2026/06/02

POST#1866 東大至上主義の解体

Sweden

さてと、この息苦しい教育現場の状況を転換し、子どもたちを『人材』から『人間』に取り戻すために、俺が提示する極論は以下の二つだ。

東大至上主義の解体。そして内申書の廃止だ。

この「東大至上主義の解体」と「内申書の廃止」は、子供たちを労働機械へと変える選別システムを根底から無力化し、学校を「ようこそ地球へ!」と歓迎する場に変えるための、極めて具体的かつ強力な実効策になりうるだろう。そんなことは無理だという前に、自分たちの常識を疑ってみるのも、時にはイイ頭の体操になるぜ!

この2つの制度的解体が、子供たちの尊厳を取り戻すことができるとしたら、それはどういうことを意味するだろう。ちょと肩の力を抜いて考えてみようよ。

1. 東大至上主義の解体:一元的な「人間格付け」の終了

日本の教育における頂点として君臨する「東大至上主義」は、社会全体の序列化(ヒエラルキー)の元凶だ。

この東京大学に入った時点の成績で将来官僚になってどこまで出世するかが決まっているという噂まである。いずれにせよ、国会答弁で出てくるような各省庁の事務次官つまり、実質的な官僚機構のトップは、例外なく東大出身だ。

しかし、そもそも東大はそんなにスゴイ大学なのか?

世界的に見たら、アメリカのハーバード大学やマサチューセッツ工科大学、イギリスのケンブリッジ、オックスフォードに比してどうなのよ。それどころか、右派の皆様の毛嫌いする中国の精華大学や北京大学にも及ばないんだ。

まぁ、俺は入る気づかいはなかったけどな。俺の経験からすると、高校の同級生で東大を目指してたやつは、みんな大なり小なりちょっとぶっ壊れてたな。

では、東京大学を頂点とする日本の大学教育のポイントは何か。そして東大ってのはその中で何を意味してるのか?

まず「正解を速く出す機械」の頂点ってことだ。東大を頂点とする受験システムは、カントの言う「手段としての人間」の優秀さを測るスクリーニング装置に過ぎないんだ。

しかし、この日本の教育制度の頂点に君臨する東京大学という存在が、全世代への呪縛となってるわけだ。この頂点が存在するおかげさまで、高校、中学、果ては幼児教育までが、上流の規格に合わせるための「前処理プロセス」と化しているわけだ。

つまり、それはどういうことかって?子どもたちは成長の過程で、この東大一直線🔗的な価値観を無意識のうちに強要される。そして、常にふるいにかけられるわけだ。頑張れば将来上級国家公務員となり、老後も天下りで心配なしだもんな。先行きくらい現代日本で、こんな将来の保証されたポジションはない。そこに残って医学部の教示とかになれば、製薬メーカーからキャバクラやソープランドの接待を受けることもできるだろう(笑)。

要は、子どもたちは、常にその数少ない椅子をめぐって熾烈な椅子取りゲームを行い、常に膨大な数の落伍者を生み出し続けてるんだ。

このシステムの解体の意味を真剣に考えてみよう。

この日本の教育システムの頂点を解体することは、社会の物差しを多元化することに他ならない。「どこの大学を出たか」という記号ではなく、「その人が何に熱中し、どう生きているか」という生身の存在へ、社会の関心を強制的に引き戻すことになるだろう。

また、オフィスに定住して働くサラリーマンや官僚が社会的な地位が高く、日々あちらこちらの現場を移動して働くような人間を二級市民として扱うような風潮、もっと言うなら、空調の利いた事務所で働く人間を常民と見立てるのに対して、建築、物流、インフラの維持、ケア労働などの社会に欠かせないエッセンシャルワーカーを漂泊民、非定住民、被差別民のように見た立てて、社会の表側から排除するような社会を変えることにもつながるだろう。


2. 内申書の廃止:「従順な奴隷」をつくる監視の排除

俺は私立の中学に行ってたから、実は内申書というやつはあまりよく知らなかった。息子が効率の小学校に入ってから知ったことだ。その少ない情報をもとにしても、内申書(調査書)は、子供たちの精神を最も内側から去勢し、窒息させている「見えない足枷」だといわざるを得ないよ。

まず、内申書ってのは内面化される検閲なんだ。

教師の主観をもとに記される内申書を意識して、子どもたちは「先生にどう見られるか」「減点されないか」を四六時中意識せざるを得ないだろう。

これはポリティカル・コレクトネスやコンプライアンスがもたらす「相互監視・同調圧力」の、最も残酷な初期訓練だ。大人になっても勤務評定とか続くこのシステムの前哨戦だといえるだろう。いや、ここでふるいにかけるのだから、もっともその威力が強いと考えても過言じゃないかもしれない。

これによって「愛すべき駄目さ」という多様性はハムスターをひねるようにして圧殺される。内申書がある限り、寅さんのような規格外の人間味や、理不尽なシステムにNOを唱える正当な反抗は「問題行動」として処理さるだけだ。四年生くらいまで、授業中探検と称して学校内をうろつきまわっていたうちの息子は、どんなにテストで頑張っても評価されない。通知表は1の行進だ。そんなもんだ。

この内申書を廃止することは、学校から「評価という名の特高警察」を追い出すことに他ならない。それによって子供たちは失敗を恐れず、自分の言葉で話し、ありのままの自分で息をすることができるようになるだろう。

この2つを断行することは、単なる入試制度の改革ではない。

それは、国や市場が子供たちにつけている「バーコード」つまり『人的資源としての値札』を剥ぎ取るという、実質的な奴隷解放宣言になるんじゃないかな。

学校という、子どもたちにとっては世界の半分に等しい世界で、『人的資源として値踏み』される恐怖から解放されたとき、初めて子どもたちは『自分はここにいていいんだ』という実感を持ち、他者や世界に対して心を開くことがでるんじゃないか。心の武装解除だ。

じゃぁ、実際にどうする。

例えばだ、これは俺が私淑する吉本隆明🔗が90年代にしばしば語っていたことだ。それをあえて今、今は亡き吉本隆明に代わって表明しよう。

ずばり、『東大の先生とそこいらの三流大学の先生を入れ替えることで、日本の偏差値重視の詰め込み教育が変わる』

まさに「コロンブスの卵」のような痛快な発想だ。

東大の看板を外して、三流大学と呼ばれている場所に最高峰の知性を投入する。逆もまた然り。そうなれば、受験生は「どこの大学か」ではなく「誰に何を学ぶか」で選ぶしかなくなります。「看板ではなく、個の対話」を重んじた、その先生らしい過激で本質的な教育改革案になるだろう。

まず、教師たちにおきる変化だ。三流大学から東大に行った教授は、理解力の優れた優秀な生徒に対応するために、自分自身も必死に研鑽し、学者としてのレベルアップを図らねばならないだろう。

また、東大からそこいらの三流大学に移動になった教授は、ふてくされるだろうけれど、勉強はいまいちでも、センスのいい、つまり非認知能力に優れ、社会的なさまざまな経験と出自を持つ学生たちに対峙することで、これまた自らの学問を深化させ、より平易で分かりやすく教えてゆく必要が生じる。中にはとんでもない逸材が潜んでるかもしれないじゃないか?

一方で、このガラガラポンが、毎年とは言わなくとも数年に一度の頻度で行わるんだとしたら、生徒たちもどこの大学でもいいというわけにいかないだろう。東大というブランドには頼れないんだしな。優秀な学生ほど、優秀な先生のいる大学を狙うようになるはずだ。

また、どうせ少子化が進んでいるんだから、大学入試自体も、ある一定のレベルを担保していたら、どこかに入ることができるように、また共通の大学入学資格があるなら、他大学の授業を受けても単位を取ることができるようにするというのも一考の価値のある施策かもしれない。

その代わり、大学を出るには徹底的に厳しい試験やハイレベルな修士論文を提出しなければいけないということにするんだ。

それは、労働市場にも大きな影響を与えるだろう。

今の労働市場が新卒の新入社員に求めているのは、高度な専門性ではなく、単なる学歴、つまり大学まで従順に社会の暗黙の要求を受け入れ、自らの組織が求める『人材』として馴致されているかかという点だろう。当然、大学のシステムが入るのは容易に、学位取得と卒業がハイレベルにと変われば、3年生の6月から就職活動をして、専門課程の教育がおろそかになることもない。

さてさて、「出口(入試)」を壊し、「中身(教員)」をかき混ぜる。偏差値という物差しで人間を序列化するシステムの根幹を、数学的かつ大胆な発想でひっくり返そうとしていう算段だ。

偏差値のチャンピオンたちが作った政財官のピラミッド組織の硬直した物差しが、日本を停滞させている。人間を人材や消費者扱いしている。

当時吉本隆明が見据えていたのは、単なる教育制度の不備ではなく、『人間を数値化して管理する思想』そのものの限界だったと今ならはっきりわかる。

偏差値という単一の物差しで勝ち上がった人々が、同じ物差しで社会(政財官)を構築してしまった。その結果、効率や前例が優先され、「個の尊厳」は言うまでもなく『社旗の風通しの良さ』『が切り捨てられてきた。

人間を『替えの利くパーツ』つまり『人材』や『消費者』として扱う今の構造は、社会の硬直化の極みと言えるだろう。もうそろそろ、違う方法を試してもいいんじゃないかのな?

こんな構想を実現するためにも、ぜひとも国家的に取り組むべきことがある。

ずばり、教育に関する国家予算を引き上げ、学校の事務を担当する専門職員、子供たちのメンタルケアを担うカウンセラー、そしてできたら学校をぶらぶらしてる教養豊かな面白い老人などを各学校に配備最低一人ずつ配備するんだ。

それは、これまでの議論のすべて(「労働機械からの脱却」「無用の用の回復」「ようこそ地球へという歓迎」)を、具体的な制度と予算として着地させる極めて具体的で、最高に魅力的なグランドデザインになるだろう。

教育予算の増額(政府支出の拡大)を原資として、学校に「3つの異なる役割を持つ大人たち」を配備することは、学校という閉塞した空間に風穴を開け、子どもたちの命を救う決定打になるんじゃないか。

それぞれの配備が持つ決定的な意味は、こんな感じだ。

1. 事務専門職員の配備、それは教員を「人間」に戻す

現在の学校の先生たちは、過酷な書類仕事や部活動の管理、コンプライアンス対応に追われ、精神的・時間的な「余白」を完全に失っていいる。ほとんど殺人的だ。

ここに事務作業を専門に受け持つスタッフを雇用して、様々な事務作業を専門職員に完全移管することで、先生たちの過重労働(ブラック化)を解消し得るだろう。

それは、教師を「労働機械」から「歓迎する大人」へと引き戻すことになる。

先生自身がシステムに搾取される労働機械から解放されて初めて、子どもたち一人ひとりと生身の人間として向き合い、「ようこそ地球へ!」と笑顔で迎え入れる精神的ゆとりが生まれるんじゃないか。

2. メンタルケアの専門カウンセラー常駐つまりアジール=逃げ場の制度化

現在のスクールカウンセラーは非常勤が多く、圧倒的にリソースが不足している。各学校に常駐・複数配置すべきだ。

そして、彼らの存在『評価』と切り離された安全地帯を学校内に生み出すんだ。だからこそカウンセラーは、内申書や成績といった『評価システム』とは完全に無関係な存在でなければならないだろう。つまりはカナリアの保護シェルターを担ってもらうわけだ。

子どもたちが「社会の部品」としてのプレッシャーに潰されそうになったとき、あるいは家庭や教室で、同調圧力などの抑圧で息ができなくなったときに、値踏みされることなく、ただそのままで保護される「駆け込み寺」=アジールが校内に担保されることになるんだ。

現在は、それを保健室の先生が担っている場合が多いだろう。そこに専門知識とノウハウを持ったカウンセラーを増強することが、子どもたちにとって、よい変化をもたらさないわけがない。

3. 学校をぶらぶらしている面白い老人:最高の「無用の用」

このアイデアこそが、現代のスマートでクリーンなディストピアを打ち破る最も革命的な一手といってもいいだろう。

定年退職した教師や、地域の高齢者でもいいだろう。いっそリタイアした職人、旅ばかりしてきた人、へんてこな学者とか、学校ごとにそれぞれに見識と寛容さがある人がぶらぶらしていてくれるといいな。どれだけ、教師やカウンセラーがフォローしても、その網をすり抜けてしまうこどもは絶対にいる。そんな子どものそばにいつのまにか寄り添って、フォローしてくれるような存在がいたっていいだろう。

学校ごとに、そんなおじさんのトレーディングカードを作って、塾とかで子どもたちが、よれたおっさんのカードを交換してたりするのを想像しても楽しいもんだ。

彼らの存在は「生産性」という物差しを無力化する。

テストの点数を上げるわけでもなく、校則を破った生徒を取り締まるわけでもない、「ただそこに楽しそうに生きている大人」が校内を徘徊していること自体が、強力なメッセージになりるだろう。

平たく言えば令和の「寅さん」の復権みたいなもんだ。

教養豊かで、世界の面白さを知っていて、でも今の社会のシステムからはみ出して楽しそうにしている老人は、子供たちにとって「あぁ、あんな風に、役に立たなくても生きていていいんだ」という生きた教科書(ロールモデル)になり得るだろう。彼らの存在が、学校のギスギスした同調圧力を中和する「文化的な余白」=緩衝地帯になるんだ。

あぁ、RCサクセションの僕の好きな先生🔗みたいな変なおじさんだ。

現在の日本の教育予算(対GDP比)は、OECD加盟国の中でも最低レベルが続いている。ます。道路やコンクリート、あるいは企業の補助金(経済成長の手段)に回している予算を180度転換し、この「学校の人間化」へ投資することは、炭鉱のカナリアを救うための最も正当な国のあり方だろう。少なくとも、トランプ大統領の顔色を窺って、アメリカから型落ちのミサイル買う金があったら、こっちに回してほしいよ。これについちゃ、まったく腹が立つったらないぜ。さんざん金がないといっておきながら、ミサイルや戦闘機を買う金はいつだって湧いて出てくるんだ。

税金つまり国家予算という国家の富(それは俺たち国民すべてのもので、麻生漫☆画太郎先生にお情けで配ってもらうようなもんじゃない)を、「人間の生命を破壊・管理する道具」に優先投資するのか、それとも「今を生きる子供たちの生命と尊厳を育む場所」に投資するのかという、国家の意思と価値観の歪みを突いた、非常に切実で正当な怒りだろう?

アメリカからの高額な兵器購入(FMS:対外有償軍事援助)に巨額の国費が投じられる一方で、教育や福祉といった「人間の生存」に関する予算が常に「財源不足」を理由に後回しにされる構造は、まさに先ほどから議論している「主客転倒した社会システム」の最たる象徴以外の何物でもないぜ。

近年の日本政府は防衛費を大幅に増額し、数兆円規模の予算を計上していいる。その中には、米国製の巡航ミサイル「トマホーク」などの大量購入がたっぷり含まれております、はい。

その一方で、日本の公教育に対する公的支出(対GDP比)は、OECD(経済協力開発機構)加盟国の中で長年最下位の争いを続けているってのは、情けない限りだ。

「人を守る」ことの定義が転倒してるんだ。国家が「他国からの脅威」に備えるという大義名分の裏で、自国の内部にいる子どもたちが社会の息苦しさによって、年間500人以上も自ら命を絶っている現実を放置しているのは、完全な論理破綻じゃないか?

国民の税金を投入して守るべきものが、子どもたちが自ら死を選びたくなるワンダーランドなんだぜ。笑いが止まらないぜ。

アメリカに支払っているその何千億円、何兆円という予算の一部をスライドさせるだけで、俺が提案した『学校の人間化』は一瞬で実現可能だよ。

具体的な試算をイメージしてみよう。

ミサイルや次世代戦闘機の購入・維持費を数機分キャンセルするだけで、全国すべての小中高校(約3万校)に「常駐のカウンセラー」と「事務専門職員」を複数名雇う人件費が余裕で捻出できちゃうよ。

「学校をぶらぶらする面白い老人」たちに、地域の知恵袋として謝礼や活動費を支払う仕組み(地域通貨やシニア雇用制度の刷新)も、兵器の爆買いをやめればお釣りが来る規模で持続可能に決まってるじゃないか。

さて、俺たちは主権者として「予算の180度反転」を突きつける時に直面してる。

「財源がない」というのは嘘なんだよ。

単に「政府が人間の尊厳や教育よりも、軍事や経済成長(手段)を優先している」という選択の裏返しに過ぎないんだから。


アメリカの軍事産業を潤すために型落ちの兵器を買い漁るのをやめ、その莫大なエネルギーを「ようこそ地球へ!」と子供たちを迎え入れるための、優しくて余白のある学校空間の構築に回すこと。これこそが、このディストピア化した社会を内側から解体し、真の「安心できる国」を作るための最も本質的な防衛策と言えます。


この「面白い老人」や「専門職」が学校にいる風景を想像すると、それだけで学校が温かい場所に変われるんじゃないかと希望が持てないか?


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