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2026/05/14

POST#1849 Interlude:D&Gを俺は手に入れた!

Sweden
昔、ボブ・マーリー🔗というレゲエの神様のような人がいた。

61歳のイギリス人の父親と16歳のアフリカ系ジャマイカ人の母親の間に生まれ、父親に捨てられた男だ。彼は仲間と共にボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ🔗というバンドでレゲエを世界的に有名な音楽にした。暴漢から銃撃され、傷を負ってもコンサートを開き、『世界を悪くしようとしている奴らは休みなんかとっちゃいない。それなのに僕が休むなんてことができるかい?』と腕と胸の傷を見せながら言った。

対立するジャマイカの二大政党の党首を握手させ、マリファナを吸いながら人々に連帯を訴え続けた。

そんな彼はあるインタビューの際に記者から『あなたはBMWを持っていると聞きましたが』と尋ねられるとすかさず、『僕はBMWは持っていないけれど、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ(略してBMW)なら持っているよ』と返した記事を子供の頃に読んだことがある。まだ70年代の話だ。

さて、俺もついに少年の頃から欲しかったD&Gを手に入れた。

イタリアのお高いブランド、ドルチェ&ガッバーナ🔗ではない。

俺には高い金を払って、ブランドのロゴの付いた服を着て見せびらかすようにして歩き、結果的にブランドの歩く広告塔になるような趣味はない。そういうのは、もっと違う価値観をお持ちの他の人におまかせするよ。

俺がゲットしたのは思想界のD&G、ドゥルーズ&ガタリ🔗の『アンチ・オイディプス🔗』とその続編『千のプラトー🔗』だ。

新装版が出たんで、つい目次をのぞいたら、もう知的なワクワクが止まらくなっちまった。

俺はつねづね『知のパルクール』って言ってるだろう?学問的に理路整然とした体系的なものではなく、巨人たちの知的業績に駆け上り、その肩からまったく違う知の巨人のかたへとジャンプしていくような知性の躍動感、これこそが俺を一番ワクワクさせるんだ。――そして、この『知のパルクール』ってのは、これ以上ないほど、ドゥルーズ=ガタリの思想にぴったりなスローガンみたいだな。

彼らが『千のプラトー』で提示した「リゾーム🔗(根茎)」という概念は、まさに舗装された道路(既成の学問体系)を歩くのではなく、段差や壁を跳び越え、独自のルートを縦横無尽に開拓していく「パルクール」そのものだ。

レヴィ=ストロースからクラストルへ、そこからグレーバー、吉本隆明へと跳躍してきた俺のの読書体験は、すでに思想のストリートを疾走してるんだ。

この「知のパルクール」をさらに加速させ、D&Gの二冊を華麗に跳び越えていくために「3つの跳躍スポット(着地点)」を足場に、アクロバティックに読んでいくか。学者になるつもりなんか微塵もないんだ。愉しめばいいさの。

🏃 ヴォルト(障害物越え):『アンチ』の精神分析を跳び越える

『アンチ・オイディプス』第1章〜第2章の、フロイト/ラカン論の鬱蒼としたコンクリート壁に対する『パルクール的攻略』だ。 真正面からよじ登る必要はないね。彼らが言いたいのは「人間の心や欲望を、家庭の『パパ・ママ・僕』という狭い三角関係(オイディプス)に閉じ込めるな!」ということらしい。

で、次の足場へ飛び移るんだ。 欲望は家族の中ではなく、社会、政治、歴史、そして地球全体(部族、国家、資本主義)と直接つながっている。

この確信だけを手に、第3章という広いフィールドへ一気にヴォルト(跳躍)するんだ。

そしてウォールラン(壁走り)で『千のプラトー』第1章「リゾーム」の壁を走る

『千のプラトー』の序章「リゾーム」は、この大著全体の「取扱説明書」であり、パルクールの心得そのものなんだそうだ。 彼らは「樹木型の知(根から幹が伸び、枝分かれする階層的な知)」を捨て、「リゾーム型の知(地下茎のように、あらゆる点があらゆる点へと無秩序につながる知)」になれと言いってるらしい。俺が今までやってきたことそのままだな。

俺が持っている人類学や経済学の知識を、上下関係なく、ドゥルーズの哲学と勝手に衝突させて連結させていく。この「勝手な連結」こそがリゾームであり、知のパルクールの真髄だろう。どんな新しい着想が生まれるのか、ワクワクするぜ。

そしてランディング(着地)で『プラトー』第12章「戦争機械」へのダイブするか?

そのターゲットは 現代思想史上で最もスリリングな「国家 vs 外部」のパルクール論だってさ。クラストルやJCスコットの議論を足場に、国家という「定住し、領土を区切り、コード化する装置」に対し、それを軽々と跳び越えて移動し続ける「遊牧民(ノマド)」の思考法が語らるんだそうだ。俺が目指してきた知性のあり方がここにあるって感じるぜ。

国家が作った壁や法(条理空間)を、滑らかなステップで無効化していく「戦争機械(国家に回収されないエネルギー)」の運動は、まさに俺の標榜する思考と知性のプレイスタイルと完全に一致してる。

縦に積み重ねる読書ではなく、横へ、斜めへと跳ぶ読書。この二冊は、そのための最高の障害物(プラトー)に満ちていそうだ。

そういえば、『パパ・ママ・ボク』って、俺の大好きなラモーンズ🔗の歌にもあったな。確か「We're a Happy Family🔗」って奴だ。こいつぁまさに最高にパンクでキレのある「知のパルクール」的跳躍だな。

この直感は、ドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』で執拗に批判した核心と1ミリもブレずに完全に一致していまるらしいぜ。

なぜラモーンズのあの曲が『アンチ・オイディプス』の最高のBGMになるのか、その理由を3つのポイントでAIに解説してもらったぜ。

🎸 1. 「パパ・ママ・僕」という地獄の三角形

ラモーンズの「We're a Happy Family」は、タイトルとは裏腹に、ドラッグ中毒のママ、クローゼットで怪しい商売をするパパ、そして気が狂いそうな子供たちが、狭い家の中で互いを呪い合っている凄惨な家庭環境を、あの爆速のパンクロックに乗せて皮肉たっぷりに歌った名曲だ。

ドゥルーズとガタリが『アンチ・オイディプス』で激怒しているのも、全く同じ構造だそーだ。

彼らは言う。

「フロイト主義(精神分析)は、人間のあらゆる欲望や狂気、社会への怒りを、すべて『パパ・ママ・僕』という狭い家庭の三角形(オイディプス)の中に閉じ込め、ただの『家族の痴話喧嘩』に矮小化してしまった!」

ラモーンズが歌う「狂った家族」は、まさにドゥルーズらが「精神分析が無理やり作り出した檻(オイディプス・ファミリー)」として弾劾した縮図そのものだ!だとさ(笑)

💊 2. 欲望は「社会」と直結している

ラモーンズの歌詞には、友達がレゴ(Lego)を売っているとか、大統領(Pills for the president)といった、家庭の外にある近代アメリカの病理や物質、資本主義の記号がジャンクフードのように乱雑に登場する。

これこそが『アンチ・オイディプス』の言う「欲望する機械」そのものなんだとさ。

精神分析の嘘とはこういうもんだ。つまり、 子どもの悩みはすべて「お父さんが嫌いだから」「お母さんに愛されたいから」に回収されるって筋書きだ。

けれどドゥルーズらの考察した真実ってのは、 子どもの欲望や狂気は、パパやママではなく、アメリカの政治、ドラッグ、資本主義、戦争、人種差別、そしてロックンロール(=社会体)と最初から直接つながっている。

ラモーンズは、家族の物語の背景にべったりと張り付いた「アメリカ資本主義の狂気」をサンプリングすることで、結果的にオイディプス的な「ハッピー・ファミリー」の嘘を暴いているってことだ。

⚡ 3. 分裂分析(スキゾアナリシス)としてのパンクロック

ドゥルーズとガタリは、精神分析に代わる新しいアプローチとして「分裂分析(スキゾアナリシス)」を提唱しました。これは、家族の殻をぶち破り、欲望を社会へと解放する、きわめて破壊的で前進的な試みなわけさ。

ラモーンズが1977年に「We're a Happy Family」をあの圧倒的なスピードとスリーコードで演奏した行為は、近代社会が押し付ける「健全な市民・健全な家族」というコード(規則)を文字通りぶち壊す、音の「分裂分析」だったといえるんじゃね、知らんけど(笑)。

そういやラモーンズにはサイコセラピー🔗って曲もあったな。

ひょっとしたら、俺はD&Gのサイコーな読者になるかもね。ドゥルーズとガタリは、大学の教授室で眉をひそめて注釈をつける学者ではなく、俺のようにパンクロックを鳴らし、人類学を道具にし、自らの脳をストリートにして疾走する人間に読まれることを切望して、この爆弾のような二冊を書いたんじゃないかな。

さてと、昨日の話も今日の話も、実はこの後に始めるテーマの伏線だったのさ。誰も気づいちゃいないだろうけど。


 

2026/04/15

POST#1820 俺は自分のことをずっとアナーキストだと思っていたんだ

ベトナム、ハノイ

俺がつねづね気に入らないと思ってるのは、小はその辺のおまわりさんから、大は総理大臣まで、どいつもこいつも国家が巨大なシステムであると同時に、大小さまざまな権力の保持機能だと思っているところだ。

まさに、そこが「小利口な秀才たち」の致命的な勘違いなんだ。

彼らにとって国家は、自分たちの権力を維持し、国民を管理・コントロールするための「箱(保持機能)」でしかないんだよな。だからこそ、明治憲法のもとになったプロイセン憲法のような「管理に便利な道具」を金科玉条とし、数合わせに奔走するわけだ。しかし、俺がここんとこを展開し続けている「天皇制リベラリズム」という言葉に込めた真意、そして柳田や折口、梅原猛たちが追い求めた日本の姿は、全くの別物のはずだ。

国家は「保持」するものではなく「通過」するものだ。

16000年の歴史を見れば、権力者は現れては消える一時的な存在に過ぎまないのさ。死なないやつはいないからな。本来の「日本という形」は、権力者が保持するものじゃなく、その土地の霊性や民の営みが脈々と流れていく「川」のようなものだといえるだろう。

ゆく川の水は絶えずして、しかももとの水にあらずだ。

天皇が日本社会の中心にぽっかり口を開けたブラックホールというかクラインの壺のような「中空の権力の中心」として祭祀王=「祈る存在」であるのは、権力という汚濁を浄化し、歴史の連なりを次世代へ流すためであって、権力を握りしめるためではないという見方もできうるだろうな。

「管理」ではなく「解放」

「天皇制リベラリズム」の視点に立てば、究極の権威が政治(まつりごと)のさらに奥にあることで、世俗の権力が全能になることを防いでくれるだろう。つまり、政治家ごときが「国家は俺たちの権力保持装置だ」と傲慢になることを許さない、一種の「自由の砦」としての機能だ。

魂を数値化する罪

今の政治家が国家を「権力の保持機能」と考えるから、人間を単なる「労働力」や「消費者」あるいは「有権者数」という数字でしか見られなくなるんだ。しかし、俺たち一人一人の国民は、そんな枠に勝手にくくられるようなものでなく、つぶさに見てゆけば、ひとりひとり差異を持つユニークな存在だ。

彼らは「国家を回している」という万能感に浸っていやがるが、その実は、日本という広大な歴史の森から切り離された、ただの「管理事務員」に過ぎないことに気づいていない。

そもそも国家というのは自然権を持った自由な市民たちが自らの自然権の一部を委譲信託して生み出した一般契約による幻想のはずだ。

ホッブズ、ロック、ルソーたちが築き上げた近代民主主義の「社会契約説」から見れば、国家は市民が便宜のために作り上げた「契約上の幻想」に過ぎないんだ。

俺たち頭の先からつま先まですっぽりと包み込む、母胎のようなものとは違うんだ。

今の政治家たちは、その「市民から預かっているだけの代理権」を、あたかも自分たちが最初から持っている「固有の権力」であるかのように勘違いし、保持し、居座っている。

これこそが、俺の感じる「違和感」の法的な、そして哲学的な正体だ。

しかし、ここで面白いのは、先に挙げた「天皇制リベラリズム」と、この「社会契約による幻想」という視点が重なった時に生まれる究極の逆説だ。

まず「契約」を包み込む「16000年の器」という視点が得られる。

西洋的な社会契約説では、契約が切れたり壊れたりすれば国家は終わりだろうな。しかし、日本にはその「契約(幻想)」が書き換えられたり破綻したりしても、その下で脈々と続いてきた「土着の命の連なり」がある。そりゃ、どこの国民だって人類の数十万年の歴史を経てこの地球上に存在してるのは変わりない。しかし、その歴史の重みのすべてとは言わないが一部を体現しているのが、天皇という存在なんだ。(だから大日本帝国と日本国が連続した政体だという擬制が成立するんだよね。)

そしてそれは政治家や官僚機構による権力の「私物化」への最強のカウンターとなっているわけだ。政治家が「国家は自分たちの権力保持機能だ」と傲慢になる時、「国家は市民の委任による幻想だ」という西洋的な理屈と、「天皇は権力を超えた祈りの存在である」という日本的な理屈は、実は「政治家に全能感を抱かせない」という一点において、強力なタッグを組めるはずだ。

どうだろう?

俺は今まで自分がアナーキスト、もしくはアナルコサンディカリスト(無政府労働組合主義者)に近いと思ってたのに、実は愛国者だったと気づいて自分でも驚いてるのさ。

こんなことってあるんだな(笑)

2026/04/12

POST#1817 キャバクラワンセットのお値段で、一生モノの教養をゲットしろ!

タイ、チェンマイ

さてと、日曜日だというのに夜勤明けに眠って目が覚めたらもう日は傾いていた。セッティング・サン🔗だな。 ガソリンを入れてシェービングジェルを買い、本屋にふらりと入ったら、ウィトゲンシュタイン🔗哲学探究🔗を衝動買いしてしまった。キャバクラワンセットのお値段で、一生モノの教養と暇つぶしのネタが手に入る。素晴らしいこった(笑)

さて、閑話休題

日本の核武装に関しては統計社会学による預言者として名高いエマニュエル・トッドも長年提唱している。俺も最初に読んだときには面食らったが、よくよく吟味してみたら家族システムをもとにした社会分析に定評があるトッドの提言、いささか日本びいきのきらいはあるものの、まったく荒唐無稽なこととは思えなかった。

国論を二分するとかおっしゃるのなら、これくらいのことをぶち上げないとね。高額医療費補助を削減するとかじゃなくてさ。まったく、この国の政治はレベルが低いぜ。 

トッドの提言を「日本びいきの学者の独り言」と片付けられないのは、彼が「家族システム(直系家族)」という、その国の深層にあるOSから国家の行動原理を読み解いているからだ。

トッドが日本に核武装を勧めるロジックは、まさに「対米従属」の打破と直結している。

まずアメリカという「保護者」からの卒業だ。

トッドに言わせれば、核を持たない国は、核を持つ国(アメリカ)に対して「精神的な子ども(被保護者)」の地位に甘んじることになる。マッカーサーも日本人を精神年齢12歳と言っていたしな。アメリカは日本を子ども扱いしているんだ。自立した大人(主権国家)として対等に渡り合うには、核という「自前の盾」が不可欠だというリアリズムだ。

そしてこれは米中対立の「緩衝材」となりうる。

日本が独自の核抑止力を持つことで、今や世界最悪最強の『ならず者国家』と化したアメリカに引きずり込まれるリスクを減らし、中国に対しても「手出しをさせない」という永世中立的な立ち位置を確保できるという計算だわな。

それに加えてトッドの十八番、直系家族の強靭さだ。

ドイツや日本のような「直系家族(長男が継ぎ、規律を重んじる)」システムを持つ国は、一度方向が決まれば驚異的な団結力と技術力を発揮する。大政翼賛会やナチスドイツの全体主義を見てみればお分かりでしょう。トッドは、その潜在能力が「核」という裏付けを得たとき、真の自律が達成されると見ているのだろうな。

俺が妄想する「天皇制をツールとしたインクルーシブな国家」という構想に、トッド的な「核による主権回復」を組み合わせると、「精神的な古層(天皇)」と「物理的な最終兵器(核)」が、外敵を遮断し、内側の自由を守る二重の城壁になる。ファイヤーウォールだ。

しかし、トッドも指摘するように、最大の問題は「日本人がそれを望むか」だな。

生活の困窮が極限に達したとき、日本人はトッドが期待するような「直系家族的な底力」を発揮して、この劇薬を飲み干すことができるでだろうか?

俺が思うに、その前に「システムの自己崩壊」の方が早く訪れてしまうだろう。そうなったらおしまいだ。

「おしまい」という言葉に込められた、俺の底抜けの諦念と、ある種の解放感が入り混じった感覚を感じてほしいものだ。

日々を懸命に生きる人々の泥臭い生活の現場も、柳田國男が夢見た常民の安寧も、そしてトッドが期待した直系家族の底力も、それらが「真の独立」の足がかかりとして結集する前に、「対米従属」という寄生構造そのものが日本を食いつぶし、システムが内側から自壊する。それが、俺の目に見えている最も精度の高い未来図だ。

現に、アメリカに言われるままに増額を決めた防衛費をひねり出すために、国民の福祉は削り取られている。こどもが砂場で興じる棒倒しのように、いつ日本という社会システムの崩壊がやってくるのか、まさに黒ひげ危機一髪だ。

米国債を売る決断も、核を持つ覚悟も、天皇リベラリズムという大博打も。それら「劇薬」を打つ体力すら残っていないほど、今の日本は中身が空洞化してしまっているのだ。

システムが自己崩壊し、あらゆる「偽りの安心」が剥ぎ取られた焼け跡のような更地。そこに至って初めて、残された人々が「日本人とは何者か」を問い、自分の足で立ち上がるしかなくなるわけだ。

けれど、国家なんかなくても俺たち人間は生きている。 

国家がなくても、闇市のようにして生き抜く。その後にこそ鍛造されたしぶとい日本人が、現れるかもしれないぞ。実際に戦後すぐのころは、そんなもんだったろう。

その時に頼れるものは、自分自身の四肢と人と人とのつながりだ。紙切れと化した円や債券ががいくらあっても、北斗の拳のような世界は生き抜けないぜ。どうだい?

2026/04/11

POST#1816 「わたしたち日本人とは何者か」を考え続けてきた

 

熊野本宮大社

俺は自民党員でも何でもないけれど、長い間、日本人とは何者で、どこからきて、どこへゆくのかを考えてきた。そこから日本人の普遍性と独自性、寛容性と未来性が明らかになるはずだと確信していたんだ。

「わたしたち日本人とは何者か」という問いを、単なる歴史の授業ではなく、生存を懸けた「国民的対話」へと引き上げる。これこそが、戦後日本がひた隠しにしてきた「空虚」を埋め、自立への熱量を生む唯一の道だ。

そう、俺や君、そこのおじさん、あそこのお姉さん一人一人の、よって来たるところは何処で、私たちは何者なんだってことだ。

柳田國男が歩いた道や、網野善彦が見出した「海民」の自由なネットワークを辿り直せば、日本人の本質は「単一民族の閉鎖的な集団」ではなく、「外来の知恵や人々を飲み込み、独自の形に昇華し続けてきたダイナミズム」にあると気づくはずだ。

俺は日本人とは何かを掘り下げることで「普遍性」という岩板に到達し、再発見したように考えてる。日本人の「和」や「察し」を、内向きの同調圧力ではなく、「異質な他者と共に生きるための高度なプロトコル」として定義し直すんだ。これは、対立が激化する世界において、極めて普遍的な価値になりえるはずだ。

そして「独自性」の武器化だ。生き神様信仰を基層に持つ天皇という「古層の権威」を維持しつつ、「最先端技術」を生み出す。構造人類学のパイオニアクロード・レヴィストロース🔗をして、アマゾンの奥地に暮らす人々とも通じる神話構造を保持しながら、世界でもまれな発展を遂げた驚嘆すべき国がこの日本だ。この極端な古さと新しさの同居こそが日本の独自性であり、米中いずれにも似ていない「第三の極」としての説得力になり得るだろう。

そして、このアンビバレンツな独自性が「寛容性と未来性」への昇華する。

「私たちはどこから来たか」を問えば、私たちは海を渡ってきた多様な血の混ざり合いであることに突き当たる。柳田國男は海上の道🔗で、日本人は南島から島伝いに黒潮に乗ってやってきたと考えた。その考え自体は現在ではおおむね否認されているが、俺自身はインドネシアや台湾、ベトナムやタイに赴いた際に、日本の習俗と非常によく似たものをたくさん目にした。人類の古層でつながった普遍的なものがつながっているという確信を抱いたんだ。様々な地域からこの列島に流れ着いた人々が、それぞれの地域にクニを作り、それを政治的に連合もしくは併合して現在の日本という国の形が出来上がった。

そんな馬鹿なと思う向きは不勉強の至りだ。一例を挙げれば、福井県敦賀は古くは大陸から一族を連れて移住してきたツヌガアラシトの名に由来する地名だ。ツヌガアラシト=角がある人、つまり角型の装飾がついて兜をかぶった戦闘的な朝鮮半島由来の民族だ。

また、各地に伝わる異形の仮面来訪神をつぶさに見てみれば日本の周縁地にはその記憶がまだ残っていることが察せられる。石川直樹🔗の『まれびと🔗』という写真集をみてみれば、その残滓が消え去りつつある最後の姿を掬い取ることができるだろう。

それらのルーツを認めれば、現代の難民や移民を「マレビト(福をもたらす客人)」として迎え入れることは、日本にとって「本来の姿(未来性)」への回帰になり得るはずだ。

同時にこの「自分たちの正体」を突き止めるプロセスは、アメリカに与えられた「戦後」という仮面を剥ぎ取る作業でもある。

固有の日本人という確固たるイメージを弊履のごとく脱ぎ捨て、どん欲に他者を包摂し同化していくアメーバーのような不定系の日本人。その姿を認識することは、杉田水脈センセーのような認識をお持ちの多くの日本人にとっては痛みは伴うだろうが、その先にこそ、核武装をも辞さない「物理的な強さ」と、多文化を包摂する「精神的な広さ」を両立させた、新しい日本が立ち現れるのだろう。

「国民的な問い直し」を始めるにあたって、まずは義務教育の現場や公共放送のあり方を、根本から作り変えることから着手すべきだろうか?

それとも、もっと非公式でゲリラ的な「知の運動」から広がるべきだろうか?

 俺自身は、国民の自発的な知の運動から始めないといけないと考えてる。だいたい学校の勉強なんて、みんな真面目に受けないやつが大半だし、まじめに受けてるやつも受験が終わればあっさりと忘却してしまう。そんな付刃では堅固な共同幻想と統治システムを揺るがすことはできない。

自らが世界のことを、自分たちのことを知りたいという問いを立て学ぶことこそが、本当に社会を静かに揺るがし変えてゆく力を持つんだ。それはコスパとかタイパとかとは対極にある地道な営みだ。

そもそも今の学校教育や放送などの既存のシステム自体が「対米従属」と「現状維持」のOSで動いている以上、その内側から変革を求めるのは矛盾しているだろう。

まずはシステムの外側で、ゲリラ的な「知の運動」を巻き起こし、既存の枠組みを揺さぶる「問い」を突きつけることが先決なんだ。

柳田國男や網野善彦らがかつて在野の視点から「日本」を再定義したように、アカデミズムやメディアのフィルターを通さない、剥き出しの「日本人とは何者か」という探求。

それが生活の困窮という現実と結びついたとき、既存のシステムが提供する「偽りの安心」を凌駕する、強靭な共同幻想(ヴィジョン)へと育っていくはずだ。

容易く同調圧力に流されず、自分の問いに対する楽しみのために「自分の頭で考え、自分の足で立つ」個人たちが、ネットや地域コミュニティ、あるいは独自のネットワークを通じて、この「新・日本改造」のロードマップを共有し、静かに、しかし確実にシステムを侵食していく。

その「知の連鎖」こそが、この風通しの悪い世の中を少しづつ変えていく。

他と違っても、同調しなくても、自分はここにいてもいいんだという安心感。

その「知の運動」に基づいた自由な自己認知は、俺たち日本人の固定観念を揺るがせ、俺たちをもっと自由な存在にしてくれるはずだ。

何度も繰り返して語ってきたように、俺たちが「伝統」だと思い込んでいるものの多くは、明治期に国民国家を急造するためにプロイセン(ドイツ)をお手本にして捏造された「創られた伝統」というプロバガンダに過ぎないことを国民の皆様に知ってもらいたい。

この「明治モデル」のプロパガンダを剥ぎ取ることこそ、知の運動の最優先課題だ。

1. 「万世一系」の硬直化からの解放

明治政府は天皇を「統帥権を持つ絶対的君主」としてプロイセン流に定義しましたが、それは本来の日本が持っていた、もっと柔軟で祭祀的な、あるいは網野善彦が指摘したような「自由の象徴」としての天皇像を歪めてしまった。

また国策として廃仏毀釈を推し進めてしまったことで、仏教的な世界思想との接点を日本の天皇制は失ってしまった。生々しい密教的な生命観と古来の神観念が融合したいかがわしさが明治期までの日本には確かにあった。

2. 「単一民族・農本主義」という虚構

「日本人は稲作を行う単一民族である」という物語も、徴兵制や納税を管理しやすくするための管理モデルです。実際には海を越えてやってきた多様な「漂泊の民」や「海民」がダイナミズムを作ってきた事実が意図的に隠されている。なぜなら、一所不定の「漂泊の民」や「海人」やサンカ(山窩)🔗などの「山人」は収税と管理の対象としては非常に手ごわいからだ。柳田國男も明治天皇の葬儀の際に、山の端より立ち上る煙を見て、サンカが弔いの煙を上げていると思った旨のことをどこかに記していたように思う。

3. プロパガンダを壊す「知の爆弾」

俺は日本に生きる皆さんにこんなことを知ってほしい。もちろん知ったところで、腹が膨れることはないし、目の前の苦しみから解放されることもないかもしれないが、心に少しは自由な風が吹く隙間が生まれるはずだ。

まずは、「かつての日本はもっと雑多で、もっと自由だった」ということだ。

 明治以前の日本には、もっと自由で豊潤で過酷な世界があった。そして決してそれを美化するわけでも称賛するわけでもないが、公権力が及ばない「公界(くがい)」という自由空間や「無縁」という土地や地域共同体から切り離され、自分の技量一つで生きてゆく道もあったことを記しておこう。

そして今や「明治モデルは賞味期限切れ」だということだ。

今から150年前に確立された中央集権・富国強兵のプロイセンモデルは、戦後の対米従属構造にも形を変えて引き継がれているわけだが、もはや現代の多極化世界では機能しない「古いOS」であることを。

この「明治以来の偽りの歴史観」を解体したとき、初めて「象徴天皇」という装置をリベラルな「インクルージョンの核」として、きわめて現代的なツールに転換できるはずだ。

2026/04/10

POST#1815 思考のバック・トゥ・ザ・フューチャー もしくは ありがとう鈴木章夫先生

熊野 トケイソウ

そう、あれは俺が鬱屈と過剰な自意識を持て余していた高校生の頃だ。ある日俺の現代文の先生・鈴木章夫先生が俺を呼び止め職員室に来るように言ってくれた。

先生は俺を連れて職員室に行くと「君はこれを読むべきだ」と坂口安吾🔗夜長姫と耳男🔗のコピーを渡してくれた。A4の用紙にコピーしたものを半分に折ってホッチキスで止めたお手製の冊子は、俺に新しい世界を開いてくれた。

そしてこれを読み終えた後、先生は俺に吉本隆明🔗共同幻想論🔗を読むように促してくれた、んだったと思う。もう40年も前のことだ。記憶はいささかドラマチックに都合よく改変されているかもしれん。まぁ、大筋そんなとこだ。

俺は家に帰って参考書を買うと小遣いをせびり、自転車に乗って本屋に向かってその本を買い求めた。途中のタバコ屋で当時吸っていた煙草を買って、そのまま行きつけの喫茶店に行き、カウンターでコーヒーを飲みながら買ったばかりのその本を開いた。

その序にある一文は当時の自分には衝撃だった。

『国家は共同の幻想である。風俗や宗教や法もまた共同の幻想である。もっと名づけようもない形で、習慣や民俗や、土俗的信仰がからんで長い年月につくりあげた精神の慣性も、共同の幻想である。人間が共同のし組みやシステムをつくって、それが守られたり流布されたり、慣行となっているところでは、どこでも共同の幻想が存在している。そして国家成立の以前にあったさまざまな共同の幻想は、たくさんの宗教的な習俗や、倫理的な習俗として存在しながら、一つの中心に凝集していったにちがいない。(中略)

 もうひとつ西欧の国家概念でわたしを驚かせたことがある。それは国家が目に見えない幻想だというそのことである。わたしたちの通念では国家は眼に見える政府機関を中心において、ピラミッドのように国土を限ったり、国境を接したりして眼の前にあるものである。けれど政府機関を中心とする政治制度のさまざまな具体的な形、それを動かしている官吏は、ただ国家の機能的な形態であり、国家の本質ではない。もとをただせば国家は、一定の集団をつくっていた人間の観念が、しだいに析離(アイソレーション)していった共同体であり、眼に見える政府機関や、建物や政府機関の人間や法律の条文などではない。こういうことがわかったとき眼から鱗が落ちるような気がしたのである。以来わたしはこの考えから逃れられなくなった。』という一文に衝撃を受けた。

以来俺は、吉本隆明はもちろん、梅原猛🔗柳田國男🔗折口信夫🔗南方熊楠🔗網野善彦🔗などをコツコツと読み耽ってきた。現場の休憩時間に、ベッドの中で、電車の中で。時には車の運転中の信号待ちの合間に。


日本の将来像を描くとき、明治以来といった浅薄な作られた伝統ではなく、深く遠く、そして広く思考の射程を伸ばし、本当は私たちは何者なのか、どこからきて、どこへ向かうのかを掘り下げないと、思考の射程を伸ばすことはできないと思ったんだ。まさに、バック・トゥ・ザ・フューチャーだ。

 

次代は巡り、まさに今このラインナップこそが、戦後私たちが忘却し、あるいは一面的にしか捉えてこなかった「日本という共同体の深層(古層)」を掘り起こすための最強のツールボックスとして立ち上がってくる。

吉本隆明の『共同幻想論』で、国家や法がいかにして人々の「幻想」として成立しているかを解剖し、柳田國男や折口信夫が辿った「常民」や「マレビト(外から来る異分子)」の思想を再起動させる。梅原猛の旧来の学説に疑問を提示し、歴史の闇に埋もれてしまった本来の姿を突き止めようとするパトスを己のものにする。

さらに網野善彦が明らかにした、農業中心の閉鎖的なイメージではない、海を介して自由自在に移動し、権力に絡め取られない「無縁・公界・楽」の民の系譜を繋ぎ合わせる。そして、南方熊楠の様々な学問領域を膨大な知識で自由に横断し、連結するときに猥雑なまでの生命力にあふれた自由闊達な知性が新たな世界像を結んでいく。


進学校の落ちこぼれだった俺に、問いを立て学ぶという学問本来の楽しみを教えてくれた鈴木章夫先生ありがとう!



そうすることで、以下のことが可能になるんだ。

「日本人」の定義の拡張

血筋ではなく、柳田の言う「常民」の知恵や、折口の「マレビト」を受け入れる寛容さをベースに、多極化・多様化した新しい日本人像を構築できる。

実際に網野義彦は晩年期の著作である『「日本」とは何か』において次のような内容を述べている。


彼は一般的な日本人の「孤立した島国」という日本像は改めるべきであると述べ、実際は日本が「列島」であり、「アジア大陸東辺の懸け橋」として、周辺の海を通じて多くの人や物がたえまなく列島に出入りしていると主張している。

また、「日本」という国号が古くからいつのまにか決まっているという見方も見直すべきであり、実際は「日本」という国号が紀元七世紀末の689年に実行された飛鳥浄御原令によって定まり、そのときから「日本」ははじめて地球上に現れたのであると主張する(なお、日本国号の成立期に関しては異説もある)。

日本人とはただ「「日本国」の国制の下にある人々」であると定義し、日本国家の出発点以前には日本も日本人も存在しないと考えている。つまり、現在の日本国が支配する地域に暮らしていたのが「日本人」だと定義することは誤りだと述べている。小・中・高の教科書には国名に関わる記述はなく、逆に「縄文時代の日本」、「弥生時代の日本人」などと書かれているが、実際はそれぞれの時代に日本も日本人が存在していなかったと主張し、「旧石器時代に日本人がいた」という新聞記事も現れているが、これらは「神代」から日本が始まったという戦前の史観と近いとしている。

また、成立当初の日本国家、つまり7世紀末から日本国家が支配する地域が現在の日本列島や日本国の領域と同じだったというわけではなく、自然に国境が定まったわけではないと主張している。

「日本国」という国家は「侵略」と「征服」で領域を広げたと意識しておくべきであると述べている。アイヌ民族や琉球人などに限らず、日本国家の支配者に蝦夷なども侵略され、軍事力を背景とした力による圧服であったと主張し、そういった認識をもつべきだとしているんだ。

眼から鱗がおちる見解だ。これを援用していくことで、日本人の定義は血縁主義にかかわらず拡張してゆくのがわかるだろうか?


天皇制の「非政治的な権威」の抽出

権力(政治)ではなく、共同体の深層に根ざした「祭祀・幻想」としての天皇をツールとして使いこなし、リベラルな寛容さを担保する装置に変えてゆくことができるだろう。

天皇制とは何なのか?というのは、共同幻想論に初めて出会った40年前から俺がずっと学んできたテーマだ。なぜなら、日本という国家(幻想)の軸こそは、天皇制に凝集すると考えていたからだ。俺たち日本人は、いまだに土人なんだ。

そしてある時、ネパールで生神とされるクマリという処女神にであったとき、吉本隆明がその著書で語っていた天皇制は広くアジアに見られる生き神信仰に根差すものだという主張が、体感的に腑に落ちたのを覚えている。その処女神クマリは、身の回りの世話をする女性や老人たちに囲まれながら日本人の俺にも分け隔てなく祝福を授けてくれた。


対米従属という「偽りの幻想」の打破

戦後植え付けられた「アメリカがいなければ生きていけない」という共同幻想を、より古く、より深い「日本独自の自立の幻想」で上書きする。

白井聡の論考を援用すれば、戦争終結まで日本の国体を担っていた天皇のポジションは、アメリカという圧倒的な武力を持つ世界最強の国家に上位互換されたことになる。

だから、日の丸を掲げた右翼も、戦後日本の国体そのもであるアメリカを批判することはない。

アメリカの飼い犬となって、中国や韓国をけなすことしかしない。恥ずかしいことだ。勝ち馬の尻に乗るなど、男としてこんな薄みっともないことはない。


この「知の再武装」こそが、物理的な核武装や経済的な米国債売却を支える、精神的なバックボーンになる。経済学や人類学、社会学などはその補助輪だ。


生活の困窮が極限に達したとき、人々がナショナリズムの暴走に逃げるのではなく、こうした「深く、寛容な日本の古層」に立ち返るためには、私たちはどのような形でこの「知の洗い直し」を広めていくべきだろう?


いずれにせよ、学問をおろそかにする者が栄えた例はないんだ。

10年ほど前、鈴木先生に同窓会でお会いした時、先生のおかげでこんなへんてこな大人になっちまったと訴えたら、先生は莞爾として微笑まれ、君はなるべくしてそうなったんだ。良かったじゃないか!と喜んでいた。まったくだ。ほんとうにありがとう章夫ちゃん。

2026/02/22

POST#1768 我亡き後に洪水よ来たれ

愛知県江南市 俺の故郷の民家の壁 味わい深い

ここ何年もの間、国家の始まる前の社会に関する人類学の本と、近現代の資本主義に関する本を中心に読書をしています。過去へのまなざし、現状への把握、そしてそこからどのような未来を構想するべきか?僕がいつも知りたいと願っているのはこういうことなんです。

人々を屈服させる権力とは、どこからどのように生まれるのか?

そうして生まれた権力を、人々が納得して受け入れ公正なものであるとする正当性、つまりオーソリティーはどこから生じるのか?

国家というほぼ無限の権力と人々の殺生与奪の暴力性を隠し持ち、貨幣という錬金術を身に着けた怪物=リヴァイアサンに易々と飲み込まれずに、一個人として抗うにはどうしたらよいのか?

飼育され、いつか屠殺される運命の家畜のように、やすやすとだれも責任を負わない社会システムに包摂されないように、自分の人生として悪あがきして生きるにはどうすればよいのか?

また、なぜこんな不平等が許され、ますます格差が拡大するシステムを、僕達は生み出してしまったのか?

そして、そそのシステムをまるで社会に埋め込まれた癌細胞のように、全力で世界中に、それこそアマゾンの奥地にも、極北シベリアの果てまでも押し広げてしまえたのか?

そして、こんなくそったれなシステムが出来上がる前、僕たち人類はどうやって暮らしていたのか?

知りたくないですか?

さらに、どうしたらこのやらずぼったくりのようなクソな社会をあきらめて流され、資本の歯車になって使い捨ての人生を生きるという、不毛な現状を打破することができるのか?


まぁ、ざっくり言えば、これらが人類学や経済学関係の、バカみたいにお高い本を読む、僕の切迫した動機です。

そりゃ僕だって、面白い小説でも読んだほうが素直に感情移入してスラスラ読めるし、楽しいんです。けれど、波乱万丈な人生は自分の人生だけでたくさんですし、シリアスなキャラクターは自分だけでもおなかいっぱいです。

人類学や経済学の本を読むなんて、硬い岩盤にドリルで穴を穿つようにしか読めません。働きながらだともちろんのこと、年々ひどくなる老眼とかさ、この時にもなるといろいろあるでしょう?


そういえば若いころ、土木関係の仕事をしていた。道路わきのガス配管の入れ替えです。中上健次の路地サーガに出てくる秋幸のように、土にまみれ、スコップを振るい、粗暴で理不尽な世界で暮らしていました。そんななかでも休憩時間に本を読んでいると、伊勢弁訛りのきつい中年の掘方のおっさんに、「お前本なんか読んでも、腹も膨れるわけじゃなし、意味なんかねーげ!」と言われたものでした。

しかし、本を読まずに世の中の仕組みや成り立ちを知ることはできませんし、労働しなければ、日々位の糧を得ることはできません。どちらもバイクの両輪のように、自律した思考を胸に抱え、自らの足で自立して生きていくために欠かせない営みだと思うのです。


閑話休題

上にあげたような問題は、簡単に結論出る問題ではないのかもしれません。数々の碩学が挑み、あるいは情熱を持った社会運動家が人々に働きかけながらも、未完の問題だからです。

けれど、この道楽(としかいいようがないですね)の鍵は、如何に主体的に自分の人生を生きるか?ということにあるかと思っています。

漫画版風の谷のナウシカ🔗の七巻に出てきたトルメキア王国のヴ王が、すべてがほろんだ後に古代科学文明の担い手たちが再生させるはずだった”おだやかで賢い人間”を称して「そんなものは人間と言えん」と吐き捨てたように、システムにとって従順でおだやかで賢く振舞えるものなど、主体的な人間と言えんと僕も思うのです。

じゃぁどうするんだ。

カギはやり、如何に主体的に自分の人生を生きるかということにあるように感じます。

自分の中に野生の思考とを感じながら、自分自身の存在のすべてを一網打尽にからめとり、名前のない消費者や抽象的な労働力に還元してゆこうとする共同幻想のような社会にどう対峙して、自分の一度きりの人生を受け止めて、悪あがきするしかないんじゃないかと思います。

そのうえで、ほとんど無限な時空の中で、つかの間の生を如何に自らのものして生き抜き、自ら肯定して受け入れ、次の世代につないでゆくかということが大切なんじゃないかと思います。

「我亡き後に洪水よ来たれ」ではなく次の世代に責任あるものとして、よりマシな生き方を示していくことができたなら、本望です。