2011/08/28

Post #288 光と影の魔術師

今日は、名古屋市美術館に行って、レンブラントをしこたま見てきた。凄い人気らしく、おばはんやおっさんが犇めいていた。給料日のATMに並ぶようにして、絵や版画を見なけりゃならなかったぜ。
レンブラントは、光と影の画家、時にはその超絶技巧により光と影の魔術師とも呼ばれる。
多くの作品が、暗い闇の中に、かすかな光で人物や主題がドラマチックに浮かび上がっているというものだ。
多くの版画は、実にアンダーで、つまり真っ黒で、照明も作品を傷めないように暗めになっているから、老眼プラス1の俺も、立ち止まり、目を凝らさないと、なにがなんだかよくわからない。それが、さっきも言った大渋滞の原因となっていることは間違いないだろう。
世の中の美術愛好家がどんな感想を持っていたか知らないけれど、もし、レンブラントの時代にカメラがあったなら、俺が思うには、彼は間違いなく写真もやっていただろう。
写真、とりわけモノクロ写真も、光と影によって生み出されるという点においては、レンブラントの作品とまったく同じベクトルを持っていると感じるからだ。
Amsterdam/レンブラント公園に佇むレンブラントの銅像
今回間近に接したレンブラントの数々の作品を見ていて、俺は思ったぜ。
『俺の写真ももっとアンダーでも、つまり黒がつぶれるくらいに焼きこんでも、ええんでないの?』ってね。
最近、ネガが真っ白、つまり非常に暗い部分をプリントするときにですねぇ、露光時間をグッと短くして、夜景でも影の中でも、極力被写体が黒くつぶれないように気を使っている訳なんですが、もっと昔自分が焼いていたプリントのように、黒くつぶれてしまう寸前までしっかり焼きこんで見るのも、イイんじゃないかなぁということですわ。
いや、うまい下手ってことで言えば、今のほうが旨いわけなんですが、所詮道楽、巧けりゃいいってもんじゃないだろう。俺は好きでやってるんであって、アサヒカメラの月例コンテストに投稿して、モノクロの部上位入賞したいわけではないんだから、イイじゃねぇかよ。
そもそも、写真にキマリなんかないんだろう。そんな堅苦しいもんじゃないはずだ。自分以外の誰かが決めた尺度で、俺が好きで焼いた写真を評価されても、こちとら、さしてうれしくもないさね。小手先の猪口才な巧さよりも、ドラマチックで、見る人に対してエモーショナルな刺激を与えるような写真のほうが、お好きな口なんでね。
Amsterdam
憶えておくがいいさ。闇が深いほどに、星は輝くのさ。
それは写真も同じだろう。黒が深いほどに、光が引き立つんではないのかい。どうだい、全面明るい写真なんて、健康的でわかりやすいけれど、エロスが感じられないんじゃないのかい。いや、エロスっても、いわゆるエロじゃないぜ。隠されたものを追い求めるという、ギリシャ語本来の意味合いでのエロスだよ。ココからまぁ、彼女のパンツの中に隠されたあれを追い求めるというエロスが、生じているのは間違いないけれどな、イッヒッヒッ・・・。まぁ、そういう写真もたまには撮りますけど、なんか喰い足らない、物足らないカンジがしてねぇ・・・、自分ではあまり好きではないんですよ。そして、綺麗に階調が出過ぎちゃったりするのも、なんだか物足らないなぁ、喰い足らないなぁと思っていた矢先でございますからね、ここらでいっちょう、黒くかましてみますかね。ストーンズのPaint It Blackなんか口ずさみながらね。
よし、9月になったら初心に戻って、もっと黒々焼き込んでいくとするかな。もちろん写真の内容次第だけれどね。
なぁに、上手い下手など関係ないさ、自分が良ければ、それでいいのさ。どうせ、対してみてくれている人も多いわけじゃないんだ。遠慮は無用だぜ。読者諸君、見ていておくれ、俺はきっとますます下手になっていくだろう。ではまた。明日も朝早くから、深夜までダブルヘッダーでお仕事なんだよ。
頑張れ俺!

2011/08/27

Post #287 Buterfly

Sometime, Somewhere
蝶が飛んでいるのを見ると、不思議な感覚にしばしば襲われる。
何やらこの世のものではないような気すらする。
蛾はもっとリアルでそんなカンジはしないんだけれど。見かけると、カメラを持ってファインダー越しにその姿を追ってはみるのだが、なかなかうまくは撮れないんだ。変なところにピントが合ってしまったりしてね。何といっても、ひらひらと舞っては、ひとところに留まってはくれない。それが蝶というものだろう。
蝶や鳥など、空を飛ぶモノたちを見ていると、いつもそれが、死んでしまった誰かの魂のような気がしてくる。それが誰だか、心当たりが多すぎて、誰とは言えないけれどね。そう、この年にもなれば、周囲の人が死んでしまったことなんて、いちいち数えきれないくらいだ。
そんな不思議な感覚にトリップしてしまうのは、俺だけかと思うかもしれないけれど、アルカイックな世界観では、鳥や蝶はやはり死者の魂を象徴するものと考えられていたようだ。
反対に、多くの卵を産む魚は、生の象徴だとされていたようだ。生命が海からやってきたことを、記憶以前の本能的な記憶として感じているのかも知れない。そういえば、お寺なんかに魚の姿を象ったレリーフを見ることもあった。何だかんだとこじつけたような教理があるんだろうが、きっとその奥底には、作物の豊かならんことと、命の永からんことへの祈りがあるんだろう。

蝶を見ていると、不思議な感覚に陥るんだ。
まるでこの世のものではない世界から来たもののように、感じるのさ。
俺もずいぶん生きた。生き過ぎたりや42歳だ。きっとそう遠くないいつか、この世界からいなくなるに違いない。それが、明日かもしれないし、30年後かもしれないが、必ずやこの世界からいなくなる時が来るだろう。
そうしたら、蝶に姿を変えて、縁ある人の様子でも見に来るかな。
Sometime,Somewhere
夏の激しい日差しの季節もじきに終わる。日が沈めば、秋の虫たちの鳴き交わす音すら聞こえる。
夏の日差しは、俺たちの生きるこの世界をくっきりと照らし出す。しかし、光が強ければ、影もまた深い淵のように黒々としていることだろう。
写真は、目に見えるモノしか映らない。当然のことだ。けれども、自らの中に世界を読み解く感受性があれば、何気ない風景は異界への扉となり、花に戯れる蝶は、もう二度とまみえることのかなわない人の面影を宿す。
時には、そんな写真を撮りたいもんだね。ただ生きるために、生き抜くために、仕事ばかりしていると、そんな感性は萎えてしまう。忙しいってのも、ほどほどにしないといけないな。

2011/08/26

Post #286 Speak Like A Child #6

Speak Like a Childは、言わずと知れた新約聖書の一節だ。
そういえば、The Style Councilの曲にも、あったな。しかし、俺が好きなのは聖書のほうだ。コリント人への第一の手紙の第13節だ。これはとても有名。愛について語っている一節だ。これを俺に教えてくれたのは、数年前に癌で死んだ俺のオジサンだ。愛介という名前だけのことはあった。
少しばかり長いが引用してみよう。
『愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。なぜなら、私たちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。私たちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、大人となった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。(中略)わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかし、その時には、私が完全に知られているように、完全に知るであろう。このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。』
この文脈で言えば、本来は幼子らしく語ったり、感じたり、考えたりすることは、不完全さの比喩になっているけれど、俺は当初から誤読していた。つまり、大人になって幼子のように、世間的な常識や固定観念によって思考や感情を曇らされることなく、ある種無垢で純粋な存在として語り、感じ、思うことを肯定するように考えていたんだ。だいたい常識的な、つまり世間慣れした大人なんて、これ以上につまらないものは無いからねぇ。これはこれで致し方なかろう。しかし、なんでこんなに思いっきり誤読してしまったもんだろうかね?
Paris
その原因の一つには、俺の好きなThe Whoの曲の歌詞にあるかもしれない。
『僕は若者 僕は多くをやらない 昔どうやって戦ったか思い出せ 子供のように僕は夢だけを見てる 僕は混乱しているけれど、何が正しいか知っている』(The Who /Dirty Jobs)という歌詞の影響がありそうだ。ロックの引力によって、解釈が曲げられているんだ。うむ、これはこれで俺らしいもんだ。
うむ、明らかな誤読だ。しかしですね、歴史的に誤読によって新たなものが生み出されるというのは、多々あるのだよ。孔子だって、親鸞だって、道元だって、みんな誤読誤解して、自己流の解釈を生み出してきたんだからね。

まぁ、俺はそんな歴史上の巨人とは程遠いバカヤローだけれど、大人のくだらなさにヘキエキしていた反抗的な少年だった俺は、このSpeak Like A Childという言葉を、いささか感傷的なカンジもするけれど、肯定的に受け取っていたんだ。子供のように、虚飾なく、ストレートに、思ったままに語り、振る舞い、生きることができたなら・・・。
ニーチェだって、名著『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で、人間が歩むべき修行と闘争と、それを経たうえで初めて花開く自由な創造の時期をそれぞれ、駱駝、獅子、小児に例えているんだぜ。『小児は無垢である、忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、「然り」という聖なる発語である。』(手塚富雄訳 中公文庫版『ツァラトゥストラ』第一部より)と述べているんだぜ。
幼子のように、世界そのものを肯定的に受け入れ、そして自由に創造していく。それこそがまさに、俺がSpeak Like A Childという言葉から思い浮かべるイメージなんだ。もちろん、幼子のままという訳っではなくって、それは修行と闘争という過程を踏んで、360度(180度ではないよ)まわって、レイヤーが上がった状態ってことなんだけれどね。
Paris
あ~、調子にのって学のあるところを披露してしまったな。
まいった、まいった、まいったな。いささか反省だ。
反省ついでにもう一丁行っておこうか。
俺は子供は結構好きだ。自分自身は子供を持つタイミングは逃してしまったが、これまた実に残念なことだ。俺はともかく、連れ合いだって少し難しい年頃になってきちまった。世間の皆様のように、我慢して辛抱強く働くことが出来ない性分だったからなぁ。とても子供なんて、養っていけなかっただろうよ。
そう、子供がいないからといって、子供が嫌いなわけじゃないんだ。子供の遊ぶ声をきくと、心がほぐれるような心持がするぜ。思わずニンマリしてしまう。そう、梁塵秘抄にもあったっけ。
『遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声きけば、わが身さえこそ動がるれ』
読者諸君、失礼するぜ。このシリーズは今日で終わりさ。