2012/04/06

Post #498 スークにて

久しぶりに、髪を切ってきた。モジャモジャだったからな。仕事の大変さをアピールするには、もってこいだったんだが、ご飯を食べてると、モジャモジャした髪の毛まで一緒に口に入ってくるのにはいい加減うんざりしていたんだ。
行きつけの美容院、栄美容室(どこの街にもありそうな名前だが・・、これは俺の住む町に実在する。スタッフの皆さんには、いつも歓迎してもらっている。感謝してるぜ。)に行き、髪を切ってきたんだ。相変わらずのくるくるパーマだが、これはくせ毛だから仕方ない。日本を代表するお騒がせ女優沢尻エリカも、天然パーマだそうだ。まぁ、俺にはカンケーないか。
栄美容室さん、いつもありがとう。とはいえ、年に3、4回しか行かないけどね。

それはともあれ、今日は写真だ。昨日水揚げしたばかりのぴちぴちだ。禅の用語を使ってみれば、活潑潑地という奴だ。なんだかよくわからんが、字面だけ見ているだけでも躍動感が伝わってくるというもんだ。
話はそれるが、俺は実は臨済録とか読むのが好きなんだ。岩波文庫の入矢義高センセーの訳注の奴なんだが、この現代語訳がすこぶる痛快なカンジだ。脱線を承知で少し引用してみよう。なに構うもんか、エリートビジネスマンじゃないんだ、好きにやらせてもらうよ。
『(前略)君たちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ。こう見て取ったならば、君たちは祖仏と同じで、朝から晩までとぎれることなく、見るものすべてがピタリと決まる。ただ想念が起こると知慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体が様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまな苦を受けることになる。しかし、わしの見地に立ったなら、〔このままで〕極りなく深遠、どこででもスパリと解脱だ。』(岩波文庫臨済録 示衆 P39より)
どこででもスパリと解脱だってのが、サイコーに格好Eわ。己とは何かちゅうことさえばっちりと押さえとけば、見るものすべてがピタリと決まる。これは写真にも通じるようにも思うが、どーだろうか、諸君?
臨済宗は、一休さんでおなじみの『怎(そもさん)!、説破!』でおなじみで、臨済はその開祖の中国の坊さんだ。理屈を突き抜けて、こまごました理論を蹴散らしといて、それを直感的に止揚するパワーが、読んでて堪らないんだけど、文章だけ読んでると、これは酔っぱらいのオヤジの妄言にしか思えないところがサイコーだ。すぐに、弟子とか自分の師匠を棒でぶん殴ってるしな。
他にも、仏なんてカチカチの糞の棒だ!とか、閻魔に飯代を請求されるぞ!とか、思わず笑い転げるような言い回しがてんこ盛りだ。こんなもんを読んでるから、ロクでもないおっさんになってしまったという訳だ。
あ、そうそう、マラケシュの写真だ。出し惜しみして今日はまず一枚だけだよ。
Marrakech,Morocco
モロッコのあたりの先住民族、ベルベル人の言葉でで神の国に由来するマラケッシュのスークの一角にて。
スークとは、アラブ世界で言うところの市場だ。人びとは、買い物が無くても、暇潰しや、唯座って時を過ごすために、スークに集まってくる。路上の屋台で飯を食い、路上で世間話に花を咲かせ、路上で遊んでいる。人間の生活が路上で繰り広げられている。
路上の暮らしだ。狭い路地に人が、車が、原付が、ロバが、馬車が縦横無尽勝手気儘に入り乱れる。竹で組んだ屋根から、アフリカの強い日差しがスポットライトの様に差し込む。荷車を引く馬が嘶く、人々は押し合うようにして馬車に道を譲る。馬車を操るおっさんは、何だか得意げだ。
どう、カッコいいだろう?俺は自分でこのカッコ良さに我ながらちびったぜ。
藤原新也の言葉(名著、印度放浪だよ!)をひくまでもなく、世界は良かった。
読者諸君、また会おう。

2012/04/05

Post #497 On The Road

本日、久々に寸暇を縫ってプリント25枚。
モロッコのマラケシュの写真だ。ただ今乾燥中なんで、明日以降、順次お見せしよう。
写真を撮っていて面白いのは、路上の暮らしだ。トルコでも、ベトナムでも、香港でも、モロッコでも、人々は路上でいろいろとやっていた。
生活の場が、個々人の暮らす住宅の中から、路上にはみ出している。路上で人々が交わり、生活を営んでいる。子供たちが、路地でよれよれのボールでサッカーをしていたりする。屋台のような店が並び、道に商品を広げただけの店とも呼べないような店もある。値段は決まっていない。客と店主の交渉によって、妥当な値段が決められていく。
日本では、路上は単に人々が行きかい、車が走り抜けるだけのものになってしまっているけれど、本来道とは、こんな雑多なものだったんだなと、楽しくなる。昔の日本もこんなようなものだったに違いないが、今は違う。人びとはただ忙しそうに道を行き交うだけだ。無駄がないと言えばそれまでだが、人生ちゅうのは、一見無駄な行為によって奥行きが出てくるんじゃないのかい。街も同じだろう。道路に、人々のプライベートな空間がはみ出している。どこからプライベートで、どこからがパブリックな空間か、混沌として判然としないわけだ。まるで、街の内臓がむき出しになっているように感じる。
まさに路上生活だ。そういってしまうと、今の日本ではホームレスを連想してしまうが、生活の場が路上にあるといったような意味合いでの路上生活だ。
どこに行っても、ただ街をブラブラ歩き、立ちどまることすらなく写真を撮っていく俺には、こういった路上生活は大のご馳走だ。
HongKong
俺は自分が、人間好き、つまりヒューマン・インタレストだと痛感する。どんなに雄大で美しい景色でも、人間の生活感ちゅうか、人間臭さがしない風景は、ことさら写真に撮りたいとも思わないからな。
路上の暮らしは、まさにそんな俺にうってつけなんだ。
確かに日本はどこに行っても整然としていて、キレーだけれど、路上に生活感があるかと言ったら、むしろないわな。強いて言ったら、ホームレスのおっさんの家とか、屋台とかか。しかし、行政はホームレスを公園から締め出し、街から追い出そうとしている。屋台は縁日なんかの得意な場所に限られているのが実情だ。
路上での暮らしが無くなったことで、俺たち日本人が失ったものは多いんじゃないだろーか。
確かに俺たち日本人は、世界的に見ると最も豊かな民族だ。子供たちは、よれよれのサッカーボールを、暗くなるまで追いかけることもない。塾の合間にPSPで遊んでいることだろう。
道端で、人びとが語り合い、笑いあう姿を見ることもまれだ。何といっても、ココ日本では、道は通行するものだからね。そんなことしてちゃ、すぐに車に轢き潰されちまうさ。道に人々がたむろして、集まれば、すぐにオマワリが飛んでくる。道路は、通行するためのもんだからな、仕方ないか。
けど、そんな暮らしが無くなって、俺たち日本人は、おおらかさまでなくしちゃいないかい?
身のまわりは抗菌素材で、ガードされている。マスクなんて、俺のガキの頃は口裂け女くらいしかしちゃいなかっただろう。けれど、今じゃどうだ、どれも彼も、目に見えないものを気にして、マスクをして足早に歩いている。そして俺たちはいつでも些細なことで、目くじらを立てていさかっている。
そういえば、もう14年もの間、自殺者は年間3万人を越えているそうだ。
まぁ、路上の暮らしの有無とは、何の因果関係も見い出せそうにないけれど、俺はそこに何か風が吹けば桶屋が儲かる式のつながりを感じないではいられないぜ。
読者諸君、失礼する。いつかどこかの街角で、君と遭うことがあったら、ぜひそこらの道端で、長話してみたいもんだ。

2012/04/04

Post #496 春の嵐は、家の中にも吹き荒れる

日本全国を爆弾低気圧による嵐が駆け巡った。俺も午前中から客先に行っていたんだが、不穏な空気を感じて、さっさと家に帰ってきた。今日はうちの連れ合いも有給休暇をもらって家にいるからな。
凄い雨風だ。車の運転をしていても、思わず目を瞠り、危険を感じるほどだと言いたいが、実際の俺は昼にコンビニで買ったチャーシュービーフンが腹の中で膨れ、なおかつ、急激な気圧の低下で眠くて眠くて仕方なかった。まだ完全に俺の体は復調していないんだろう。のんびり運転して帰ってきたんだ。
家に帰ってくると、すりゃスゲー雨だ。ホースで窓ガラスにジャバジャバ水をぶっ掛けているような勢いだ。これは仕事なんてしていないで、家でのんびり楽しむに限るな。大けがをしたり死んだりする人もいるのは承知しているが、俺は、こんな台風や嵐を家の中から楽しむのが好きだ。とはいえ、そのうちに飽きてきて、昼寝していたりするのが通例なんだが。
Bruxelles
で、夕方にはすっかり嵐はどこかに去ってしまったんだが、家庭内の嵐はそのあとで吹き荒れる。
うちの連れ合いは、俺が低気圧と腹の中のビーフンの余韻に浸ってまどろんでいる間、ずっと写真の整理をしていたみたいなんだが、夜になって、出来上がったアルバムに貼るタイトルを、テプラで作ってくれと言ってきた。面倒臭い。自分でやればいいものを・・・。
俺は、こう見えて神経質だから、テプラに文字を入力しながら、文字のサイズや字体を確認し、設定を変更したりしていたんだ。以前のものと整合性がとれていないのは嫌だからな、自分のものじゃなくても。しかし、女ってのは大抵そんなことは気にしない。男と女では気になるポイントが、全く違う。
俺は、年に3回くらいしか使わないテプラの入力に手間取っていた。あれはなんだか使いにくいもんなんだよ。分かって欲しいね。
うちの連れ合いは、そのうちに、遅いとか言って文句をいいだした。小バカにした雰囲気すら漂う。
俺は、かなりイラッときた。そんなことを抜かすんなら、自分でやってみろよと、すべての設定をクリアしてテプラを渡すと、なんでそんなことを自分がやらねばならないのかと、ブー垂れる始末。それでもやらせてみると、10分以上かかっているじゃないか。まぁ、それをストップウォッチで測る俺もかなりねちっこいが。
で、小ばかにしやがって謝れ、なんで自分が謝らなけりゃならないの、それこそ馬鹿じゃない?というまったく以て下らん応酬の末、俺は頭に来てテプラを不燃ゴミのゴミ箱に叩き捨てた。これさえなければ、今後二度と作ってくれと頼まれる事もないし、所詮は貰いもんだ、叩き棄てたところで、惜しくもないわ、内心少し惜しいけど。
で、俺はプリプリしながらも、気持ちを切り替えて仕事の電話をかけはじめたら、うちの連れ合いは、ゴミ箱のテプラを拾って、食器棚の扉に叩き付けている。『何やってんだ!やめろ』俺は怒鳴った。
俺は仕事の電話を切ると、いい加減にしろよ!と声を荒げて詰め寄ったが、当の本人は全く反省する風もなく、『いつもあんたがモノにあたるから、どんな気分がするかわからせようとしてやった』とかビミョウに位相のずれた事を言うばかり。
謝れっていっても、ゴメンとはいうが、何を謝ってるのか自分で分かってるかと聞くと、『あんたがゴメンって言えっていうから言った』と抜けしゃあしゃあと答える始末だ。連れ合いとは、もう18年くらいになるけど、実はこいつはとんでもなく強情だ。いつだってこうだ。挙句の果てに、すぐにもう出ていくとか、別れるとかいうんだぜ。こんなんじゃ、何を言っても仕方ない。疲れるだけだ。
以来、バカらしくって口もきいていない。昔のソヴィエトとアメリカの冷戦状態を思い出したくらいだ。バカバカしいと思っても、若い頃と違って、いろいろと抜き差しならないものもあるしな。若い頃なら、家を飛び出して友人の家に転がり込んだりもしただろうが、さすがに40越えてそんなことをすれば、転がり込まれた方も、大概メーワクきわまるってもんだろう。だから今夜も居間のホットカーペットの上で、毛布一枚で眠るのさ。なに、これも人生さ、ロックンロールさ。それにしても、とんでもない春の嵐だぜ。