2026/06/05

POST#1869 右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の騙し合い

 

台北市内
今朝、仕事から帰ってきてもそもそと食事を貪りながら来たばかりの朝刊を読んでいたら、気になる記事がいくつかあった。あぁ、うちは昔から『試験に出る朝日新聞』だよ(笑)。
株価68,000円越えは、もういい。AI関連のバブルだ。好景気だなんてだれも思ってないから心配するな。
TSMCの城下町、熊本:上 台湾有事の不安、すすむ住宅投資🔗』という記事だ。リンクを貼ってあるから、興味のある向きは、読んでみるといいだろう。
そうだよな。俺も思ってたんだ。声高に言えば中国を刺激するといけないから多分粛々と進めてるんだろうけれど、以前にも書いたような気がするけど、台湾有事が起きた場合、膨大な数の台湾人が難民、一時避難民となって日本に押し寄せるだろう。
その時、TSMCの城下町、熊本ってのは地理的にも台湾に近いし、それを見越してるんだろうなと思っていた。もっとも、政府自体がひそかに台湾人のためのコロニーを作っているわけではなく、TSMCの工場誘致に引きづられるような形で進んでいることなんだろうけれど。
諸君、これが実情だ。
排外主義的な主張を掲げ、難民申請を厳しくしたり、在留登録手数料を値上げしたりしている場合じゃない。台湾有事は存立危機事態だというならば、国家的に制度を整えていかなければならないだろう。日本人はいつも後手後手だ。ほぼ与党独裁というのに、食料品の消費税を下げる議論だけで半年もかかっている。キャッチャーミットにボールが治まってからバットを振ることにならないことを祈るぜ。

さて、閑話休題

うちの息子は、YOUTUBEの広告を忌み嫌っている。

そして俺は、アホ面してぼんやりテレビの広告を見てる息子に、TVばかり見ていると、広告に洗脳されて、不要なものを欲しがるようになるから気をつけろと教えてる。

うちの豚児の「YouTubeの広告を忌み嫌う」という感覚は、資本の論理による脳のハッキングつまり『強制的な欲望の刷り込み』に対する、極めて正常で健全な自己防衛本能(アレルギー反応)だろうな。

そして、俺自身が『テレビを見すぎると洗脳されるぜ』と伝えていることは、まさにメディアが流す『作られた正しさ』や『消費への誘導』を客観的に見抜くための、メディアリテラシー教育ってことだ。戦前の大政翼賛会による「総動員戦争」を完遂するための『皇国』への傾倒も、現代の「消費至上主義」を喧伝する『広告』への傾倒も、大衆を一元的な価値観で支配するシステムという意味では、全く同じ構造だ。このライム、わかってくれるかな(笑)。

この馬鹿なオヤジと阿呆な息子の凸凹コンビの日常的な関わりこそが、まさにいつも話していた『システムへの強力なボイコット』そのものじゃないかな。

右を向いても左を見ても、馬鹿と阿呆の騙し合い。どこに男の意地がある♪

1. 広告を「嫌悪する」という最高の知性

現代の広告は、子供たちの脳の報酬系(ドーパミン)を計算し尽くして作られているのだという。すごい洗脳技術だな。きっと時計仕掛けのオレンジ🔗に出てきたルトヴィコ療法みたいな人間の深層心理を操作する悪魔のような技術の持ち主たちが、グーグルやヤフー、電通や博報堂にいるんだろう。

で、うちの豚児の広告に対する「ウザい」「嫌いだ」と感じる不快感の正体こそは、自分の大切な時間や関心(アテンション)を、土足で奪われることへの正しい拒絶反応ってことだ。

ひょっとすると、うちの豚児(本名は麒麟児だけど、まったく名前負けだ!)の電車のことで煩悩まみれの脳みその中に、広告を無批判に受け入れるのではなく、「これは自分を操ろうとしているノイズだ」と見抜く知性が、すでに育っているという可能性もある。まぁいうなれば「洗脳」の無力化だ。誰だって毎日毎回、リクルートとかアゴタのCMを見せられるのはうんざりだからな。

それって、まさに助長、つまり早く育てようとして植物の芽を引っ張って抜いてしまう頓馬なことになってないか?ほんとに計算づくで作られてるのか怪しくなってきたな。

2. 「広告に洗脳される」という言葉の批評性

俺が使う「広告に洗脳される」というフレーズは、うちのバカ息子にとっても強烈なインパクトを持ってるかもしれないな。それがひいては、テレビやネットの向こう側の世界を、一歩引いて客観的に見る「批評的な目」を養ってくれること願うぜ。

年取ってから生まれた大事な息子だからな、情弱のあまりトクリュウ犯罪に飛びついて、人生を台無しにされたらたまらないぜ。泣くに泣けないってもんだ。

現代の「国家」や「資本」という神話にからめとられないようにしないといけないんだ。

かつて国家のために命を捧げることが正義とされたように、現代は「資本(経済)のために労働機械になること」が正義とされているんだからな。

この形を変えただけの洗脳に気付かせる言葉として、機能してくれるとありがたいぜ。

ついでに言えば、学校や世間が「あれを買え」「こうあれ」と一方向の価値観を押し付けてくる中で、父親が「あれは洗脳だぜ」と笑い飛ばしてくれることは、子供にとって「世間の正しさがすべてではない」という圧倒的な安心感(精神のシェルター)になるだろう。

とはいえ、今日学校で配布されている学習用のクロームブックで桃太郎電鉄🔗をやりすぎて、先生に取り上げられたらしい。阿呆だな、俺の息子。とほほ…

3. 家庭の中に生まれる「オルタナティブ(代替)な空間」

テレビやYouTubeの画面(広告・洗脳)を親子で否定し、クソミソに笑い合える関係がある時点で、俺の家庭はすでに「労働機械の仕込み工場」であることを拒絶しているんだろうな。(笑)

うちの豚児にとって、スマホのアルゴリズムが提示する偽の欲望よりも、「こいつは洗脳だぜ、気をつけな」と本質を教えてくれる俺との生身の会話の方が、はるかに刺激的でリアルなのかもしれないな。実はそこに、カントの言う「目的としての人間」の関わりが成立しているって寸法だ。

画面の向こうのバナナマンより、目の前のインパクトのでかいくそ親父だ。

国や学校のシステムが変わるのを待つまでもなく、俺のHELLホームでは、子どもを「かけがえのない存在」として守るためのボイコットがすでに始まっているんだ。

いや、実は生まれたばかりの頃から、毎晩抱っこしながら耳元で、『学校の先生やその辺のつまらん大人に褒められるようなバカにはなるなよ』とささやき続けてきたんだ。まるでTHE BLUE HEARTS🔗少年の詩🔗の歌詞みたいだ。ロックだぜ、うちは。

けど、カミさんには叱られるから内緒だ。絶対にな。

広告やテレビを冷めた目で見るうちのバカ息子は、将来、システムの部品になることを自ら拒否できる、強靭な尊厳を持った大人へと育っていってくれるとありがたいもんだ。なんせ、TVやネットの言葉を真に受ける頓馬が、我が国には2億人くらいいるんだからな(笑)。

ここで話題の転換点が生じるぞ。覚悟してね。

そもそも、レジリエンスだのダイバーシティだの、コンプライアンスだのハラスメントだの、よく意味の解らんような横文字の言葉が世の中に跋扈するようになってから、どんどん世の中は窮屈になってると俺には感じられる。息ができないほどだ。(俺は最初、レジリエンスはなんか新しいシャンプーで、ダイバーシティはお台場シティかと思ってたぜ。ガハハハッ!)

なぜかって?偽善の臭いがプンプンしてるから、洗濯はさみで鼻をつまんでいるからだ!

これ、ちょっと現代社会の息苦しさの核心だ。

本来は個人を救うため、あるいは社会を豊かにするために登場したはずの「再起力=レジリエンス」や「多様性=ダイバーシティ」という言葉が、今や新自由主義的なシステムにハイジャックされちゃって、人々をさらに監視し、追い詰めるための「新たな凶器」に変質しているからなんだなぁ。羊頭狗肉って感じだぜ。

なぜこれらの美しい言葉が、世の中をますます窮屈にしているのかじゃが、その裏に隠された構造を説明しよう!(オーキド博士風に!)

1. 「レジリエンス」という名の精神的自己責任論

「レジリエンス(精神的復元力・折れない心)」という言葉がこれほど強調されるようになったのは、社会の側が「人間を壊すような過酷な環境」を改善することを放棄したからに他ならないんじゃ。

本来の意味はあれらしい。ほら、困難な状況にあっても、しなやかに立ち直る力だ。若者に必要なのは正しい挫折とそこからの立ち直り、みたいな?

しかし、その少年ジャンプ的なちょっといい話が、大真面目に語られると途端に窮屈な言葉に変貌し、俺たちに牙をむく。

その原因はずばり、現代社会において、この言葉は「どんなに理不尽な環境、つまりいじめ、過剰な競争、ブラックな労働、上がらない給料と上がり続ける物価と税金といった地獄のような環境であっても、何度打ちのめされても、自力で立ち上がって、心身を病まずに耐え抜くのは個人の義務である」という悪魔的な文脈で使われちゃってるからもう大変!

おかげさまでもたらされた弊害は甚大だ!

 心が折れてしまった子どもや大人に対して、「環境が悪い」のではなく「本人のレジリエンスが足りない(自己管理不足だ)」と一刀両断され、あっさり処理されちまうんだ。

ここにはカントの言う人間を金儲けの「手段」として使い続けるために、「壊れないように自分をメンテナンスせよ」と要求し続けることで、それが強迫観念となり、弱音を吐くことをさらに難しくしているんだ。

この不屈の反骨精神が作業服を着て安全靴を履いているような21世紀のエリック・ホッファー🔗といわれる俺でさえ、(勝手に自分で名乗ってるだけなんだけどね(笑))鬱病の薬を手放せないんだぜ!並の神経じゃもつわけないだろ!

2. 「多様性」という名の新たな数値評価と規格化

現在の社会が美しく歌い上げる「多様性」ってのは、実は人間のグラデーションをありのまま認めるものなんかでは、ちっともない。

経済に役立つタイプの多様性だけをラインナップする」という、極めて功利主義的なものになっているんだ。

要は、金を稼げる奴だったら、どんな属性の奴でも集めてこいや!ってことだ。やれやれ、これじゃ大昔のドヤ街🔗と変わらないな(笑)。

もちろん、この本来の意味は、どんな特性や違いを持っていても、排除されずに生きていけることだよ。カントやルソーが聞いても、Das ist gut!とかC'est Bon!とか言いそうな言葉だよ。そんな素敵な言葉なんだけど、だからこそ、そこに偽善が忍び込むのさ。夜陰に乗じるトクリュウ犯罪者のようにね。

現代の多様性という意味合いは、産業界からの強い要請によって「個人のユニークな強み=市場価値」へと変換されちゃったわけだ。

まったくお見事な換骨奪胎というやつだ。

「あなただけの強み(個性)は何ですか?」「それをどう社会(企業)に活かせますか?」という、「一芸を持った優秀な人材」であることを強いる新たなオーディションのようになっているわけだ。吉本興業の新人芸人みたいなもんだ!

おかげさまで、社会はおかしなことになってるんじゃ!

 「ただ特筆すべき個性もなく、普通に生きたい人」や「社会の役に立つアピールが苦手な人」は、多様性の枠からさえも実質的に排除さちゃうわけだ。機動戦士ガンダム🔗でいうところの、量産型のザクかガンダムの量産型のジムに過ぎないんだ。つまらない事務仕事でもやらせておけ!となるわな。

さらに、「他人の多様性を傷つけてはいけない」という過剰な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)のルールだけが肥大化しちまったもんだから、さあ大変!ドジョウが出てきてこんにちわだ。

学校でも職場でも「一言でも間違えれば即座に糾弾される」という、冷徹な相互監視と息苦しさを生み出しているわけだ。あー、まるで中世の魔女狩りみたいな社会だな!自分で書いてて泣けてくるぜ、まったく。

3. 美しい言葉が「盾」になり、本質的な批判を封じ込める

レジリエンスを高めよう」「多様性を認め合おう」というスローガンは、けっこう、けっこう、まことに結構。マジで表向きは100%正しいため、誰も反対できないんだ。

しかし、これが曲者だ。

誰も反論できないってことは、大政翼賛会的に偽善の正しさを追い求めることになるんだ。

そう、この正しさこそが罠になるんだ。

俺のような空気を読めない、本当の意味での多様性とレジリエンスの権化のような大人が「学校の仕組みそのものがおかしい」「経済至上主義を止めろ」と根本的な批判の声を上げようとしても、社会システムは「私たちはレジリエンス教育や多様性の尊重に取り組んでおりますです、はい」というポーズ(免罪符)によって、構造の歪みを隠蔽し、対話を煙に巻いてしまうわけだ。

俺が感じている窮屈さの正体は、「どれだけ社会が優しげな言葉を使おうとも、その根底にある『人間を材料(手段)として評価し、消費する』という本質(新自由主義)が1ミリも変わっていないこと」への違和感だ。

剥き出しじゃないだけ、戦いを挑むことも異を唱えることも野暮に見えちまう。そう、みんなシニカルに眺めて冷笑するだけだ。

Oi!ちょっと待って、これってまるで1984🔗に出てくるニュースピーク🔗そのままじゃないか!

言葉が優しくなった分だけ、その猛悪な牙が見えにくくなり、追い詰められている側は「こんなに配慮された社会で苦しんでいる自分が悪いんだ」と、自分自身を責め、自己幻想を解体し、自らの内面に批判の刃を向けやすくなってしまうんだ。

絶対おかしいだろう!

子どもの自殺が減らないのも、この「優しい顔をした過酷な社会」が、子どもたちの逃げ場を完全に塞いでいるからに他ならないんじゃないのか?え、どうなんだい、社長!

この「言葉の罠」に気づいた俺や君たちは、社会が押し付けるハリボテの言葉を拒絶し、もっと泥臭く、不完全な「生の人間」を取り戻す必要があるんじゃないか?

なんてったって、生の人生は一度しかないんだからな。

2026/06/04

POST#1868 この21世紀じゃ、まともに暮らすだけで静かなテロリストになれるらしいぜ!

Katmandu、Nepal

人々を欠乏状態に置き、TVで、新聞の広告欄で、ネットで、SNSで、24時間365日休みなく資本の論理を広告として集中的に浴びせ、必要のないものを必要だと思わることで、人々の飢餓感、あだ、劣等感と羨望をあおり、人間を支配するシステムが社会を隅々まで覆いつくしていると昨日話をしたね。OK、今日はその続きでいこう。

このシステムは、マーケティングや広告という名の「洗脳」によって、人々の心に意図的に「欠乏感(私はまだ足りない)」「劣等感(あの人に負けている)」「羨望(あんな風になりたい)」を植え付けるんだ。おっかないぜ。

そうして生み出された飢餓感を埋めるために、人々は必要のないものを買い、その代金を支払うために「労働機械」として自らを資本に差し出し続けなければならないという、完璧な永久機関が完成しちまったぜ!ギャハハハハ!(チェンソーマン🔗の主人公のデンジ風にい言ってみよう(笑)。なんせ今日は最終巻24巻の発売日だもん!)

ぶっちゃけ忖度なしに言わせてもらえば、子どもたちが死を選び、大人がスマホに張り付いて窒息しかけているのは、この「欲望と支配のサーキット」に24時間体制で組み込まれているからに他ならないんだ!

この巨大なシステムを内側から解体するための、「具体的なボイコット(抵抗)の戦略」は、以下の3つのレイヤーで展開できるんだぜ。もっとも、そこから逃れる気があればの話だけどな。

1. 「アテンション(注意・関心)」のボイコット

資本の論理が俺や君たちを支配する最大の武器は、スマホやメディアを通じた「広告」と、それを俺や君に最適化して送りつけてくるアルゴリズムなんだ。

気を付けろ、俺たちがスマホを見てるとき、スマホも向こうから俺たちを見てるんだ。これってまるで、ニーチェ🔗善悪の彼岸🔗に出てくるあれみたいだな。ほら『怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。』って奴だ!気が利いてるな!

なにはさておき、俺たちや君たちの集中力と思考力を奪うスマートフォンの通知を切り、いちいち画面を見ないことだ。仕事のメールを見落とすことになりかねんけどな(笑)!

彼らデジタル領主たちにとって、俺たちの「視線」や「時間」は金鉱ともいうべき資源に他ならないんだ。スマホの画面から目を離し、アルゴリズムに自分の脳をハッキングさせないことは、最も手軽で強力なボイコットだぜ。

そして時には意識的に情報の断食、つまりデジタルデトックスをするんだ。

広告が煽る「偽の必要性」を遮断し、心の静寂を取り戻すことで、「自分は今のままで、すでに満たされている」という感覚、つまりは尊厳を回復するんだ。

鳥の声を聴き、流れる雲を見る。

子どもたちの歓声に耳を澄ませ、風に揺らぐ木々を見る。

大きく息を吸い込み、漂う香りを感じるんだ。

自分の五感で、目の前の世界に対峙するんだ。

2. 「消費」のボイコット、つまりは自給とケアの復権

「買わなければ生きていけない」という依存状態こそが、俺や君たちを21世紀の素晴らしき『労働機械』に縛り付けるボール&チェーンなのさ。

お金を介さない価値の交換を思い出すんだ。

昨日話した「面白い老人」の話のように、地域の中で手作りのものを分け合ったり、知恵を教わったり、お互いをケアし合ったりする関係性や空間を作り上げるんだ。

そして「無駄」と「不便」の愛好するんだ。

効率的でスマートで、おかげさまで高価な商品を買うのをやめ、あえて手間暇をかけてみるんだな。資本が提供する「便利さという名の家畜化」から抜け出し、自分の身体性を取り戻すんだ。大げさなことを考えなくたっていい、スーパーで買ってるパセリやシソを家のプランターで作ってみるだけでもいいんだ。そこにはダイレクトな感覚がある。しかも、家で育ったばかりのパセリは、香ばしくておいしいぜ。

ふと、思い出した一説がある。老子🔗の第八十章だ。

小国寡民使有什伯之器而不用、 使民重死而不遠徙、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之、使人復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗。 鄰国相望、鶏犬之声相聞、民至老死不相往来。

こいつは小難しい。ちょいと小川環樹🔗先生の中公文庫版の老子を参考にして超訳してみるわ。

「国は小さく住民は少ないとしようか。軍隊に使う便利な殺戮兵器があっても使わせないようにして、人々には命を大切にさせるとしようぜ。で、(戦争に駆り出されないから難民になったりしなくていいので)遠くに移住する必要をなくせば、舟や車があっても、みんなそれに乗ってどこか行くわけでもない。鎧や武器があったとて、(いかれた全体主義国家みたいに)それを見せびらかすこともない。

もう一度縄を結んで契約の印としたような大昔の世の中のように、なにからなにまで質素倹約、彼らのイマイチな味の飯もうまいと思わせ、粗末な服も快適だと感じさせ、狭いながらも楽しい我が家に落ち着かせて、素朴な習慣を楽しませるんだ。そうすると、隣のイカした国がすぐそばに見えて、鶏や犬の鳴き声が聞こえるほど近くても、人々は老いて死ぬまで他国の人と行き来することもないだろうぜ!』

高校だか中学の漢文でやったような気がするけれど、もうすっかり大昔のことだからな。怪しいもんだけど、漢文は漢字を追っていけばちゃんと意味が分かるからな。俺はだいたい外したことはないから、この訳文、大過ないだろうよ。

つまりだ、便利な機械があってもあえて使わず、自分の作った飯を不味いもう一杯!(笑)と食い、自分の素朴な暮らしを最高だと愛する。2500年前の中国の偏屈なニート哲学者がたどり着いた結論も、現代の俺たちがスマホを放り投げてプランターで育てたパセリを食うのも、本質はまったく同じなんだ。最強の反逆スタイルってのは、いつの時代も変わらねえってことだろうな。

人間の本質が全く変わってないことの証拠だよ。

3. 「評価(格付け)」のボイコット

社会が押し付ける「優秀さ」「勝ち組」「フォロワー数」といった一元的な価値観を、鼻で笑って無視することだな。フランクシナトラフランク・シナトラ🔗の名曲マイウェイを、自分の好きにうたったシド・ヴィシャス🔗みたいにな。蛇足ながらこのマイウェイ🔗みてみ?サイコーにロックだぜ(笑)

そこで出てくるのがまず東大至上主義や内申書の「内なる廃止」だ。

制度が変わるのを待つ必要なんかない。親や大人がまずそんな『共同幻想』を捨て去り、「そんなものは人生に何の関係もない」と開き直るんだ。そして子どもたちに「きみはきみのままで最高だ」と言い続けることだ。揺るぎのない自己肯定感を熟成するんだ。

そして羨望の廃棄だ。

資本が作った虚像でしかない他人のきらびやかな生活を羨むのをやめちまったらいいんだ。宮崎麗華🔗みたいな脱税してとっ捕まるインフルエンサーにあこがれてても仕方ないんだぜ。ばかばかしいったらありゃしない。それは俺や君の人生じゃない。

そして、目の前にある生身の自然や、他者との素朴なつながりに深く満足する「足るを知る」精神こそが、成長至上主義に対する最大の反逆な・な・なんだぜ!

こういうのをサイレント・テロっていうそうだけど、地に足をつけてまっとうに暮らすだけで静かなテロリストになれるなんて、まったくご機嫌な時代になったもんだ。

さらにもう一点付け加えようかな。

俺は君に、IKEAの創業者のイングヴァル・カンプラード🔗の言葉を伝えたい。

彼は自分の息子たちにいつもこう言っていたという。

『本当にお前が欲しいのはこれなのか。本当に欲しいのか、買う価値のあるものなのか、しっかり考えたのか。それを買ったら、手元にお金は残らないぞ』それが彼の口癖でした。(イケアの挑戦:創業者は語る🔗313頁より)

俺は自分の息子にもいつもそういっている。けど、なかなか奴はその衝動を抑えてくれないけどな。そんなにうまく考えてくれるんだったら、俺の小遣いももっと潤沢になるだろうさ。

このボイコットは、デモ行進のような大層な運動である必要はまったくないんだ。

「スマホを置いて、子どもと一緒にただぶらぶら散歩する」

「役に立たない面白い老人の長話に、あえて付き合う」

「広告に踊らされず、今あるものを大切に使う」

そんな他愛もない簡単なことばかりだ。

し・か・し、こうした、資本の論理から見れば「1円の利益も生まない、全く生産性のない時間」を俺たちが日常の中に奪い返していくこと自体が、俺たちや君たちを『消費者』から『市民』へと引き戻し、現代の超高度なデジタル資本主義システムに、致命的な打撃を与えるボイコットになるんだぜ。

人間を『機械』から『人材』というマテリアルから、生身の『人間』へと奪還する戦いは、俺たちや君たちの足元から、JUST NOW今すぐ始められるんだYO!

2026/06/03

POST#1867 金がない奴ぁ、俺んとここい、国家は信用創造でいくらでも作れるのさ

石垣島

国家の財源なんて、信用創造でいくらでも作れる。

金のない奴ぁ、俺んとここい!といってほしいもんだぜ。

もし植木等🔗演じる『無責任男』が総理大臣だったなら、そうやって大言壮語するだろうな。

これこそ金融システムの本質を突いた、極めて本質的事実だ。

みんななんとなく、自分の家の家計を考えて騙されちゃいけない。

政府の言うバランスシートとか、財政健全化っていうのを鵜呑みにしちゃいけない。将来世代にツケを払わせることになる惧れがあるからと、将来世代のために国費を投入して、より良い教育、つまり社会の歯車の鋳型にはめるようなものではなく、人間の可能性を引き出すような教育を施すことを惜しむのは、亡国の愚行だといって過言ではないだろう。

国債を発行して予算を作ることは、次世代への借金のツケ回しではなく、単なる政府による信用創造(通貨発行)である」という事実は、現代の経済学(MMT現代貨幣理論🔗など)でも明確に説明されている通りだ。もっとさかのぼったら、100年ほど前のドイツの経済学者クナップ🔗が『貨幣国定学説』で展開した表券主義🔗までさかのぼるだろう。

これは嘘でも何でもない。

金がない、財政難だといいながら、政府は国債の発行をやめる気配もない。なぜなら、それは自己増殖する貨幣そのものだからだ。年に数パーセント価値が下落していく円の価値を金利で補うもう一つの貨幣だからだ。現代の貨幣は、金本位制じゃないから、国家の信用だけでその価値と流動性を担保しているんだ。

お金はどこかから「集めてくるもの(財源論の罠)」ではなく、政府が決断すればその瞬間にキーボードの入力一つで作り出せるものものなんだ。その証拠に、アメリカからこんなだけ金出せと言われると、どこからともなく金がひねり出されてくるだろう?

「財源がない」という言葉は、子供たちを労働機械として使い潰すシステムを維持するための、単なる政治的・思想的な言い訳(プロパガンダ)に過ぎないんだぜ。

この信用創造の視点から、私たちが求める社会(子供を歓迎する社会)へシフトするための論点は以下の通りであろう。

1. 財源の壁は「嘘」である。

銀行が融資を行う際に預金を原資とせず、万年筆で通帳に数字を書き込むだけでお金を作り出す(万年筆マネー)のと同様に、政府が国債を発行して日銀がそれを受け入れるプロセスも、無から通貨を生み出す「信用創造」だ。みんな間違えちゃいけない。銀行はみんなが預金したお金を貸してるわけじゃないんだ。

真の制約は「お金」ではなく「供給能力」そのものだ。

お金をいくら刷っても、それを形にする「人間の労働」「資源」がなければインフレになりる。昨今のコストプッシュ型のインフレも、労働人口の縮小や、資源の高騰(とりわけアメリカ大統領ドナルド・トランプ氏の功績は絶大だ)によるものだといっていいだろう。

しかし今、この一連の構想で、俺たちが求めているのは「余っているリタイア世代(面白い老人)」の知恵の活用や、求職中の人たちを「事務職員」として雇ったり、「カウンセラー」として養成して、日本全国の学校に配置することでなわけだ。

社会に眠っている「人間という生身の資源」(こんな言い回しを俺が使うのも矛盾してるのは十分承知しているけれどね)は十分に余っているため、信用創造で予算を作ってもハイパーインフレなどを引き起こすことはないだろう。ナフサやコメのように目詰まりすることもないさ。

2. 「何を信用創造(創出)するか」という価値観の戦い

政府はこれまでも、必要とあらば事実上の信用創造で巨額の予算を一瞬で作ってきた。嘘だと思うかい?例えば、コロナ禍の持続化給付金や、銀行の救済、防衛費の増額など、実例は枚挙にいとまがないぜ。

問題は「お金を作れるか」ではなく、「作ったお金をミサイル(破壊の道具)に換えるのか、それとも子供たちの笑顔(生の余白)に換えるのか」という、国家の倫理観の選択にあるんだよ。子供たちを「かけがえのない存在」として歓迎するための信用創造こそ、最も正当な通貨の発行理由じゃないか。人々に死をもたらす道具か、人間の生を豊かにする余白か。君はどっちがいい?

さて、こういう話をすると、必ずや防衛費をケチって、中国に侵略されたらどうするんだ!と懸念を表明なさる方がいる。そんなお怒りの貴兄に一言申し上げさせて頂くとするならば、わが国の空気のように社会を覆う同調主義的な全体主義と、習近平の号令一下で社会の方向が決まるあからさまな全体主義と、どう違うというのかな?

そもそも中国でも日本でも、金のあるやつは政治に首を突っ込まない限り好きにやってるんだ。庶民はより良い社会の歯車を目指して精進し、搾取されるだけなのも変わりない。

政治や社会に異を唱えたときには、中国では劉暁波🔗やジミー・ライこと黎智英🔗のようにお上に拘束される。日本では、社会からバッシングされたり黙殺されるかの違いだけだ。

今のままじゃ、風呂の温度が熱いか温いかだけの違いの専制状態に変わりはないだろ。

こんな柔らかな専制政治のような社会の状況に対して、決定的な変化を生み出すためにも、これは必要なんだ。

3. 「貨幣の奴隷」から「貨幣の主人」への転換

「お金が足りないから、子供への投資を削り、労働機械を増やす」という発想は、人間がお金(システム)の奴隷になっている状態以外の何物でもない。

お金は人間が生きるための「道具」に過ぎないんだ。

「ようこそ地球へ!」という社会基盤を作るために、政府の信用創造という特権を発動させることが求められているんだ。生きた金を使うってことだ。これこそが、新自由主義的資本主義の呪縛を解き、人間の尊厳を経済の最上位に据え置くための具体的な実践とり得るだろう。人間の尊厳のための通貨発行だ。

「お金は作れる」という前提に立ったとき、俺や君たちは「財源の言い訳」に騙されることなく、堂々と「子供たちの命を救うための予算」を国に要求することになるだろう。

要は、日本政府に金はないというのは『共同幻想』なんだ。いつもずいぶん大昔に久米宏🔗がニュースステーションの中で、刻一刻と動き続けるデジタル表示、それは一瞬の休みもなく利子によって増大してゆく国債残高を示していたんだが、その前で持ち前の深刻ぶった表情を作って見せ、日本社会の行く末を案じて見せた姿を思い出す。

それからもう、二十年くらいは経ってるはずだけれど、俺たちは相変わらずだ。もちろん、国債残高が減ったわけでもない。

政府にこの「人間の尊厳のための信用創造」を決断させるために、俺や君たちたち『市民』(「消費者」じゃないぜ)はどのような世論のうねりを、あるいは政治へのアプローチを作っていくべきだろうか?

しかし、実際に行われていることは、本来の政治の役割そのものであるべき富の再分配が、富の収奪に堕してしまったことで、大多数の人間は心理的にも物理的にも欠乏状態に置かれている。

人々を欠乏状態に置くのは、権力を持ってるやつらの得意技だ。

人々を欠乏状態に置き、TVで、新聞の広告欄で、ネットで、SNSで、24時間365日休みなく資本の論理を広告として集中的に浴びせ、必要のないものを必要だと思わることで、人々の飢餓感、欠乏感、劣等感と羨望をあおり、人間を支配するシステムが社会を隅々まで覆いつくしている。まるでデジタルを使った農奴制だ。いやすでにヤニス・バルファキス🔗などの経済学者はその構造をその著書、『テクノ封建制🔗』などで解き明かしている。

これが、『市民』を『消費者』に変え、『主権者』を単なる『社会の歯車』に変えてしまうんだ。これがカール・ポランニー🔗が『悪魔の碾き臼』にたとえた近代資本主義のヴァージョンアップ版だ。

俺たちはそんなくそみたいな経済を、嘘くさい社会を静かにボイコットしないといけない。

ちなみに、バンクシー🔗はずっとそういうことを主張してきたアーティストだ。決して資本主義のアイコンとして消費していいような存在じゃないんだ。ロックだな。痺れるぜ。