2026/02/22

POST#1768 我亡き後に洪水よ来たれ

愛知県江南市 俺の故郷の民家の壁 味わい深い

ここ何年もの間、国家の始まる前の社会に関する人類学の本と、近現代の資本主義に関する本を中心に読書をしています。過去へのまなざし、現状への把握、そしてそこからどのような未来を構想するべきか?僕がいつも知りたいと願っているのはこういうことなんです。

人々を屈服させる権力とは、どこからどのように生まれるのか?

そうして生まれた権力を、人々が納得して受け入れ公正なものであるとする正当性、つまりオーソリティーはどこから生じるのか?

国家というほぼ無限の権力と人々の殺生与奪の暴力性を隠し持ち、貨幣という錬金術を身に着けた怪物=リヴァイアサンに易々と飲み込まれ抗うにはどうしたらよいのか?

飼育されいつか屠殺される運命の家畜のように、やすやすとだれも責任を負わない社会システムに包摂されないように、自分の人生として悪あがきして生きるにはどうすればよいのか?

また、なぜこんな不平等が許され、ますます格差が拡大するシステムを、僕達は生み出してしまったのか?

そして、そそのシステムをまるで社会に埋め込まれた癌細胞のように、全力で世界中に、それこそアマゾンの奥地にも、極北シベリアの果てまでも押し広げてしまえたのか?

そして、こんなくそったれなシステムが出来上がる前、僕たち人類はどうやって暮らしていたのか?

知りたくないですか?

さらに、どうしたらこのやらずぼったくりのようなクソな社会をあきらめて流され、資本の歯車になって使い捨ての人生を生きるという、不毛な現状を打破することができるのか?


まぁ、ざっくり言えば、これらが人類学や経済学関係の、バカみたいにお高い本を読む、僕の切迫した動機です。

そりゃ僕だって、面白い小説でも読んだほうが素直に感情移入してスラスラ読めるし、楽しいんです。けれど、波乱万丈な人生は自分の人生だけでたくさんですし、シリアスなキャラクターは自分だけでもおなかいっぱいです。

人類学や経済学の本を読むなんて、硬い岩盤にドリルで穴を穿つようにしか読めません。働きながらだともちろんのこと、年々ひどくなる老眼とかさ、この時にもなるといろいろあるでしょう?


そういえば若いころ、土木関係の仕事をしていた。道路わきのガス配管の入れ替えです。中上健次の路地サーガに出てくる秋幸のように、土にまみれ、スコップを振るい、粗暴で理不尽な世界で暮らしていました。そんななかでも休憩時間に本を読んでいると、伊勢弁訛りのきつい中年の掘方のおっさんに、「お前本なんか読んでも、腹も膨れるわけじゃなし、意味なんかねーげ!」と言われたものでした。

しかし、本を読まずに世の中の仕組みや成り立ちを知ることはできませんし、労働しなければ、日々位の糧を得ることはできません。どちらもバイクの両輪のように、自律した思考を胸に抱え、自らの足で自立して生きていくために欠かせない営みだと思うのです。


閑話休題

上にあげたような問題は、簡単に結論出る問題ではないのかもしれません。数々の碩学が挑み、あるいは情熱を持った社会運動家が人々に働きかけながらも、未完の問題だからです。

けれど、この道楽(としかいいようがないですね)の鍵は、如何に主体的に自分の人生を生きるか?ということにあるかと思っています。

漫画版風の谷のナウシカ🔗の七巻に出てきたトルメキア王国のヴ王が、すべてがほろんだ後に古代科学文明の担い手たちが再生させるはずだった”おだやかで賢い人間”を称して「そんなものは人間と言えん」と吐き捨てたように、システムにとって従順でおだやかで賢く振舞えるものなど、主体的な人間と言えんと僕も思うのです。

じゃぁどうするんだ。

カギはやり、如何に主体的に自分の人生を生きるかということにあるように感じます。

自分の中に野生の思考とを感じながら、自分自身の存在のすべてを一網打尽にからめとり、名前のない消費者や抽象的な労働力に還元してゆこうとする共同幻想のような社会にどう対峙して、自分の一度きりの人生を受け止めて、悪あがきするしかないんじゃないかと思います。

そのうえで、ほとんど無限な時空の中で、つかの間の生を如何に自らのものして生き抜き、自ら肯定して受け入れ、次の世代につないでゆくかということが大切なんじゃないかと思います。

「我亡き後に洪水よ来たれ」ではなく次の世代に責任あるものとして、よりマシな生き方を示していくことができたなら、本望です。

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