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| Kathmandu,Nep |
寂しい話だが、それが人生だ。
とりわけ、男と女の線は複雑怪奇。
それぞれの人生で、数多の交点を得て、他の線と切り結ぶような猛者もあれば、
一度交わったきり、もう誰とも交錯しない寂しい人もいる。
まれに交わった二つの線が、ひょんなことから縒り合されるようにして、
同じ軌跡を描いてて所帯をもったりするわけだが、それとて、決して交わらない二重らせんのようなものかもしれない。
そして一度、線と線が激しく火花を散らすように交わったとしても、それはほんの一瞬のことで、再び見える事すら出来るかどうか怪しいものだ。
その後の人生を、かつて味わった愉悦の記憶のみを、思い返し蒸し返すようにして生きることは、生皮をはがされて、熱い鉄板の上を転がされるような残酷さだ。
それを想えば、そんな線と線の、男と女の出会いが良いことかと言えば、酷なモノだなとしか言えない気もする。
どれほど愛しいと相手の身体を抱きしめて、錨を打ち込むようにして一つに繋がり、舌と舌を絡めてみたところで、その愛しく柔らかい肉体のうちに潜んでいる実態は、抱きしめる手指の間を、合わせた口の吐息の合間を、するりと抜けだしてしまって、けっして掴み取ることはできない。
それよりなにより、如何に皆さまに喜ばれるお金を山と積んだとて、人が人をモノのように所有することなどできない。
喩えひととき、90分3万円なりの金で買ったとしても、それはほんの短い時間、身体を交え、刹那の快美に酔いしれるだけのことで、漁師が根こそぎすなどるように、相手の喜びや悲しみの底の底まで、味わい、分け持つことなどできっこない。
それを想うと、泣きたいような底なしの寂しさに打ち震えるのだ。
喩えひととき、90分3万円なりの金で買ったとしても、それはほんの短い時間、身体を交え、刹那の快美に酔いしれるだけのことで、漁師が根こそぎすなどるように、相手の喜びや悲しみの底の底まで、味わい、分け持つことなどできっこない。
それを想うと、泣きたいような底なしの寂しさに打ち震えるのだ。
16歳のあの日に漠然と抱いた思いは、46歳になろうとする今、はっきり確信に変わっている。
いつも、誰とでも、本当に分かり合えない寂しさ切なさを感じるのは、俺の気質的な不具なのだろうか。
知ってほしい、わかってほしい、受け入れてほしいという切なさと、
知りたい、わかりたい、すべてを受け入れてしまいたいという愛しさ。
それでも、その切なさ寂しさは、相手への愛おしさとあいまって、
えい、次こそは、と厭きることない営みに向かわせ、
挙句手ひどく拒絶されたり、前よりむしろ謎が深まったりし、
貧しい心をかき乱すことになる。
生きるというのは、こんな俺には、残酷な刑罰のようなものさ。
読者諸君、失礼する。俺は毎日こんなことばかり考えている。この切なさが俺の言う、『もののあわれ』という奴さ。生きているのは愉しいけれど、同じ分だけ寂しく悲しい。
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