2026/10/27

POST#1992 秀吉の刀狩りと家康の銃規制が今の日本社会を生み出したんだ

今日もカニでも食らえ。これは静岡のかに本家だ!ファニーだな(笑)

 俺の生まれた愛知県江南市後飛保🔗って土地は、最新の歴史学研究では、あの木下藤吉郎こと後の豊臣秀吉が生まれた場所なんじゃないかという説があるらしい。奈良大学の河内将芳🔗教授が提唱しているようだ。
秀吉が生きていた時代(秀吉が関白になる際)に側近の大村由己が書かせた『天正記』内の『関白任官記』(任官之記)にある「尾張国飛保村雲」という記述を根拠としているそうだ。定説では、尾張中村つまり今の名古屋市中村区出身とされている。がしかし、もしそうだったら、木曽川の流れの生み出した自然堤防が現在の道となっているため、まっすぐ直行する道の少ない俺の生まれ故郷のうら寂しい一帯が、ちょっと面白く見えてくるってもんだ。

さて、閑話休題。

現代の日本の高いソーシャルキャピタル(社会関係資本)や「深夜3時でも安全」というリアリティは、一朝一夕でできたものでない。数秒の誤差もなく定刻に到着し出発する電車なんかもそうだ。そんなもの、世界的に見て、非常に珍しい代物だ。こんなものが、一朝一夕にできると思う方がどうかしてる。

日本のソーシャルキャピタルが、世界的に見てこれほど異常なレベルで高く維持されてきた原因の1つは、すごく遠くにあると俺はにらんでる。

そう、冒頭に話した豊臣秀吉が断行した刀狩りや、徳川家康が断行した厳格な銃規制。そこに因縁があると俺は思ってるんだ。

何百年も前に遡る豊臣秀吉の「刀狩り」と徳川家康(および江戸幕府)による徹底した「銃・武器規制」こそが、日本人の「非武装の文化」と「お互いを信頼する社会構造」の決定的なターニングポイントになったという説は、歴史学や社会学の観点からも非常に強く支持されています。

なぜその400年以上前の政策が、現代の日本の治安の良さにダイレクトに繋がっているのか、その因果関係を紐解いてみよまい。

秀吉の「刀狩り」。それは暴力の独占と「民衆の非武装化」だったんだ。

秀吉が1588年に断行した「刀狩り」の最大の功績は、「民間人が武器を持って自らを守る(自力救済の)時代」に終止符を打ったことだ。

マックス・ヴェーバー🔗が国家とは暴力の独占機構だと喝破する300年も前に、武装=暴力を権力に一元化しやがったわけだ。時代感覚が狂ってるぜ。世界には今でも住民が銃を持つことが合法とされている国はゴマンとある。

中央アジアから中近東にかけて、対テロ戦争という終わりのない戦いに挑んだアメリカは、現地の民兵に苦しめられた。そして、そのアメリカ自体も、何度学校に無差別銃撃が起こっても、国民が銃で自衛する権利を手放そうとしない。煎じ詰めればヴァイオレンスでしかヴァイオレンスを抑制できないと信じている国民性なんだ。

じゃあ、それまでの日本、つまり室町戦国時代の日本がどんな有様だったかって?

みんな黒澤明の七人の侍なんか思い浮かべるかもしれないな。無法な野武士たちの略奪にさらされ、領主からは年貢を搾り取られながらも、安全保障など期待できず、怯えながら生きる、それでいてしたたかな連中の姿だ。

しかし、現実は違ったんだ。

 農民も商人も全員が武器を持ち、村同士の境界線争いや水争いは、自分たちの武力で解決するのが当たり前だった。

清水克之🔗の『室町は今日もハードボイルド🔗』を読めば、そんな実例が詳細に記されている。わずかな土地と利権をめぐって、隣接する村落が、局地戦を繰り広げる。守護大名が配下の守護代に鎮圧を命じる。派遣された武士団とも衝突する逞しいったらありゃしない民だ。守護代は自らの手勢だけでは抑えきれず、血縁を頼って遠国より応援を呼んで、何とか仲裁・鎮圧するというほどのヴァイオレンスぶりだったわけだ。

これは現在の「誰もが銃を持って自衛するアメリカ」の構造と全く同じだ。いや、それ以上のものがある。懐かしい永井豪の漫画、バイオレンスジャック🔗や原哲夫の北斗の拳🔗みたいな世界だ。モヒカンでどこから調達したか不明なガソリンで動くバイクに乗ったならず者はいないが、ちょんまげに槍や日本刀で武装した百姓町民がそこいらでちゃんちゃんバラバラやっていたんだ。

そんな状況に終止符を打ったのが、日本全国の武力による統一を成し遂げた豊臣秀吉だ。

刀狩り以降: 武器を持つ権利を「侍(お上の警察力・軍事力)」だけに制限し、民衆から「暴力という手段」を物理的に奪いました。

それだけにとどまらず、総無事令や喧嘩停止令を発布し、武力衝突で争い、シロクロつけることを禁止したんだ。

いいかい、それは戦国時代の終わりを告げるものだったんだぜ。戦国時代の大きな特徴は、「自分の身や土地は、自分の武力で守る(自力救済)」という文化だった。秀吉はこれを法律で禁止したわけだ。今のアメリカよりも遥かに進んでいる。

惣無事令は、大名同士の私闘を禁止する命令だ。「大名間の領土争いは、戦ではなく天下人(秀吉)の裁定に委ねよ」と命じ、これに違反した島津氏や北条氏を討伐する大義名分としたわけだ。つまり、俺の言うとおりにしないと、日本中を敵に回すぞってことだ。

一方で喧嘩停止令は、 百姓・村同士の武力衝突を禁止する命令だ。山や水を巡る村同士の日常的な争いに対し、武器を使って解決しようとした者は厳罰に処されることになったわけだ。

これにより、トラブルが起きた際に「力で解決する」のではなく、「行政や話し合いで解決する」という社会的ルール(法治の基礎)へ移行する道筋が日本社会に生まれたといっても過言ではないだろう。

そして、この秀吉の敷いたレールをさらに延伸したのが徳川家康の『銃規制』だ。これこそ、世界でも類を見ない「銃の放棄」だ。

戦国時代の日本は、実は世界で最も鉄砲(火縄銃)を多く所有・製造していた「超・銃社会」だった。当時のヨーロッパ全土にあるよりも優れた銃がより多く存在していたんだ。織田信長が組織的な銃の戦術的使用を極限まで推し進めたおかげさまだ。

しかし、豊臣家を滅ぼし、元和偃武を成し遂げた徳川家康とその後の江戸幕府は、世界史でも奇跡と言われる「国家規模での鉄砲の廃絶・徹底規制」を成功させちまったんだ。

それを可能にしたのは徹底した一元管理システムだ。幕府は鉄砲の製造場所(国友や堺など)を完全にコントロールし、許可なき製造・所持を厳罰に処すとしたんだ。

また、大名といえど、江戸に鉄砲を持ち込むことは許されなかった。

250年以上続いた江戸時代を通じて、日本人は「日常空間に飛び道具(銃)が存在しない社会」を当たり前のリアリティとして骨の髄まで染み込ませてきたわけだ。そう、「銃を持たない日常」の定着だ、

この歴史的経験があるからこそ、明治維新で近代化(廃刀令など)し、戦後に銃刀法が制定された際も、日本人は大きな抵抗なく「民間人は武器を持たない」というルールを受け入れることができたわけだ。

ここに、現代のアメリカとの決定的な違いがある。

アメリカがなぜ「誰もが銃を持てる社会」から抜け出せないかと言えば、彼らの建国の歴史が「民衆が自前の銃を持ってイギリス王室(国家の暴政)と戦い、勝ち取った国」だという建国のナラティブがあるからだ。

だからこそ、これが合衆国憲法修正第2条の根拠となってるんだ。

彼らにとって、銃を捨てることは「自由の放棄」を意味するため、現実から一歩を踏み出すための歴史的土台が日本とは根本的に異なっているんだ。

銃で意見の異なる者を撃ち倒す。その考えが社会の根底にあるんだ。そして、人は必ずしも、善良ではない。だから、その銃で自らの悪をなす自由を行使して、他者を害する者は絶えない。そんな社会で、夜中の3時に若い女の子がループで都心を駆け回ることができるとお思いか?

一方で日本は、秀吉や家康という強力な統治者によって、400年も前に「民間人は武器を持たず、お互いに不意打ちで殺される恐怖のない空間」の土台が完成していたんだ。

一朝一夕ではないってのは、そういうことさ。

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「自分の身は自分で武器を持って守る」という過酷なリアリティを背負い続けているアメリカと、400年かけて「武器を持たない、他者を信頼する」というリアリティを熟成させてきた日本。

この社会の相違は、秀吉の刀狩りや家康の銃規制という歴史の超長期的な社会運営があるからこそ、「武器を持たない丸腰の女の子が、夜中に1人で出歩ける」という、世界中が嫉妬するほどのソーシャルキャピタルが今なお維持されているんだ。

これに加えて江戸時代、5代将軍綱吉などが積極的に取り組んだ朱子学の社会への復旧が、日本人の気性を決定的に変えた。

それまでは戦国の荒々しい気風を残した社会だったのが、これでがらりと変わってしまったわけだ。

『生類憐みの令🔗』で悪名たかい徳川綱吉🔗の時代における「武断政治から文治政治への大転換」と朱子学(儒教)の本格的な社会浸透こそが、日本人の気性を戦国・荒野の気風から、現代に続く「極めて道徳的で平穏な気風」へとドラスティックに変えた決定的な出来事だ。

そう、武士は戦士からサラリーマン的な官僚へと、変わったわけだ。

秀吉の刀狩りや家康の武器規制が「物理的な武装解除」だったとすれば、綱吉たちの政策は「精神的な武装解除」でだったわけだ。それまでの日本社会は「戦国の余韻」が色濃く残り、博打、辻斬り、誘拐、盗賊、そして暴力による自己主張(かぶき者など)が横行する、非常に血生臭いリアリティの中にありました。

この野蛮とも言える戦国気質が、なぜ綱吉の時代を境に「ガラリと変わった」のか?

綱吉は「戦国気質」の解体という大仕事に挑んだんだ。

5代将軍・徳川綱吉は、歴史の教科書では「生類憐みの令」の悪政ばかりが強調されがちだか、それはステレオタイプなものの見方だ。木を見て森を見ずって奴だ。

近年の歴史研究では「日本の治安と道徳観を近代レベルにまで引き上げた名君」として非常に高く再評価されているんだぜ。

命を軽視する風潮の撲滅: 当時はまだ「気に入らない奴は斬る」「行き倒れの人間や老親は捨てる」「生まれたばかりの間引き(嬰児殺し)は日常茶飯事」という、命を極めて軽く扱う戦国のリアリティが生きていた。

綱吉は「生類憐みの令」によって、動物だけでなく、捨て子、病人、老人、妊婦の保護を徹底的に義務付け、「命を大切にする」という当たり前の倫理を国家権力で人々に強制学習させたわけだ。賢人君主だな。

その一方で暴力への徹底的な処罰を推し進めたんだ。路上での喧嘩や博打、辻斬りに対して厳罰を科し、「力で物事を解決する男らしさ(=戦国価値観)」というマッチョイズムを犯罪化して、社会から徹底的に排除していったんだ。

そしてその思想的バックボーンとして、朱子学🔗(儒教)の浸透を推進して、道徳のシステム化を目論み、見事成功させたんだ。

綱吉は自ら熱心に『論語』や『易経』を講義するほどの学問の徒だった。湯島聖堂(のちの昌平坂学問所、さらに後の東京大学)を建てるなどして、朱子学🔗を統治の基本イデオロギーとして社会の隅々まで普及させたんだ。

朱子学が日本人に教え込んだのは、今も日本社会に息づく平和な「社会のリアリティ」だ。

まず秩序と役職(名分論)だ。

朱子学は、というか幕府はというべきか、親は親らしく、子は子らしく、自分の社会的立場を守り、他者と調和することを掲げた。

そして克己、つまり自己コントロールの大切さを人々に植え付けた。これによって、 己の欲望や暴力的な衝動を抑え、理性的(つまり道徳的)であることを促したんだ。

これが、武士階級だけでなく、都市の町人や農村の指導者層(名主など)を通じて文字通り「日本人のOS(基本OS)」としてインストールされて現在に至るわけだ。

この結果、日本人は「他者の目を気にし、社会のルールを守り、お互いを尊重し合う」という極めて高い社会関係資本(ソーシャルキャピタル)の精神的土台を手に入れたんだ。

そして、その歴史の地続きにある「今の日本の普通」だ。

この「物理的(刀狩り・銃規制)」かつ「精神的(文治政治・朱子学)」な二段階の武装解除があったからこそ、日本は世界でも類を見ない「市民が自警団を作ったり武器を持ったりしなくても、お互いを信頼して平穏に暮らせる社会」になったわけだ。

アメリカのポリコレ活動家が「多様性がない、お花畑だ」と叩く、いじめはあっても差別はない、銃の乱射もない日本の学園アニメのあの平穏な世界も、深夜3時に女性が1人でキックボードに乗って走れる、今の日本の大通りも、その淵源は400年前の施策にあるんだ。

これらは、決してアメリカ人が妄想するような「空虚なファンタジー」などではなく、秀吉、家康、そして綱吉たちが数百年の時間をかけて人々の肉体と精神から戦国の暴力を抜き取り、血を流しながら構築してきた「現実(リアリティ)」そのものなんだぜ。

まぁだからこそ、日本人は同調圧力が強くて、お上頼みで、フランス人のように暴動を起こしてまで政府に物申したり、イギリス人のように連帯して政治を動かそうとはしないというキックバックもあるんだけどね。一言でいえば自主独立の気風を奪われたんだよ。

それに加えて、社会的な立場ある人を盲目的に支持したり、個人の自由や、人々の間の人間そのものとしての平等性に対する感性も要求も乏しくなった。悪くいえば、社会的に家畜化されたんだと言えるだろうな。

とはいえ、この安全で安定した社会の価値は世界に誇るべきものだし、失われたとされる低成長のこの30年でも、まったく損なわれていないことは、驚くべきことだし、もっと評価されるべきことだと思うぜ。

2026/10/26

POST#1991 失われた数十年を生き抜いてきて思うんだ

 

カニ将軍だかかに道楽だか。どっちでもイイや。名古屋
夜中の三時過ぎ、現場を終えて駐車場へと歩く。名古屋駅の周辺は車もまばらで、人影もない。精力的に活動しているのは、いつ終わるとも知れない現代のシューシポス🔗のようなリニア工事の作業員たちだけだ。

ふと、俺の目の前をループの電動キックボードに乗った年若い女性が走り去る。信号の向こうには、終夜営業のカラオケ屋の前に若い男女がもつれ合うようにして歓談している。

夜中の三時だ。

俺たちはそれを別段驚きもしない。けれど、そんなことが可能な国が世界にどれだけあるか、考えてみてほしい。

日本の皆さんが盲目的に大好きなアメリカはどうだろう?

ありえないだろう。自殺行為だ。すぐにレイプされるか、ループで走ってきたところをカウンターでゾンビバットなんかで強打され身ぐるみはがされることになるだろう。

そもそも、深夜に女性が一人で出歩くこと自体が自殺行為って言われるだろう。

かつて、アメリカに次いで世界第二位と言われた日本のGDPは、ここんところダダ下がりで、中国に抜かれ、ドイツに抜かれ、インドに抜かれ、そのうち20位とか30位とかまで下がるだろうと俺は考えてる。

けれど、それは縮小する一方の人口規模と、低迷する賃金(そして、賃金が上がっていないのに人件費高騰を理由に値上げが続くこの不思議よ!)、将来への不安による貯蓄額の蓄積=資本の流動性の低下という観点に照らせば、不思議などどこにもない。むしろ、当たり前のことだ。

そして、この状況をして日本は終わった、日本はオワコンだと人々は悲観する。

大丈夫、どんだけ日本が衰退してもスーダンとかみたいにはならない。むしろ、日本はある意味で世界のダウンサイジング先進国だ。

例えば、いつも日本は世界の皆様がたから、或いは国内の(羽振りのよさそうな)経済評論家の皆様から、失われた30年、失われた30年って馬鹿にされるているけど、それは単にGDPから見てるだけで、この21世も4分の1過ぎた世界で、深夜の3時に女の子が1人でループに乗って街の大通りを走れる国っていうのは世界中にどれぐらいあるか真剣に考えてみてくれよ。

或いは、仕事に行く前、俺は自分の息子と同じ年頃の小学生が、一人で電車や地下鉄に乗って学習塾にやってくるのを目にする。俺たち日本人には至極当たり前のことだ。しかし、海外ではそんなことが可能な国は限られているぜ。

サイモン・クズネッツ🔗が発案した経済指標であるGDP🔗の数字だけを切り取って「失われた30年」と一括りにする議論は、社会の本当の豊かさや、人間が安心して生きられるクオリティ・オブ・ライフ(QOL)の本質を見落としているとしかいえないだろう。

どれだけGDPが高くても、夜歩いているだけで銃撃されたり、子どもが学校や塾に独りで電車通学したり、深夜の3時に、若い女性が1人で電動キックボードに乗って大通りを走れる国は、現在の世界中を見渡しても片手で数えるしかない。もっと言えば、日本の主要都市(なぜって主要都市しかループはないからな)以外にはほぼ存在しないというのが冷酷な現実だ。

俺たちが当たり前と思っている日本のこの「日常」が、世界基準から見れば奇跡であり、経済指標以上の価値があるということさ。

まずは世界の大半の都市における「深夜3時」のリアリティだ。

アメリカやヨーロッパ、あるいは新興国の多くの大都市では、深夜3時に女性が1人で外を歩くこと自体が「自己責任」「自殺行為」とみなされているそうだ。

昼間は観光地として賑わう大通りであっても、夜間は薬物中毒者、ホームレス、ギャングの縄張りに一変する都市が珍しくない。昔、バルセロナに行った時も、このエリアは陽が暮れてから行くと危険だからいかないようにと、バルセロナ近郊に住んでいるカミさんの友人にアドバイスされたことがある。まぁ、バルセロナではスリにあったこともあるしね。

また、「乗り物」としてのキックボードそのものにもリスクがある。キックボードのように身体が剥き出しの状態で速度も遅い乗り物は、海外の治安が悪い地域では「格好の標的(強盗や暴行の対象)」になるだろう。釘でハリネズミみたいになったバットで襲われたら即死だ。車に乗ってドアをロックして移動するのが大前提の社会がほとんどだ。

アメリカのニューヨークやロンドン、パリといった、日本より一人当たりGDPが遥かに高い経済大国・都市であっても、この「夜間の個人の安全」はお金を出して買えるものではないんだぜ。だから、富裕層はゲーテッドコミュニティー🔗を作って、警備員が門番を務める塀の中に暮らしたりもする。これじゃ、自主的な牢獄と変わりないぜ。

つまり「安全」な暮らしってのは、GDPに換算されない超巨大なインフラだってことだ。

経済学で言うところのは、GDPは「どれだけお金が動いたか」の計算にすぎない。万能の指標じゃないんだ。皮肉なことに、社会が不安定で治安が悪いほうが、経済の数字(GDP)は回ることすらある。考えてごらんよ、防犯コストとして、銃が売れ、民間警備会社が儲かり、すべての家に厳重なセキュリティシステムを導入し、夜間は全員がタクシーや配車アプリ(Uber)を使わざるを得ない社会では、そのぶん安全を買うために「余計なお金」が動くのでGDPが増えていくんだ。

これに対して、日本社会の効率性はお金でカウントできない。

日本では、人々が「お互いを信頼し、犯罪が起きない」という高いモラル(社会関係資本)を持っているため、余計な防犯コストをかけずに安心して暮らせちゃうんだ。

当然ながら、この「お金を払わなくても安全が手に入る状態」は、GDPという指標には一切プラスとしてカウントされない。もちろん、犯罪そのものがないヨイコノスンデルヨイマチというわけではないけども、その手口の凶悪さと発生頻度は比べ物にならない。

つまり、「失われた30年」で経済が停滞しているとさんざん馬鹿にされながらも、この日本社会は「世界一安全で、公共インフラが維持され、医療アクセスが確保された、極めて高度な福祉社会」の基盤を崩さずに持ちこたえてきたといえるだろう。

だからこそ、海外の人は日本に熱狂するらしいぜ。

近年、インバウンド(外国人観光客)が日本に殺到し、SNSで「日本の夜の街を散歩してみた」「自動販売機が夜中にポツンと置いてあるのが信じられない」といった動画が何百万回も再生されているのは、まさにこれが理由らしい。夜の散歩も自販機も、深夜三時のループの女の子も、俺たち日本人にはなんの不思議もない。ありきたりな風景だ。しかし、日本人以外にとっては驚異的なんだとさ。よくわからん感覚だ。確かに、海外でとりわけヨーロッパで夜歩くと、どこからか視線を感じて緊張感を持つことはある。それは、身体感覚的な経験だ。

彼らにとって日本の社会ってのは、日本の映画やアニメの中だけの存在だと思っていた「現実にある安全な理想郷」そのものに見えるらしい。

経済の数字(GDP)ではアメリカや中国に負けていても、日々の生活の安心感や人間の尊厳というリアリティにおいては、日本は世界でトップクラスの豊かさを今なお維持しているといえるだろう。

日本は衰退途上国である以上に、ダウンサイジング先進国なんだ。俺たちの世代がこの世からおさらばした21世紀半ばには、日本の人口は5000万人から4000万人といったところに落ち込むだろう。その時、安全な社会という経済コストで測れない社会の真価がいかんなく発揮されるだろう。

その淵源はどこにあるのか?俺はそれは400年以上前の日本社会、まさに戦国時代の戦乱の終息期にあるとみている。そう、一朝一夕にできたものじゃない。

日本社会の独特の息苦しさの淵源も、この安心と表裏一体なんだけれどな。


2026/10/22

POST#1990 北朝鮮は大日本帝国のデッドコピーなんじゃないかな

 

ネパール カトマンズ郊外のパタンのクマリが人々に祝福を与える

死後との、いや仕事の山を一つ越えた。気が楽になったぜ。疲労が消えるわけではないがね。しかし、心は少し軽くなったのは事実だ。まったく、小市民だな。我ながら呆れるぜ。

金正恩の妹の金与正🔗が38度線付近で、北朝鮮の兵士が韓国の兵士から攻撃を受けているとか、南朝鮮=韓国の為政者の化けの皮がはがれたとか主張し、この上は北朝鮮の主張を大音量で放送するアジテーションを再開すると、いつものように冷酷に鼻息荒く宣言している。

ネットでは、金正恩🔗が脳梗塞で死亡し、金与正が権力を握ったというデマが世界を駆け巡ったが、これはいつものように、こうだったらいいのになぁっていうデマだ。金正恩だっていつかは死ぬが、それは今じゃないんだろう。そんなもんだ。
俺は常々、日本の皆様が、世界に誇る万世一系(とされるナラティブを持つ)天皇っていう存在は、世界に広く確認される『生き神様信仰🔗』のヴァリエーションの一つだと考えてる。他にはダライ・ラマ🔗とか、ネパールのクマリ🔗とかなんかもこのカテゴリーに入れることになるよね。ここまでは世間でも一般的で、神社本庁や右翼の皆さん界隈以外ではおおむね肯定される意見だろう。
ここからが、俺の独自の思考跳躍だ。
日本の仮想敵国No.ONEであり、トランプ大統領のお気に入りのリトルロケットマンの君臨する北朝鮮の金王朝だって、あれは生き神様信仰の萌芽が見られると思うんだ。

北朝鮮の金王朝の首領崇拝を、日本の「天皇(特に近代の現人神思想)」や、ネパールの「クマリ(生き女神)」と並ぶ「生き神様信仰(現人神・現身の神)」のバリエーションとして捉える視点は、宗教人類学や比較政治社会学において最も核心を思わずずぶりとついちゃったんじゃないかな。(笑)

どれほど国家の側が「万世一系」や「世界で唯一の歴史と血統」という、検証不可能な物語を演出してもだ、煎じ詰めてその心理的・構造的な仕組みを剥ぎ取ってみれば、そこにあるのは「人間の肉体を器として、そこに絶対的な超越性や理想のシンボルを宿らせようとする、人類共通の精神システム=共同幻想」に他ならないんだから、尊厳も何もあったもんだにゃあわな。

この「生き神様信仰」という対称的なフレームワークから、ちょいと考察をひろげてみるぜ。皆の衆、いい加減忙しいとは思うが、退屈してるんならさあご一緒に!俺は面白くてためになるブログを標榜してるんだ。

まず、一番プリミティブなネパールの「クマリ」の純粋な「祝福のシステム」を見てみようか。ネパールのクマリ(Kumari)は、幼い少女の肉体にヒンドゥー教の女神ドゥルガー🔗が宿ると信じられている生き女神信仰だ。俺自身もかつて、カトマンズ郊外のパタンでクマリの祝福を与えられたことがある。こうして今も生きて大口をたたいていられるのも楚の御蔭かもな。

クマリの本質は、人々に「法律」や「命令」を下して支配することではないんだ。彼女がなすのは、ただ民衆を眺め、微笑み、「祝福(恩寵)」を与えることだ。ただそれだけだ。権力なんかない。神社の氏神様が身体を持っていたら、ただ氏子を眺め、微笑み、その営みに祝福を授けるだけだというのに等しいだろう。

かつてネパールの国王すらもクマリの前に膝を折り、その祝福を受けることで自らの王権を承認(正当化)されていたんだ。まるで、征夷大将軍を任命し、その支配権を承認していた中近世の天皇のようだな。

宗教人類学者や我が心の師・吉本隆明らが指摘したように、日本の天皇制、特に政治的な実権(軍事力や法律の制定)を握る前の古代(6世紀以前など)の天皇や后(神功皇后など)の本来のあり方は、まさにこのクマリに近い「純粋な祭祀王(神の依り代)」だったんじゃないかとも推論されている。

国家のトップに「権力を持たない、ただ祝福を授けるだけの生き神(アバター)」を置くことで、共同体の精神的な安定と秩序(平和)を維持しようとする、高度なアニミズムの知恵だったと言えるだろうな。

これが、西洋の大国からの開国要求を受け、尊王攘夷だ開国だとすったもんだして日本全国南から北の五稜郭までひっくり返して明治維新を成し遂げたとき、その錦の御旗の天皇を、国家の根本原理として「現人神」としたわけだ。この原初的でフラットだったはずの「生き神様信仰」を、近代国家の「軍事・支配の道具」として強引にハックして利用したのが、明治以降の大日本帝国における「現人神(あらひとがみ)」思想であり、それを第二次大戦後にそっくりそのままデッドコピーしたのが、現在の北朝鮮の「金王朝(白頭の血統)」だという俺の見立てさ。どうよ、このシステムにハッキングされた狂気!

権力と神格化の最悪の合体だ。 本来、クマリのように政治権力から遠ざけられているべき「生き神の依り代」に対して、近代の国家は「軍隊の統帥権(大元帥)」や「憲法上の絶対権力」を合体させて、人々の遥か頭上に君臨する超越的な現人神に祭り上げちまったわけだ。

 これによって、人間(天皇や首領)が発する個人的な命令や政治的決断が、そのまま「神の意志」へとすり替わるんだ。

恐ろしいことだぜ。

国民は自分で深く考えること(ロゴス)を奪われ、「天皇陛下(あるいはその劣化コピーの首領様)のために死ぬことは、神聖な義務である」という集団催眠に搦め取られ、結果として無謀な戦争や凄惨な人権侵害(焦土化や身分制)を心理的抵抗なく受け入れる「不思考の家畜」へと仕立て上げられてしまったわけだ。戦前の社会を美化する者が、往々にして北朝鮮を批判し、この世の地獄のようにそしるのは、自らの歴史にあまりに疎いのではないかと健忘症を心配してしまうほどだ。

それじゃなぜ、俺たち人間は「生き神様」のようなおかしなものを必要とするのかな?

うむ、それがし思うに、人間は、天の上にいる抽象的な「一神教の神」を信じるだけでも飽き足らず、「今、自分たちの目の前に生きて存在している、肉体を持った人間」を神として崇めたいという、強烈な実存の弱さ(超越性への渇望)を持っているんじゃないかな。

普通の車よりフェラーリみたいな超越性を持った車にあこがれるみたいに?ちょっと違うかな?(笑)

自分と同じように飯を食い、老い、傷つく生身の人間をあえて「生き神」という記号に祭り上げることで、人々は分解してゆく一方の社会の中でバラバラに孤立した不安(モナド化)から逃れ、「私たちはこの偉大な存在のパーツなのだ」という安易な連帯感に浸ることができるわけだ。そして、安易なものは往々にして空疎なものだぜ。愛は厳しいのさ(笑)。

日本人がいまだに天皇家の物語を信じ込もうとし、北朝鮮の民衆が首領を涙を流して崇める心理の根底にあるのは、まったく同じ「自分の足で立ち、自分の頭で考えることの恐怖」からの逃走に他ならない。ハンナ・アーレントは、『考えないことが罪』だと説いたがね。

日本の天皇制も、北朝鮮の独裁も、ネパールの少女信仰も、すべては「人間が自らの弱さと孤独を埋めるために作り出した、生き神様という名の共同幻想」の具現化であり、その本質に上下も貴賤も、変わりはない。十把一絡げだ。

と言うか、北朝鮮の金王朝自身が、えー、日本の天皇制をコピーしたとしか俺には思えないんだけどな。

これは実は、ほんとのことのようだ。

歴史的な事実として、北朝鮮の金王朝(金日成体制)の個人崇拝や国家の仕組みは、かつて彼らが統治されていた「近代日本の天皇制(大日本帝国の国体)」をそっくりそのままコピー(模倣)して作られたものだそうだ。マジかよ。だとしたら、あのリトルロケットマンの国は、貧しい民衆の姿は、マシンガンで処刑される人々の姿は戦争が終わっていなかった世界線の日本の姿だってことだ。勘弁してくれよ。俺は眼を背けたいけれど、背けてはいけない。目を見開いて、考えるんだ。

残念なことに、これは単なる俺の根拠のない推測ではなく、近年の歴史学や中東・アジアの比較政治社会学においても「首領制(金日成体制)のルーツは、戦前の昭和天皇制(絶対主義的天皇制)の国体思想にある」として深く研究され、実証されている事実なんだとよ!

「社会主義」という世俗的で近代的な上着を羽織ってはいるものの、その中身がなぜこれほどまでに歪な「生き神様信仰の封建国家」になってしまったんだ?

そして彼ら金一族がいかに日本の天皇制をコピーしたのか、共通点を通して、そのデッドコピーというか劣化コピーの痕跡をたどろうぜ。

1. 「万世一系」をコピーした「白頭の血統」

日本の天皇制を支える最大の柱は、天照大神から地続きで一度も途切れたことがないとされる「万世一系」という血統の神話=ナラティブだ。

金正恩の戦争上手なじいさんの金日成は、自分の権力基盤を盤石にするために、この万世一系システムをハックしたんだ。。白頭山(ペクトゥサン)神話の捏造: 金日成は、自らの独裁を永久化するために、これと全く同じシステムを作り上げたんだ。

それが「白頭の血統」というやつだ。なんだそれ?北朝鮮の建国神話の聖地である白頭山に金一族のルーツを重ね合わせ、金日成🔗、金正日🔗、金正恩へと「神聖な血」が受け継がれているというナラティブは、日本の天孫降臨や皇統のコピーそのものだろう。そう、北朝鮮版の天孫降臨の里・高千穂だ。よく研究してるぜ、まったく。なんせ、終戦までは彼は一応日本人だからな。

2. 「現人神(大元帥)」をコピーした「首領(総書記)」

戦前の日本において、昭和天皇は「現人神」であると同時に、大日本帝国陸海軍を率いる最高指揮官(大元帥)だった。宗教的な神格性と、軍事的な最高権力を一人の肉体に合体させることで、国民に「命を捧げる不思考の義務」を強いたわけだ。最強だ。このご意向に逆らうのは生半可な覚悟じゃ無理だ。

金王朝が完成させたシステムもまさにこれなんだ。戦争上手な金日成や映画監督になりたかった金正日は「首領(最高尊厳)」という生き神でありながら、同時に軍の最高司令官(大元帥)として君臨していたんだ。国民を「一億総特攻(銃爆弾となれ)」と駆り立てた戦前日本の精神構造が、現在の北朝鮮の「先軍政治」や「最高尊厳のために爆弾となれ」というスローガンの中に、100%そのまま息づいているんだ。知れば知るほど、憂鬱になれるな。もう一錠レクサプロを飲んどくか?

それだけじゃないぜ!高市総理も大好きな「教育勅語」をコピーした「唯一思想体系」なんてのもある!もう、憂鬱を通り越して、へらへらした笑いが止まらないぜ。

戦前の日本人は、学校で「教育勅語」を暗唱させられ、天皇を中心とする家族国家観(国体)を徹底的に脳内に刷り込まれたのは、ご存じの通り。それを現代によみがえらせようとしたのが懐かしい森友学園だというのも皆さまお忘れでしょうか(笑)。

これと全く同じことを、北朝鮮ではやっているのさ。

北朝鮮の民衆が毎日暗唱させられ、生活を縛られている「党の唯一思想体系確立の十大原則」は、まさにその教育勅語の現代版だ。

そこには「首領様を天のように崇め、その命令には無条件で服従せよ」という、かつての「滅私奉公」や「忠君愛国」のロジックが、一言一句同じ精神性で複製されています。そいつに、『欲しがりません勝つまでは』とか『鬼畜米帝』とか書いてあっても俺はもうおどろかないぜ。

かつて日本は「西洋の野蛮な近代の植民地主義」に対抗するために、独自の生き神様システム(現人神・大元帥)を急拵えし、国民を不思考の兵士に仕立て上げて朝鮮、中国、東南アジアなどの周辺国を蹂躙しまくった。みんな無謀な戦争に駆り出され、マラリアになったりワニに食われたりした挙句、武器もないのに特攻し玉砕した。

そして、その日本から解放されたはずの北朝鮮を率いた金日成が、今度は「アメリカという現代の十字軍」から自分たちの権力を守るための防壁として、最も憎むべき敵であったはずの「日本の天皇制のOS(支配システム)」をまるごとデッドコピーし、自分たちの都合の良いようにして21世紀にまで生き残らせたって筋書きだ。

金日成以来、金日成、金正恩そして娘のジュエ様🔗に至るまで、すでに四代、このままじゃ。日本が女性天皇を持つより早く、ジュエ様が後を継いじゃうな。国連にも女性の人権に配慮してると評価されるかもしれないな。

それまた、ブラックジョークだぜ。勘弁してほしいぜ。