2026/07/04

POST#1897 いきなりですが、中上健次と日本神話の時間です!

熊野速玉大社 大楠
 唐突だけれど、俺は中上健次🔗の小説が好きだ。全集でそろえているのは中上健次だけだといっても過言じゃない。まだ若く貧乏だったころ、地元の古本屋の出物を無理して買ったものだ。俺は若い頃、中上健次の墓に参って、その敷石を一つ持ってきたことすらある。そのすべすべした石は、今も俺の家にあるんだ。内緒だぜ。

すでに亡くなって30年以上になるが、彼を超えるような作家はもう出てこないんじゃないかと思っている。とりわけ、『岬🔗』、『枯木灘🔗』、『地の果て 至上の時🔗』、『千年の愉楽🔗』などの路地サーガともいうべき、熊野の被差別部落・路地を舞台にした一連の作品群は、重金属を無理やり飲み込まされるような強烈な世界観を持っている。

中上健二の路地サーガに出てくる主人公の秋幸は、『茨の龍』といわれた悪党・浜村龍蔵という無頼漢の息子だ。しかし、母親は龍蔵に他の女がいたため、父親のちがう兄や姉たちを連れて、別の男と所帯を持つ。これは昨日話した、現在進行形の日本の家族形態の崩壊状況とそっくりだな。この一連の路地サーガ、特に『岬』『枯木灘』『地の果て至上の時』は中上健次自身の人生を下敷きにしている話だとされているんだけれど、主人公の秋幸は、この町を陰から支配する蠅の王とも呼ばれる本当の父親に反発しつつ、否応なくその人生と絡み合って物語を織りなしてゆく。

そして秋幸は、第一作『岬』では、娼婦としてはたらく腹違いの妹さと子と交わる。第二作の『枯木灘』では腹違いの弟である龍蔵の息子を殺す。さらに第三作目では、父親である龍蔵を自殺に追い込み、自らの出自であった被差別部落の跡地に火をつけ、煙のように消えてしまう。

この陰惨で豪壮な神話的なエピソードは、俺には太古の家族構造を反映してるように思われる。

とりわけ、主人公・秋幸が実父である浜村龍造に、腹違い(異母)の妹・さと子と関係を持ったことを告げ、復讐したような気分になったとき、龍蔵自身は、そんなことをまったく気にする風でもない。まさに古代日本の「同母不婚・異母可婚」という、混沌とも言える太古の家族構造・神話的タブーの記憶を完璧に反映し、現代に召喚した文学的トポスだ。

ここに俺は、日本神話の原型を見る。

古事記に描かれた国生みだ。伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)は、その名前の相似形から兄妹神と考えて間違いないだろう。『古事記』はイザナミの呼称を「妹」と記すんだけれど、「妹」という文字は「イモ」と読み、上代日本語では愛しい女性への呼称とされているよね。だが、碩学西郷信綱🔗先生は『近親相姦と神話—イザナキ・イザナミのこと』(『古事記研究』、1973年)で、これは文字通り解するべきであり、日本は兄妹の近親相姦によって創造されたとする記録なのではないかと論じているんだ。ほかにもこの説を補強する研究はあるんだけれど、煩雑になるのでここでは端折っておこう。

イザナギとイザナミの神話は、比較神話学において「洪水型兄妹始祖神話🔗」、あるいは大洪水に限らない広義の「兄妹婚型始祖神話🔗」という世界的な神話類型に深く合致しているとされているんだ。この類型に当てはまる具体的な根拠と共通点は以下の通りだ。

1. 世界の混沌・未完成状態からの出発

多くの兄妹始祖神話では、大洪水などの災害で人類が滅亡し、生き残った兄妹だけが取り残された状態から始まるとされる。

『古事記』では大洪水こそ起きていないが、世界はまだ固まっておらず「漂える脂のよう」な混沌とした状態だったわけだ。そこに二神だけが降り立ち、国造りを始めるという状況設定が共通しているといえるだろう。

2. 「近親相姦(兄妹婚)」のタブーと儀礼

人類が兄妹しかいないため、世界の再生には兄妹での婚姻(近親婚)が不可避となる。これは仕方ないな。

しかし、ここには強いタブーが伴うんだ。

神話の共通パターン:としては、兄妹が結婚しようとする際、天の意志を確かめる儀礼やテスト(山を回る、火を飛び越えるなど)が行われるんだ。イザナギ・イザナミの例でいえば、 二神は「天の御柱(みはしら)」を左右から回って出会うという儀礼を行うことになってるんだよね。このパターンにばっちりだ。

3. 最初の失敗(不完全な子の誕生)

兄妹婚のタブーを犯したり、儀礼の手順を誤ったりすることで、最初に「不完全な子供」が生まれてしまう点もこの類型の大きな特徴だ。

世界各地の神話:では肉の塊や、手足のない子が生まれて川に流す描写が多く見られる。

イザナギ・イザナミの例では、女神であるイザナミから先に声をかけたため、不完全な子である「蛭子🔗(ヒルコ)」や「淡島(アワシマ)=淡路島」が生まれちまったんで、葦の船に乗せて流してしまう事になるんだ。この蛭子こそ、大漁の神様七福神でおなじみの恵比寿🔗さんだ。蛭子能収🔗じゃないぜ。

4. 儀礼のやり直しと世界の繁栄

占いや天神の教えによって儀礼を正しくやり直し、そこからようやく五体満足な子(=新しい人類や豊かな国土)が生まれて世界が再生に向かうことになるんだ。

イザナギとイザナミも、男神から声をかける形に修正したことで、大八島(日本列島)や様々な神々を無事に生むことができたわけだ。

この神話を、中上健次の小説世界に当てはめてみよう。

1. 国生み神話の「イザナギ・イザナミ」の再演

秋幸が腹違いの妹・さと子と交わるのは、紀州熊野という「根の国🔗(記紀神話において、死と再生、そして神々が誕生する太古の場所)」を舞台にしているんだ。
中上健次は、この「路地」という空間を、近代の「直系家族(イエ制度)」のルールが届かない、日本神話の黎明期のような未分化で混沌とした無秩序な空間として描き切った。
妹との交わり(まぐわい)は、まさに『古事記』におけるイザナギとイザナミの国生み(近親相姦的結合)の神話の、現代における生々しい再現に他ならないんだ。

2. 「異母可婚(同母でなければOK)」の直接的な召喚

実は、古代の大和(西国)では「同じ母親から生まれた者(同母)でなければ、父親が同じ(異母)であっても結婚・交わることが許される」という婚姻ルールがあったんだよ。

大伴家持🔗の父の大伴旅人🔗は、大伴氏の血を濃く残すため、異母妹にあたる丹比郎女を母として家持をもうけたと伝えられているし、家持自身もいとこと婚姻している。族内婚で一族の純血性を守っていたんだ。また第33代天皇の推古天皇🔗の配偶者は、第30代天皇の敏達天皇🔗で推古天皇にとっては異母兄に当たる人だった。もちろん王子も生まれている。
さて、秋幸とさと子は「腹違い(異母)の兄妹」だ。

近代~現代の「直系家族・一夫一婦制」の倫理から見れば、これは「近親相姦」という絶対的なタブー、つまり犯罪ってことになるだろう。

しかし、古代西国の「同母不婚」のフレームワークに則れば、これは「許された交わり」の範疇にギリギリ留まることになるんだ。
中上健次は、近代的な法や倫理を「路地」という太古の空間で剥ぎ取り、古代の西国が持っていたあの「大らかで混沌としたエロス」つまり『婚姻の流動性』を剥き出しにしたといえるだろう。

3. 「直系家族(父・龍造)」への最大のテロルと、その敗北

秋幸が異母妹のさと子と交わった動機は、近代的な「直系家族の長(父である蠅の王浜村龍造)」に対する、血の呪いを突き動かすテロル、つまりズバリ復讐そのものだった。普通の神経を持ってたら、自分の息子と娘が性交していたら、苦悩するだろう。

秋幸は「お前の作った歪んだ直系の血を、古代の無秩序な混沌=近親相姦でめちゃくちゃにしてやる」という意図で、父親にこの事実をぶつけたわけだ。

しかし、父親である龍造の反応は、「古代日本の底知れぬ混沌さ」そのものだった。
龍造は慌てるどころか、「二人ともわしの子じゃ」「かまん、かまん。アホが生まれてもかまん」と笑って、その混沌を丸ごと飲み込んでしまったんだ。

これは、直系家族という規律の枠組み(父権)すらも超えた、熊野という古代的な風土が育み守った土着社会が持つ「底なしの混沌(すべてを無秩序のまま肯定してしまう、生と性の圧倒的な流動性)」の勝利だったといえるだろう。

日本の神話の黎明期において、イザナギとイザナミは「兄妹(あるいは姉弟)」であり、彼らが交わることで日本の国土や神々が誕生したわけだ。

日本という国の根底には、そんなタブーが横たわっている。

さらにその前の世代である神世七代(かみよななよ)も、最初の独り神の時代を経て、後半はすべて「兄妹(姉弟)のペア」として登場し、それぞれが婚姻関係を結んでいくんだ。

つまり、歴史の肇め、神話の混沌の源には近親婚の記憶がとぐろを巻いているんだ。

アジア圏には、この類型の神話が数多く伝わっている。

特に中国の少数民族(ミャオ族やヤオ族など)に伝わる「伏羲(ふくぎ)🔗女媧🔗神話」は、大洪水で生き残った兄妹が、周囲を回る儀礼を経て結婚し、世界を再生するんだ。イザナギ・イザナミ神話の基本構造である「兄妹による国生み・人類創生」という構造は、中国大陸の神話に登場する「伏羲(ふくぎ)と女媧(じょか)」の神話と完全に重なり合っており、地続きの文化的背景を持っているといえるだろう。

この神話の構造と、俺が君たちと話し合ってきた「中国における家族構造の移行」という歴史・人類学的なドラマを重ね合わせると、次のような深い意味が見えてくるんじゃないか?

1. 伏羲・女媧神話と記紀神話の完全なパラレリズム

中国の神話において、伏羲と女媧は兄妹でありながら、大洪水によって人類が滅亡した際、人類を絶やさないために結婚して新たな人類を創造した。

漢代の画像石(石に彫られた絵)などでは、二人の下半身が蛇の姿(あるいは龍の姿)をしており、その長い尾が「縄のようにお互いに絡み合っている(交差結合している)」姿で描かれている。

これは、日本のイザナギとイザナミが「天の御柱(みのはしら)」の周りを互いに逆方向に回って出会い、交わった(まぐわった)というエピソードと構造的に全く同じだといえるだろう。
下半身が蛇や龍として絡み合う姿は、まさに「カオス(未分化な混沌・無秩序)から、婚姻(交換)という最初の秩序が誕生する瞬間」を視覚化したものだといえるだろう。

2. 「未分化なカオス」から「親族の誕生」へ

レヴィ=ストロース🔗の視点に戻れば、人類の歴史において「近親相姦」は最初の状態(自然)であり、それを禁止して「他者と女性を交換する(文化)」ことから社会が始まるとされている。詳しくは『親族の基本構造🔗』を読むことをお勧めするが、これがまた15400円もする上に難解極まりないんだ。やっぱやめておいた方がいいかも…。
何はともあれ、神話における兄妹婚の連続は、まだ社会(規律)が誕生する前の、文字通りの「聖なる混沌(未分化な神の時代)」を表しているといえるだろう。

古代の西国(大和)が「同母でなければ結婚できる」という境界線の緩やかさを残していたのは、この「伏羲・女媧」や「イザナギ・イザナミ」が持っていた太古の神話的アノミー(生と性の流動性)の記憶を、地層のいちばん深い部分に色濃く残していたからだと言えます。

3. 東国の「直系規律」による神話の去勢

しかし、中世になり、東国の鎌倉武士団が木曽川を越えて西国を飲み込んでいく過程で、この「神話的な大らかさ=混沌」は徹底的に規律化され、排除されていくことになった。東国で武装勢力としてそれぞれの領地を死守し、子孫に確実に引き継いでゆくシステムが直系家族システムだ。長男が土地を一括継承する「直系家族」のシステムにおいて、誰が誰と交わったかが曖昧になるような混沌とした流動性は、イエを崩壊させる最大の「悪」となるってことだ。

結果として、伏羲・女媧やイザナギ・イザナミの系譜にあった「しなやかで混沌としたエロス」は、東国的な封建システムによって制度の表舞台から駆逐され、私たちが先ほど確認した中上健次の『枯木灘』における「路地の闇」のような、近代の防波堤の最果てにだけ息づく「呪いであり聖域でもある文学的トポス」へと押し込められていくことになったわけだ。

さて、ここまで縷々中上健次やイザナギ・イザナミ神話について語ってきたのは、実は伏線だったんだ。これから伏線回収に入るよ。

古代中国の伏羲女媧の神話を考えに含めると、黄河流域の中国中原も夏王朝以前の古い時代には、アノミーな婚姻形態・家族構造だったと類推することができるだろう。

「伏羲(ふっき)と女媧(じょか)」の神話は、中国中原(黄河流域)が夏王朝以降の直系家族システムを経て、後の過酷な全体主義・父系共同体家族へシフトする以前の、きわめて流動的で無秩序な(あるいは母系双系的な)原始社会の記憶を閉じ込めた「タイムカプセル」に他ならないといえるだろう。

そして、考古学的なヤンシャオ(仰韶)文化🔗(紀元前5000年〜前3000年頃)の集落構造や埋葬データは、まさに「これといった秩序のないフラットな婚姻形態」のリアルをこれ以上ない形で実証しているのだという。この「伏羲女媧」と「仰韶文化」という2つの強烈なブロックが、中国中原の「失われたアノミー時代」をどう証明するのか、その構造を考察するのが今日の主眼なんだ。


1. 神話のハック:伏羲・女媧が「婚姻制度を作った」という記述の裏

中国の正史や神話(『漢書🔗』や『風俗通義🔗』など)では、伏羲と女媧は「兄妹(姉弟)でありながら大洪水を生き延び、交わって人類を創造し、初めて婚姻の制度(正統な一夫一婦や父系のルール)を定めた」と記録されている。

構造主義🔗吉本隆明🔗共同幻想論🔗の眼でこの記述を逆読みすれば、答えは明々白々だと思われるんだ。

制度制定前のカオス
「彼らが婚姻制度を定める前」の世界とは、すなわち同姓不婚🔗のルールも、厳格な父系血統の序列もない、野生の近親婚や歌垣🔗などの集団婚がごく自然に行われていた「アノミー(未分化)な婚姻形態」の社会だったということを意味していると解釈できるよね。
蛇身人首のシンボリズム
漢代の石碑などに描かれる、二人の下半身(蛇の尾)がDNAの二重螺旋のように絡み合っている象徴的な図像は、まさに「カオス(無秩序)な群れ」から「一対の秩序(構造)」を紡ぎ出そうとする、過渡期の未分化なエネルギーそのものを図式化したものとみることもできるだろう。

2. 仰韶(ヤンシャオ)文化のリアル:母系から対偶婚への流動性

この神話が語る「制度化される前の野生の時代」にピタリと重なるのが、黄河中流域の仰韶文化(半坡遺跡や姜寨遺跡)だ
ここの考古学的景観は、後の夏・商(殷)・周のガチガチの直系家族階層社会とは全く異なっていることが明らかになってきている。

円陣を組むフラットな集落
住居跡は中央の大きな広場を囲むように平等に配置されており、突出した「王の宮殿」や強力な権力インフラはまだ存在していないんだ。
にほんでいえば、縄文時代の遺跡みたいな感じだな。中央の広場は、祭儀が行われたり、日常的な話し合いの場だったんだろう。ということは、ピエール・クラストル🔗の描いたアマゾンの権力無き首長が、毎朝皆に部族の成員はどうあるべきかとか、今日はこっちに獲物を取りに行こうとか言っていた素朴で普遍的な民主社会だったことが想像できるね。

集団埋葬と対偶婚のアノミー
初期〜中期の埋葬跡からは、女性を中心とした血縁集団の共同墓が中心であり、まだ固定化された「一夫一妻の家族の墓」は主流ではないそうだ。
男女の結びつきは流動的で、トッドのいう未分化で緩やかな母系社会の様相を呈しているといえるだろう。
そして、後期(竜山文化🔗へ向かう過渡期)になって初めて、男性と女性、子供が一緒に埋葬される「父系的一夫一妻・大家族」の墓が現れ、社会の「階層化(格差と専制のインフラ)」が始まるという。

3. 東洋的専制主義🔗による「アノミー🔗の抹殺」

つまり、中国中原も最初から「直系家族システムやそれに代わった共同体家族システム、そして今日の全体主義の呪縛」に縛られていたわけではなかったんだ。

彼らもかつては、日本や縄文社会と同じように、緩やかでフラットなアノミーな緩い土台(仰韶の彩陶文化)を生きていたんだ。

しかし、夏王朝の始祖・禹帝の治水伝説にみられるような黄河の治水や、のちの戦国時代の凄惨な戦争に直面したとき、彼らは社会を生き残らせるために、そのアノミーな土台を直系家族システムへと再編し、さらに選好する投稿で君たちとも話し合ってきた秦による共同体家族システムの移入と商鞅の変法などによる強力な官僚制インフラの発明に伴う、父系共同体家族の論理によって「徹底的に調教・上書き」せざるを得ませんでした。

伏羲と女媧の神話は、その失われてしまった母系的、双系的な核家族社会の記憶そのものだといっても過言ではないだろう。

中国大陸から陸続と潤=RUNしてくる人々は、もしかするとこの太古の伏羲・女媧と似た神話を持つ日本への憧憬を心の奥底に持っているのかもしれないぜ。

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