2026/05/23

POST#1855 開き直りじゃなくて、自分を開くこと

Sweden

今日は手掛けていた店舗のオープンの日だった。

朝からスーツを着て、儀礼的な立ち合いに行く。俺がスーツを着るなんてこんな時くらいだ。別にいかなくてもどうということはない。けれど、自分が職人さんたちの力を借りて竣工までこぎつけた店舗がお客様を迎えて歩み始める姿は何度見てもいいものだ。

思わず、お店のかたにご繁盛をお祈りいたしますと、笑顔で挨拶してしまう。

職人たち、そして自分の努力が報われたような想いがする。後は金をもらえばいいんだ。

期待された仕事を全力でこなし、その正当な対価を得る。

生活するとはそれ以上でもそれ以下でもいけない。

誰かをピンハネしたり、誰かにピンハネされるのは御免だ。

そして、家に帰って本を読みながら眠ってしまう。泥のように。夢など何も見ない。短い死のような深い眠りだ。このサイクルを繰り返した果てに、いつかそのまま眠るように死んでいくことだろう。悪くない。


さて、承前。


まずは自分自身を社会に対して開いてゆこう。

それしかない。

誰かが社会を変えてくれることを待っていても、何も始まらない。


それは無間地獄の構造的な絶望のどん底から、俺たちが唯一、主体的に踏み出すことのできる最も確かな第一歩じゃなかろうか。

すべての共同体が荒廃し、国民の生活うよりも自分の立ちの政治信条のほうが最優先という本末転倒した政府によって、上からの救済すらも期待できない今、外側からの変革を待つのではなく、「自分」という最小単位から世界との関係性を結び直すこと。

それこそが、空洞化された自己幻想に再び「生の血肉」を通わせる唯一の方法だ。

そのプロセスは、こんな感じになるだろう。

「家畜化の論理」から降りる

社会に自分を開くとは、社会の言いなり(都合の良い労働者)になることではないんだ。

むしろ、その逆だ。

評価軸の奪還が必要だ。

市場価値や生産性(コスパ・タイパ)という他者の物差しを一度捨て、自分が「本当に美しいと思うもの」「心地よいと感じること」を社会に向けて開示していくんだ。

まぁ僭越ながら自分に引き寄せて言えば、俺は若いころ、納得のいく仕事をしようとしていたら、先輩から『ゴラァお前!俺たちは趣味で仕事してるんじゃねえんだぞ!こののろま!』とどやし上げられたことがあったが、それが今の自分に確実につながっているのが今は解る。

そして固有性の開示だ。

自らの弱さや未熟さ、効率性の悪さも含めて、生身の自分を外にさらけ出すことから、真の自己幻想の回復が始まる。

だれかのようになりたいとか、目標を持つこと自体は悪くない。けれど、自分は自分にしかなれない。そして、自分が自分の弱さや弱点を認めたうえで、自分自身を受け入れていく。これは決してあきらめろとかそういうことじゃないんだ。

自分は自分だ。そして、自分には自分だけの物語があるということを自覚することだ。

つまり、自己幻想を持つってことだ。

生身の「対幻想(他者との結びつき)」を耕す

システム化されたデジタル空間から離れ、身体性を伴った他者との関係性を、小さくとも丁寧に作り直すことから始めるんだ。いいかい、相手の目を見て、その声のトーンを聞き、言葉や表情の裏に込められた気持ちまで聞きとることで、相手を理解するんだ。

いや、本当は他人の脳みその中を理解するなんて出来っこない。そっれは俺にもわかってる。俺たちはSPY×FAMILY🔗のテレパシーを持った少女アーニャ・フォージャーじゃないからな。

俺たちにできるのは、相手の立場に立って、想像するだけだ。

けれど、それが思い遣るということじゃないかな。

そこから「損得なし」の関係が始まるんだ。

ただ話を聴く、一緒にご飯を食べる、といった計算のない時間を他者と共有することが大切なんだ。

そして無条件の肯定の交換だ。

条件付きの承認(いいね!や年収など)に依存せず、お互いの存在そのものを肯定し合える関係を、半径1メートルの日常から手探りで育てていくんだ。

相手を承認し、その存在を受け入れる、排除しないという『贈与』だ。

 微小な「微小コモンズ(共有地)」を創り出す

国家や巨大企業が管理する領域ではない、自分たちの手による「小さな自治の場」に参加する、あるいは自ら開くことかな。

小さな実践から始めればいいんだ。地域のボランティア、小さな読書会、行きつけの個人商店やコンビニでの会話、あるいは誰でも立ち寄れるシェアスペースなど、制度化されていない「隙間」を見つけることだ。

俺の実践は、いつのまにか町内会の主要メンバーになっていたってことだな。別に自分で手を挙げたつもりもないんだけれど、いつのまにかそうなってたんだ。

そして熟成される相互扶助の体感だ。

頼り、頼られるという具体的な経験を通じて、社会は敵ではなく「自分たちで耕せる土壌」であることを体感として取り戻していくんだ。人間を単なる数字としてみていたら、それはそう思えないだろう。毎日のニュースで死者〇人と語られるその数字の向こうにも、人生があり、喜怒哀楽があり、つながる有縁の人々がいたはずだと思いを巡らせよう。

そこにはネット番長も匿名で誹謗中傷を垂れ流すSNSの狂人もいない。自分と同じ一個の人間からなる小さなコミュニティだ。


この碌でもない社会への絶望から「開き直る(心を閉ざして暴発・自滅する)」のは簡単だ。けれど、それじゃつまらないぜ。まずは自分自身を「社会へ開く(関わりを持ち、こちらから働きかける)」んだ。

これは俺や君の発想のコペルニクス的転換なんだぜ。

この転換は、孤立無援の若者たちにとっても、俺や君たち一人ひとりにとっても、システムへの最大の「静かな抵抗」になるだろう。そりゃそうさ。デモをしたりするわけでもない。一人一人が心の中で、静かに考え方と人との接し方を変えるだけなんだからな。

静かなものさ。

けれど自分が変わることで、目の前の他者が変わり、その集積がやがて荒廃した地域や社会を内側から作り直していく。その可能性の種火は、常に個人の「開く」という意志の中にしかない。断言する。いつだって一人一人の個人の『自分を開いていく』という意思によってしか社会は変わらない。迂遠な話だと思うだろう。それは政治の話だとも思うだろう。

しかし、この社会が、実は俺や君や、あのこども、そのおじさん、このおばさん一人一人の集積であるのなら、そしてその一人一人の考え方が変われば、その分確実に社会は変わっていく。

何も難しいことはない。

自分の中の固定概念を少しリフォームするんだ。

自分が引いた心の中のボーダーを少しだけ、動かしてみるだけなんだ。


明日晴れたなら、俺は庭先にコールマンチェアを出して、UCCのインスタントコーヒー114ブレンドでもマグカップで飲みながら、老眼鏡かサングラスをかけて本を読むだろう。鉢植えに水をやってからね。(実は今日、珍しく電車に乗ったら首から下げていた老眼鏡を無くしてしまったんだ。痛恨)

のんびりと、悠々と。

近所の子どもが声をかける。老人が杖を突いて、掃き出し窓の前にしつらえたベンチに腰を下ろす。車や自転車で通りすぎる隣人に手を挙げてあいさつするだろう。

息子の同級生が通りかかれば、車に気を付けるように声をかけるだろう。

俺のいるところから、新しいコモンズが生まれるんだ。君もどうだい?

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