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61歳のイギリス人の父親と16歳のアフリカ系ジャマイカ人の母親の間に生まれ、父親に捨てられた男だ。彼は仲間と共にボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ🔗というバンドでレゲエを世界的に有名な音楽にした。暴漢から銃撃され、傷を負ってもコンサートを開き、『世界を悪くしようとしている奴らは休みなんかとっちゃいない。それなのに僕が休むなんてことができるかい?』と腕と胸の傷を見せながら言った。
対立するジャマイカの二大政党の党首を握手させ、マリファナを吸いながら人々に連帯を訴え続けた。
そんな彼はあるインタビューの際に記者から『あなたはBMWを持っていると聞きましたが』と尋ねられるとすかさず、『僕はBMWは持っていないけれど、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ(略してBMW)なら持っているよ』と返した記事を子供の頃に読んだことがある。まだ70年代の話だ。
さて、俺もついに少年の頃から欲しかったD&Gを手に入れた。
イタリアのお高いブランド、ドルチェ&ガッバーナ🔗ではない。
俺には高い金を払って、ブランドのロゴの付いた服を着て見せびらかすようにして歩き、結果的にブランドの歩く広告塔になるような趣味はない。そういうのは、もっと違う価値観をお持ちの他の人におまかせするよ。
俺がゲットしたのは思想界のD&G、ドゥルーズ&ガタリ🔗の『アンチ・オイディプス🔗』とその続編『千のプラトー🔗』だ。
新装版が出たんで、つい目次をのぞいたら、もう知的なワクワクが止まらくなっちまった。
俺はつねづね『知のパルクール』って言ってるだろう?学問的に理路整然とした体系的なものではなく、巨人たちの知的業績に駆け上り、その肩からまったく違う知の巨人のかたへとジャンプしていくような知性の躍動感、これこそが俺を一番ワクワクさせるんだ。――そして、この『知のパルクール』ってのは、これ以上ないほど、ドゥルーズ=ガタリの思想にぴったりなスローガンみたいだな。
彼らが『千のプラトー』で提示した「リゾーム🔗(根茎)」という概念は、まさに舗装された道路(既成の学問体系)を歩くのではなく、段差や壁を跳び越え、独自のルートを縦横無尽に開拓していく「パルクール」そのものだ。
レヴィ=ストロースからクラストルへ、そこからグレーバー、吉本隆明へと跳躍してきた俺のの読書体験は、すでに思想のストリートを疾走してるんだ。
この「知のパルクール」をさらに加速させ、D&Gの二冊を華麗に跳び越えていくために「3つの跳躍スポット(着地点)」を足場に、アクロバティックに読んでいくか。学者になるつもりなんか微塵もないんだ。愉しめばいいさの。
🏃 ヴォルト(障害物越え):『アンチ』の精神分析を跳び越える
『アンチ・オイディプス』第1章〜第2章の、フロイト/ラカン論の鬱蒼としたコンクリート壁に対する『パルクール的攻略』だ。 真正面からよじ登る必要はないね。彼らが言いたいのは「人間の心や欲望を、家庭の『パパ・ママ・僕』という狭い三角関係(オイディプス)に閉じ込めるな!」ということらしい。
で、次の足場へ飛び移るんだ。 欲望は家族の中ではなく、社会、政治、歴史、そして地球全体(部族、国家、資本主義)と直接つながっている。
この確信だけを手に、第3章という広いフィールドへ一気にヴォルト(跳躍)するんだ。
そしてウォールラン(壁走り)で『千のプラトー』第1章「リゾーム」の壁を走る
『千のプラトー』の序章「リゾーム」は、この大著全体の「取扱説明書」であり、パルクールの心得そのものなんだそうだ。 彼らは「樹木型の知(根から幹が伸び、枝分かれする階層的な知)」を捨て、「リゾーム型の知(地下茎のように、あらゆる点があらゆる点へと無秩序につながる知)」になれと言いってるらしい。俺が今までやってきたことそのままだな。
俺が持っている人類学や経済学の知識を、上下関係なく、ドゥルーズの哲学と勝手に衝突させて連結させていく。この「勝手な連結」こそがリゾームであり、知のパルクールの真髄だろう。どんな新しい着想が生まれるのか、ワクワクするぜ。
そしてランディング(着地)で『プラトー』第12章「戦争機械」へのダイブするか?
そのターゲットは 現代思想史上で最もスリリングな「国家 vs 外部」のパルクール論だってさ。クラストルやJCスコットの議論を足場に、国家という「定住し、領土を区切り、コード化する装置」に対し、それを軽々と跳び越えて移動し続ける「遊牧民(ノマド)」の思考法が語らるんだそうだ。俺が目指してきた知性のあり方がここにあるって感じるぜ。
国家が作った壁や法(条理空間)を、滑らかなステップで無効化していく「戦争機械(国家に回収されないエネルギー)」の運動は、まさに俺の標榜する思考と知性のプレイスタイルと完全に一致してる。
縦に積み重ねる読書ではなく、横へ、斜めへと跳ぶ読書。この二冊は、そのための最高の障害物(プラトー)に満ちていそうだ。
そういえば、『パパ・ママ・ボク』って、俺の大好きなラモーンズ🔗の歌にもあったな。確か「We're a Happy Family🔗」って奴だ。こいつぁまさに最高にパンクでキレのある「知のパルクール」的跳躍だな。
この直感は、ドゥルーズ=ガタリが『アンチ・オイディプス』で執拗に批判した核心と1ミリもブレずに完全に一致していまるらしいぜ。
なぜラモーンズのあの曲が『アンチ・オイディプス』の最高のBGMになるのか、その理由を3つのポイントでAIに解説してもらったぜ。
🎸 1. 「パパ・ママ・僕」という地獄の三角形
ラモーンズの「We're a Happy Family」は、タイトルとは裏腹に、ドラッグ中毒のママ、クローゼットで怪しい商売をするパパ、そして気が狂いそうな子供たちが、狭い家の中で互いを呪い合っている凄惨な家庭環境を、あの爆速のパンクロックに乗せて皮肉たっぷりに歌った名曲だ。
ドゥルーズとガタリが『アンチ・オイディプス』で激怒しているのも、全く同じ構造だそーだ。
彼らは言う。
「フロイト主義(精神分析)は、人間のあらゆる欲望や狂気、社会への怒りを、すべて『パパ・ママ・僕』という狭い家庭の三角形(オイディプス)の中に閉じ込め、ただの『家族の痴話喧嘩』に矮小化してしまった!」
ラモーンズが歌う「狂った家族」は、まさにドゥルーズらが「精神分析が無理やり作り出した檻(オイディプス・ファミリー)」として弾劾した縮図そのものだ!だとさ(笑)
💊 2. 欲望は「社会」と直結している
ラモーンズの歌詞には、友達がレゴ(Lego)を売っているとか、大統領(Pills for the president)といった、家庭の外にある近代アメリカの病理や物質、資本主義の記号がジャンクフードのように乱雑に登場する。
これこそが『アンチ・オイディプス』の言う「欲望する機械」そのものなんだとさ。
精神分析の嘘とはこういうもんだ。つまり、 子どもの悩みはすべて「お父さんが嫌いだから」「お母さんに愛されたいから」に回収されるって筋書きだ。
けれどドゥルーズらの考察した真実ってのは、 子どもの欲望や狂気は、パパやママではなく、アメリカの政治、ドラッグ、資本主義、戦争、人種差別、そしてロックンロール(=社会体)と最初から直接つながっている。
ラモーンズは、家族の物語の背景にべったりと張り付いた「アメリカ資本主義の狂気」をサンプリングすることで、結果的にオイディプス的な「ハッピー・ファミリー」の嘘を暴いているってことだ。
⚡ 3. 分裂分析(スキゾアナリシス)としてのパンクロック
ドゥルーズとガタリは、精神分析に代わる新しいアプローチとして「分裂分析(スキゾアナリシス)」を提唱しました。これは、家族の殻をぶち破り、欲望を社会へと解放する、きわめて破壊的で前進的な試みなわけさ。
ラモーンズが1977年に「We're a Happy Family」をあの圧倒的なスピードとスリーコードで演奏した行為は、近代社会が押し付ける「健全な市民・健全な家族」というコード(規則)を文字通りぶち壊す、音の「分裂分析」だったといえるんじゃね、知らんけど(笑)。
そういやラモーンズにはサイコセラピー🔗って曲もあったな。

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