2015/03/08

Post #1432

Moulay Idriss,Morocco
しばらく前、静岡の御殿場市で、かつて中東に仕事で長いこと住んでいたおじさんが「日本イスラ―ム圏友好協会」なる任意団体を作り、ムスリムの人々との相互理解を進める活動をしようとして、近所の信用金庫に口座を作りに行ったら、なんとその沼津信用金庫の担当者さんは、この団体がイスラムってついてることから、イスラム国に将来資金を送るパイプに使用される恐れがあるからと、口座の開設を断ったのだという。凄い事なかれ主義だ。

酷い。噴飯ものだ!その程度の認識で、この現代社会を生きていけるものだ。
田舎者と言われても仕方がないぞ!

無知から、無理解が生じ、無理解から反目が生じ、反目から争いが生まれる。

ならば、争いを避けるには、まずは謙虚に知ることから始めよう。

誤解が解けたら、理解を深めよう!

まずはここから。

イスラームというのは、アラビア語で『神への帰依』を意味する。

開祖の名前とか、神の名前とかじゃないのよ。神への態度そのものが宗教の名前なの。
だから、イスラームがついているからって、別にイスラム国とは何らかかわりのねぇことでござんす。
日本とついていたら、日本赤軍と関係あると言って、口座開設が許されなかったら、あなた、むかつくでしょう?同じことですよ。

ムスリムという言葉もあります。これも同じくアラビア語で、『神に帰依する者』を意味します。このムスリムは世界中に約16億人いると推測されています。キリスト教に次いで大きな宗教グループです。つまり、先の沼津信用金庫は、日本国内でしか通用しない事なかれ主義によって、世界中の16億人のムスリムの皆さんから、反感を買ったということになるでしょう。
この21世紀という、情報ボーダレスの時代に、なんという見識の無さ、なんという思慮の足りなさ。
同じ日本人として悲しくなります。

イスラム教の経典はコーランと呼ばれていますが、より正確には『クルアーン』と発音したほうがよいようです。
このコーランは、本来神の言葉なので翻訳するべきものではないとされています。
だから、世界中イスラム教徒の多く住む街に行くと、一日五回の礼拝の時間を告げるアザーンが、有線放送やモスクのスピーカーから流れてくるのですが、それはどこに行ってもアラビア語です。
これを聞くと、あぁ、イスラムの土地にきたなぁ・・・としみじみ思います。
異国情緒とともに、もういい加減慣れっこになって異国なのに安堵するというのでしょうか。
独特の美しい響きも大好きです。

神の言葉を、勝手に変えることは許されないから、ムスリムはアラビア語でコーランを読まねばならないのです。
だから、NHKのアラビア語講座を見て、簡単な会話をマスターしておけば、イスラム教圏に旅行した時に、けっこう役に立つはずです。

読者諸君、失礼する。俺はイスラム教徒ではないけれど、しばらくイスラム教について、君たちと一緒に理解を深めようとおもうのさ。なぜって、俺が旅先であったムスリムの人々は、誰もみな、気さくな良い人たちだったからな。

2015/03/07

Post #1431

HomeTown/Nagoya
最近、このブログにロシアからアクセスが多い。
どうにも半分以上がロシアからのアクセスだ。
別にロシアで大人気なわけじゃない。
訳の判らんスパムかなんかが、連日ドバドバ送り付けられているだけのことさ。
ひょっとしたらプーチンが次に暗殺しようと考えてるのは、俺なのかもしれないがね。
おかげさんで、PVカウンターの数字だけは水増しされて伸びている。
まぁ、実際にコメントくれたり何らかのリアクションがない限り、君が辛抱強く読んでくれていても、ロシアからスパムが送られてきていようが、俺にとっては同じようなものさ。
だから、さみしい中年スパークスに、コメントでもくれてやって楽しませてやってくれ!
いつだって、迅速かつ誠実に対応させてもらうぜ。

先日、俺が憤慨していたブロガーの新しいアダルトコンテンツポリシーは、実施されないことになったそうだ。
よかった、よかった。これで俺のこのブログもしばらく安泰だ。相変わらず読者は少ないけどね。

ざまぁ見ろ!

きっと俺のように、各々の表現の自由を守りたい奴らが、ブースカ不満の声を上げたんで、グーグルも方針を見直すことにしたんだろう。
よかったな。どいつもこいつも型苦しいことばっかり言いやがって。
All Good Thing Is NASTYなんだ。憶えとけよ!

俺ははっきりここで言っておきたいのだけれど、いいかなぁ?

どんな物事にも、人間が絡むことには大なり小なり性的な要素が含まれている、ってことだ。

そして、もう一点。

充実したセックスくらい、多幸感を人間に与えてくれるものは、他にないんじゃないの?ってことだ。
それを、不謹慎だの、セクハラだの何だのって抑圧ばっかりするもんだから、世の中なんだか息苦しくなっちまうんだよ。
確かに、多幸感があるから、習慣性強いのは間違いないわなぁ。しゃあないわ。
しかし、性的なことが罪深いってのは、そもそもどっから来た考えなんだ?

江戸時代までの日本人は、性的にあけすけで、スケベなことに関しては、世界トップクラスだったはずだが。
やはり、明治維新以降、ヨーロッパからキリスト教を基盤とする欧米の文化が入ったことからだな。
ヨーロッパの文化ってのは、キリスト教が基礎になってるんだけど、そいつがいろいろと抑圧するもんだからな、いろいろとビザールな文化が発達してるのさ。SMだってその一つだろう。いろいろと考え出すとそれはそれでおもしろそうだが、長くなるのでやめる。ただ、キリスト教の禁欲的な宗教態度空の影響で、あんまりストレートに性を愉しむってカンジじゃなくって、背徳的で淫靡なカンジになってるわけだ。

ニーチェは、『ツァラトゥストラは斯く語りき』のなかで、ツァラトゥストラをして、『イエスがもう少し長生きしたなら、大地を愛すること、笑うことを憶えたはずだ』みたいなことを言っていたけれど、そうかもしれないな。
天上の清浄さよりも、大地の混沌と豊穣を愛することは、相手のむさくるしさを受け入れて、それをいとおしむことと何ら変わりないだろう?
そして、その果てに、笑いと喜びがあふれてくるものさ。
十字架の上のイエス様の像には、確かにそういった世界への肯定と、その末の哄笑は見当たらないな。
いかがわしさの欠片もない。
しかし、世界はいやらしく、いかがわしいものだと思う。そしてそのまま同時に、崇高で美しい。
いいセックスをすれば、その意味が分かるだろうよ。
どんなに気取ってみても、親父とおふくろが二人なかよくおめこして生まれて来たってのは、人類みな共通だろ?
そこには宗教も民族も関係なけりゃ、貧乏人も金持ちもなんら違いはない。

大昔の都都逸にもこんなのがあるぞ。

楽は苦の種 苦は楽の種 ふたりしてする人の種

OK、それが解かったらみんなお互い仲良くしようじゃないか。

読者諸君、失礼する。だいたい、そういうことをやかましく言う奴に限って、むっつりスケベだったりするもんだろ。嫌になっちまうぜ!

2015/03/06

Post #1430

Moulay Idriss,Morocco
働き過ぎると、何もかも放り出してとんずらしたくなる。
地の果てまで。
携帯の電波も、税務署も、そこまではさすがに追ってこないさっていうような地の果てだ。

アフリカ大陸の西岸に位置するモロッコは、日本からすれば、まさに地の果てだ。
俺は、モロッコの聖都ムーレイイドリスの写真を引っ張り出して、懐かしく思い出す。

『地の果て 至上の時』

そんなタイトルの小説があった。俺の大好きな中上健二の小説だ。
熊野の森と海に抱かれた新宮を舞台に、腹違いの弟を殺し、腹違いの妹と交わった主人公が、実の父と繰り広げる情念の確執を描いた小説だ。
軽佻浮薄な平成の世を生きる世人には、いやはやなんとも重苦しい小説だが、俺は大好きだ。
何といっても、タイトルがイイよな。
思わず口ずさんでみたくなる。
君も目を閉じて、呟いてみるがいい。

『地の果て、至上の時』と。

俺は目を閉じ、未だ見ぬ地の果てをおもう。

生温かい人の気配など、微塵もない地の果てを。
吹き渡る風。
それは身を切るように冷たいか。
それとも、熱気を孕んで熱いのか。
草いきれのにおい。
波のにおい。
空の色は、どんな青だろう。
トルコ石のような水色か、
それともラピスラズリのような藍色か。
何が聞こえるだろう。
風が虚空を渡る音か。
打ち寄せる波が砕ける音か。
それとも、世界の果てのさらに向うを目指して飛ぶ
鳥たちが鳴き交わす声か。

そこでは、時間はなんの意味もない。
一瞬が永遠に接続する時空だ。

だから、そこには至上の時が流れる。

本当はいつだって、どこにいたって、今、ここが、『地の果て、至上の時』でなければならないんだけどな。できうれば、そんなふうに生きていたい。世の中から浮きまくり、ずれまくってもかまいやしないぜ。つまり、瞬間瞬間を主体的に生きるってことか・・・。

読者諸君、失礼する。そうはいっても、来月には旅行に行くんだった。もう少しの辛抱だ。