2011/08/31

Post #291 季節が巡る

今日で8月も終わる。子供のだが、毎日ホントーにクソ忙しいのさ。いつも言ってるようにね、いい加減皆さんも耳タコだろう。お見舞い申し上げるぜ。ゆっくりと眠ることも、買い貯めた本を読むこともままならない始末だよ。けどまぁ、自分で決めた道だからな。それも人生の暇潰し穀潰しさ。
ここ何日か、ギャル服ばかり売ってるファッション・ビルでをしてるんだ。喫煙所でパイプを吹かしていると、さすがの俺もびっくりするよーな派手なメイクに、派手な服装のお嬢ばかりが、入れ替わり立ち代わりやって来る。といつもこいつも、スゴい付け睫だ。きっとボールペンくらい、へいちゃらで乗るだろう。季節がら、露出もオーバーだ。キモいおっさんとか言われちゃ堪らないからな、目のやり場に困るぜ。ここはひとつ、必要なくても深刻そうな顔をしておこう。
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個人的には、そーゆーぶっ飛んだファッションの女の子は一見、個性的で好みなんだけど、これだけ入れ替わり立ち代わりやって来るとね、さすがに食傷するぜ。第一、仕事で来てるんだから、あんまりニヤニヤするべきではないよな。
とはいえ、何だかな、タバコを吹かしながら彼女達が話している姿にインテリジェンスちゅうか品ちゅうもんが感じられないんだなぁ。要はガキだなぁと、つい感じてしまうんだ。仕方ないか、俺の年齢はとっくに彼女達のダブルスコアだ。人生第四コーナーだ。年をとると熟女がよくなるということか?それはなんとも言えないが、若い女じゃ物足りないのか、身体がよくても侘び寂びを知らねぇからな・・・。
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だが、自分が図らずも、世間の皆さんと珍しく歩調を合わせて、年を食ってしまった事をおもいしらされ、しかもひょっとすると、俺の人生、もう二度とこんな素敵な年頃の女の子に熱をあげて、ウキウキするような、あんなキモチを味あうこともないのかもしれないと思うと、やるせない気持ちになってくるぜ。
そんな気持ちを知人に漏らすと、つれあいがいるからいいでしょうと言われるけど、そーいう問題ではないんだなぁ、あくまで俺の可能性の問題であってだね、なんというか、年々歳々、日一日と俺の人生に何かがおこる可能性が狭まっていくのを、こーしてツーカンする訳ですよ。老眼だって診断されてるし。寂しい風が、心の中に吹いてるぜ。
もっとも、俺の女の子の好みはムツカシーからな。そう、俺ももうヤリたいだけのお年頃じゃないんだから、中身のつまった奴じゃなきゃつまらないだろう。若くて可愛けりゃいいってもんでもないわな。
きっと、彼女達からは俺は、草臥れた中年にしかみえてないんだろう。俺の事をかまってくれるのは、子供かおばちゃん、そうじゃなきゃホモくらいだ。ただただ生きる為に働いて、気がつけば、すっかりおじさんだ。最近じゃ鏡を見るのもうんざりするぜ。
自分自身でうんざりするくらいだ。俺の回りでタバコを吹かしてるお嬢たちの目に、俺が見える訳もないぜ。ここじゃ俺はとんだインヴィジブルマンなのさ。
まぁ、どーせ話しあったところで、接点もないような気もするし、お互い理解出来る気もしない、残念だがそれが真実だ。俺も外見ばかりステキでも、何かにとりつかれたように夢中になるモノを持ってなかったり、自分の世界や考えを持ってない子供と話すのは、無駄に疲れるからゴメンだ。もちろん、中にはそんな子もいるんだろうけれど、俺は人生の秋を迎えているし、彼女たちは人生の春真っ盛りだ。互いの軌跡が交わることもないのさ。
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俺は、彼女達の付け睫やアイメークの奥の瞳がどんな夢を見ているのか、どんなことを感じて生きているのか、けっこう興味津々なんだけどね。まるで戦後の焼け跡に現れたパンパンさんに興味津々だった金子光晴のようにね。
俺の人生は、とっくに秋真っ盛りだ。季節を先取りだ。寂しくなってくるぜ。人生の秋か・・・。秋風は追い風だろうかい、いや、どうせ向い風に決まってるぜ。いつだって、そうだった。たまに追い風かと思ったら、目の前が崖っぷちとかなんだろう。いつだってそうだったさ。
しかし、思わず髪に花を挿してあげたくなるような女の子は、絶滅してしまったのかなぁ、6,500万年前の恐竜のように。
読者諸君、また会おう。年の事を考えると、愚痴っぽくなっていけないぜ。誰だって、人生の季節は巡っていくものさ。岡本太郎みたい『自分には過去も未来もない。今があるだけだ』って、突っ張って行かないとな。落ち込んでる暇はない。さあ、今日も朝まで夜通し働い て 打ち合わせなんだ。OK、構わないぜ。明日は一日プリントでもして暮らすとす

2011/08/30

Post #290 Beggar With Street Organ

ヨーロッパでは、物乞いをよく見かける。
大抵はジプシーのオバサンなんだが、もう一方の主流派として、障碍者が物乞いをしている姿をよく見かける。日本では、とうに見かけなくなった。
アムステルダムの中心、ダム広場からマグナプラザに抜ける石畳みの路地で、その盲人の物乞いを見かけた。
首からストリート・オルガンを下げている。ストリート・オルガンは、ヨーロッパの童話や児童文学にしばしば登場し、陽気な雰囲気を醸し出す。けれども、実際に、モノ号人々が奏でているストリートオルガンは、どこか哀切な響きを持っている。いや、譬えそれが陽気な音色でも、その姿や音には、どうにも痛ましいモノがある。
しかし、この物乞いの商売道具のオルガンは、虚しく首から吊るされているだけで、男はハンドルを回して音楽を奏でることはなかった。何故なら、片手にはコインを入れてもらうための、どこかカスタネットにも似た金属の器が握られているから、オルガンのハンドルを回すことはできないんだ。そして、もう一方の手は、しっかりと白くて長い杖を握っていたんだ。自分が盲人であることをアピールするように。もしかしたら、オルガンは単に彼が物乞いだと示す、符牒のようなものなのかもしれない。
右手に握られた金属の器を上下に振ると、蓋と本体がチャンチャンチャンチャンという耳障りな金属音を立てる。その金属音が耳障りでなければ、誰も彼に目を向けることもないというように。そして、道行く人の懐の小銭を、この中に入れてくれるまでは、鳴らし続けるというように。
Amsterdam
見れば、がっしりした体つき。もし彼の目が見えたなら、レンガ職人なんかやっていてもおかしくないような初老の男だ。
金属器の立てるけたたましい、それでいてどこか物悲しい音で、彼の姿を目にした。俺のつれあいはぎょっとして、何かいけないものを見てしまったようなショックを憶えたのか、足早にその前を駆け抜けていった。
俺は、心のどこかに、少しばかりのやましさを感じながら、そっとノーファインダーで彼をレンズにおさめた。不思議だな。相手は目が見えないんだから、写真を撮られrていることなんか気が付かないはずなのに。
写真は、倫理と非倫理の境界を越えてしまうこともある。何故なら、倫理は人間の心の内なる問題だけれど、写真は、人間の心とは別個に、確固として目の前に存在する現実を写すものだから。
だからこそ、本能的に写真を撮りつつも、その瞬間瞬間に、撮るべきか否かということが脳裏をよぎる。
Amsterdam
そんなことも、忘れてひとしきり街をぶらついてきた俺たちが、再び同じ道を通ると、この盲人の物乞いはまだそこにいた。しかも、誰かがその口に丸いリンゴを咥えさせていた。彼は、白いつえを小脇に抱え、両手をポケットに突っ込みながら、食べるでもなく、当惑したようにリンゴを咥え続けていた。そのリンゴが、善意によって施されたものなのか、悪意によって口に押し込まれたものなのか、俺には解からない。つれあいは、その姿に悪意を感じ取ったようで、おぞましいものを見たかのように、ひきつった顔をしていた。
日本では、政府が無能だという声が高いが、無能な政府の無為無策な福祉生活のおかげで、物乞いする人を見ることはほとんどない。ホームレスですら、空き缶を拾い、売れ残りの弁当を漁って、物乞いすることなく暮らしている。福祉国家イギリスでは、税金によって暮らしを保護されている者たちが暴動を起こした。どんな社会が正解なのか、俺にはまったく分からないぜ。

2011/08/29

Post #289 Photographica #10

本日8月29日は仕事がWヘッダーだ。たまらん。毎度まいどこんなことをしてちゃ、早死にしてしまいそうな勢いだ。おそらく時間の問題だろう、諸君、まだ生きてるけど、香典はいつでも受け付けてるぜ。俺が死んだと思って、諸君の温かなお志を包んで送ってくれるのは、一向に苦にならないぜ。ダッハッハ!
さて、昨日は名古屋市美術館にレンブラントを見に行き、夕方からはボリショイサーカスなんか行って、熊の曲芸なんか見て、それがし、大いに感銘を深めていたんだが、そのついでに駅前のT島屋百貨店に入っている投球HANDSを覗いてきたんだ。そこの『男の書斎』コーナーは、男の物欲を刺激する素敵な商品が(もちろん女性の立場から見てらガラクタという訳ではない。)てんこ盛りで、俺はそこでしばしば買い物をするんだ。昨日の場合は金は無いけどね、市場調査ですよ。
そこで、中古カメラが売っていた。俺の目に留まったのはコンタックスⅠ型と、FujiのTX-1かな。TX-1は持ってるんですけどね。目には留まりますよね。グリップがオプション品がついてましたんで、余計にね。
まぁ、今更クラッシックなカメラを新規導入するのも物入りなんで、心の物欲に火がつかないように、ネコが物陰に隠れるようにすぅーと歩み去って行こうとしたら、名古屋の老舗カメラ店、今池の松屋の社長さんに呼び止められてしまった。長身、総白髪の上品な紳士なんだな、松屋の社長さんは。男の書斎にぴったりだ。お金もありそうだし。そういえば、ここに並んでいるカメラは松屋さんの出品だった。俺もかつては松屋さんで、コンタックスⅢaやスーパーイコンタなんかを買ったりしたもんだ。もっとも、最近はとんとご無沙汰だけどね。
この社長、単にカメラを売るだけじゃなくて、海外旅行もお好きで、ご自分で写真を撮るのもプロ裸足というすんばらしいカメラ屋さんなんだ。実際、そこにかけてあった写真は、ノルマンディーとかヴェニスとかで社長が自ら撮影したモノクロ写真だった。羨ましい限りだ。
で、海外の撮影旅行についてちょこちょことお話しさせて頂いているうちに、お店に俺の写真を8枚ピックアップして展示しようという話になった。今はコスプレ写真が展示されていて、その次は風景写真の人が決まっているそうなんで、その次ということだ。
面白い。受けて立つぜ。一挙に地元名古屋でファン拡大を狙おうか?ドラゴンズかスパークスってのも夢じゃないぜ。いや、そりゃいくらなんでも調子のり過ぎだな。
しかし、8枚か。セレクトが難しいな。読者諸君が気に入っている写真があったら、コメントしてくれ。参考にさせて頂きたいぜ。

閑話休題。
そして、昨日はボリショイサーカスに行く前に、これまた行きつけのNADIFF愛知で、天才アラーキーの写真集『楽園』(2011年Rat Hole Gallery刊)を購入したぜ。限定500部、定価1260円税込だ。財布にもお優しい金額だ。ココは限定ものとかが必ず入荷してるんで、要チェックなお店だ。
荒木経惟 『楽園』 Rat Hole Gallery刊
アラーキーこと荒木経惟は、森山大道と並んで好きな写真家だ。緊縛とかヌードとか猥雑な写真も好きだが、俺が一番好きなのは、大昔の写真集『東京は秋』だ。電通を辞めた荒木氏が、東京アッジェを気取って毎日4×5のカメラを担いで東京を撮影し、その写真を今は亡き荒木氏の愛妻・陽子さんとともに、ああでもないこうでもないと一枚づづ語っていくという、素敵な写真集だ。『センチメンタルな旅・冬の旅』がその次だな。
それはさておき、この写真集。表紙、裏表紙含めてたったの21枚のカラー写真からなっている、多作饒舌なアラーキーにしては寡黙な印象を与える写真集だ。
そのほとんどすべてが、荒木氏の自宅の屋上、氏の写真にたびたび登場するあの屋上か、もしくはスタジオで撮影されている。楽園に見立てられた屋上に、あたかも生き物のように配されたゴジラや恐竜のフィギア。色鮮やかな花に這い回る、ビニールの恐竜。少女の人形の頭にかじりつくトカゲのような人形。
生々しくも静謐な写真が並んでいる。
俺は、最晩年のメープルソープを思い出した。メープルソープも、AIDSに冒された最晩年、花やギリシャローマの彫刻のレプリカを撮影していた。スタジオから動くことが出来なくなったからだ。そんな不吉なことを想ったのにも訳がある。アラーキーは近年、前立腺癌を患っている。東京ゼンリツセンガン、東京ホーシャセンなど、そんな自分を戯作する様なタイトルの写真集が発刊されたのも記憶に新しい。
愛妻陽子さんの死後18年の長きにわたってアラーキーの内面を支えてきた愛猫チロも死んだ。
そして、去年NHKの番組で見たアラーキーは、今まで見たことのないくらい気弱になっているように見えた。
もちろん、そんなことにお構いなく、相も変わらず多作な荒木氏ではあるが、どうも自分のキャリアで埋もれていたものを、近年発掘するような写真集も見受けられるしなぁ。
そして、この写真集だ。
写真集としては、小さいながらも、とても美しく、素晴らしい出来だ。しかし、どこか死後の世界すら連想させる『楽園』というタイトル。そして、写真の中に漲る不吉な予感。
荒木経惟ほどのエネルギーと世界に通用する作風、そして何より清濁併せ飲む強烈な個性を持った写真家は、残念ながら今の日本には彼をおいて他にいない。アラーキーは俺のオヤジと同じ年だが、俺のオヤジは近年新しい彼女を作って頑張っているんだ。アラーキーにも、まだまだしばらく眼べってもらいたいと、心から祈ってる俺だ。
荒木さん、しっかり病気治して、エロスとタナトスが写真から放射するあなたの写真集を、これからも末永く量産し続けてください。
読者諸君、失礼させて頂くぜ。俺はアラーキーが大好きなのさ。君はどうだい?