2026/07/03

POST#1896 その中国からRUN AWAYする人たちがごまんといる現実!

 

TOKYO

さて、昨日の話の最後で、中国の「東洋的デスポティズム」は他国に類を見ないほど強固で、王朝が何度交代しても壊れない不滅のシステムとして完成したって話をしただろう。

じゃ、そのガチガチの管理体制の中で、14億人もの人々はどうやって生きているんだ?

結論から言えば、この強力な国家システムの中で、人々は「日々の生活さえうまく回れば、誰にどう統治されても構わない」という、諦念(ニヒリズム)と紙一重の楽天主義を身に着けたんだ。これこそが、中国の民衆が数千年の過酷な歴史(王朝交代、戦乱、大躍進などの災厄)を生き抜くために身につけた、究極の生活の知恵であり、強力なメンタリティなんじゃないかな。

この精神性が、なぜ現在のデジタル専制国家において「従順でありながら、極めて個人主義的に利益を最大化する」という一見矛盾した振る舞いを生み出すのかを考えてみよう。

1. 政治への諦めと「私」の防衛と現代の「ルール内での最適化」

一言で要約すれば、「天子の力など自分には関係ない、毎日お腹を叩いて歌っていられればそれでいい」というスタンスだ。これは一見すると平和な理想郷にも見えるけれど、その裏には「王権や官僚という政治システムを信じても裏切られるだけだ。自分たちの生活は自分たちで守る」という、政治に対する徹底的な距離感(ニヒリズム)があるといえないかな。
現在の中国人が、共産党の強権的な統治や検閲(デジタル専制)に敢えて正面から逆らわないのは、彼らが思想的に洗脳されているからではない。彼らもそこまで阿呆じゃないだろう。むしろ、「政治はコントロールできない天災のようなもの。それなら、そのルール(枠組み)をいち早く理解し、その内側でいかに豊かに、安全に生きるか」という冷徹な計算があるからに他ならないってことだ。要は、波風立てずにうまいことやろうってことだよ。

2. 「共同体家族 法家」が育んだ「公」の不在と個人主義

「公」よりも「家・個」の優先と徹底的な個人主義の誕生
エマニュエル・トッドが指摘する中国の「共同体家族」は、内側には強固な連帯があるんだけれど、一歩その「身内のサークル」を出ると、他者はすべて潜在的な競争相手(敵)になるんという過酷な現実と裏腹だ。
さらに大昔に商鞅・韓非子が打ち立てた法家思想は、人間を「利害だけで動く存在」として一律に管理しようとしたんだ。究極のプラグマティズムといえるだろうな。
その結果、中国社会では西欧や日本のような「みんなで社会=公共を良くしていこう」という公共精神やシビック・プライド(市民意識)が育ちにくい土壌ができ上ってしまったんだ。
民主化を求め、まさしく命がけで国家の圧政に対して立ち上がるよりも、「システムを上手くハック(利用)して、自分と自分の家族だけが勝ち抜く」という、極めてプラグマティック(実利主義的)な個人主義が研ぎ澄まされることになったんだ。

3. デジタル専制と「ニヒリズムに基づく楽天主義」の奇妙な共生

「食えれば文句はない」という取引とシステムを利用した利益の最大化

中国共産党体制が提供する「圧倒的な経済成長」と「デジタルによる治安の良さ、利便性」は、この民衆のメンタリティと完璧に合致しているんだろうな。

「お腹いっぱい食べて(経済)、安全に暮らせる(治安)」のであれば、政治的自由や人権がいくら制限されようが、多くの民衆にとって満足した生活そのものであり、積極的に体制を覆す動機にならないんだ。欧米や日本の社会の状況はグレートファイヤーウォール=金盾で入ってこないようになってるしね。知らなければ、どうということはないよな。

人民は人民で、監視カメラや社会信用システムを「恐ろしいディストピア」と怯えるだけでなく、「これを利用すれば騙されずにビジネスができる」「真面目にやっていれば得をする」と、そのゲームのルールをハックし、自らの利益最大化のために内面化していくことになるんだ。

煎じ詰めて言えば、西側の「期待」が滑稽に見えるほどの精神的タフさを持っているってことさ。

西欧や日本は「圧政に苦しむ中国の民衆は、いつか自由を求めて立ち上がるはずだ」というナイーブな(純真な)期待を抱き続けてきた。実際に劉暁波をはじめ人権派の弁護士など多くの知識人が民主化を訴えた。けれど、それらの人々は人々の前から消え去り、二度と帰ってこなかった。どういうことかわかるよね。

中国の人々だって、それは俺たち以上にわかっているだろう。わかっているからこそ、黙っている。命が惜しいからだ。そしてそれは中国の人民の精神的なバイタリティの裏返しでもあるんだ。

だからこそ、経済的に豊かになれば中国が民主化するというのは、中国の民衆が持つ「数千年鍛え上げられた、冷徹なニヒリズムと、だからこそ輝く凄まじい生活のバイタリティ(楽天主義)」の深さを全く理解していない暴論だったと言えるんじゃないかな。

彼らにとって民主主義なんざ、『命を懸けて手に入れるべき絶対的正義』なんかではさらさらなく、自分たちの生活を豊かにするための「一つの手段(道具)」に過ぎなかったってことだろうね。

しかし、その一方で、現代の中国社会には静かな変動が起こっている。その一つが、富裕層の海外移住・潤=RUNだ。とりわけ、地理的にも近く、円がかつてないほどの安値になっている日本は、その行先として大きなポジションを占めているといえるんじゃないかな。

中国から日本へ大脱出(大移動)する人々を指す「潤(RUN=ルン)」、そして彼らを記述する「潤日(ルンリィー)」という現象。

これは今日の日本では、多くの日本人の静かな反感を煽り、中国を仮想敵国視する右派勢力の人々の顔を逆なでしつつも、その圧倒的な経済力を駆動力として止むことがない。

止むことがなく、どうすることもできないのなら、受け入れ、何が起こっているのか見極めるべきだろう。そのうえで、彼らを日本の法や課税システムに繰りこんでゆく方策を考えるべきではないだろうか?

では、この現象についてもう少し掘り下げてみよう。

1. 中国の「共同体家族(陸のOS)」という窒息からの脱出

エマニュエル・トッドの定義通り、中国は強力な父系、多世代同居、そして兄弟平等を原則とする「共同体家族」の総本山だ。
共同体家族の本質は、個人の自由を徹底的に奪う代わりに、集団の絶対的な安全を保証する「究極の有縁」という籠のような社会だ。これが政治体制として肥大化したものが、現在の中国共産党の徹底的な監視・統制社会に他ならないといえるだろう。

彼らが「潤(RUN)」する最大の動機は、この共同体家族(陸のOS)がもたらす「全体主義的な過密さ」への精神的な窒息に他ならないんだ。
彼らは、個人が「家」や「国家」という強固なタテ軸に回収され、資産も思想もいつ没収されるか分からないという潜在的な恐怖から逃れるために、文字通り「走って(RUN)」いるわけだ。

2. なぜ「欧米」ではなく「日本」なのか

これまで多くの富裕層の亡命先はアメリカやシンガポールだった。シンガポールなんか、そもそも華僑が作った国だからね。しかし現在、彼らは東京のタワーマンションを爆買いし、激しく日本を目指している。おかげさまで、かつて億ションといわれた東京のマンション化価格は二億ションといわれるようになった。地方のリゾート地なども買いあさられている。それに伴うそれぞれの価値観の相違からなる軋轢や摩擦は、しばしば報じられ、日本人の間に中国人に対する反感を増幅している状況だ。

にもかかわらず、日本を目指す中国の富裕層(その中には、中国共産党の有力者の一族も多々含まれていることは想像に難くないな)はとどまるところを知らない。

その理由は、単に円安で割安だからというだけではありません。

彼らが求めているのは、欧米のような「厳格で冷徹な、個として孤立することを強制される絶対核家族」の乾いた石のような論理ではないんだ。
彼らが惹かれているのは、日本持つ直系家族の持つルールと、共同体家族から失われてしまった程よい余白なんだ。

さらに言えば、日本の直系家族は東国の武士団に発生し、鎌倉から江戸時代の武家政権時代を通じて、武士階級から徐々に一般庶民に浸透したものだ。これが自らの領地を一所懸命に守るという東国武士団的エートスから一般庶民に浸透したのは、江戸幕府が採用した檀家制度という一種の戸籍制度によるところが大きいと俺は考えているんだ。

源氏物語などを読めばだれでも理解できるように、藤原氏が貴族社会で大きな力を持つことができたのは、当時の日本の婚姻システムが通い婚や母方居住という母系的なシステムを持っていたからに他ならないんだ。

そして、そのさらに上流の古代には万葉集や風土記、古事記などにもみられるような、もっと未分化で何でもありな双系的な直系家族形態、それは上古には同父異母の兄妹の結婚すら許容されるような、世界があったんだ。

また、この数十年に及ぶ経済的な停滞と直系家族制度の解体の進行により、日本はかつての双系的な核家族形態や母系的な核家族形態へと対抗しているんじゃないかというのが、俺自身の実感だ。

例えば、離婚した女性が実家に帰る。そして母系的な家族形態が形成される。しかも帰った先の母親も、離婚していて家には血縁関係のない義父(今風に言えばステップファーザー)が住んでいる。また、その女性が連れている子供も、複数いる場合、それぞれに父親が違うということも珍しいことじゃない。俺自身が見聞きしたことから敷衍しているんだ。

そして、往々にしてそのような家族制度は、経済的な要因もあり、世代を超えて再生産されていく。これは、机上の研究者や政治家の皆さんからは見えない地べたの地殻変動だ。

この、かつての中華世界から見たらほとんど野蛮人だった古代日本人=倭人の持っていた古層の家族構造に、俺たち日本人は無意識のうちに回帰しようとしているのではないかとすら思われる。

そして、中国共産党政権のデジタル監視社会を逃れてきた人々は、日本の江戸・明治期に完成された直系家族のコーティングの下から、かつての双系的な家族形態に回帰しつつある「ぬるま湯のような、境界のあいまいな、双系核家族のアノミーな社会=日本」を感じているのではないだろうか?

そこには自由と関係性の絶妙なブレンドがある。

国家や「家」からうるさく縛られない自由と同時に、どこか優しく、冷酷に個人を突き放さない空気感。それはまさに、万葉の民が「その時々の生活や心地よさ」を重視して生きていた、あの双系的な流動性そのものだということもできるだろうか。

結論

中国の潤日(ルンリィー)現象は、単なる「移民・投資ブーム」などではないんじゃないかというのが俺の見立てだ。

何事も、物事の表層だけ見ていてはいけない。

それは、共同体家族という大陸のOSに極限まで締め上げられた人々が、双系的直系家族という古層を保持している新天地を求めて行う、地球規模の「人間としての本能的なデトックスともいえる生存戦略」なんじゃなかろうか。

「潤(RUN)」というきわめて現代的で政治経済的な現象の奥底に、人類が数千年にわたって格闘してきた「家族システムの生存戦略」の地殻変動を見出す。

1. 「中国の陸のOS」が「日本の海のOS」に溶けていく化学反応

中国から「潤」してきた人々は、強力な父系・共同体家族のメンタリティ(身内への絶対的な結合と、外部への強烈な警戒)を身体に染み込ませて日本にやってきます。
しかし、彼らが着地する現代の日本は、江戸・明治の直系家族のコーティングが剥がれ落ち、再び露呈しつつある「ドロドロとした双系の海」に変貌しつつあります。

強固な「有縁(中国の共同体)」を叩き込まれた人々が、日本の「無縁・流動性」に浸されたとき、彼らの精神OSや家族関係はどう変容していくのか。
彼ら移住中国人は日本を再び「強固な防壁(イエ)」に作り変えようとするのか、それとも日本の流動性に心地よく溶けて「去勢」されていくのか。この「構造の衝突と融解」こそが、地べたで起きる最初の化学反応だといえるだろう。
俺にはたまらなく興味がある。
『移民の運命』などにみられる移民に関するエマニュエル・トッドの研究を参照すれば、うまく包摂できたとすれば、三世代くらいで、ほぼその家族システムは、受け入れ側の社会のそれと同化平準化されてしまうという。
しかし、今日の日本と中国の仮想敵国的な関係と、貧すれば頓するといった流れで勃興を続ける日本の排外主義を考えると、なかなかスムーズにはいかないことが予想される。しかし、彼らを包摂する意思がなければ、日本社会の活力とすることはできないはずだ。

2. 「生き延びるためのアノミー」という新・生存戦略

これまでの日本の地べたの社会(低所得層の離婚・異父きょうだい化)では、アノミー化は「福祉の敗北」や「困窮の泥沼」という悲劇的な側面が強く出ていたといえるだろう。
しかし、中国から「潤」してくるエリートや富裕層、あるいはバイタリティのある人々にとって、この日本の無規制で国家の縛りの緩い状態は、「国家の暴走から資産と個人の尊厳を隠すための、最高の隠れ蓑(セーフティネット)」として機能しているんだろう。

これはある意味、網野善彦が描いた、中世の「無縁・公界(国家の権力が及ばない自由空間)」が、21世紀の東京のタワーマンションや地方のコミュニティに、「グローバルなアジールとしての楽園」として再起動しているのではないか、という逆転の視点だ。
しかし、彼らの経済力とエネルギーを単なる『隔離されたアジール』として放置することは、日本社会にとっても、僕ら日本人にとっても損失でしかない。
彼らが日本のインフラを享受し、日本の医療制度を安く使用することをフリーライダーだと批判する声があることは重々承知している。それは、税制の問題だ。資産を多く持っている移住者からは、適切に課税したりする必要があるだろう。しかしながら、これを日本社会に以前から値を貼って、何とかスモールビジネスを展開することで生計を立ててきた人々にまで適応するのは、大きな間違いだ。社会の多様性と寛容さを著しく損ねる結果になるだろう。
大切なのは、日本人だろうが、中国人だろうが、G7諸国の人間だろうが、日本に住み、大きな資産を持っている人間からは、適切に税を取り、再分配することだ。けっして外国人を排斥することではないはずだ。
彼らが持ち込む人間と資金の流動性を、日本の硬直した社会システムにどう接ぎ木し、新たな『新日本人』というOSへアップデートできるか。
もっと言えば、彼らを敵対的な侵略者としてとらえるのではなく、新たな隣人、そう、かねてから俺が提唱している 『21世紀の帰化人・渡来人』として社会に位置付けることができるのか?
そのうえで、彼らをいかに日本の社会に接続し、包摂してゆくことができるのか。
それこそが、おかしな方向に漂流していく偏狭なナショナリズムを俺たち日本人が脱ぎ捨て、次代に繋ぐべき唯一のリアルな生存戦略なんじゃないだろうか。
それが今、俺や君たち一人一人に問われていることなんだ。

明日は、中国と日本の神話時代の話に行くよ!お楽しみに!

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