2026/10/04

POST#1974 自転車、そして肉眼レフ

 

ベトナム阮朝の旧都フエ 街角の自転車

日曜日。カミさんは学生時代の友人と食事に出かけてしまった。息子は俺が眠っている間に、一人でバスと電車に乗って名古屋に出かけ、母親と合流して遊んでいるようだ。

夕刻、ベッドの上でまどろんでいると、窓の外からガシャンという音が聞こえた。

驚いてベランダから外を見てみると、中学生くらいの少年少女が7,8人自転車に乗っていて、そのうちの一人が、うちの前で盛大に転んだらしい。

『大丈夫か!』俺は声をかける。

ヘルメットをかぶった眼鏡の少年が、ひっくり返った自転車と格闘している。

俺が声をかけたのが、自分のうちの車に傷がついてないかを心配したと深読みした女の子が、「大丈夫です、車には当たってません!」とちょっと焦った声でいう。

『いやいや車なんかよりも怪我はないか?救急車呼ばなくていいか?まぁ、呼ばなくてもすぐそばに市民病院があるけど』と俺は言う。実際、市民病院までは300メートルほどだ。医療ミスが多いことで評判の病院だ。先日も骨折したお婆さんの骨折してない方の足を手術したという素晴らしい実績を誇る病院だ。笑いが止まらないぜ。

すぐさま男の子が、『ヘルメットかぶってるけど、頭打ったかもしれないぞ?』ってまぜっかえす。自転車を立て直して走り出した本人を見ると、確かにふらふらしてんな『そいつは大変だ!頭が悪くなったらいけないぞ!』と俺は叫ぶ。

子どもたちは皆大笑いしながら、『もう悪いから大丈夫でーす』だとさ!

子どもたちのユーモアには疲れも吹き飛ぶぜ。『車に気をつけていくんだぜ!』俺は少年少女に別れを告げた。悪くない夕暮れ時だ。


目ざとい読者諸兄なら、ここんところの投稿の写真が、ベトナムの古都、フエの庶民街でのスナップが続いていることに気が付くだろう。

え、気づいてなかった?まいったなぁ。まぁ、いいや。こいつらを一気通貫してみることで、読者諸兄はあの日朝、俺が歩いた道のりを追体験することができるかもしれない。

出来ないかもしれない。それは読者諸兄のイマジネーションの問題で、俺の存知する処ではないな。悪いけど(笑)。


さて、スマートフォンが普及してから、人はいつでもどこでも写真を撮る。

ご飯を食べに行っては写真を撮り、カラオケに行っては写真を撮り、友達と会えば写真を撮り、素敵な景色に行き会うと写真を撮る。

けっこうなことだ。

しかし、俺はそこに大きな逆説を読み取る。

人は自分で見ないために、スマートフォンで、デジカメで写真を撮る。

素晴らしい夕景や星空をしみじみと見つめ、自らの感覚を世界に没入させて世界との一体感を感じることを、デジタル機器にアウトソーシングするんだ。

どこかに行った、何かを食べた、誰かと一緒にいたという記号を残すために写真を撮る。

しかし、肝心の実体験はどこか空疎なものになっていないか。

一瞬立ち止まり、スマートフォンで写真を撮り、タッチ&アウェイで歩き去ってしまう人をしばしば目にする。

違うんだ。

写真を撮るときも、そこに指す光、構図、空気感、絞り値、露出それらをすべて機械に任せることなく、肉体で感知して瞬時に計算するべきなんだ。

そして、静かにシャッターを切る。

そのあと、しげしげと自分の肉眼レフという二つの目玉の奥の網膜に、その景色を焼き付ける。

自分の内面まで、機械に譲り渡してはいけない。一瞬で写真を撮っても、デジタルな記録には残っても、記憶には残らない。

自分の内面まで、デジタルに、機械に譲り渡してはいけない。生きるとは、主体的な営みだ。

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