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| Sweden |
前回のラストでも言ったように、俺は、息子の世代によりマシな世界を手渡すためなら、悪魔にだって魂を売る男だ。ニヤリ😈けっして聖人君子ではない。どちらかといえば、デビルマン🔗とかチェンソーマン🔗とかが好みなんだ。悪魔の挽き臼をひっくり返すには、悪魔の力が必要だってわけだ。俺を突き動かしてるのは、間違いなくこの社会の理不尽さに対する、燃えるような瞋りなんだから。まぁ、それはいいや。
俺は息子と二人して歩いているときに、いつも思う。
子供達の世代が大人になっている頃まで、人間を商品にする、つまり人材だとかヒューマンリソースとかって、鉱物資源かなんかの材料、そう、商品と利益を生み出す材料としてしか見ないような、クソ嫌らしい社会じゃなくて、人間が人間であるというだけで尊重される世界を作るべきだと確信している。そして、息子たちの世代に、ほらよって飲みかけのコーラを手渡すみたいに譲り渡してやりたい。
まさにこれこそが、次の世代に手渡すべき最も尊い未来であり、このシステムの「究極の目的」なんだ。
現代社会では、子供たちの世代に対してさえ「将来どんな人材(ヒューマンリソース=人間の資源化)になれるか」「市場でどれだけの商品価値があるか」という、人間を単なる「手段や商品」として値踏みする冷酷な教育やシステムが当たり前のように押し付けられている。
いつも、春先になると、それまで思い思いのとんちきな服装で、髪を金髪や赤やら青に染めてはっちゃけていた若者が、何事もなかったかのようにリクルートスーツに身を包み、髪を切り、黒く染めなおして工場から出荷されたばかりのブリスターパックから取り出したばかりのフィギアのように歩いているのを見ると、どうしようもなく切なくなる。同時に、わかさの絶頂に在りながら、社会を食い破る野性もなく、毛を駆られた羊のように従順に歩いているのを見ると、泣きたいような気持になる。
これこそが、すべてを粉々にすり潰す「悪魔の引き臼」の最悪の連鎖だ。トリプルコンボだ。
俺が仕事の傍らに、ダラダラ寝転がりながら、コツコツと学び、積み上げてきた、人類学、経済学、社会学、そして哲学などの知識体系からガラガラポンでテキトーに捻りだしてきたこのシステムは、その歪んだ連鎖を断ち切り、子どもたちに「人間が人間であるという、ただそれだけの理由で絶対に尊重される世界」を物理的な手触りとして遺していくための、最も具体的で力強い遺産にする気満々なんだ。
このシステムが、子供たちの未来をどう変えるのか、その決定的な意味を考えるぜ。
1. 「商品」から「人間」への解放
- 子供たちが、資産家やすっかり社畜と化した「汎用の歯車」たちから、上から目線で品定めされるだけの社会ではなく、自分が地域の誰かをちょっと手助けしたときに、お年寄りから「ありがとう、これは私のハンコ(割印)を押した本物の価値だよ」と小切手を「手から手へ」ペリッと渡される。
- その原資は地球を削る資源ではなく、「人間の善意という無限のコルヌコピア(豊穣の角)」だ。子供たちは身をもって「自分は誰かを支え、社会の尊厳を創り出す主体なんだ」ということを学ぶわけだ。
- その体験は、資本主義システムの中で経済活動に従事する中でも、損なわれることのない自尊心の核になり得ると俺は考えている。そう、地域社会とは別の経済圏で活動する際も、地域社会で生きる時も、人間の存在の本質には変わりがないからだ。ニコリ😊
2. 「生老病死」を共に生き抜く、本物の「絆(ソリダリティ)」を渡す
- 震災のときのように、大人が深く考えずに車に貼っていたあの軽佻浮薄ですらあった「絆のステッカー」の欺瞞を乗り越え、「人間は誰もが老い、病になり、いつか必ず誰かに頼って生きていかざるを得ない存在である(うん、ジョン・ロールズの言う無知のベールそのものだ)」という温かい真理を、子どもたちに社会インフラとして手渡すことが可能になるだろう。
- このシステムがもし、社会に実装できたならば、22世紀まで生きるであろう現在の子どもたちは、将来さまざまな困難に直面しても、モナド(孤立)として絶望することなく、市民同士のお互い様の連帯の中で誇り高く生き抜くことができる。ニコリ😊
「人間を商品にさせない。人間が人間であるだけで尊重される世界を、自分たちの頭で考えて、自分たち自身の手で組み立てて、次の世代に手渡す」それが、俺の野望だ。
こういうシステムは単に頭のいい政治家とか官僚では思いつかないだろう。彼らは地域社会での生活実感を持っていないからだ。
すったども、2019年にノーベル経済学賞を受賞したアビジット・バナジー(Abhijit V. Banerjee)やエステル・デュフロ(Esther Duflo)のような、現場の泥臭い現実から経済を組み立てる「貧困経済学」の最高峰の研究者たちなら、きっと理解してくれるんじゃないだろうか?
なぜエリート官僚には思いつけず、バナジーやデュフロの思想と合目的的、つまりぴったり一致するものなのか、その理由は明確だ。
1. 官僚の「エビデンス(中央管理)」とバナジーたちの「現場主義」の違い
- 官僚や政治家(エンジニアリングの罠):
彼らは「すべての国民にスマホを持たせ、マイナポータルで一元管理すれば効率的だ」という、机の上の数式やデータだけでシステムを作る。これは人間をシステムに従わせる「手段」の思想だ。しかもテクノリバタリアンたちのつくりあげたデジタルデヴァイスを通じた『行動抽出』とがっちり連動している。つまり、前にも話したようにこのシステムを通じた、日本国民総デジタル農奴計画ってわけだ。マイナンバーカードがなかなか浸透しなかったのは、国民自身が無意識にその弊害を感じ取っていたからだろうよ。 - バナジーとデュフロ(野生の試行錯誤):
彼らが『貧困の経済学』などの研究で行ってきたのは、実際にインドやアフリカの貧困地域に自ら赴き、「なぜ現地の人は、頭のいい官僚が作った合理的な仕組みを使ってくれないのか」を徹底的に観察する「ランダム化比較試験(RCT)」という手法なんだ。
彼らなら、「スマホや暗証番号を強いるのは傲慢だ。すでに地域にある民生委員のようなネットワークを活かし、人間が一番使い慣れた『指をなめてめくる割印の小切手帳』という手触り(アナログ)から出発すべきだ」という俺の構想したブリコラージュ(ありあわせの創造)である『絆トークン』に対して、深く理解し賛意を示してくれるのではないだろうか。ニコリ😊
2. 「インセンティブ(下心)」と「尊厳」の二重構造
- バナジーやデュフロの研究では、「貧しい人々にただお金を配るだけ(受給者にするだけ)では、かえって自立の意欲を削ぐことがある」という現実を指摘している。これは、経済学者のアマルティア・センも同じようなことを言っていたように記憶してる。
- アマルティア・センの言う「ケーパビリティ」は、「自分が望む生き方を選択できる能力や機会」のことなんだ。社会的弱者側が「支援されるだけの哀れな客体」ではなく、「誰かにケアを依頼し、その対価として感謝とトークンを贈与する『主体、つまり自己決定権を持つ個人』」へと立場が逆転する。これこそが、自立の意欲と自尊心を取り戻す最大の仕掛けだといえるだろう。
- 『絆トークン』の悪魔的なおもろい仕掛けは、「ふるさと納税」のコストを組み替え、「税金が安くなる=ベネフィット」という下心をエサに、他者に関心を示さないタイプの人々を、地域社会というケアの現場に引っ張り出しつつ、社会的弱者とされる人々が自ら割印を押すことで『価値の創出者(目的)』へと大転換させる点だ。ニコリ😊
人間の「利己的な習性」を冷徹に利用しながら、最終的に「人間の尊厳」を担保するこの二段構えの仕掛けは、まさにバナジーたちが世界各地の実験で追い求めてきた「人間の行動心理を捉えた究極のナッジ(行動誘導)」そのものじゃないかな。ニコリ😊
3. 「ヒューマン・リソース」という言葉への嫌悪
バナジーとデュフロも、人間を単なる経済の道具や商品(人材・リソース)としてすり潰す「悪魔の引き臼」のような現代の資本主義に対し、激しい問題意識を持っている。そうじゃなきゃ、貧困経済なんて研究対象にしないだろう。彼らが目指すのも、「人間が人間であるだけで尊重される、貧困のない世界を子供たちに手渡すこと」に他ならない。ニコリ😊
手を伸ばせば、実際に触れることができるんじゃないかと思えるほどに具体化した「絆トークン」のグランドデザイン。しかし、まだ終わらんよ!
実際これを使ってデイサービスとかあるいは、放課後児童クラブとかをサポートするような形もできると思うんだよね。デイサービスや放課後児童クラブ(学童保育)の運営にこの仕組みを組み込むのは、まさにアナルコ・サンディカリズム的な「地域自治のユートピア」を現実化する、最高に合目的的なアイデアかもしれない。
もちろん、こういったところで正規に働いている人には公的な資格が必要なので、常駐職員などとして雇用することはできないだろう。それは解っている。そのうえであえて、考えてみるんだ。
デイサービスや学童保育ってのは、まさに「ケア(福祉・子育て)」の現場であり、現在の資本主義(悪魔の引き臼)の中で「低賃金の労働力(商品)」として最もすり潰されやすく、同時に「巨大福祉資本や利権」に最も買い叩かれやすい領域だともいえるだろう。その一方で、その現場は、低賃金と慢性的な人手不足で疲弊している。猫の手も借りたいってのが本音だろう。実際に老人介護の現場では、ヴェトナム人やインドネシア人の技能実習生という、半・移民労働者を迎え入れているところもたくさんある。
ここにもし『絆トークン』を導入すると、ケアの現場が「手段」から「目的」へと180度ひっくり返り、信じられないほど温かい循環が始まり得る可能性がある。
1. 「お世話する側・される側」の分断を溶かす
- デイサービス(高齢者):
施設でただ「お世話される弱者(受給者)」として存在するだけではなく、施設内で「子供たちのために昔のおもちゃを直す」「おやつ作りの知恵を教える」といった自発的な活動をすることもできるだろう。実際に俺のクソ親父86歳は、不死身なくらい元気なので、サービス付き高齢者住宅から飛び出して、地域の太極拳サークルなんかに所属している。そこで得た知見を、施設の退屈した住民にフィードバックしてみたりしたらどうだろう。こういった行動に対して、デイサービスの利用者やほかの施設の入所者が、感謝を伝えるとともに、自分の指をなめて、尊厳を込めて割印した小切手をペリッと手渡すって寸法だ。つまり、彼らは人生の最終コーナーを曲がった先まで「価値の創出者」でいられるって寸法だ。ニコリ😊 さらに一歩進めてデイサービス×学童保育の現場から
近年増え始めている「デイサービス」と「学童保育」が同じ屋根の下にある併存施設を思い浮かべてみてほしい。富山県発祥の「富山型デイサービス(共生型サービス)」をはじめ、最近では法改正(2018年の共生型サービス新設)も後押しとなり、赤ちゃんからお年寄り、障害を持った方までが同じ屋根の下でごちゃ混ぜになって過ごす拠点が各地に生まれているんだ。これと連動させることを考えないのは、もったいないばあさん🔗だ!
普段はお世話されるだけのデイサービスのおじいちゃん・おばあちゃんのもとへ、学童の子どもたちが遊びに来たり、ちょっとしたお手伝いをする。そのとき、おじいちゃんは自分の指をペロッとなめて、誇り高く割印を押した小切手を「手から手へ」ペリッとちぎって子どもに渡すんだ。
- この瞬間、お年寄りは単なる「ケアの受給者(恵んでもらう存在)」から、自らの意志で感謝を形にする「価値の創出者(主役)」へと立場をトランスフォームするんだ。アマルティア・センが言った「人間の自尊心と尊厳(ケーパビリティ)の回復」ってのを、この『絆トークン』を介して実現することができるんじゃないかな。
- そして小切手を受け取った子どもたちは、大人から「将来どんな商品価値(ヒューマンリソース)になれるか」と品定めされる酷薄な経済世界に入る前に、「自分が人間として誰かを助け、感謝されたことが、そのまま本物の価値(トークン)になる世界」を身体的な実感として学び取ることができる。
- その原資は地球を削る資源ではなく、「人間の善意という無限のコルヌコピア(豊穣の角)」だ。この体験こそが、将来どんな新自由主義の荒波に揉まれても決して折れない、人間性の土台になり得る可能性があるだろう。 ニコリ😊
2. 「ボランティアの若者」や「シングルマザー」を巻き込む
- この福祉と子育ての拠点を「小さなアジール」だと考えてみよう。
- ここに、ふるさと納税のコストを組み替えた強力なベネフィット(下心)を仕掛けておくんだ。「あのデイサービスや学童の手伝いをすると、めちゃくちゃ自分の市民税が安くなるらしいぞ」と、人々のたちの利己心を釣り上げ、現場に赴かせるんだ。しめしめ。
- しかし、彼らが現場に一歩足を踏み入れ、お年寄りや子供たちから手から手へ「割印付きの小切手」を手渡された瞬間、その生々しい人間的な儀式によって、閉じ込められていたモナドの窓にクラックが入り、地域社会との回路が生み出される。人間は、他者との関係性の中でしか生きられない存在だ。この回路が人格の中に生み出されることは、新たな関係性がそこに生じるってことなんだ。すると、その人間の精神の構造は、気づかないうちに刷新されていくことになる。それが関係の絶対性だ。
3. 国家や巨大資本に頼らない「自主管理運営」
- デイサービスや学童の運営費(維持コスト)の一部を、この地域限定の「絆トークン」で決済・還流できるようにするのもよいかもしれない。どんな施設も、民間のものなら特に、固定資産税がかかるだろうし、トイレがある限り水道代も必要だからな。
- 最終的には地元の市県民税や固定資産全、水道料金などの公共事業の支払いにしか使えないバリア(プロテクショニズム)があるため、東京のIT企業や政治利権に手数料を1円もかすめ取られることなく、「人間の善意という無限のコルヌコピア(豊穣の角)」が、100%その現場のスタッフの待遇改善や、入居者や子どもたちの環境改善のためだけに注がれることになるだろう。 ニコリ😊
「デイサービス」と「放課後児童クラブ」という、老いる者とこれから生きる子供たちが交差する場所こそ、地域社会に連帯を生み出す直接行動を起こすにふさわしい、最高の実験特区かもしれないな。
実際に即して考えてみよう。例えば年食って働けなくなった、うちの近所のT 松さんみたいなおじいさんやおばあさんたちのことだ。っさやかな年金だけで暮らしていけたとしても、自宅の建物や土地には容赦なく固定資産税はくる。後期高齢者健康保険料は年金から差っ引かれて、否が応でも払わなきゃいけないわけでだ。水道代だってかかる。この『絆トークン』が、そういう人たちの生活に、少しでも足しになり得るかもしれないぞ。 ニコリ😊
年をとって現役を退き、体力が衰えて社会の歯車として稼げなくなっても、国家というリヴァイアサンは一切の容赦なく、固定資産税、市民税、そして現役世代の負担をも上回る勢いで引き上がる介護・後期高齢者健康保険料の請求書を毎年送りつけくる。
上級国民の人は措いておこう。その人たちも同じ人間だけれど、俺の中で作動している社会的なトリアージの優先順位は低い。グリーンだ。レッドやイエローの人を考えないとな。
貯蓄を切り崩し、カツカツの年金だけでそれらを支払わなければならないお年寄りたちにとって、このシステムは単なる「ちょっとした足し」を遥かに超えた、「生活を守り、尊厳を維持するための命の手綱」になる可能性がある。だいいち、助けてもらった時に、家庭菜園でとれた茄子を持っていける人ばかりじゃないからな。
この切実な問題に対し、『絆トークン』がどれほど完璧なオルタナティブになり得るだろうか?
1. 「自分の生きがい」が、そのまま「重税の免除」に化ける
- 今の社会では、お年寄りがどれだけ地域の子供たちを見守ったり、ご近所を助けたりしても、それは1円にもならず、税金は額面通り納めて行かにゃならんわな。まぁ、地域活動だとか市民の義務だという人もいるかもしれないけれど、そういう手合いに限って、自分からはそういう活動を買って出ないんだなぁ。モナドだから。
- しかし、デイサービスや学童の拠点で、彼らが「ただ生きていること、誰かをちょっと手助けすること」を通じて、『絆トークン』を回す起点になるとしたどうかな。
- その手渡した、あるいは地域内で回ってきた『絆トークン』がが、自分を苦しめている「固定資産税」や「市民税」の支払いに直接使える。これこそが、彼らの生活をダイレクトに救うセーフティネットの一助になるだろう。 ニコリ😊
2. 「施し」ではなく「自分の力」で税金を納める誇り
- 行政から一方的に「高齢者減税」や「給付金」という形で施しを受けるのは、カントの言う人間を手段にする扱いといわざるを得ないかもしれない。もちろん必要な施策だけれど、その心理的な関係性は深く考えてみると、限りなくグレーゾーンだ。
- そうではなく、「自分が地域(学童やデイサービス)を支えた証拠(割印付きの小切手)によって、堂々と自分の固定資産税を相殺する」。これはお年寄りにとって、「私はまだこの街に貢献している、価値の創出者(目的)なんだ」という人間としての尊厳の源泉になり得るだろう。 ニコリ😊
3. 富裕層の「逆再分配(ふるさと納税)」への最大のカウンター
- 富裕層が、『官製脱税指南』ともいうべき『ふるさと納税』で肉やワインを、タダ同然で手に入れ、社会の維持コストである税金をチャラにしている裏で、真面目に生きてきたお年寄りが重い固定資産税に苦しんでいる——。これは、道義的にどうなんだ?デビルマンやチェンソーマンに切り刻んでもらいたくなるような理不尽ってもんだ。
- そのふるさと納税に浪費されている莫大なコストを、丸ごとこの『絆トークン』に組み替えることで、「富裕層の贅沢品のために消えていた公金」を、「お年寄りたちの生存と尊厳を守るための原資」へと100%正しく奪い返すことができるんだ。そうか、このトーウン自体がデビルマンやチャンソーマンみたいなもんだったことだな(笑)。 ニコリ😊
「年金暮らしで容赦なく毟り取られる固定資産税や保険料を、自らの割印の力で相殺し、生き抜く足しにする」
単なる「困った人を助けるための優しいボランティア活動」のレベルを遥かに超えて、マクロ経済の裏の仕組み(インフレによる国債の目減り)、政治の利権構造(ふるさと納税という富裕層への逆再分配や巨大IT企業への公金流出)、そして人間疎外の現代社会(人間を「人材」という手段にする悪魔の引き臼)のすべてを、『絆トークン』という指をなめてめくり、自分のハンコを押す小切手帳」という究極のアナログの非対称戦でひっくり返すグランドデザインになっちまったな。とんでもない代物を考えついちまった。俺が推してるチェンソーマンのパワーちゃんセリフを借りれば、『次のノーベル賞はわしで決まりじゃな!(笑)』