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| タイ、バンコク |
今夜から新しい現場が始まるんで、あれもこれもやっておかなけりゃと気が気じゃないんだが、可燃ごみ捨て、掃除洗濯、便所と風呂の配水管の掃除、おまけに終わった現場の図面のシュレッダーに印刷していな図面の印刷、請求書を作成して送り、帳簿に記載とあれもこれもやっておかないと落ち着かない。生きるってことは地を這うような泥臭さだ。
さて、そんな気が狂いそうなせわしなさの中でも俺はやるぞ。
たとえこの先、国家がなくても、闇市のようにして生き抜く時代がやってくる可能性がないとは言い切れない。そんな馬鹿なと思うかもしれないが、実際に世界にはそんな地域はごまんとある。それを見て見ぬふりするのはとんだ脳内お花畑だ。それがもし、80年ほど前の日本のように、再び日本を襲ったならば、その後にこそ鍛造されたしぶとい日本人が、現れるかもしれない。
「国家」という虚構が剥がれ落ちた後の、「闇市的サバイバル」。これこそが、明治以来のプロイセンモデルや戦後の対米従属という「借り物の服」を脱ぎ捨てた、日本人の剥き出しの生命力が試される場なんだ。人間の地力が試される。
かつて日本全国を歩き回り、人々の生活を記録し続けた宮本常一🔗が出会ったような、過酷な自然や理不尽な権力の中でもしぶとく知恵を出し合って生き抜いた日本の「常民」の姿が、現代の廃墟の中に再現されるかもしれない。
そこは法理より実利、理念より生存が優先される世界だ。
国家のシステムが機能不全に陥ったとき、人々は誰に頼ることもできず、自分の頭で考え、自分の手足で食い扶持を稼ぎ、信頼できる仲間と「闇のネットワーク」を築くしかなくなるだろう。君には信頼できる仲間はいるか?地縁、血縁、生業のつながり、そういったリアルな人間関係こそが人間を生かすんだ。迷惑かけたくないとかきれいごと言ってる場合じゃない。人間はそもそも、お互いに迷惑をかけあわないと生きていけない生き物なんだ。誰かに迷惑をかけて助けてもらったら、今度は誰かの迷惑を引き受けて生きるんだ。
債権も国家の信用によって流通していた紙幣も、単なるトークンつまり代用貨幣🔗になってしまうだろう。本当に信用できる資本は、手が二本、足が二本で四本=資本主義だ。
そのリアルで泥臭い『贈与』と『反対給付』によって、事なかれ主義の日本人は『一個の自立した人間』へと鍛造されるんだ。この泥臭いプロセスを経て生き残った人々こそが、甘えや依存を削ぎ落とされた、真に「自分の足で立つ」強靭な日本人になるだろう。
自律した自由な人間てのは、まったく逆説的だけれど、自分の限界を知っていて、他人の力を借り、他人に力を貸せる人間のことを言うんだ。この逆説的なところは大切なことだから、よく吟味して腑に落ちてほしい。
孤立した人間は、自由どころか野垂れ死んでしまうだけだ。良くて誰かの奴隷にされて家畜のようにこき使われる。
自由というのは、一人で成し遂げられるものではないんだ。
こうして相互に依存し協力し合うことによって、新しい共同体の萌芽が生じるだろう。
闇市という混沌の中から、再び「天皇」という古層の権威=オーソリティを紐帯とした、寛容でインクルーシブな「新しい寄り合い」が自然発生的に立ち上がってくることを俺は願っている。
このままアメリカに盲従していくなら、間違いなく日本国は詰んでしまうだろう。
一度「おしまい」を迎え、国家という重石が消えた更地で、雑草のようにしぶとく根を張る日本人。その時、俺たちは初めて、明治以来のプロパガンダではない「本当の自分たち」に出会えるのかもしれない。
この「闇市」から始まる新しい日本の姿を、俺自身がどの程度の時間軸(数年、あるいは数十年)で、形を成すと見ているかといえば、何世代もあと、きっと俺の死んだ後になるだろう。けれど、俺が死んだとて、この世からバカが一匹減っただけ。
我亡き後に新しい日本が芽吹くことを願っている。
崩壊した本体(ソマリア)を見捨て、国際社会の承認すら得られない孤立無援の状態から、地元の長老会議(伝統的権威)を基盤に自力で治安と経済を築き上げた「ボトムアップの独立」。
日本が「おしまい」を迎えた後、私たちが辿るべきはまさにあのプロセスかもしれないぜお。興味がある向きは早稲田大学探検部出身のノンフィクション作家高野秀行🔗の傑作『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家分プントランドと戦国南部ソマリア🔗』をお読みになるとよいでしょうな。
そこには日本がお花畑のように見えてくる北斗の拳のような、三国志のような世界がある。
伝統的権威の活用
ソマリランドが部族の長老たちを統合の核としたように、日本は「天皇」という古層のオーソリティを、国家システムではなく共同体の紐帯として再起動させることができるだろう。
実利に基づく自治
中央政府(プロイセンモデルの残骸)が機能しない中、闇市的な経済ネットワークと、宮本常一が描いたような「寄り合い」の知恵で、自分たちの食い扶持と安全を自分たちで守る。うん、地縁血縁と町内会が入り混じったような自治組織だ。
しかし、そんな社会で核兵器が残っていたらこれまた危なっかしくて仕方ないな(笑)。
「承認」より「生存」
アメリカや中国、国際社会にどう見られるか(承認)を後回しにし、まずは「自分たちの足で立つ(生存)」という実態を積み上げる。
国家という虚構=共同幻想が崩壊した後、残された人々が「日本人とは何者か」を身をもって問い続け、数十年かけてじわじわと形を成していく。
それは「核武装した永世中立」というハードウェアと、「寛容なインクルージョン」というソフトウェアが、現場のリアリズムから鍛造されるプロセスだ。
その「ソマリランド化した日本」において、私たちはかつての「豊かな経済大国」という幻想を、完全に捨て去る覚悟が必要になるだろう。
にもかかわらずアメリカには関税だ、巨額の投資だ、時代遅れの防衛装備購入だといいようにたかられている。そのうち、ジャンプしてみろ、まだ小銭がちゃらちゃら言ってるだろうといわれるに違いないぜ。
「まだ日本は経済大国だ」という幻想にしがみついていること自体が、現状を正確に見る目を曇らせ、手遅れにさせている最大の要因だ。
2026年現在、数字を見れば現実は残酷極まる。
GDPの転落: ドイツに抜かれ、インドに抜かれるのを待つばかりの転落。
購買力の喪失: 「安い日本」として世界から買い叩かれ、資源も人材も流出。
技術の空洞化: かつての「技術立国」の遺産を食いつぶし、独自性を失った模倣と中抜き。
「かつての栄光」という麻薬を打ち続け、オリンピックだ万博だ、リニアだと過去のロールモデルをなぞっている間に、アメリカには骨までしゃぶられ、足元からはシロアリのような既得権益に食い荒らされている。
この「死に至る病」に気づかないふりをしていることこそが、日本というシステムの自己崩壊を早めているんだ。
「経済大国」という看板が物理的に叩き割られ、闇市のような極限状態に追い込まれて初めて、日本人は「自分たちは何も持っていない」というゼロ地点に立てる。
そのどん底で、「天皇」という古層の権威と、「核」という非情なリアリズム、そして「宮本常一的」なしぶとい生活の知恵を、バラバラになった廃材の中から拾い集めて組み直していく。レヴィストロースが、その著書『野性の思考🔗』の中で描いた有り合わせのもので何とかするという、ブリコラージュ🔗社会だ。
ソマリランドのような「承認なき自立」を歩むとき、私たちは「豊かな国」というプライドを捨てた代わりに自立と自由を手にすることになるだろう。
しかし、人は自由の過酷よりも奴隷の安逸を喜ぶんだ。いつだって。
なぜって人間にとって「自由」は、自分で判断し、全責任を負わなければならないという耐えがたい「孤独」と「不安」を伴うものだからだ。自己責任だといって、ネットで弱者を部ったくような自己責任とはレベルが違う。そんな時に、弱者を自己責任だと突き放し、唾を吐きかけていた手合いが、どんな顔をするか、楽しみだ。それを見るためだけでも長生きしたくなるってもんだ。
多くの日本人は、アメリカに骨までしゃぶられ、ゆでガニのように緩慢な死に向かっていても、なお「誰かが決めてくれたレール」の上で奴隷の安逸を貪ることを選ぶんだろうな。
その方が、自分の頭で考える苦痛より楽だからだ。
しかし、システムが完全に自己崩壊し、その「安逸」という麻薬が物理的に供給されなくなった時、俺たち日本人は選択の余地なく自由という荒野に放り出されることになるだろう。
自立の代償は高くつく。 守ってくれる「主(アメリカ)」も、配給をくれる「官僚機構」もいない。自分たち自身で力を合わせていかないと一日たりとも生きられない。
そして自由とは過酷なものだと思い知ることになる。闇市で食い扶持を探し、天皇という古層の権威を紐帯に、核という呪い(抑止力)を背負って生き抜く。
その過酷な自由の中でこそ、宮本常一が歩いた時代のような、あるいはソマリランドの長老たちが体現しているような、「剥き出しの人間としての尊厳」が、皮肉にも日本人に再搭載されることを夢想する俺だ。
「安逸な奴隷」として滅びるか、「過酷な自由」の中でしぶとく再生するか。君はどう生きる?

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