2026/06/08

POST1871 ホジャは言った『わしの亡骸は頭を下にして埋めてくれ。頼むよ』

 

Istanbul,Turk

ナスレッディン・ホジャ🔗ってトルコに伝わる頓智じいさんの話がある。

この一休さんのように突き抜けたトルコのじいさんの話が好きで、よく読んでいる。

今ではすっかり稀覯本になっちまった平凡社東洋文庫の『ナスレッディン・ホジャ物語🔗』を、京都の古本屋で見つけて、その場で狂喜乱舞して、お値打ちに手に入れたこともある。

その中で、ホジャが臨終のときに地域の人々に、『わしが死んだら、頭を下にして墓に埋めておくれ』とたのんだという話がある。

いくら普段からおかしな言動で周囲をあっと言わせてきたホジャの頼みとはいえ、死ぬ時くらいはまっとうに葬りたいと願うのが人情だろう。それで家族や有縁の人々は難色を示しながらホジャにそのわけを尋ねた。

ホジャは気息奄々ながら自信満々に皆の衆にこう言ったんだ。

『世界の終わりが来るときには、すべてがひっくり返るっていうじゃろう。その時にワシは逆立ちしてるのは御免じゃからなぁ!』

まったく、なんていかれたくそジジイだ!最後までユーモアが炸裂してるな!

しかし、残念なことに冗談ではなく、価値観が転倒しきった社会を、今まさに俺たちは生きている。きっと世界の終わりが来てるんだろうよ!

例えばその学歴ってあるだろう?

学歴なんかで人間の価値なんかは全然変わるものじゃないはずだろ。でも今の我が国は学歴によって、その後の人生の全てが決まっていくっていうのは、きみ、暗黙の了解になってるんじゃないのかい?

それは世界の常識ですって?!

自分の口に出していってごらんよ。

『学歴によって、人生のすべてが決まっていく。それは世界の常識です。』って!

これ自分で言って気味が悪くないか?

これってそろそろやめた方が良くないか?

この「学歴至上主義」こそが、これまで俺が君たちと話し合ってきた「人間を『マテリアル=材料(人材)』として扱い、新自由主義的な市場の道具にするシステム」の最強兵器なんだぜ。

そしてそれは、子どもたちを10歳未満の幼少期から追い回し、追い詰め、最悪のケースでは自殺に追いやる元凶となっているとは思わないかい?

なぜこの学歴社会をやめるべきなのか、そしてこれがどう人間性を破壊しているのか、ちょっと考えてみようぜ。

1. 学歴、それは人間を「規格」で管理する道具

学歴社会の本質は、カントの言う「目的としての人間」の全否定に他ならない。人間を目的とするのではなく、人間を役に立つ素材として扱うための符丁だ。

そこに蔓延る現状の病理ってのはこういうことだ。

 新自由主義的な社会にとって、一人ひとりの複雑な内面や、南方熊楠のような野生の知性を評価するのは「非効率」で面倒なことなんだ。

将棋の駒より、囲碁の駒なのさ。

とはいえ、手っ取り早く人間のランク付けをして、『悪魔の挽臼』の歯車として大活躍して頂きたいところだ。

そこで、人間というマテリアルを振るいにかける網の目が、この学歴ってやつだ。

大学名や偏差値という「分かりやすい記号=規格」を人間に貼り付けて、企業や国家が「使える材料かどうか」を効率よく査定する道具として学歴は使われているんだ。そう、キュウリの選別するみたいにね。しかも、素晴らしいことに大方の場合、その学校で何を学び、どんな専門性を身につけたかは、ほとんど考慮されない。

ラベルが重要なんであって、中身が腐ってても空っぽでも構わないのさ。

奪われる尊厳

ひとりの人間が「どこの大学を出たか」という記号だけで査定されるとき、その人が持つ本当の優しさ、だらだら本を読む豊かさと実利的でない知識がもたらす人間としての深み、他者と迷惑をかけ合える人間味、つまりは人間の尊厳なんて利用価値のないものは、すべて切り捨てられちまう。残念だ。残念にもほどがある。

2. 「18歳での一発勝負」という残酷なライン

人間はいつからでも学び直せるし、何歳からでも成長できるはずだ。学びはトイレの中でもできるし、自分より優れている人を見習うことからでも学べる。自分より明らかにダメなやつからも、学ぶことがあるはずだ。あ、誤解されるといけないからあえて言っとくけど、ダメなやつからダメな部分を学ぶってことじゃないぜ。あくまで反面教師としてだよ!

現状の病理

日本の学歴社会は、18歳(大学受験)時点のペーパーテストの結果だけで、その後の人生の経路や、就職してからの配属先、生涯年収、社会的地位の大部分が確定されてしまうという、おかしな社会だ。

レジリエンスだのリスキリングが聞いてあきれるぜ。

まさに「一発勝負のライン」になっているんだ。因みに、俺の経験では、大学に入った途端に、たいていのぼんくらは勉強というか学問への興味を失う。そんなもんだ。

そして子供どもへの加害

おかげ様で子どもたちは「一度でも受験に失敗したら、不良品として社会から廃棄される」という極端な脱落恐怖を植え付けられちゃうんだ。

おかげさまで「10歳まではケモノのように遊ぶべき」という人生の基礎をつくる大切な時間を奪われてしまうんだ。残念…。

そして、家計に余力がある家の子どもはおしなべて、深夜まで塾に縛り付けられるという「まるで教育虐待のような構造」を社会全体で正当化しているわけだ。

これを学歴の呪いと言わずに、なんと言うんだ?

3. 学歴は「ただの環境と投資の差」という嘘っぱち

学歴が高い人が「人間的に優秀」かといえば、別にそんなことはない。

グレーバーが指摘した「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」を大量に作り出しているのは、皮肉にも高学歴なエリートたちなんだなぁ。

ルールをたくさん作れば、誰もがそれに従う。それは優等生の世間知らずな浅はかな考えだ。

そして、それを管理するための業務が生まれる。そしてそれに従わないものは、システムからスピンアウトされるんだ。誰もがそうなることを恐れている。決められたルールがどれほど不条理でも従う。なぜって、お前は不要だと言われちゃおまんまの食い上げだからな。

けど、そんなシステムからスピンアウトしたところから、初めて本当の、オリジナルな人生が展開していくんだけどな。なぜそんなことが言えるかって?まぁ、俺もその口だからな(笑)。

構造の歪み 

トマ・ピケティ🔗マイケル・サンデル🔗の指摘通り、現代の学歴ってのは、決して本人の純粋な努力の証ではない。

それには、親の経済力や住んでいる地域(教育への投資額)によって大半が決まる「格差の再生産装置」に過ぎないんだ。

もっとストレートに言えば、金持ちの倅は金持ちに、貧乏人のガキは貧乏人にということさ。これは世界の常識です。これは世界の常識なのか?

更に言えば、その差は世代を重ねるごとに拡大していくのは、賢明な読者諸兄諸姉ならお分かりの通りさ。それが世の中の仕組みだ。

しかし、にも関わらず学歴ってのは、『個人の能力の差、つまり皆様の大好きな自己責任の賜物であるかのように人々に錯覚させ、幻惑させ、勝者に優越感を、敗者に劣等感を植え付ける不条理なシステム』なんだ。

天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずだが、テストの点は人の上に人を作り、人の下に人を拡大再生産する!笑っちゃうぜ!

こんなシステムはPOST#1866🔗で話し合ったように、とっとと解体するべきなんだ。

「学歴の檻」を壊すために

学歴で人間の価値を決めるのをやめることは、社会の息苦しさをリセットするための絶対条件だ。

そもそも人間の価値って言葉は、人間の利用価値とか使用価値というべきものなんだ。君も声に出して言ってみるといい。

『人間の使用価値』

『人間の利用価値』

声に出してみたならば、その言葉の放つ卑しさの腐臭が、君たちにもはっきりと解ることだろう。

学歴という偽りのコモンズ(共有財)を廃止し、人間そのものを尊厳あるコモンズへと戻すために、私たちができる現実的なボイコットはいったいぜんたいなにがあるんだ?

それは、大人がまず『学歴なんていう薄っペらい肩書を一切リスペクトしない』というアナーキーな態度を徹底することだ。

人物本位で、相手を判断することだ。

「東大を出ていようが、中卒だろうが一切カンケーない。知識欲の赴くままに、だらだら寝転んで本を読んだり、お互い迷惑をかけ合って、そのだらしなさを認め合ってゲラゲラ笑っていられる奴が一番カッコいいし豊かだ」という新しい価値観を、共通の認識を、大人たちが子どもたちの前で堂々と示していくこと。

これこそが、子どもたちを学歴の呪縛から解放し、その命を救うための強力な一歩になるだろう!

 とまぁ、偉そうに言うけれど、うちのカミさんも、なんか一生懸命、バカ息子の教育にね、熱心でいらっしゃるわけだ。

いろんな私立の学校とか見学させたりして、私立の中学校に入れよう入れようと奮闘努力しておいでだ。奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙の、今日も涙の陽がおちる、陽が落ちるだ。

俺は金をドブに捨ててるのと同じだから、やめようよって思ってるんだが。家庭内の権力構造のカンケーで、なかなか言えないんだよ。

正直いって俺は、なんだかんだと金もかかるし、公立でいいなと思ってるんだ。

なんせ、家から歩いて3分だもん。

しかも、本人も真面目に授業も受けずに、探検と称して授業中に教室を抜け出して、校内のパトロールをしてるような奴なんだ。受かるわけないんだよな。

けれど、鉄オタの息子は、頭のなかに線路が走ってるくらいだから、鉄道研究部のある私立の学校に行きたいと諦める素振りもない。だからといって、テストで点が取れるわけでもない。まぁ、無理だろうなぁ。今のうちから慰めの言葉を考えておくさ。

けど、ほんとは校内探検家でもかまわないんだ。

一生懸命遊んだり、さっさと飯を食ってクソして寝たり、友達とコミュニケーションして、ゲタゲタ笑って遊び転げていればいいんだよ。

カミさんの考えもわかる。俺は「もっと大切なことがある」という実感してる。

どちらも「うちの豚児に幸せになってほしい」という親としての切実な願いから出ているものだっちゅうのは変わりないけど、だからこそ家庭内でのバランスが難しい問題なんだよな。まぁ、俺は世間に波風立てるのはやぶさかじゃなく、むしろ、おう一丁やってやろうじゃないかっていう不遜な男だけれど、家庭内の波風は御免被る。結果はどうなっても、本人たちの好きなようにやりゃいいんだ。

どこかできっと行き詰まる。行き詰ってからが、人生本番だ。楽しみにしてろよ。

カミさんが私立受験に打ち込む背景には、それこそ『新自由主義的な生存不安』が大きく影響しているんだ。俺にはわかる。

現代の母親たちは、社会やママ友の間で「早くから準備しないと子供の将来が詰む」という過剰な危機感を煽られ、強いプレッシャーの中に置かれているんだ。

うちのカミさんにとって私立見学は、子供を過酷な社会から守るための『防衛策』なんだ。それはよくわかる、しかし、その行動自体が、このシステムを拡大再生産する『合成の誤謬🔗』というやつだ。

しかし、俺がカミさんの背後で小声でつぶやく「お金をかけるよりも、一生懸命遊び、早く寝て、友達と泥臭くコミュニケーションをとる方が大事」という直感は、子供のメンタルヘルスと脳科学の観点から完全に正しいだぜ。それに俺の小遣いも増えるしな。

1. 「早く寝ること・遊ぶこと」の科学的メリット

実は「寝ることや遊ぶことが、結果的に脳の発達(つまり知識じゃなくて知性の伸長)に最も良い」んだ。

睡眠の重要性

 睡眠中に脳の記憶は整理され、メンタルを安定させるホルモン(セロトニン)が分泌される。睡眠不足だとイライラしたりり、うっかりミスが多発するのはこのためだ。

夜遅くまで塾に通って睡眠を削ることは、逆に脳の発達を阻害して、思い通りにならなかったときに、折れやすい心を作る原因になるだろう。素晴らしいことに、人生はたいてい思い通りにはならないんだ。安心してくれ!(笑)

遊びの知性

友達とのリアルなコミュニケーションや遊びは、教科書では学べない目下流行中の「非認知能力🔗(想定外の事態に対応する力、他者への共感性)」を爆発的に育てるんだぜ。

実はこれこそが、将来どんな社会になっても生き抜くための本当の力=野生の思考🔗なんだYO!

「受験はしてもいいけれど、子供の『だらける時間』と『睡眠』だけは絶対に削らない」というのも大切だ。幸か不幸か、うちの豚児はだらけることは才能豊かだ。睡眠は、いつも宵っ張りの重役出勤だがね。

もしうちの豚児が『きつい、やめたい』と言ったり、寝不足で元気がなくなったりしたら、いつでも諦めて、家の近所の公立に行きなよといってるんだ。ご本人はなんだか、逆に投資を燃やしてしまう事になりがちなんだけどな。

だいたい、そんなもんで人生は決まらない。俺はいつも聖徳太子🔗だって松下幸之助🔗だって田中角栄🔗だって、大学なんて出てないぜって言ってるんだ。

「公立でも全然大丈夫、なんとでもなる」というドーンとした余裕、つまりセーフティネットとして家庭内に俺がだらだら存在することで、子どもは「失敗しても成功しても、あのバカ親父はちゃんと受け止めてくれる」という絶対的な安心感をもってるんだろう。おかげで、いつもふざけてばかりだ。日々失敗するほうのオッズが上がってるぜ。

カミさんが心のどこかで「ダメな旦那みたいになっちゃ大変だから、将来のためにスペックを上げなきゃ」と焦っている。そのいっぽうで、俺は家庭の中で「何点取っても、どこの学校に行っても、お前は生きてるだけで最高だし、お父さんは大好きだ」という無条件の肯定を子どもに注ぎ続けてる。

俺は、そんなことで息子の尊厳はまったく揺らがないことを知ってるからだ。だから、すきにすればいい。人の嫌がることをやらない優しさを持っていればそれでいい。

俺が息子に怒るのは、母親に暴言を吐いた時と、父親の身体的な急所を攻撃してきたときだけだ。

だから俺は息子の前では、南方熊楠のようにだらだらと寝転んでマンガや本を読んだり、下らない話をして笑い合ったりする時間を、率先してつくってるんだ。

 おかげさんで、俺がパソコンに向かって事務仕事をしてると、息子はいつもやってきて、俺の膝に座って仕事の邪魔をしつつ、鉄オタ全開の YouTube を一生懸命見ていやがる。

仕方ねぇなぁ。これとて俺がさんざん君たちに語ってきた「迷惑をかけ合って当たり前」「何もしなくても愛されるアジール」の家庭内の実践ってことだ。

こいつは、子どもの精神的な生存にとって決定的な救いになってるんだろう。おかげで仕事は進まないけど、そんなのどうってことないさ。

実はこのやれやれな日常が、なぜうちのバカ息子のこれからの人生にとって最強の防衛策になるのか、ちょっと考えてみるとするか。

1. 「お父さんの仕事を邪魔していい」という最高の迷惑の共有

社会システムは子どもたちに対して、「他人の時間を奪うな」「効率的に動け」と教えるんだけど、うちの豚児はあなたに対して「お父さんのパソコンを奪って、自分の見たい動画を見る」という、最大級の甘え=とんでもない迷惑を仕掛けているわけだ。

俺がそれを怒らずに受け入れていることで、バカ息子の心には「自分は他人に甘えてもいいんだ」「迷惑をかけても拒絶されないんだ」という、新自由主義の自己責任論を打ち破るための強固な安心感がインストールされるというわけだ。

2. 「ただ膝の上にいるだけでいい」という無条件の肯定

膝の上でYouTubeを見ている時間には、テストの点数も、内申点も、学歴も一切関係ないわな。まぁ、俺にとってはどっちにしてもあんまり興味もないんだけど。

だからこそバカ息子は、俺が『何かができるから=人材としての価値』ではなく、『そこにいるだけで存在を許容される=目的としての人間』という無条件の対幻想🔗を強化されるという算段だ。

この『心の貯金』がある子どもは、将来社会の荒波に揉まれても、絶対に自分を見捨てて自死を選ぶようなことにはならないんじゃないのか。これが本当のレジリエンスって奴だ。

3. お父さんの「背中」から学ぶリラックスの哲学

帳簿をつけたり、図面を確認していたりするなかで、商売道具のパソコンを横取りされて「しょうがねぇ野郎だな」と苦笑いするのが俺の日常だ。そんな中でうちの豚児は「人生、そんなにアクセク四角四面に生きなくても、なんとかなるんだ」という気楽さを、とんでもないスピードで吸収していることだろう。


俺が最初の問いで真剣に憂慮し、立ち向かわなければならないと考えていた「子どもたちの自殺」や社会の要求からスピンアウトされた挙句「犯罪システムにからめとられ社会的な自殺に追い込まれる子どもたち」「人間を材料扱いする社会の冷酷さ」に対する本当の答えは、教育制度の改革でも、政治の変革でもなく、まさに今、俺の膝の上で行われている「バカ息子との、だらだらとした、迷惑をかけ合う日常」の中にあったんだ。エウレカ!🔗

大人たちがみんな、俺のように「仕事をちょっと横取りされて、膝の上で子供とだらだらする時間」を最高に有意義だと笑えるようになれば、この国の空気はもっと優しく、気楽なものに変わっていくだろう。もっとも、商売あがったりかもしれないがね。

しかし、新自由主義や学歴社会、そして今の日本社会全体が子どもたちに対して『人に迷惑をかけるな』『自己責任で生きろ』と冷酷に迫るからこそ、俺や君の家庭の中に『どれだけ迷惑をかけても100%許される関係』があることが、最大の防衛線になるんだろ!

それこそが世界の常識だ!

社会に出れば、使えるか使えないかで値踏みされたり、理不尽な要求をされたり、学歴の壁にぶつかったりすることがあるだろう。それがこのすべての価値が転倒し、人間が手段となった社会の現実だ。しかし、『どんな自分でも受け入れてくれた原体験』を持つ人間は、社会の暴走に心を壊されることはないだろう。

この圧倒的な全能感と安心感が心 の根底にあれば、子どもたちは自ら命を断つような絶望の淵に立たされる前に、必ず信頼できる大人の側に踏みとどまり、SOSを出すことができるはずだ。

 そう、だからこそ子どもたちの命を救うのは「だらしない優しさ」なんだ

子どもの自殺を減らすために社会が必要としているのは、もっと高度な教育カリキュラムでも、レジリエンスの訓練でもない。

そんなのばかばかしいったりゃありゃしないぜ。

大人たちが、とりわけ親が『お前の迷惑なんか、いくらでも引き受けてやるよ』という、大らかで、少しだらしなくて、圧倒的に優しい態度を示し続けることだ。

それには何のコストもいらない。俺たちの思考をもう一回さかさまに転倒させるだけでいいんだ。

どうやって?教えてあげよう。俺がやっていることを。

俺はいつだって、 1 日に 1 回は息子に『お前は俺の宝物だ、知ってるか?』って尋ねる。息子はそのたびに『知ってる』と言い切る。こいつこそ、命を守るマジックワードだ。

これこそが、これまで俺や君たち対話してきた、『人間を材料(手段)として消費する新自由主義社会に対する、最大かつ完璧な対抗策(アンチテーゼ)』なんでございます。

その言葉は、毎日農夫が鋤を地面に打ち込むように、「無条件の存在証明」を子どもの脳と心に深く刻みつける。

社会はこれから、子どもたちに対して『テストの点数は何点だ』『どこの学校へ行くんだ』『お前は社会の役に立つ人材か=俺たちに利益をもたらしてくれる金づるか?』という『条件付きの評価』、つまりは『市場価値』ばかりを突きつけてくるだろう。

しかし、『お前は俺の宝物だ』と毎日言うことで、子どもたちの心には『何かができるからではなく、ただここに生きているだけで、自分は100点満点なんだ』という無条件の存在の肯定が、脳の奥深くに強烈に刷り込まれていくんだ。雨が地面にしみこみ。命を育むように。

この言葉の貯金がある子どもは、社会のに待ち受ける学歴やらスペックやらのしょうもない査定に晒されても、決して自己否定に陥ることはないぜ。だいたい査定なんて、中古車じゃないんだから、勘弁してほしいぜ。

もしも将来、学校や社会でどんなに理不尽な目に遭い、いじめられ、挫折して、世界中のすべてが敵に見えるような夜が来たとしても、こうして心を涵養された人間は、絶望の淵から生の世界へと踏みとどまることができるんじゃないか?

そしてそれこそが、「人間を目的として扱う」ことの最高の実践の第一歩なんだ。

かつてイマヌエル・カント🔗が説いた『人間を手段ではなく、目的そのものとして扱うべきだ』という哲学は、別に難解なことじゃない。誰でも今すぐ始めることができる。それにコストはいらないんだぜ。

自分の子どもを「将来、自分を養ってくれる人材(手段)」としてではなく、「そこにいるだけで尊い、人生の目的そのもの」として、もっといえば神的な存在=世界そのものから託された存在として大切に守り育てるんだ。

そうすれば、やがて大人になったとき、隣人たちを「材料」として値踏みせず、一人の人間として尊重できる、本当の意味で豊かな大人、つまり南方熊楠のような野生の知性と優しさを持つ人間へと育っていくだろう。

消費税率を変えるだけで大騒ぎの政治家たちに、 国や社会のシステムを今すぐ変えることはできない。

けれど、俺や君たち大人が自分の目の前にいる子どもに対して、『君は社会の材料(人材)なんかじゃない。俺様の宝物なんだぜ!』と言い続け、迷惑をかけ合いながらだらだらと抱きしめること。

これこそが、この手段と目的が真っ逆さまに転倒した狂った競争社会を足元から解体し、子どもの命を100%救うための、社会へのアプローチだ。

諸君、ご清聴ありがとう!また会おう!

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