2026/07/06

POST#1889 東国の首狩り族が産んだ日本の直系家族システム

 

江南市宮田 木曽川の堤防沿いにて

俺の住んでいるあたりってのは、承久の乱🔗で朝廷方の西国軍と東国方の鎌倉軍が激突したあたりだ。うちの息子が小さな頃によく連れて行った岐阜県各務原市の前渡不動尊🔗には、この合戦の死者を弔う承久の乱合戦供養塔🔗がある。息子はこの矢熊山の山頂付近にある茄子のオブジェから、茄子の山って呼んでいたな。

かつては木曽川の乱流地帯だったこの美濃と尾張の境界線付近は東西交通の要衝だった。今もうちの近所には鎌倉街道🔗といわれる道が残っている。

木曽川を挟んで美濃に朝廷側の軍勢、尾張に鎌倉方の軍勢が対峙した。うちのすぐ近所の尾張一宮真清田神社鳥居前にて北条泰時、北条時房らを筆頭にした軍議をしたのち、当時尾張川と呼ばれていた木曽川を渡河し、対岸に布陣していた朝廷軍の藤原秀康🔗率いる主力約一万騎を壊走させた。世にいう尾張川の戦い🔗だ。

こののち、朝廷側は大津の瀬田と宇治に最終防衛ラインを構築し、宇治川の橋を落として防戦するも、強硬渡河した幕府軍に撃破され、承久の乱は幕府方の勝利に終わった。

朝廷側で戦った西国の武士の所領の多くは没収され、鎌倉方の御家人たちに温床として与えられた。

これが、日本の家族システムが直系家族へと大きく転換した画期的な瞬間だったといえるだろう。

日本の場合は元々は、先日も話し合ったように、双系的な核家族形態を基盤としたきわめてルーズな婚姻形態を持っていたんだ。源氏物語や万葉集を見れば、同父同母の兄弟姉妹以外だったら、誰とでも結婚できるという無秩序な時代が長く続いたんだ。

つまり、縄文時代から平安時代くらいまで、母方居住、通い婚が基盤の母系制寄りの家族構造という、緩い時代がずっと続いていたんだ。特に西日本では、長く続いたんだが、承久の乱以降、武家政権が本格的に西日本を統治するに至って、その状況は変わってくる。

なぜって、鎌倉幕府に統合されていた東国、主に関八州の在地豪族=武士たちは、自らの所領を一所懸命に維持するため、直系家族システムを採用したからだ。

この日本の「家族構造の東進・逆転劇」を、いくつかの決定的なポイントで整理してみよう。

1. 平安までの西日本:アノミーで流動的な「通い婚」

西日本(京都を中心とする宮廷社会や古代農耕社会)の基本は、「妻問婚(つまどいこん、通い婚)」「婿入り婚」だった。

高い自由度と流動性と母方の重視
同父同母の兄弟姉妹でなければ、異母兄弟姉妹間の婚姻すら容認されるほど、婚姻の規則=禁忌(タブー)が緩いアノミーな状態だったんだ。
また、子供は母親の家で育てられ、経済的基盤(財産)も母方から継承されることが多く、あマニュエル・トッドのいう「父系のタテの権威」は極めて希薄な状態だったんだ。そりゃそうだろう。父ちゃんなんて、たまにふらっと夕方やってきて、母ちゃんと飯食ってエッチして朝にはかえって行くんだからな。平たく言ってしまうと、全く身もふたもないが、現代人の感覚からすると、完全なクズ男だな。しかし、これが京都を中心とする西日本の文化的な「雅さ」や「流動性」の土壌だったんだ。

2. 関東(東国)の地殻変動:なぜ「直系家族」が生まれたのか

これに対して、平安中期以降に関東平野で産声を上げた「武士(坂東武者)」の社会は、全く異なる生存戦略を必要としていたのは言うまでもない。そこはまだすぐそばに蝦夷という異民族の影がちらほらし、東北にはもう一つの王権ともいうべき奥州藤原氏という限りなく蝦夷的な政権が陣取っていたんだもの。

過酷な開墾と「一所懸命」とそれが生み出した「イエ」と単独相続
弥生時代から農耕が発展していたという経済基盤を持っていた雅な西国人と違って、関東の武士たちは、荒れ地を自力で切り拓いた新興領主たちだ。
彼らにとって、命がけで手に入れた「所領(土地)」をバラバラに分割したり、流動的な婚姻で他氏族に奪われたりすることは、一族の死を意味したのは言うまでもないだろう。
そこで生まれたのシステムが、直系家族システムだ。自民党の男系男子強硬派の皆さんが大好きなシステムだ。
このシステムは、一族の開墾し、或いは武力で奪い取った土地と軍事力を、たった一人の有能な跡継ぎ、とりわけ長男に集中させてタテに継承していくという、強固なロジックが要請されたことから生み出されたものだ。つまり、「直系家族システムという家制度」は、関東の泥臭いフロンティアの中で必然的に要請され、過酷な現実の中から生み出されたものだったんだ。

だから鎌倉武士は、大河ドラマなんかからは想像できないほどに野蛮な連中だった。

自分の領地や家の前を通りがかっただけの通行人を切り殺して、自分の屋敷の玄関先にその生首をかけておくような連中だったんだ。それは考えたらアマゾンやパプアニューギニアなんかでも、つい最近まで部族社会で普通に行われていたことだった。ぶっちゃけ直系家族というシステムの部族社会だ。奴らの実際は、「いざ鎌倉」とか「武士道」なんていう後世の綺麗なイメージを完全に吹き飛ばす、文字通りの「ガチの蛮族」だったんだ。

通行人を試し斬り(辻斬り)して首を玄関に飾るなんて、現代の感覚から見れば完全に狂気の沙汰だけれど、自らの手を血と泥で汚してフロンティアを切り開いていった奴らにとっちゃ、それこそが「ナワバリ(領地)を守るための最も合理的な威嚇」だったってわけだ。

そして、それを「アマゾンやパプアニューギニアの部族社会の首狩り」と同列の構造として捉える視点は、人類学的に100%正しいって言えるだろう。

3. 「国家なき社会」の生存戦略としての暴力

ピエール・クラストル🔗の『国家に抗する社会』の議論に戻れば、強力な中央政府(警察や裁判所)が存在しないフロンティアにおいて、自分の身内と土地を守る手段は「暴力」しかない。北斗の拳🔗みたいなもんだ。
パプアニューギニアの部族が首を狩って村の入り口に吊るすのも、東国武士が玄関に生首をかけるのも、全く同じ「ここから先は俺たちのナワバリだ。入ったら殺すぞ」という、国家なき空間における最強のセキュリティ・サイン(威嚇)だってことだ。

後に元寇で戦うようになったモンゴル人からの呆れられるほどの狂戦士だった鎌倉武士だけれど、彼らは単に残酷だったのではなく、そうしなければ一族もろとも全滅する過酷な「フロンティアの現実」を生きていたわけだ。

4. 「蛮族の暴力」から生まれた、まさかの「直系家族」

平安時代に、西日本の洗練された母系的な家族形態の貴族たちが「東夷(あずまえびすと訓むのだよ)は言葉の通じない野蛮人だ」と軽蔑している間に、この生首をクリスマスのリースのように玄関にぶら下げる東国武士たちは、命がけで勝ち取った土地をバラバラにしないために、冷徹な「長子相続(直系家族)」のOSを研ぎ澄ませていたというわけだ。

平将門の乱🔗なんかもその地殻変動の一端だ。
皮肉なことに、この「生首を飾るほどの野蛮なフロンティアの暴力」こそが、西日本のアノミーを食い破り、のちの日本の「直系家族(イエ社会)」を作り、結果として「顔の見える小さな関係(村落やギルド)の自律性」を育む苗床になったという、凄まじい歴史の逆説(パラドックス)がここに完成しちまうんだな。

この承久の乱を境にして西日本を支配していた朝廷側に勝利した鎌倉幕府は、西日本の数千箇所にのぼる没収領地に、関東の御家人🔗(武士)たちを「地頭🔗」として大量に送り込んだんだ。そして、自分たちの生み出した直系家族システムのOSを西日本にインストールすることになったんだ。

これが江戸時代に入り、幕府が人々を管理するために檀家制度🔗を徹底させることで、庶民層にまでこの直系家族システムが浸透し、明治期にプロイセン🔗を参考にした法体系が移入され、家長制度が明文化されたことで、日本には直系家族システムががっちりと確立されることになったんだ。

この首狩り東国武士が自らひねり出した直系家族システムに先行して、日本の文化には、周代中国の直系家族を維持していた朝鮮半島や中国南部から、聖徳太子🔗の時代あたりから文字や技術と共に儒教が移植されてきた。

これによって、周代以前の直系家族を理想とする観念が移入され、平行、交叉いとこ婚の混交していたであろう双系的な核家族状態から、観念的には直系家族構造を受け入れる素地ができていたともいえるだろうな。

古代日本における「いとこ婚(平行・交叉)」が頻発する双系的な紐帯、いわばトッドのいう「アノミー家族(未分化な家族システム)」の混沌とした状態から、東国武士団の全国波及によって、どうして速やかに中世以降の強固な「直系家族システム」へと着地したのか。

この謎を解く鍵が、「中国南部や朝鮮半島を経由して流入した、周代以前の直系家族的理想を内包する儒教文化」とのハイブリッド(混交)にあるという仮説は、歴史人口学および人類学的にも、非常に強い説得力を持つんじゃないかな。

1. 古代日本の「アノミー(双系的群れ)」と近親婚

645年の大化の改新🔗以前の古代日本は、父方・母方の区別が緩く、出自を双方からたどる「双系社会」だった。そして、源氏物語などの平安文学に記された通い婚🔗主体、母方居住🔗というシステムを見る限り、実情は平安時代末、鎌倉初期まで続いたと考えることができるだろう。

内婚制の残影と家族システムの不安定さ
日本では古い時代には、天皇家や古代豪族の記録(『古事記』『日本書紀』)に見られるように、異母兄弟姉妹婚や、平行・交叉いとこ婚が頻発していた。これはトッドの分類でいう、ルールが未分化で流動的な「アノミー家族」の特徴そのものだ。
この状態は、権力や財産の継承において「誰が正統な後継者か」が常に曖昧になり、激しい内紛(たとえば壬申の乱🔗などね)を引き起こす原因となっていたんだ。社会は、秩序をもたらす強固な「構造」を必要としていたんだろうけれど、いつだって決定的な要因がなければ社会はなかなか変わらないもんさ。

2. 中国南部・朝鮮半島からの「直系家族的理想」の逆輸入

前々から話しているように、中国大陸では春秋戦国〜秦・漢代にかけて西方遊牧民由来の「共同体家族」へのシフトが起きていたんだが、百済・高句麗・新羅などの朝鮮半島や、長江以南の中国南部には、古い周代的な「直系・階層性」の記憶や、血統の正統性を重んじる儒教的観念が色濃く残流、あるいは再解釈されて保持されていたとされていたんだ。

まぁ、古代の中国人からしたら、長江🔗以南に住んでる連中は南蛮🔗百越🔗の野蛮人扱いだったからな。古いシステムの残滓が残るにはうってつけだったんだ。

で、大昔の日本と縁が深かったのは、この朝鮮半島諸国や中国南方の呉越の民🔗だ。

律令制と儒教のセット導入と観念としての「家」

日本はこれらの地域(特に百済などの渡来人ルート)から、国家統治のOSとして「律令🔗」と「儒教(礼)」を導入することになるんだ。
なぜって、形だけでも文明的な国ってことにしておかないと、中国の先進的な王朝の連中から、本当に東海の島に住んでるチビの野蛮人=倭人🔗ってバカにされて相手にされないからな。明治時代の政治家が、必死に法律を作って西欧列強と対等に扱ってもらえるようにあがいていたのと同じことさ。
おかげさんで、実情としてはともかく、日本のエリート層は「父系の系譜を正しく一列に繋ぐこと」「長幼の序を守ること」という、周代的(あるいは初期儒教的)な直系家族のイデオロギーを「理想の型」として、その双系的な核家族システムの頭の中に内包することになったんだ。

3. 日本独自の変形:血縁を超えた「家(機能体)」への着地

しかし、日本は大陸の儒教をそのままコピーしたわけではなかったんだ。

ここがこの国の人間がいつもやるローカライゼーションというか、現地最適化の妙だな。

つまり、日本の興味深い「着地」のプロセスだ。

中国(南部含む)や朝鮮半島の直系的な観念は、どこまでも「厳格な血縁」つまり同姓不婚に拘泥していた。中国や朝鮮半島では、「姓(ゾン、ソン)」は不変の血統のシンボルであり、同じ姓を持つ者同士の結婚は厳しく禁じられてきた。つまり、どんなに血縁的に離れていても、同じ王さん同士、同じ李さん同士は結婚できないっていうまさに『血の掟』だ。

これにより、数百年、数千年にわたる巨大な「宗族🔗(一族のネットワーク)」が維持された。これこそが国家に対抗したり、逆に癒着して国家システムを私物化してハックする巨大な下部構造となったわけだ。

一方で、日本の野蛮な坂東武者たちが、平安末期から鎌倉時代にかけて完成させた「イエという直系家族システム」は、血縁そのものよりも「家業と財産(領地)を単独相続者(主に長男)にそっくり受け継がせる」という、経営体(機能体)としての直系家族だったんだ!


アノミーからの脱却と擬制血縁の許容
いとこ婚や双系的な曖昧さを完全に排除して、「次の主人=惣領🔗はこの一人」と一線に絞ることで、武士団としての戦闘力と土地の分散防止を両立させたんだ。
しかも、驚くべきことに血縁よりも「家」の存続を最優先したため、優秀な「養子(婿養子)」を平気で迎え入れたんだ。
これは、血統の純血性を絶対視する朝鮮半島の宗族システムや中国の儒教的な家族観とは一線を画す、日本独自の展開なんだ。
もちろん日本にも「源平藤橘」という血統の姓(うじ)はあった。
あったんだけれど、武士たちは平安末期から鎌倉時代にかけて、自らの居住地や職能に由来する「苗字(地名など)」を自ら名乗り始めたんだ。そう、足利、新田、武田とかだね。
この苗字ってのは、単なる血統ではなく「独立した一つの経営体(直系家族)」を示す経営組織のコード=屋号みたいなもんだ。そのため、元が同じ血筋であっても、苗字が変われば別組織となり、何の問題もなく結婚(内婚・外婚問わず)できるようになるというテキトーさが発揮されたんだ。
さて、こんなことを踏まえたうえで、政府のいや麻生漫☆画太郎の仕掛ける皇室典範改正というか改悪が、どんな結末を迎えるのか、気になって仕方ないぜ。この調子じゃ、麻生漫☆画太郎の妹の三笠宮妃殿下🔗に養子をとって、その養子に男子が生まれたらそこから新しい皇統ができるというようなことになりかねないからな。俺は、天皇制リベラリストだけれど、あくまで支持しているのは『愛子天皇と悠仁親王によるヒメヒコ制』だ。

いかに無節操でも、守るべき筋目はあるんじゃないか?

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