2026/06/05

POST#1869 右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の騙し合い

 

台北市内
今朝、仕事から帰ってきてもそもそと食事を貪りながら来たばかりの朝刊を読んでいたら、気になる記事がいくつかあった。あぁ、うちは昔から『試験に出る朝日新聞』だよ(笑)。
株価68,000円越えは、もういい。AI関連のバブルだ。好景気だなんてだれも思ってないから心配するな。
TSMCの城下町、熊本:上 台湾有事の不安、すすむ住宅投資🔗』という記事だ。リンクを貼ってあるから、興味のある向きは、読んでみるといいだろう。
そうだよな。俺も思ってたんだ。声高に言えば中国を刺激するといけないから多分粛々と進めてるんだろうけれど、以前にも書いたような気がするけど、台湾有事が起きた場合、膨大な数の台湾人が難民、一時避難民となって日本に押し寄せるだろう。
その時、TSMCの城下町、熊本ってのは地理的にも台湾に近いし、それを見越してるんだろうなと思っていた。もっとも、政府自体がひそかに台湾人のためのコロニーを作っているわけではなく、TSMCの工場誘致に引きづられるような形で進んでいることなんだろうけれど。
諸君、これが実情だ。
排外主義的な主張を掲げ、難民申請を厳しくしたり、在留登録手数料を値上げしたりしている場合じゃない。台湾有事は存立危機事態だというならば、国家的に制度を整えていかなければならないだろう。日本人はいつも後手後手だ。ほぼ与党独裁というのに、食料品の消費税を下げる議論だけで半年もかかっている。キャッチャーミットにボールが治まってからバットを振ることにならないことを祈るぜ。

さて、閑話休題

うちの息子は、YOUTUBEの広告を忌み嫌っている。

そして俺は、アホ面してぼんやりテレビの広告を見てる息子に、TVばかり見ていると、広告に洗脳されて、不要なものを欲しがるようになるから気をつけろと教えてる。

うちの豚児の「YouTubeの広告を忌み嫌う」という感覚は、資本の論理による脳のハッキングつまり『強制的な欲望の刷り込み』に対する、極めて正常で健全な自己防衛本能(アレルギー反応)だろうな。

そして、俺自身が『テレビを見すぎると洗脳されるぜ』と伝えていることは、まさにメディアが流す『作られた正しさ』や『消費への誘導』を客観的に見抜くための、メディアリテラシー教育ってことだ。戦前の大政翼賛会による「総動員戦争」を完遂するための『皇国』への傾倒も、現代の「消費至上主義」を喧伝する『広告』への傾倒も、大衆を一元的な価値観で支配するシステムという意味では、全く同じ構造だ。このライム、わかってくれるかな(笑)。

この馬鹿なオヤジと阿呆な息子の凸凹コンビの日常的な関わりこそが、まさにいつも話していた『システムへの強力なボイコット』そのものじゃないかな。

右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の騙し合い。どこに男の意地がある♪

1. 広告を「嫌悪する」という最高の知性

現代の広告は、子供たちの脳の報酬系(ドーパミン)を計算し尽くして作られているのだという。すごい洗脳技術だな。きっと時計仕掛けのオレンジ🔗に出てきたルトヴィコ療法みたいな人間の深層心理を操作する悪魔のような技術の持ち主たちが、グーグルやヤフー、電通や博報堂にいるんだろう。

で、うちの豚児の広告に対する「ウザい」「嫌いだ」と感じる不快感の正体こそは、自分の大切な時間や関心(アテンション)を、土足で奪われることへの正しい拒絶反応ってことだ。

ひょっとすると、うちの豚児(本名は麒麟児だけど、まったく名前負けだ!)の電車のことで煩悩まみれの脳みその中に、広告を無批判に受け入れるのではなく、「これは自分を操ろうとしているノイズだ」と見抜く知性が、すでに育っているという可能性もある。まぁいうなれば「洗脳」の無力化だ。誰だって毎日毎回、リクルートとかアゴタのCMを見せられるのはうんざりだからな。

それって、まさに助長、つまり早く育てようとして植物の芽を引っ張って抜いてしまう頓馬なことになってないか?ほんとに計算づくで作られてるのか怪しくなってきたな。

2. 「広告に洗脳される」という言葉の批評性

俺が使う「広告に洗脳される」というフレーズは、うちのバカ息子にとっても強烈なインパクトを持ってるかもしれないな。それがひいては、テレビやネットの向こう側の世界を、一歩引いて客観的に見る「批評的な目」を養ってくれること願うぜ。

年取ってから生まれた大事な息子だからな、情弱のあまりトクリュウ犯罪に飛びついて、人生を台無しにされたらたまらないぜ。泣くに泣けないってもんだ。

現代の「国家」や「資本」という神話にからめとられないようにしないといけないんだ。

かつて国家のために命を捧げることが正義とされたように、現代は「資本(経済)のために労働機械になること」が正義とされているんだからな。

この形を変えただけの洗脳に気付かせる言葉として、機能してくれるとありがたいぜ。

ついでに言えば、学校や世間が「あれを買え」「こうあれ」と一方向の価値観を押し付けてくる中で、父親が「あれは洗脳だぜ」と笑い飛ばしてくれることは、子供にとって「世間の正しさがすべてではない」という圧倒的な安心感(精神のシェルター)になるだろう。

とはいえ、今日学校で配布されている学習用のクロームブックで桃太郎電鉄🔗をやりすぎて、先生に取り上げられたらしい。阿呆だな、俺の息子。とほほ…

3. 家庭の中に生まれる「オルタナティブ(代替)な空間」

テレビやYouTubeの画面(広告・洗脳)を親子で否定し、クソミソに笑い合える関係がある時点で、俺の家庭はすでに「労働機械の仕込み工場」であることを拒絶しているんだろうな。(笑)

うちの豚児にとって、スマホのアルゴリズムが提示する偽の欲望よりも、「こいつは洗脳だぜ、気をつけな」と本質を教えてくれる俺との生身の会話の方が、はるかに刺激的でリアルなのかもしれないな。実はそこに、カントの言う「目的としての人間」の関わりが成立しているって寸法だ。

画面の向こうのバナナマンより、目の前のインパクトのでかいくそ親父だ。

国や学校のシステムが変わるのを待つまでもなく、俺のHELLホームでは、子どもを「かけがえのない存在」として守るためのボイコットがすでに始まっているんだ。

いや、実は生まれたばかりの頃から、毎晩抱っこしながら耳元で、『学校の先生やその辺のつまらん大人に褒められるようなバカにはなるなよ』とささやき続けてきたんだ。まるでTHE BLUE HEARTS🔗少年の詩🔗の歌詞みたいだ。ロックだぜ、うちは。

けど、カミさんには叱られるから内緒だ。絶対にな。

広告やテレビを冷めた目で見るうちのバカ息子は、将来、システムの部品になることを自ら拒否できる、強靭な尊厳を持った大人へと育っていってくれるとありがたいもんだ。なんせ、TVやネットの言葉を真に受ける頓馬が、我が国には2億人くらいいるんだからな(笑)。

ここで話題の転換点が生じるぞ。覚悟してね。

そもそも、レジリエンスだのダイバーシティだの、コンプライアンスだのハラスメントだの、よく意味の解らんような横文字の言葉が世の中に跋扈するようになってから、どんどん世の中は窮屈になってると俺には感じられる。息ができないほどだ。(俺は最初、レジリエンスはなんか新しいシャンプーで、ダイバーシティはお台場シティかと思ってたぜ。ガハハハッ!)

なぜかって?偽善の臭いがプンプンしてるから、洗濯はさみで鼻をつまんでいるからだ!

これ、ちょっと現代社会の息苦しさの核心だ。

本来は個人を救うため、あるいは社会を豊かにするために登場したはずの「再起力=レジリエンス」や「多様性=ダイバーシティ」という言葉が、今や新自由主義的なシステムにハイジャックされちゃって、人々をさらに監視し、追い詰めるための「新たな凶器」に変質しているからなんだなぁ。羊頭狗肉って感じだぜ。

なぜこれらの美しい言葉が、世の中をますます窮屈にしているのかじゃが、その裏に隠された構造を説明しよう!(オーキド博士風に!)

1. 「レジリエンス」という名の精神的自己責任論

「レジリエンス(精神的復元力・折れない心)」という言葉がこれほど強調されるようになったのは、社会の側が「人間を壊すような過酷な環境」を改善することを放棄したからに他ならないんじゃ。

本来の意味はあれらしい。ほら、困難な状況にあっても、しなやかに立ち直る力だ。若者に必要なのは正しい挫折とそこからの立ち直り、みたいな?

しかし、その少年ジャンプ的なちょっといい話が、大真面目に語られると途端に窮屈な言葉に変貌し、俺たちに牙をむく。

その原因はずばり、現代社会において、この言葉は「どんなに理不尽な環境、つまりいじめ、過剰な競争、ブラックな労働、上がらない給料と上がり続ける物価と税金といった地獄のような環境であっても、何度打ちのめされても、自力で立ち上がって、心身を病まずに耐え抜くのは個人の義務である」という悪魔的な文脈で使われちゃってるからもう大変!

おかげさまでもたらされた弊害は甚大だ!

 心が折れてしまった子どもや大人に対して、「環境が悪い」のではなく「本人のレジリエンスが足りない(自己管理不足だ)」と一刀両断され、あっさり処理されちまうんだ。

ここにはカントの言う人間を金儲けの「手段」として使い続けるために、「壊れないように自分をメンテナンスせよ」と要求し続けることで、それが強迫観念となり、弱音を吐くことをさらに難しくしているんだ。

この不屈の反骨精神が作業服を着て安全靴を履いているような21世紀のエリック・ホッファー🔗といわれる俺でさえ、(勝手に自分で名乗ってるだけなんだけどね(笑))鬱病の薬を手放せないんだぜ!並の神経じゃもつわけないだろ!

2. 「多様性」という名の新たな数値評価と規格化

現在の社会が美しく歌い上げる「多様性」ってのは、実は人間のグラデーションをありのまま認めるものなんかでは、ちっともない。

経済に役立つタイプの多様性だけをラインナップする」という、極めて功利主義的なものになっているんだ。

要は、金を稼げる奴だったら、どんな属性の奴でも集めてこいや!ってことだ。やれやれ、これじゃ大昔のドヤ街🔗と変わらないな(笑)。

もちろん、この本来の意味は、どんな特性や違いを持っていても、排除されずに生きていけることだよ。カントやルソーが聞いても、Das ist gut!とかC'est Bon!とか言いそうな言葉だよ。そんな素敵な言葉なんだけど、だからこそ、そこに偽善が忍び込むのさ。夜陰に乗じるトクリュウ犯罪者のようにね。

現代の多様性という意味合いは、産業界からの強い要請によって「個人のユニークな強み=市場価値」へと変換されちゃったわけだ。

まったくお見事な換骨奪胎というやつだ。

「あなただけの強み(個性)は何ですか?」「それをどう社会(企業)に活かせますか?」という、「一芸を持った優秀な人材」であることを強いる新たなオーディションのようになっているわけだ。吉本興業の新人芸人みたいなもんだ!

おかげさまで、社会はおかしなことになってるんじゃ!

 「ただ特筆すべき個性もなく、普通に生きたい人」や「社会の役に立つアピールが苦手な人」は、多様性の枠からさえも実質的に排除さちゃうわけだ。機動戦士ガンダム🔗でいうところの、量産型のザクかガンダムの量産型のジムに過ぎないんだ。つまらない事務仕事でもやらせておけ!となるわな。

さらに、「他人の多様性を傷つけてはいけない」という過剰な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)のルールだけが肥大化しちまったもんだから、さあ大変!ドジョウが出てきてこんにちわだ。

学校でも職場でも「一言でも間違えれば即座に糾弾される」という、冷徹な相互監視と息苦しさを生み出しているわけだ。あー、まるで中世の魔女狩りみたいな社会だな!自分で書いてて泣けてくるぜ、まったく。

3. 美しい言葉が「盾」になり、本質的な批判を封じ込める

レジリエンスを高めよう」「多様性を認め合おう」というスローガンは、けっこう、けっこう、まことに結構。マジで表向きは100%正しいため、誰も反対できないんだ。

しかし、これが曲者だ。

誰も反論できないってことは、大政翼賛会的に偽善の正しさを追い求めることになるんだ。

そう、この正しさこそが罠になるんだ。

俺のような空気を読めない、本当の意味での多様性とレジリエンスの権化のような大人が「学校の仕組みそのものがおかしい」「経済至上主義を止めろ」と根本的な批判の声を上げようとしても、社会システムは「私たちはレジリエンス教育や多様性の尊重に取り組んでおりますです、はい」というポーズ(免罪符)によって、構造の歪みを隠蔽し、対話を煙に巻いてしまうわけだ。

俺が感じている窮屈さの正体は、「どれだけ社会が優しげな言葉を使おうとも、その根底にある『人間を材料(手段)として評価し、消費する』という本質(新自由主義)が1ミリも変わっていないこと」への違和感だ。

剥き出しじゃないだけ、戦いを挑むことも異を唱えることも野暮に見えちまう。そう、みんなシニカルに眺めて冷笑するだけだ。

Oi!ちょっと待って、これってまるで1984🔗に出てくるニュースピーク🔗そのままじゃないか!

言葉が優しくなった分だけ、その猛悪な牙が見えにくくなり、追い詰められている側は「こんなに配慮された社会で苦しんでいる自分が悪いんだ」と、自分自身を責め、自己幻想を解体し、自らの内面に批判の刃を向けやすくなってしまうんだ。

絶対おかしいだろう!

子どもの自殺が減らないのも、この「優しい顔をした過酷な社会」が、子どもたちの逃げ場を完全に塞いでいるからに他ならないんじゃないのか?え、どうなんだい、社長!

この「言葉の罠」に気づいた俺や君たちは、社会が押し付けるハリボテの言葉を拒絶し、もっと泥臭く、不完全な「生の人間」を取り戻す必要があるんじゃないか?

なんてったって、生の人生は一度しかないんだからな。

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