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| 犬吠埼 |
なぜ「警告」まで発展したのか
現代の防犯ルールでは、たとえ挨拶であっても、子供が「怖い」と感じたり、保護者が「知らない人が頻繁に話しかけてくる」と通報したりすると、警察は「声かけ事案(不審者情報)」として動かざるを得ないのが現状だそうだ。やれやれ、世知辛い世の中だ。
刑法の条文に直接抵触していなくても、以下のステップで「警告」が行われた可能性が高いようだ。
子供・保護者あるいは地域住民からの通報: 「知らないおじいさんに毎日声をかけられて不安だ」という相談が警察に入る。あるいは「施設に入っているから地域の人間とみなされず、不審な老人が毎日こどもと親し気に接している」と地域住民から通報相談が入る。
ストーカー規制法や迷惑防止条例の準用: 繰り返し同じ子に声をかける行為が、相手に不安を与える「つきまとい」に近いと判断される。まぁ、手紙とかももらったことがある顔見知りだったらしいぜ。
警察官職務執行法に基づく指導: 実際の事件(誘拐やわいせつ等)を未然に防ぐため、警察が「これ以上はやめてください」と公式に警告(行政指導)を行う。
まったく「今の世の中はどうなっているんだ」と納得しがたいぜ。しかし今の時代は「知らない大人からの声かけは、善意であってもリスク」と子供たちが教えられている。いわゆる『いかのおすし』だ。
このポイントは、現代の防犯活動が抱える非常に根深く、切実な問題(ジレンマ)だ。
本来、地域社会の「挨拶」は、子供を見守り、犯罪を抑止するための「共助」の基盤でした。しかし、現在起きている現象は、「市民社会の委縮(ソーシャル・キャピタル=社会的なつながりの毀損)」を招いている側面が多分にありといえるだろう。
この問題には、以下の3つの背景が複雑に絡み合っています。
1. 「性善説」から「リスク管理」への転換
かつては「地域の大人はみんなで見守る」という性善説が通用しましたが、現在は「万が一の事件」が起きた際の警察や学校の責任問題が非常に厳しくなっている。その結果、「疑わしきはすべて排除する」という極端なリスク管理に振れてしまっている。
2. 教育現場の「知らない人にはついていかない」の徹底
現在の防犯教育(いかのおすし等)では、「知らない人に声をかけられたら逃げる」と教えられる。子供には「善意の挨拶」と「誘い出しの口実」を見分ける能力がないため、「大人は一律に警戒対象」として教育せざるを得ないという教育現場の限界があるんだそうだ。俺は子供のほうが人間の本質を見抜いてると思うけどな。
3. 「声かけ事案」という統計の罠
警察は、軽微な声かけもすべて「事案」として集計し、防犯メールなどで共有するんだそうだ。ご苦労様。これにより、保護者の不安が過度に煽られ、「挨拶されただけで通報する」という過剰反応が連鎖し、さらに警察が動かざるを得なくなるという悪循環が生まれている。
さて、86歳のくそジジイが朝の散歩で挨拶をするという、かつては「美徳」とされた行為が「警告」の対象になるのは、明らかに地域のコミュニケーションの崩壊を象徴している。
俺は寝ぼけた頭でこの話を聞いて、真っ先に憲法で保障された「表現の自由」や「行動の自由」に対し、具体的な実害(つきまといや卑わいな言動)がないにもかかわらず、警察が「挨拶」を一律に禁じるのは、公権力の過剰な介入だと思ったぜ。俺は国家権力に縛られるのが嫌いなんだ。てか、好きな奴っているのかな?
俺は施設長との電話を切ると、過ぎに地元の警察署に電話した。生活安全課か地域課の人間と電話越しに事情を説明し、その『警告』の法的根拠を伺いたいと話をしたんだすると警察官は、『了解』と言った。
『了解』だと?了解ってのは、あくまで上の立場の人間が目下のものに対して言う言葉だ。俺はそれく指摘し、即刻抗議した。非礼だ。
警察官が市民に対して「了解」という言葉を使うのは、ビジネスマナーとしても公務員の接遇としても極めて不適切だ。本来は「承知いたしました」や「かしこまりました」と言うべき場面だ。俺はへりくだってほしいと思ってないから『わかりました』で十分だけどね。
俺は『公僕』が『了解』なんて言葉を使うもんじゃない!と言ってやったんだ。
君はどう思うかわからないが、これは、主権者たる市民として極めて正当な権利行使なんだ。公共の安寧を守るはずの者が陥っている「勘違い」を正す重要な指摘なんだ。
そもそも警察官は国家権力のシステムの一環ではあるけれど、国家システム自体が「公僕(Public Servant)」であり、その権力は市民からの信託によってのみ成立している。俺たち一人一人の市民はもっと生まれた権利の一部を国家という全体に委譲し、そのうえで司法、立法、行政などを任せているにすぎないんだ。
それがいつの間にか市民を指導・管理の対象として見下し、対等な敬意を欠いた言葉(了解)を使うことは、その信託関係を自ら否定する行為に他ならないんだぜ。
俺があんまり声高に憤ってるもんだから、別の部屋でテレワークしてるカミさんが、そう感情的になるもんじゃないとたしなめに来たほどだ。しかし、俺に応対した末端の警察官は、国家システムというものが、個人の自然権を移譲して公共の福祉のために作られたものである認識がない。俺が国家システムという言葉を発したとたんに不機嫌になるのが分かった。
ある意味仕方ない。俺の真ん中にある哲学的な視点は、近代民主主義の根幹である「社会契約説」そのものだからだ。
本来、警察権力というものは、私たちが自分たちの安全を守るために「自然権(自由権)」の一部を信託し、公共の福祉のために行使させているに過ぎない。つまり、警察官は「主権者である市民の自由を最小限の介入で守るための公僕」であるはずだ。
しかし、現場の末端警察官において、以下のような深刻な「認識の逆転」が起きているのが実態だ。
1. 「お上」意識とパターナリズム(父権的介入)
「了解」という言葉遣いに表れているように、彼らは自分たちを「市民を指導・管理する立場」と思い込んでいる。主権者から権限を預かっているという謙虚な認識ではなく、「国家という強大な権力の執行者」としての特権意識が、個人の尊厳を軽視させている。
2. 「公共の福祉」の誤用
本来「公共の福祉」は個人の自由を調整するための概念ですが、現場では「誰か一人でも不安に思えば、個人の自由を制限して良い」という安易な安全至上主義にすり替わっている。。これでは、多数派の主観によって少数派(あるいは個人の善意)が排除される「専制」と同じだ。先日も卒業式の赤飯が、3月11日に不謹慎だというたった一人の苦情で廃棄された。それと同じだ。
3. 法の支配(Rule of Law)の欠如
法執行官であれば「どの条文の、どの構成要件に該当するのか」を厳格に判断すべきだが、現代の防犯活動は「事案化(データ化)」を優先するあまり、法的根拠のない「事実上の強制(行政指導)」を乱発している。これは法治国家としての根底を揺るがす事態じゃぁなかろうか。
俺は、内容がわかる人間からの連絡を要望し、内容いかんによっては弁護士に相談するといって電話を切り、返答を待った。
「調査して連絡する」という回答を引き出したことは、彼らに「安易な言葉(警告・了解)が通用しない相手である」と認識させた証拠だといえるだろう。
「弁護士と相談する」という言葉を警察に突きつけたことは、今回の問題を単なる「現場の行き過ぎた注意」から、「公権力による不当な権利侵害(国家賠償法上の問題や名誉毀損の可能性)」へとステージを引き上げる、非常に強力な布石だ。俺たち兄弟にさんざん尻拭いをさせてきたくそジジイだが、根拠なく犯罪予備軍扱いされるのは納得いかんのさ。
警察側も、これによって「適当な言い訳で済む相手ではない」と組織として認識したんだろう。早速地域課の偉いさんがしどろもどろで電話してきた。
まぁ、その子どもと緊密な関係を築いているのははたからはわからない。
警察も誰からか通報があれば動かざるわけにいかんのだろう。しどろもどろで釈明していた。警察官職務執行法ですか聞いたら、その上位法である警察法という法律に基づくものだといっていたな。なんや知らんけど。
面倒だな。仕事の電話は次々かかってくるし。俺は最後に地域課の偉いさんに言ってやったさ。
『次に親父が何かしでかしたら、警告とかなまぬるいこと言ってないで、さっさと逮捕して独房にぶち込んでください。そうすれば、僕ら兄弟も親父の入所してる施設の金を払わなくて済みますから。次はぜひ思い切ってお願いします!ガハハハッ』
そもそも、俺の親父のようなケースで私服警察官が3人もやってきて『警告』という言葉を安易に使うことは、国家が市民の日常生活(挨拶という道徳的行為)を検閲し、コントロールしようとする「全体主義的な兆候」なんじゃないのか?
日本の警察もそのうちにアメリカのICEみたいに市民を標的にするようになるのかもしれない。あるいはこの国自体が中国みたいな全体主義的な専制主義国家へと変質しようとしているのかもしれない。
どっちにしても、国を守るってのは軍備で国土を死守することよりも、国としての理念を守ることだと俺は思うよ。何より、あいさつするだけで私服警官が3人もやってくる世の中なんて、ホラーすぎるだろう。俺は御免被る。

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