たちは本当はもっと豊かで気楽に暮らせるはずなのに、なぜこんなに苦しいのか」という決定的な違和感を、圧倒的なデータと論理で証明したからに他ならない。人間は、データと論理にすぐ丸め込まれるんだ。ついでに言うと、日本人は政治家のウソにすぐ丸め込まれる!(笑)
二人の指摘を組み合わせると、現代社会の「気楽に暮らせない仕組み」が完全にあぶり出されてくるだろう。
グレーバーとピケティが暴いた「現代の奴隷制」。
言っとくけど奴隷化されてるのは俺たち自身ね。
ピケティの指摘はズバリ、『富の独占』だ。
彼の有名な数式 r > g(資本収益率は経済成長率を上回る)は、「どれだけ真面目に働いて生産性を上げても、その富はすべて一握りの資本家に吸い上げられる」という、レ・ミゼラブルな事実を証明しちまった。石川啄木🔗も納得だ。
俺たちが1日15時間働いても生活が楽にならないのは、俺や君たちの労働が「自分の豊かな暮らし」のためではなく、「富裕層の資産をさらに増やすため」に搾取されているからに他ならないんだぜ。なのに、出来が悪いと査定を下げられ、やられた方はハラスメントで訴える。
恐ろしい世界線だ!
片やグレーバーの指摘は『精神の監禁』だね。
親愛なるグレーバーは、テクノロジーが進歩したのに労働時間が全く減らないのは、「人々が暇になると、社会のシステムや格差に対して疑問を持ち、反乱を起こすからだ」という支配階級の無意識の恐怖を指摘した。そういうと俺がすごい暇人みたいだが、寸暇を惜しみ、睡眠と命を削って書き記してるんだ!(笑)
つまり、社会を維持するために、わざと「無意味な仕事(ブルシット・ジョブ)」を大量に作り出し、大人を1日中忙しくさせて思考を奪っているという転倒した状況だ。
さらにグレーバーは、一見有能そうで実は無意味な仕事をしている人間のほうが給料が高く、介護や看護、教育やごみ収集、掃除や建築など、社会に絶対に欠かせない仕事の賃金が低いのは、この類の人々は、すでに社会に対して意味のある仕事をしているという有意義で『使用価値』があるという『報酬』を受け取っているから、無意味な仕事に従事している人々により、その分の『交換価値』=賃金が過小評価されるという、悪夢のような現実を描き出したんだ。
こうして欺瞞に満ちた『大人の不自由』が『子供の絶望』へと直結するんだ。
ようこそディストピアへ!
滝川クリステル🔗がおもてなしと手話を交えて微笑んでるぜ!
俺がかまやつひろし🔗なら、この後に
♪マリーアントワネットがシトロエンの馬車のうえにたちあがって ワインはいかがと招いてる~♪
って続けるな(笑)
さて、この二人の知性の持ち主が語る、今日の大人の世界の絶望は、そのまま子供たちの世界へとスライドしている。
子供の「ブルシット・スタディ(クソどうでもいい勉強)」
現代の子供たちが深夜まで塾に通い、ポートフォリオを埋め、自己PRを磨いている姿は、大人の「ブルシット・ジョブ」と全く同じだ。一人の父親として胸が痛むぜ。
「将来のサバイバルのため」という恐怖に突き動かされ、本当の人間的成長には何の役にも立たない「評価されるための記号集め」に人生の貴重な時間を奪われているんだ。
しかし、本当に必要なサバイバルスキルは、しっかりと愛されて心がホカホカしてるっていう充足感じゃないか?さらに言えば、ナイフやロープの使い方、そう身近なものをブリコラージュ🔗して実生活を生き抜いてゆく知識だ。
反論のあるやつは、名乗り出ろ!
逃げ場のない「総資本主義化」
ピケティが描いた格差社会の中で、親は「子供を負け組にさせたくない」という不安から、子供をさらに過酷な教育市場へと投入ちゃうんだな。これ、無間地獄の入り口だ。
おかげさまで、楽しい我が家のはずの家庭さえもが『投資と回収』の場となり、子供にとっての「無条件の安全基地」が消滅してしまう。しかもたいていはハイコスト・ハイリスク・ローリターンっておまけつきだ!なぜってノータリーンだからな(笑)
このままじゃ、子供そのものが絶滅危惧種になっちまうぜ。
私たちが「気楽さ」を取り戻すための革命が必要だ。
しかし、しかしですよ、グレーバーもピケティも、ただ絶望を語ったわけではないんだぜ!あの知の巨人たちの思想の先にあるのは、俺が垂れ流した『贈与』『だらけること』『迷惑の掛け合い』の肯定だ。特にグレーバーは、社会ってのは「やれる能力を持ったものが、必要に応じて見返りを求めずやる」という基盤的共産主義によって成り立ってると喝破してるんだ。
考えてみ、君がオフィスで、ちょっとそこの資料取ってくれる?とお願いしたら、対価を請求されてみろ。やってられないだろ。つまりそういうことさ。
俺や君たちは、社会が押し付ける『偽りの豊かさ』、つまりもっと早く!もっと大量に!もっと稼げ!もっとスペックを上げろ!の競争から、意識的に「降りる」必要があるんだぜ。そんなのに付き合ってたら、そもそも身が持たないし、一度きりの人生がそんなバカバカしいことで浪費されてたまるもんか!
週3日だけ働いて、あとは仲間とだらだら過ごす。
できないことは「ごめん、手伝って」と他人に迷惑をかける。
子供には「勉強なんかいいから、早く寝て遊びなさい」と笑って言う。
まっとうな大人がそうやって「気楽に生きる背中」を見せること自体が、新自由主義に対する最も過激で、最も子供を救う非暴力革命になるんだよ!
大人がシステムに洗脳されたままでいる限り、子供たちをこの檻から出してあげることはできないんだ。溺れてるやつは、隣で溺れてるやつを救えるはずがないんだぜ!
そう、アクセク働くよりも、ダラダラと寝転びながら本でも読んだ方が、よっぽど人間有意義な人生の過ごし方だと思うぜ。
これは単なる「怠け」ではないんだよ。
古代ギリシャのアリストテレス🔗などの哲学者たちは、この生産性から解放された自由な時間のことを「スコレー(Schole)」と呼び、これこそが人間の幸福であり、知性の源泉であると考えたんだ。しかもこれが英語の「School(学校)」の語源なんだぜ。
つまり、本来の学校や学びとは、「労働や効率から解放されて、ダラダラと知性を楽しむ場所」だったはずなんだ。
それを新自由主義がひっくり返し、ダラダラすることを「悪」とし、アクセク働くこと(手段になること)を「正義」に洗脳してしまった。
いや、ひょっとするとマックス・ヴェーバー🔗の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神🔗』を参照すると、その淵源はキリスト教のプロテスタンティズムにあるのかもしれない。それはスルーして、俺の提唱するライフスタイルが、なぜ現代社会において究極の救いになるのか、その本質を考えてみよう。
「寝転んで本を読む」という最高の抵抗
それは市場に魂を売らない時間なんだ。
寝転んで本を読んでいる間、君はお金を稼いでもいなければ、無駄な消費もしちゃいない。本を買って読んでても、それによって、君の内面世界の奥行きが深まるんだ。
つまり資本主義のシステムから完全に「脱出」している状態なんだ。
これこそ本当の「主体性」の回復さ。
考えてごらんよ。 誰かに評価されるためではなく、自分の「知りたい」「面白い」という純粋な興味だけでページをめくること。これこそが、毎度おなじみカント🔗の言う「目的としての人間」の姿そのものじゃないか。
そしてそれが子供に「逃げ道」を示す背中でもあるんだ。
大人が家でゴロゴロしながら楽しそうに本を読んだり、だらだら過ごしたりしている姿を見ることで、子供は初めて「あぁ、あんなにアクセク生きなくても、人間って生きてていいんだ」「大人になるのって楽しそうだ」と、心の底から安心することがでるだろう。たまには屁の一発でもかましたらいいんだよ。
俺はここんとこ、君たちと「なぜ子供の自殺が減らないのか」という重い問いから出発し、社会の構造、カントの哲学、新自由主義、グレーバーやピケティの経済論を経て、「ダラダラと寝転んで本を読むことの尊さ」という、極めてシンプルで本質的な答えにたどり着いた。
すごい遠回りしたな。
子供たちを死に追いやるこの息苦しい国を変える特効薬は、制度の改革だけじゃない。どれだけ制度を変えたって、俺や君たち大人の頭の中がが変わらなければ、何も変わらない。
新しい地獄の幕が開くだけだ。俺たちは社会の「人材になれ」「生産性を上げろ」という脅し文句を無視して、「迷惑をかけ合い、だらだらと、気楽に生きる姿」を今ここから実践していくことが必要なんだ。
俺たちが抱いた違和感と、その先にある「だらけること・贈与・気楽さ」の全肯定は、現代の歪んだ日本社会を生き抜くための、最も強力な生きた哲学なんだ。
俺は思い出す。紀州熊野の産んだ博覧強記の怪物、南方熊楠🔗だって何ヶ月もの間、フルチンでごろごろしながらバートン版アラビアンナイト🔗を読書したりしてたんだ。最高だ。風邪ひくぜ!
これこそが人間が生きる究極の贅沢であり、本来の「知の爆発」の姿なんだ。
南方熊楠という稀代の天才が、全裸(フルチン)で寝転がりながら大著を読み耽っていたというエピソードは、現代の「効率性」や「人材スペック」といった小綺麗な綺麗事を一撃で吹き飛ばす圧倒的なパワーを持ってる。
南方熊楠が証明する「けもの」と「知性」の融合
熊楠は正真正銘の「天才」でしたが、現代の日本の教育や産業界が求める「扱いやすい優等生(人材)」とは真逆の存在だった。まさに怪物だ。手っ取り早く知りたい向きは水木しげる🔗の『猫楠🔗』を読むがいいさ。
「けもの」としての野生
家を飛び出し、泥まみれ、全裸で粘菌を採集し、夜通し酒を飲んで大暴れする野生児というか手におえない迷惑なおっさんだ。酒を飲めばたいていゲロを吐き、そのゲロに発生する粘菌🔗を観察するといって掃除することもない。道鏡🔗の巨根伝説を立証するために、自分の一物に蜂蜜とか塗りたくって、庭で何日も寝転がる。普通の感覚からしたら、馬鹿だ。しかもとびぬけた大馬鹿野郎だ!これは誉め言葉だぜ。
「目的」としての知性
誰かに評価されるためではなく、ただ自分が「面白い」と思うから学び、10カ国語以上を操り、ロンドンの大英博物館で膨大な文献を読み漁る。
熊楠の生き方は、俺が君たちと話し合ってきた「10歳まではけもののように遊ぶべき」「だらけること」「人間を目的として扱うこと」のすべてを、そのまま生涯かけて体現したような、まさに破格なものだ。
彼は社会のルールや生産性のために生きたのではなく、自分の生命力と好奇心のためだけに生きたんだよなぁ。憧れるぜ!
俺たちが熊楠から受け取るべき「全裸の哲学」
現代を生きる俺や君たちは、衣服つまり、社会的な立場、学歴、他人の目を着込みすぎて身動きが取れなくなっている。
だからこそ、熊楠のように「すべてを脱ぎ捨てて、ただ本能と知性の赴くままにだらだらと本を読む」という、圧倒的な全能感を取り戻す必要がある。
私事で恐縮だが、俺はかつて務めていた会社を辞めるという話を社長と直談判したときに、社長は思わず殴ったろか!と息巻いた。すかさず俺は、『おう、望むところだ。その代わり、その瞬間から俺とあんたは、一対一の裸一貫の男と男だ。どっちが強いかよく考えろよ!』と啖呵を切って撃沈させてことがある。そういう覚悟が必要なのさ。
大人が「熊楠スピリット」を持って、撃沈じゃなくてフルチンとまではいかなくとも、社会の評価を一切気にせずダラダラと生を謳歌していれば、子供たちも「あ、社会の型にはまらなくたって、こんなに面白おかしく生きていいんじゃね?」と救われること間違いなしだ。
「使える・使えない」の資本主義の檻を打ち破るヒントは、100年前の和歌山の森の中で全裸で笑っていた熊楠が、すでに俺や君たちに示してくれていたんだ。
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