2026/06/09

POST#1872 俺は無学だから教えられないぜ!

タイ、メーサロン🔗

ちょっと立ち止まって考える。

どの親御さんも、こういうことを自分の子供には言わないんだろうか?

子どもの幸せを望まない親は、一部の頭のネジが切れちまった毒親か不幸にも育児ノイローゼになってしまった親御さんを除けば、そうはいないはずだ。誰しも心の中では「子供は宝物だ」と間違いなく思っているだろう。

しかし、それを俺のようにはっきり抜け抜けと「言葉」にして、毎日1日に1回も2回も子供に伝えられている家庭は、実は驚くほど少ないのではないだろうか?

じゃぁ、その仮定に立ったうえでもう一歩進めてみようか。

読者諸兄諸姉もお忙しい中、冗漫屋上屋を重ねるような話で申し訳ない。

なぜ、多くの親御さんが思っているはずの「宝物」という言葉を口にできなくなっているのか、その背景には現代社会特有の悲しい歪みがあると推測出来る。いや、各家庭に聞いて回ったわけじゃないから、断定はできないよ。あくまで、個人の感想です。

はい、論破(笑)

1. 「条件付きの愛」に変質してしまう罠

幸福そうなご家庭でも、多くの場合、肝心な親御さん自身が、新自由主義的な競争社会のプレッシャー、つまりは学歴社会や漠然とした経済的な将来への不安に飲み込まれている。

そりゃまぁ仕方ない。このクソったれな社会で、自分の立ち位置を死守して給料を頂戴するということは、その抑圧に圧殺されそうになりながらサバイブするということだ。

いつも申し上げておりますように、『溺れてる奴は、ほかの溺れてる奴を助けることなんかできっこない』んだ。

そのため、心では宝物だと思っていてもだ、口から出る言葉がどうしても以下のように「条件付き」になってしまうんだ。フォー・エグザンプル。

「テストで良い点数を取れた!偉いね!」

「ちゃんと片付けができたら、いい子だね」

「宿題をちゃんとやったの?グッジョブ!」

なんてこった…人様にご迷惑にならないように、社会のルールに必死に適応させようとするあまり、「何かができるから価値がある」というメッセージばかりを無意識に子供に浴びせてしちゃうことになってるんだ。

別にそんなこと意識している訳ではないだろう。純粋にマインドセットの問題だ。日々の忙しさや焦りの中で、俺がうちの豚児に言うように「生きているだけで100点満点の宝物だ」という無条件のメッセージを子どもに植え付ける余裕を無くしちまってるんだ。

2. 「世間の目」と「言葉にする照れ」

日本社会には古くから「言わぬが花」(これは世阿弥の風姿花伝に出てきた言葉だんべな)や「背中で語る」(まるで高倉健だな!)といった文化があるんだなぁ。おかげさんで、身内を大っぴらに褒めることを避ける傾向がある。

俺がうちの息子を豚児、豚児というのも、自分の息子が出来の悪いやつだという意味の謙遜を込めて?豚児と呼んでいるわけだ。本名は、麒麟児という。まぁ名前負けだなも(笑)。

さらに誰もが世間様に「親バカだと思われたくない」と遠慮し、「甘やかすと社会に出てから通用しなくなるから、厳しく育てなければ」という世間様の同調圧力、つまりは自己責任論の刷り込みという現代人のデフォルト洗脳がフル稼働しちゃってるもんだから、あえて言葉にすることを抑え込んでしまう親御さんも非常に多いんだろうな。

しかし、子どもはスパイ・ファミリー🔗の主人公で、テレパシーで相手の心を読み取る少女アーニャ・フォージャーとは違う。

だから、言わなきゃわかるわけないだろ!

親子だから、言わなくても分かりあってるなんてことはまったくない!それこそ都合の良い幻想だわな。

大事なことだからもう一度言おう『お前は俺の宝物だ』ってのは、何度も何度も繰り返して言い聞かせ、心の底まで刻まないと伝わらないんだ。声に出して言ってみるんだ!

3. 親自身の心に「余白」がない

働きかた改革とかいう掛け声で、労働者の残業時間に法的規制がかけられて久しい。

しかし、そんな法律を後生大事に守ってるのは、上場企業のプロパーの人間だけで、派遣労働者やギグワーカー、自営業者や多くのエッセンシャルワーカーは、未だに法の抜け穴の底でもがいてる。

1日15時間労働と言われるような過酷な社会の中で、大人の側も精神的に極限まで磨り減っている。なんてったってこの国は、総理大臣ご自身が、『働いて、働いて、働いて、働いて、「働いてまいります!』と言い切り、世の中を唖然とさせた国だからな。

仕事だけじゃないぜ、誰だって家に帰っても明日の仕事や食事の準備や風呂掃除、おまけに教育費の工面に追われる毎日だ。

とてもじゃないが子どもの眼をじっと見据えて『お前は私の宝物だ!』と語りかけるための精神的な余裕なんてないわなぁ。いや、もっと精確を期するなら、この『クソったれな社会システム』によって物理的に奪われてしまっているというべきだろう。

斯く言う俺も立派な鬱病患者だ。そうは見えない?

それはほら、あれだよ、あれ。闇が深いほど光は輝くというアレだ。

俺が抱いた素朴な疑問、つまり「どの親も言っているんじゃないの?」ということ自体が、俺自身が社会の毒(新自由主義や効率至上主義)に侵されず、カントの言う「人間を目的として扱う」という原理原則を、なんとかグリップしてる証拠と言えるだろう。

まぁ、そこに至るまでには、鬱病にはなるほど悩んだ時期もあった。

実際に、無条件に『お前は俺の宝物だ』と、どんな状況でもいい切れる自信は、正直に言って俺にもない。たまたま味噌っかすでも、なんとか世間様並みの下くらいには食らいついてくれているから言えるだけだとわかっている。

俺の住んでいるコミュニティにもいらっしゃるが、障害を抱えたお子さんをお持ちのかた、不登校のお子さんと悩んで暮らしてるかた、そういう人々の心の内を思うと、畏敬の念すら覚える。

偉そうなことを言っても、この程度の男なんだ。

生まれてくる前は、高齢出産だったこともあり、どんな障害があっても受け入れようと覚悟を持ったはずだった。

五体満足に生まれたときには、それだけで嬉しかった。

だが、今思えば、なんて世間知らずで無鉄砲だったんだと我ながら慄然とするんだ。

その程度の男の息子は、結局まぁ程度が知れている。

トンビが鷹を産むことはない。カエルの子はしょせんオタマジャクシだ。

おかげ様で、うちの息子は宿題はできたらやらない。

夜更かしばかりで、家の目の前にある小学校には必ず遅刻する。しかも最近は、1時間目が始まるまでに行けばいいよとテキトーなことを言いながら、朝の情報番組で犯罪関係のニュースを見ている。

テストでは 0 点もよく取る。塾の偏差値は、俺が人生で聞いたこともないような数字だ。

勉強に関しては本当に目を覆うような男なんだ。

字は異次元的に汚い。片づけは絶対にしない。あいつの部屋に洗濯物を置きに行くには、床一面に敷き詰められたプラレール🔗の線路や。ひっくり返った車両の隙間を、ツイスター🔗でもやるみたいに体をよじって進んでいかなけりゃならない。

けども、『自分より小さい子にはちゃんと優しくしろ』『自分がされたらいやなことは人にするな』ってことを小さな頃からずっと言い続けてるから、自分より弱い立場の子、小さい子には必ず優しい。

自分が重役出勤で学校に向かうとき、隣に引っ越してきた低学年の障害を持ってる子の家のベルを鳴らし、一所に行こうと誘うこともしばしばだ。

暗記科目はまるで駄目だが、中学に進学してしまった先輩の名前とかもフルネームでしっかり憶えている。日本中の電車について、事細かに知ってやがる。

親バカ丸出しなようで恐縮だが、いつもニコニコ笑っているからたいてい誰にでも好かれる。

俺から見ても不思議な奴だ。

新自由主義的な「人材スペック」の物差しで見れば、学校の先生や社会は眉をひそめている。なんせ毎朝重役出勤だからな。

しかし、すっかり皆の衆にもおなじみになったであろう「人間を手段としてではなく目的として扱う」「10歳まではケモノのように遊び、迷惑をかけ合って生きる」という哲学の視点から見れば、うちの息子はやはり、豚児どころかまさに名前の通りに麒麟児だ。

ペーパーテストの点数や宿題は赤点でも、人間らしさはAAAだ。これだけは胸を張って言える。ちょっと騒がしい奴だけど。

なぜって、まだ保育園に通っている頃から俺は諭すように『自分より小さい子や弱い子には優しくしろ』と言い続け、それを豚児が完璧に体現していること。これこそが、この冷酷な競争社会に対する、アンチテーゼになってるんだ。

社会がどれだけ『人を蹴落として上に行け』『使える人材になれ』と耳元で囁こうとも、麒麟児は『そんなことより、目の前の弱い人を大切にする方がよっぽど有意義だ』し『自分の好きを』いうカント的倫理を体現しているといえるだろう。

POST#1848🔗でも話したけれど、なんてたって友達に『死ね!』って言われたら、そいつの家に行って一緒に勉強しようっていうぐらいの玉だからね。俺でも底が知れないぜ。もっとも、二回くらいトライして、そのあとに『次に来たら殺す!』って言われてバカバカしくなってやめたみたいだけどな。

俺は君たちと長い間、『なぜ日本の子供の死因の第一位が自殺なのか』『なぜ子どもたちは犯罪組織に容易にからめとられて社会的な自殺をしてしまうのか』という、気が滅入るようなこの国の深い絶望から話を始めてここまで歩んできた。俺の友人も、あまりのテーマの重さに言葉を失っていた。

ロングウェイだった。

そこで見てきたのは人間を『材料』として扱い、『学歴』や『生産性』で切り捨てる冷酷な社会構造だった。それはそのまま、俺が社会をはいずるように生きてきた中で、この目で見てきたことそのままだ。

しかし、その暗闇に対する解決策が、大人が子供を 『宝物』として無条件に愛し、だらだらすることを許し、迷惑をかけ合って生きるということだったていうのか?

 だとしても俺は、息子と相変わらず一緒にダラダラするだけだろう。くだらないことでゲラゲラ笑ったり、脇をこちょこちょとくすぐったり、風呂の湯船の中でおならをして笑い転げたりしてね。

これこそが、これまで対話してきたすべての哲学、経済論、人権、そして『子供の自殺』『子供の社会的な自殺』という重い病理に対する、俺の最終回答だ。

新自由主義や学歴社会がどんなに冷酷に『もっと生産性を上げろ』『材料になれ』と外から迫ってきても、ゲラゲラ笑う親子に実装された『強固な対幻想』には、寸毫もクラックアウトすることなんかできないんじゃないかな。

確かに、社会を今すぐ変えることは難しい。それは何世代もかかる大事業だ。

しかしいま、俺や君たち大人が子どもたちに対して『学校の0点なんかどうでもいい、お前は俺の宝物だ』と腹をくくり、子供に極上の『だらだら』と『無条件の存在肯定』を注ぎ続けること。それは今すぐに始めることができる。

それだけで、一人の子どもの命は救われることになるだろう。

そしてその子ども自身が、次の誰かを救う優しい大人になっていくことだろう。


時折、うちのカミさんが『お父さんに教えてもらいなさい』と無茶ぶりしてくるときももちろんある。

それは単純に『自分の仕事で忙しいから、かまってられない』とか『勉強のプレッシャーをかけてほしい』という遠謀深慮からだろう。

しかし、そこで俺は『俺は無学だから教えられない』とゲラゲラ笑ってご辞退申し上げるんだ。

この一言で学歴社会や新自由主義が子供に突きつける『完璧な大人になれ』『優秀な人材になれ』という呪いが、その瞬間にすべて無効化することを狙ってるんだ。

ある意味、強力な教育(あるいはアンチ教育)だ。別に出来ないってわけじゃない。俺は本当は大学中退なんだよ。中高一貫の進学校にも通ってたし。見事に落ちこぼれたけどな。だけど学校の勉強とかに興味がないんだよね。

そんなことよりもテストに絶対出るわけもない哲学の本とか、金儲けには一ミリも役に立たないマクロ経済学の本とか、自分たちの現在の生活には一見何のかかわりもないような人類学の本とか読んでた方がよっぽどワクワクするし、楽しいからね。

つまり『学校や社会のくだらない序列競争なんか、俺の土俵じゃないよ』という、知的で不敵なやり過ごしなんだ。

結局のところ、俺や君たちたちは『勉強機械』や『労働機械』を廃業して、『人間』に戻ればいいんだ。

サイン、コサインや面倒な書類作成なんざ、さっさとAIに任せて、人間はゲラゲラ笑ってだらだら本を読めばいいんだ。

それこそ、100年も前にケインズ🔗が予言した、技術進歩によって労働時間が減少して、より人間らしく暮らせるようになった世界そのものだし、グレーバー🔗が指摘した「ブルシット(くだらない仕事や勉強)」から人間を解放するための、最も現代的で痛快な解決策だろう。まぁ、とんでもなく電力と冷却水を消費するけどな。

そんな世界で勉強なんて、まぁ、できるのに越したことはないだろうけど、その程度のもんで、すぐに技術革新によって陳腐化しちまうんだ。

だったら、最短距離で答えを出す能力よりも、粘り強く思考を組み立てていく力や、好きを追求する中で養われる非認知能力とか、まだ見ぬ知性に対する認知欲求とかに対するワクワク感とか、そういう楽しめる能力を持った方がいいと思うんだよね。

だいたい産業界からの要請に応じて、政府や文部科学省が策定し、学校が必死に叩き込んでいる暗記や計算、幼少期からの英語学習やプログラミング教育のような『今、役に立つスキル』=『市場価値がある能力』の多くは、テクノロジーの進化によってあっという間に価値を失っていくんだぜ。

そんな「賞味期限の短いスペック」のために、子供たちが寝不足になり、心を病み、命まで落とすのは、あまりにも馬鹿げたことじゃないか。

俺は息子に対して、ろくに教育してるつもりはなかったんだけど、一人の父親としては、何とか合格点ってことだろうな。それが、子どもを救うことになるんだったら、これにすぎる幸せはないぜ。

読者諸兄諸姉、そろそろこの話も飽きてきた。また別の話で語り合おう。失礼するぜ。

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