| 京都五条、槿 |
明けがた、帰り道にラーメン屋に行こうとしていたのだが、仕事が終わった時点ですでに朝の6時前。国道沿いのラーメン屋は5時で閉店だ。仕方ない。松屋で牛カルビ定食でも食らうか。渡邊英理という方が書いた『中上健次 路地のヴィジョン🔗』を読みながら、ペラペラのカルビ肉を噛み、その肉から染み出すうまみを味わう。
目を閉じて、遠くに咲く花を思い浮かべ、そこにそよぐ風を想う。
芙蓉かと思っていたら、これは槿だった。
中上健次🔗の小説、『千年の愉楽🔗』では、主人公である路地の産婆にして語り部のオリュウノオバが、夏芙蓉の花の香りに誘われて、寝たきりのまま、かつて自らが取り上げ、生の盛りで断ち切られるようにその命を断たれた若者たちのことを思い出すシーンがあることを思い出しながら、牛カルビ定食をほおばる。ソースはバーベキューソースだ。
ご存じない方のばかりだろうから、記しておく。路地は紀州熊野新宮の被差別部落だ。
オリュウノオバは、文盲だが産婆として取り上げた路地の一人一人の人生を地母神のように自らの内に刻み込んでいる。文字にして外在化しないがゆえに、未開部族の語り部のように自らの内面に、人々の生のディテールを細大漏らさず刻み込んでいく。
オリュウノオバの旦那の礼如さんは、村にただ一人の毛坊主、つまり在俗で寺住ではない僧侶だ。路地のものが死ぬと、礼如さんは念仏を唱え、死者を弔う。文盲のオリュウノオバはその誕生日と命日を、すべて諳んじている。彼女にとっては、毎日が迂遠の何者かを取り上げた日であり、その誰かが死んでいった日なのだ。
オリュウノオバと礼如さんは、路地の人々がこの世に生を享け、その生を終えて彼岸に渡るという流れの両端に位置している。路地の者たちの卑小なる生は、この二人の存在によって円環を成し、永劫回帰する聖なる存在へと昇華していくように俺には思える。
俺に言わせれば『千年の愉楽🔗』は、まさに現代の『古事記🔗』なんだ。
中上健次の小説には、人類学や社会学の様々な構造が、見事に嵌め込まれていることが、『中上健次 路地のヴィジョン』を読んでいるとわかる。レヴィ・ストロース🔗、網野善彦🔗、コモンズの思想、そしてJ・C・スコット🔗によって展開されるゾミア🔗的な思考。
それは、かつての俺を、無意識のうちに現在の地平へといざなってくれたものだと痛感する。
今もどこかで暑い風に、花がそよいでいる。
久々に食った牛カルビ定食は、肉ダブルでもよかったかもな。
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