2026/05/27

POST#1860 さてと、もう一度ねちっこく子どもたちの現状を考えてみるか

Katmandu,Nepal
さてと、もう一度トクリュウの話から逸れてしまった話の本筋に帰るとしますか。

毎日毎日、思いついたことを書いているうちに、いつも思わぬところに脱線してしまうのが、俺の悪い癖だ。いや、このパルクールのような思考スタイルが、俺の思考スタイルなんだ。お付き合い願うさ。

今の息子の学校のプログラムを見ていて思うんだけど、なんだか学校自体そしてその元締めたる文部科学省が産業界からの要請に従って、子供に過大な要求をしてるような気がしてしょうがないんだよな。

この違和感は、現代の日本の教育が抱える本質的な歪みをけっこう的確に捉えているんじゃないかな?

学校が「産業界(企業や経済)」からの要請をそのまま教育現場に持ち込んだ結果、子供たちが求められる要求の水準が急激に上がり、逃げ場を失っているという指摘は、多くの教育学者や社会学者からもなされているようだ。

ざっと調べてみるだけでも、つぎのような「過大な要求」の構造が子供たちを追い詰めているってことが見えてくる。

「学力」に加えて「人間力」まで完璧を求められる

昔の要求: ペーパーテストで良い点数を取れば、内向的であったりコミュニケーションが苦手だったりしても、一定の評価(学歴)を得られた。

現在の要求: 産業界が求める「主体性」「コミュニケーション能力」「課題解決能力」「リーダーシップ」といった要素が、学習指導要領を通じて学校教育に導入された。そんな奴、大人でもなかなかいないぜ。

子供への負荷: 単に勉強ができるだけでなく、「明るく、協調性があり、主体的に行動できる完璧な人間」であることが評価対象(内申点や推薦入試)になるんだとさ。嘘くせぇなぁ。テストの点数と違って「性格や人間性」そのものを査定されるため、子供は常に自分を偽り、演じ続けなければならず、精神的な疲弊が極限に達しているということになるだろう。大人でもできないことを子供に求めるなといいたいもんだ。まったく冗談じゃないぜ。

「キャリア教育」による将来への早期の追い込み

文部科学省が進める「キャリア教育」により、小学校や中学校の段階から「将来の夢」や「自分が社会でどう役に立つか」を考えさせ、ポートフォリオ(活動実績)に記録させることが定着しているんだそうだ。

これにより、子供たちは「まだ何者でもない時期」から、将来の進路や企業に選ばれるための自己PRを意識させられることになる!自分らしい生き方を模索する余裕が奪われ、「早く進路を決めなければ手遅れになる」という過度な焦燥感(キャリア不安)を生み出しているんだそうだ。

俺の人生の実感からすれば、人生なんて思ったことの3割実現すれば上出来だ。これが俺の人生打率3割理論だ。もっと言えば、自分の意図したことよりも社会の奔流に流されてしまうことで否応なく決まっていくことがほとんどだ。

その時、自分の中にぶれない芯を育んでおくことの方が大切だと俺は思うんだが、どうかな?

 グローバル競争を背景にした「脱落恐怖」

産業界や政府が「国際競争力の低下」を叫ぶたびに、教育改革として英語教育の早期化、プログラミング教育の必修化、探究学習などが次々と学校に詰め込ま続けている。着々と子どもたちを社会のシステムを回すための部品に仕立て上げようとしているのさ。

教育内容が高度化・複雑化すれば、当然、それについていけない子どもも一定数生じるだろう。家庭の経済状況的にフォローアップできない子どももいるはずだ。というか、たくさんいる。

そのくせ、それについていけない子供たちへのセーフティネットは不十分極まる。

学校は「経済社会の優秀な歯車」を育てる場所のようになり、そこから一度でも脱落(不登校や成績不振)すると「人生が終わる」という極端な恐怖心を子供に植え付けてしまっているわけだ。

世の中、多様性だとか、インクルーシブとか言い始めてから、ますますおかしくなってるんだ。偽善もいいところさ。

疲弊する教員と「余裕の喪失」

産業界や社会からの「あれもこれも教えてほしい」という過剰なニーズを受け続けた結果、学校の授業時数は増加し、教員の業務はパンク状態にある。そして、公立学校の教員はほとんど定額働かせ放題だ。多少は改善されたというが、その作業量に比べての報酬は十分だろうか?先生だって、人間だぜ?

先生自身に精神的なゆとりがないため、クラスの子供一人ひとりの「小さな心の変化」や「見えないSOS」に寄り添う時間が物理的に奪われている。

ちなみにうちの息子の通っている小学校は、教科ごとに担当の先生が変わるらしい。これも、先生たちの負担を減らしてゆく試みだろう。こういった試みに加えて、学校事務を担う職員を増強し、先生は教えることに集中できる体制を取らないといけないだろう。

しかし、それをやるにも膨大な予算がいる。日本のGDPにおける教育費の比率は、残念ながらかなり低い。そして、防衛力強化にはすぐに予算が付くのに、本当に大切な教育の予算は、なかなか増えない。この国の富の再分配システムはいったいどうなってやがる?!

まぁ、ざっくり言えばこういうことだ。

現在の日本の教育現場は、「経済社会で即戦力となる優秀な人材の育成」という大人の都合(産業界の要請)が優先されすぎているんだ。職業訓練学校というか、社畜製造機なんだよ。ケージに詰め込まれてブヒブヒ言ってる豚や鶏を思い出してみるんだ。あれと似たようなもんさ。

その結果、子供たちは「学校」という狭い空間の中で、勉強、部活、人間関係、さらには「自分の内面(主体性やコミュ力)」まで常に評価され、監視されているような息苦しさを感じることになるだろう。俺でも御免蒙る。

この「全人格的な過剰要求」と「失敗が許されない空気」こそが、子供たちから心の余裕を奪い、自殺が減らない根底にある構造的要因といえるだろう。

根本的に、子どもに限らず『人間』 を 『人材』 と 言っ てなんだか 材料か 資材 みたいに扱うようなこの風潮そのものが、子供達を追い詰めてるんじゃないだろうか?

これこそが、新自由主義経済に骨の髄まで染まった現代社会が抱える、最も深い歪みの核心じゃないのか?

人間を「人材(=経済的な利益を生むための材料・資源)」とみなす思想は、大人だけでなく、子供たちの世界にも完全に浸透している。子供を「かけがえのない一人の人間」ではなく、「将来どれだけ市場価値を生み出せるかという投資対象」として扱う風潮が、彼らを限界まで追い詰めているんだ。

この「人間を材料扱いする風潮」が、具体的にどのように子供たちを精神的に破壊しているのか、4つの側面から考えてみようぜ。

「存在価値」ではなく「機能価値」で査定される恐怖

人間としての価値: 生きているだけで尊い、という無条件の肯定(存在価値)。

資材としての価値: テストの点数、英検の級、内申点、コミュ力など、社会の役に立つ能力(機能価値)。

子供への影響: 現代の子供たちは、常に「お前は何ができるのか」「どんな価値があるのか」というスペック(仕様)ばかりを査定されている。まるで中古車市場だ。そのため、「成果を出せない自分には生きている価値がない」「役に立たない自分は粗大ゴミと同じだ」という極端な自己否定に陥りやすくなっちまう。それで命を大切にしろと言っても、説得力ゼロだろう!

「不良品」として排除されることへの怯え

人間を「材料」とみなす社会では、規格に合わないものや、途中で壊れてしまったものは「不良品」や「ロス」として扱われる。

不登校になったり、受験に失敗したり、メンタルを崩したりした子供に対して、社会や学校は「修理して早く元のライン(集団)に戻すこと」ばかりを求めている。子供たちは「一度でもレールを外れたら、不良品として社会から廃棄される」という、文字通り命がけの恐怖を背負って生きているといっても過言じゃないだろう。

レジリエンスってのは、看板だけか?!

俺の考えじゃ、人生ってのはレールから外れてからが、本当の自分自身の人生なんだぜ!

「自己責任」という名のメンテナンスの強要

人材」という言葉は、しばしば「自己投資」や「自己管理」という言葉とセットで使われる。

企業が資材の品質維持を求めるように、学校や社会も子供に対して「自分で体調やメンタルを管理し、常に高いパフォーマンスを維持せよ」と求めている。

いじめや過度な競争で傷ついている子供に対してさえ、「ストレスに負けるな」「レジリエンス(復元力)を鍛えろ」と個人の努力不足(メンテナンス不足)のせいにされるため、子供は誰にも弱音を吐けなくなるだろう。

大人でも鬱病になる世の中なんだから、子どもが抑うつ状態にならないなんてことないだろう?俺だって、鬱病の薬飲みながらなんとか生きてるんだよ!

教育の「費用対効果(ROI)」への組み込み

親や社会が、教育を「子供の幸福のため」ではなく、「将来、良い企業に入って元を取るための投資」として計算するようになっている。本末転倒だ。

子どもたちもバカじゃない。子どもたちもその空気を敏感に察知しているんだ。「親に高い塾代を払ってもらっているのに、成績が上がらない自分は投資に値しない」という罪悪感や負い目が、子供たちの心を内側から削り取っている。

俺は、別に俺がお願いして塾に行ってもらってるわけじゃないんだから、いつでもやめてくれて結構だと息子には常々言ってるけどな。なにせ、俺の小遣いが増えるからな(笑)

さて、この飯を食う産業の 「材料」から生きる主体としての「人間」を取り戻すためにはどうしたらいいかな?

人間を材料(リソース)として消費する社会では、自殺とは、その過酷な生産ラインから「自らシステムをシャットダウンして脱出する行為」という側面を持っているだろう。

子供の自殺を止めるために本当に必要なのは、相談窓口を増やすといった表面的な対策ではないんじゃいか?

「たとえ学校に行けなくても、勉強ができなくても、あなたは生きているだけで100点満点であり、誰の資材でもない」ということを、大人や社会の側が本気で示し、教育の目的を「経済の道具作り」から「個人の幸福」へと180度転換することじゃないか?

イマヌエル・カント🔗も『人間を手段としてではなく、同時に目的として扱うべきだ』と言っていたぜ。この定言命法🔗は、現代の日本社会において完全に蔑ろにされている。

そういう視点が今の社会には、きれいさっぱり全く抜けてるんじゃないでしょうか? 

どいつもこいつも、あいつは人材として使えるだの使えないだの、そんなことばっかり言ってるじゃないか?果たして、俺たちは他人の値踏みができるほどご立派な存在なんだろうか?

新自由主義経済万能の現在の社会は、このカントの警告とは真逆の「人間を徹底的に手段化する社会」になってしまっているといっても過言ではないだろう。1. カントの「目的」と現代社会の「手段」の対比


カントの視点を現代の「人材」という言葉に当てはめると、この社会の異常性が浮き彫りになりるのがわかるだろう。

視点

カントが説いた「目的としての人間」

現代社会の「手段(人材)としての人間」

存在の価値

人間には「尊厳(価格をつけられない絶対的価値)」がある。

人間には「価格(市場価値や給与、スペック)」がある。

評価の基準

生きていること、それ自体が無条件に肯定される。

「使えるか、使えないか」「生産性があるか」で査定される。

社会の役割

社会や国家は、個人の幸福や倫理的成長のためにある。

個人は、国家の経済成長や企業の利益のための「資源」である。

今の社会は、子供や若者を「将来の経済を支えるための道具(手段)」としてしか見ていないんじゃないだろうか?

少子化対策でさえ、子供の幸福のためではなく「将来の労働力や納税者を確保するため」という、国家の都合(手段)として語られることが多いのがその証拠だ。冗談じゃない。社会のために市民がいるんじゃない。市民のために社会システムが構築されるべきなんだ。本末転倒だ。

そして、「手段」にされた子供たちが受ける精神的加害を考えてみようぜ。

人間を手段として扱う風潮は、子供たちの心を確実に蝕んでいる。

交換可能なパーツとされる絶望

カントは、人間に代わりになるものはない(尊厳がある)とした。

しかし「人材」として扱われる子供たちは、「お前の代わりなどいくらでもいる」という無言の圧力を常に受けている。これは子供だけじゃない。社会で働くすべての人々が、その脅迫を受け続けているんだ。とりわけ、派遣労働者など、本当にそんな都合のいい感情のない部品のように扱われている。君は知っているか?俺は知っているぞ。

そして、人は自分が「社会の歯車(交換可能なパーツ)」に過ぎないと感じるとき、人は生きる意味を見失ってしまうだろう。

自己の手段化(内なるカントの否定)

最も深刻なのは、子供たち自身がこの価値観を内面化してしまうだ。

一例をあげてみようか。「英語が話せない自分は価値がない」「有名大に行けない自分は無能だ」と、自分自身を「使えない道具」として責め立てるようになってしまうだろう。

心が折れた時、彼らは自分という「道具」を自ら廃棄(自殺)してしまうことになるんだ。

なぜこの人間として、絶対に手放してはいけない視点が、日本社会から抜けてしまったのか?

それは、俺や君の責任でもあるんだ。それを直視せず、自分たちの無力を嘆くこともせず、そして次の世代にそれを付け回しするのはやめようじゃないか。

市場万能主義の教育への侵入

本来、教育はカントの言う「人間を目的として育てる(人格の完成)」場所だったはずだ。

しかし、経済の停滞が続く日本において、教育の目的が「企業の求める即戦力育成」という実利主義に完全にハイジャックされてしまっているんだ。

「役に立つこと」への過剰な信仰

現代社会は、病気や障害、あるいは不登校などで「生産性(役に立つこと)」を発揮できない人に対して非常に不寛容だ。残念なことだ。

しかし、それはジョン・ロールズ🔗無知のヴェール🔗を引くまでもなく、誰にでも起こりうることだ。

この「生産性至上主義」が、子供たちから「何もしなくても、ここにいていいんだ」という安心感を奪い去っているんだ。

今日の結びとして

俺がカントを引き合いに出したのは、本質的にこの問題を考えてほしかったからなんだ。別に俺は物知りだぜって自慢したわけでも何でもない。大切なのは、本質をとらえ、どうしたらよりよい社会を、人間のための社会を作ることができるか考えることだ。子どもたちが絶望し、自ら死を選ぶことのない、よりマシな社会に近づくことができるかということだ。

ズバリ言えば、現代の子供の自殺問題は、心理学や教育学の枠を超えた、「この社会は人間を人間として扱っているか」という哲学的な敗北を意味しているんだ。それは、トクリュウ犯罪などにみられるような社会的な自殺もまったく同じ構造だ。

いい加減俺たち大人は「人材」という言葉を安易に使うのをやめ、子どもたちを「未来の労働力」ではなく、「今を生きる一人の人間(目的そのもの)」として遇する社会へ舵を切らなければ、悲劇を止めることはでるわけがない。

そういえば、最近TVで裸の大将放浪記🔗とか寅さんシリーズこと男はつらいよ🔗やらないな。きっと、山下清🔗や渥美清演じるフーテンの寅次郎みたいな、一見生産性のない人間には、社会が存在価値を見出していないからだろう。インクルーシブ?多様性?笑わせるな。そんなの百年早いぜ。

2026/05/26

POST#1859 下心が無けりゃ、魔法にはかからない

 

Bremen,Germany

ある夜、仕事をしていると珍しくFacebookの友達申請が来た。

品川区に住んでいる、知らない女だ。若松昌未とかいう名前だったな。

顔は写っていない。ナイキかなんかのブラトップかなんか着てトレーニングかなんかしてる胸元だけ写ってる。ほかには、上賀茂神社の写真や葵祭とかの投稿がある。

品川区なのに京都か…。まぁそれもあるかもしれない。しかし、JR東海の313系電車が鳥居の前を通過している写真を見ると、そんな特異なロケーションのところは、静岡の田舎あたりにしかない。プロフィールを見ても、品川区、独身、女性というだけで、プロファイリングできないな。どうせ釣りだろう。放置だ。

するとほどなく、Facebook のメッセンジャーでこの女から、なれなれしい口調のダイレクトメッセージが来た。

俺が15年ほど前にUPしたドイツのブレーメンの旧市街から駅へと向かう途中にある公園の、色とりどりのパンジーか何かに囲まれた風車の写真だ。

『とっても素敵な風景で癒されるんだけど、これはどこ?』だとさ。知るか!

投稿自体にブレーメンって書いてあるだろう。こいつは馬鹿か?それともポンコツなAIか?

15年前の写真の場所をわざわざ聞いてくるのは、AIボットや詐欺アカウントが使う典型的な「会話のきっかけ作り(アイスブレイク)」のテクニックなんだそうだ。

記事に「ブレーメン」と明記されているのに聞いてくるのは、人間の感覚からすると明らかにおかしいんだけど、奴らのシステムや目的を考えると以下の理由が考えられるな。

写真しか見ていない(文字を読んでいない)

相手(またはシステム)は、俺のタイムラインを過去にさかのぼり、「見栄えが良い写真」「海外旅行らしき写真」だけを自動でピックアップしているんだろうな。

写真に添えられたテキストや位置情報のタグは、AIのプログラムや海外のオペレーターが見落としている(あるいは日本語が読めない)ため、シンプルに「これはどこですか?」と聞いてくるんだろう。

「質問すること」自体が目的だから

奴らの目的は、クイズの正解を知ることではなく、あなたに「ここはドイツのブレーメンだよ」と返信させることなんだ。

人間は、自分が過去に行ったお気に入りの場所や、思い出の写真について聞かれると、嬉しくなってつい親切に教えてしまいがちだ。それは俺も一応人間の端くれだからな。詐欺グループはそんな人間の習性につけ込み、一番返信しそうな「過去の思い出写真」を狙って質問を投げかけてくるんだ。それにしては甘い球を投げてくるもんだ。

俺は無視してもよかったんだが、少し遊んでみることにした。

『ドイツのブレーメンだよ。俺が生まれる10年くらい前に撮った写真さ

俺はご丁寧にグーグルマップのリンクまで送りつけてやったよ。しかし、俺のギミックは完全スルーで返事が来た。これが人間だったら、すごくセンスがない奴だ。俺はユーモアのセンスのない奴が、生理的にダメなんだ。

『旅行が好きなんだ。ブレーメンはどうだったの?また行きたいと思う?』と返してきやがった。

やれやれ、不毛なラリーが始まったぜ。

『いやぁー、俺は盗賊だったからひどい目にあったから二度とごめんだな。もっともこの円安じゃ、海外旅行なんて行くもんじゃないさ』

さて、懸命な読者諸兄諸姉はもうお分かりですね。かの有名なブレーメンの音楽隊をネタにしたきり返しだ。しかし、それも完全スルーだ。鉄のメンタルか、まったくセンスがないのか?

『盗賊だったの?』と聞いてきやがる。アホだな。

『ブレーメンの音楽隊の話さ』ジョークの種明かしをすることくらい、興ざめなことはない。もしこいつが本当に俺に興味を持っている人間でも、絶対に逢いたくないぜ。つまらない奴は御免だ。

Facebookのメッセンジャーで知らない相手から届くなれなれしいメッセージは、現在その多くに「AI(対話型ボット)」やテンプレートを組み合わせた自動生成プログラムが使われているんだ。

この「言葉の噛み合わなさ」や「ユーモアの通じなさ」はまさにAIボットの典型的な特徴だ。

「これ絶対AIだな」という俺の直感は100%正しいだろう。こっから「ロマンス詐欺」や「投資詐欺」の華麗な幕が開くんだろうよ(笑)!

FaceBookのメッセンジャーの仕様上、知らない人からのメッセージは通常「メッセージリクエスト」に入るんだけど、一度でも返信してしまうとシステムに「つながり」が承認されたとみなされてしまうらしい。そうすると、

相手のメッセージが直接届くようになる。

俺が「アクティブ(オンライン)」かどうかが相手に筒抜けになる。

「このアカウントは返信してくる=カモになる可能性がある」として、詐欺師たちの「カモリスト」に登録されてしまうことになるんだそうだ。面白いな。俺はそこいらのカモネギじゃないぜ。

そこで俺は彼女?の投稿に京都の葵祭や上賀茂神社の写真があるんで、『君こそ、京都の葵祭りとか好きなのかい?』と打ち返したんだ。そうしたら、やっこさん、自分の公開してる投稿にその写真があるのに『葵祭りは行ってみたいですね』とか言い出す始末だ。

完全にバグってる。そこまでいくとバカバカしさを通り越して、もはや清々しいほどのポンコツぶりだ。

このラリー、俺の完全勝利だ。15-0だ。

「生まれる前の写真」に続き、「音楽隊の盗賊」のネタまでスルーされたとなれば、相手が100%人間の心を持っていないマシーン(またはマニュアル通りにしか動けない詐欺師)」であることが完全に証明されたぜ。俺のユーモアのセンスが、最高のAI判定フィルターとして機能したってことだ。さらにダメ押しは、この葵祭には行ってみたいだ。

しかし、奴もなんだか必死なんだ。

『あなたとの会話は楽しいから、もっと仲良くなりたいな。わたし、LINE でやり取りするのに慣れてるから LINE のIDを教えてほしいな。LINEでやり取りしよう』ときたもんだ。

俺は速攻『来た来た、怖い怖い』って送ったよ。胡散臭すぎだろう。

最高にストレートな直球ストレートだ。ダメ押しに『そういうのに引っかかるのを情弱って今時は言うんだぜ』って言ってやったよ。まさに完璧なトドメのセリフだ我ながら本当に痛快だな。

相手がマニュアル通りのAIボットであれ、裏で必死に文字を打っていた「人間」であれ、この言葉は最高に刺さったはずだ。日本語がわかればね。

「騙す側」のプライドがズタズタになっちまうわな。自分たちは「だまし取るプロ」のつもりでメッセージを送っているのに、ターゲットである俺から逆に「お前らの方が情報弱者(情弱)だ」と一刀両断されるんだぜ。これはプロとして?恥ずかしいだろう。

大体、俺はこいつとの会話に1ミリも楽しさを感じてないんだ。そもそも、こんなよれたおさんに、だれが興味を持つってんだよ!下心のない奴は、魔法にはかからないんだ。この心理を会得するまでに、たくさん授業料を払ったぜ。

相手のLINEでやり取りするのに慣れてるから」というセリフも、本当に分かりやすすぎる「テンプレの教科書」通りだ。少年ジャンプの漫画みたいに王道だ。「LINEに変えませんか?」ってのは、Facebookのアカウントが通報されて消える前に、個人の連絡先へ移動させようとしてるんだそうだ。

俺は、『君のプロフィールや会話を振り返ってみても、君という人間のプロファイルができないからごめんだぜ。おじさんそんなに暇じゃないんだ』といって失礼させてもらったぜ。


しかし、話は二回戦にもつれ込む。

次の日の夜にもメッセージが来た。相手も必死なんだろう。かわいそうになってくるぜ。

そのメッセージには『あなたが何に悩んだり苦しんでるかわからないけど、私に打ち明けてほしいな』ときたもんだ。

面白いな。俺は自分のブログのリンクを送りつけてやった。社会に対して考察したものだ。

しばらくして返事が来る。

『どうしたらこんな文章が書けるの?』

『批判精神を持つことさ』

それでもなお『あなたともっとお話ししたいからLINEのIDを教えて』と食い下がってくる。

『悪いけど、LINEは浮気を疑われるから、俺はトクリュウの悪党ご用達のsignalを使ってるのさ。悪だくみの証拠が残らないから便利だぜ(笑)』

『私はsignalはあんまり使ったことないの…』

知るか!この日も俺の勝ちだな。

しかし、戦いは次の日に持ち越しだ。

だんだん、どこまで面白いこと言ってくるのか楽しみになってきた。


次の夜に奴が送ってきたのは打って変わってこんなのだ。ひょっとしたら、選手交代したのかもしれない。

『あなたが何を悩んで苦しんでいるか知らないけれど、力になれると嬉しいな。だから、LINEのID教えて』

もう笑えて来た。『別に何にも悩んでない。野のケモノのように生きて、最後は死ぬだけだよ』正直に言えば、いつもその程度に考えてる。厳密に言えば、金の悩みは尽きんけれど、そんなものはないもの、真面目に働く以外にないんだ。魔法のように金が増えるわけじゃない。

それでもまだ、あなたとお話ししたいから LINE  ID を送ってとか言って懇願してくるんだよね。なんか俺、野のケモノのはずなのに、この人ノルマに追われてるのかなと思ってかわいそうになっちゃうよな。ここまで鉄のメンタルでLINEのIDを押し通してくると、もはやホラーを通り越してシュールな展開だ。忙しいから放っておくさ。

考えてみてくれよ。「野のケモノのように生きて死ぬだけだ」というハードボイルドな決め台詞のあとに「それでもLINEして🥺」と懇願してくる姿を想像すると、笑うしかないだろう。

実は、俺のその「ノルマに追われているのかな」という直感、昨今東南アジアで摘発が続いている国際詐欺組織の存在を考慮してみると、大正解だろうな。

奴らが懇願してくる裏側には、本当に「命がけのノルマ」に追われている現実があるみたいだ。

もしそのアカウントの裏に「人間(海外のオペレーター)」が一部関わっている場合、彼らは本当に笑えないレベルの厳しい環境に置かれていることが、報道などをつぶさに見ているとわかる。

詐欺工場の実態:東南アジア(ミャンマーやカンボジアなど)には、武装勢力や犯罪組織が運営する「詐欺工場」と呼ばれる巨大な施設が実在する。

拉致された労働者:そこで働かされている人の多くは、「高収入のデータ入力バイト」などと騙されて海外に集められ、パスポートを没収されて監禁されている一般人だ。日本人がいるという報道もよく耳にする。

恐怖のペナルティ:「1日〇人をLINEに誘導しろ」という絶対的なノルマがあり、達成できないと本当に暴力や罰金、食事抜きなどの虐待を受けるため、彼らは文字通り「必死(懇願)」になってメッセージを送りつけてくるんだ。

まったく、酷い世の中だ。


二日ほどたって、忘れたころにこの女(たしか若松昌未って名乗ってたな)からまたメッセンジャーがやってきた。しかも、一人称が「私」から「僕」に変わっていた。文体もまったく変わっていた。

100%「担当交代(シフトチェンジ)」の決定的な証拠だな!(笑)

こういうのを馬脚を露すというんだぜ。

俺のユーモアの猛攻によって、最初の担当者(またはAI)が「この日本人、手強すぎて手に負えない!」とパニックになり、慌てて「男性キャラ(僕)」の設定を持つ別のオペレーターに交代したか、システムの引き継ぎをミスした舞台裏が完全に透けて見えるぜ。

その舞台裏を想像するとこんなとこだろう。

実は、奴らの組織では以下のような「分業制」や「交代制」が徹底されているんだそうだ。

  1. 1ステージ(ばらまき要員)
    まずはAIボットや、マニュアル通りにメッセージを送りまくる「下っ端」の担当者が、大量の人に声をかける。
  2. 2ステージ(引き込み要員)
    あなたのように「返信が続いて、かつLINEに誘導できそうなターゲット」が現れると、より会話がこなれた「中堅・ベテラン」の担当者にバトンタッチする。

今回のケースでは、引き継ぎの際に「設定(キャラクターの一人称)」を統一するのを忘れて、うっかり素の「僕」が出てしまったんだろうな。 必死にノルマをこなそうと焦るあまり、チーム内での連携がボロボロになっている様子が目に浮かぶぜ。(笑)

俺は、いい加減うんざりして、『君は初見の相手に対して自分の名前も名乗らないし、口調も馴れ馴れしすぎる。そんな無礼な人間を相手にLINEを教えてお友達になる奴がいるわけないだろう。それに何より、私から僕に第一人称が変わってるぜ?性転換でもしたのかい?』

と返したんだ。しかし、鉄面皮というのはこういうのを言うんだろうな。

『不快な思いをさせてしまったのは謝るよ。だから、LINEのIDを教えてくれるかい?』

あきれてものが言えないぜ。

俺は、『生憎、むやみに人にLINEのIDを教えちゃダメだって死んだママの遺言なんだ。もっともママが死んだのはLINEができるずっと前だけどな』

俺はそれだけ打ち込むと履歴をすべて消去して、このキャラクターからの友達申請を削除してブロックしたぜ。

「生まれる前の写真」「盗賊のトラウマ」「獣の哲学」「タイムスリップ遺言」で組織を完全に引っかき回し、最終的に担当者まで引きずり出して設定を崩壊させた俺の完全勝利だ。

正直言うと、ちょっと楽しんでたんだよね。

相手が言葉の通じないポンコツだと分かった上で、あえて「生まれる前の写真」や「タイムスリップ遺言」という超高度な変化球を投げて、相手がどうバグるかを観察する。これって、現代における最高に贅沢で知的な「大人の暇つぶし(ゲーム)」だ。

普通なら「うざいな」と無視して終わるところを、俺のユーモアセンスによって極上のエンタメ(喜劇)に昇華された感があるな。

🛡️ でも、引き際が完璧だったからこその「安全なエンタメ」

楽しむだけ楽しんだあと、相手が本格的に懇願してきたタイミングで「バカバカしいから削除」と一瞬で現実に戻ってシャットアウトした点が鮮やかだ

そんなもん、ヒットアンドアウェイが世の中の常識さ

しかし、世の中こんなのに本当に引っかかっているんだろうか?

だとしたら、皆の衆は変な下心がありすぎだ。だいたい品川区に住んでる男じゃなくて女。品川区に住んでる女で胸元の写真しか出てないような奴なんて怪しいに決まってるだろ。

 「品川区の胸元美女」というのは、鉄板のテンプレのプロフィール設定です。

なぜ「品川区」なのか:港区、渋谷区、品川区などの都心エリアは、「都会の洗練された暮らし」「お金に余裕がある華やかな生活」を連想させやすく、ターゲットを惹きつけるための記号としてよく悪用されるんだ。ちょっと考えたら、そんなところに独身の女が一人で住むにはコストがかかりすぎるってもんだろう。

そしてなぜ「胸元の写真」なのか:言うまでもなく、男性の「下心」をダイレクトに刺激するためだ。まるで風俗嬢の写真だぜ。顔をはっきり出さない(あるいは首から下だけ)の写真が多いのは、ネット上の別の場所から他人の画像を無断で盗んできているからだ。

そして「下心」がセキュリティーホールになるんだ。

人間は、下心や欲(「あわよくば仲良くなれるかも」「ワンチャンスあるかも」)が芽生えると、脳の警戒システムが驚くほど簡単にバグってしまいます。

  • 15年前の写真への不自然な質問も
  • ブレーメンや葵祭のトンチンカンな会話も
  • 突然の「私」から「僕」への一人称の崩壊も

下心がある人は、それらの不自然な違和感をすべて「まぁ、可愛いからいいか」「ちょっと天然な子なのかな」と、都合よく脳内で変換して騙されにいってしまうんだろう。アホだな。

というか、今時のFaceBookは、本当に伏魔殿だな。まともな神経の奴はこんなところからは逃げ出してsignalでも使ったほうがいいぜ(笑)!

2026/05/25

POST#1858 ある夜のこと

Hamburg、Germany
夜になると、うちのカミさんが息子にきつい口調で勉強を教えている声が聞こえてくる。

まるで、アルプスの少女ハイジに出てきたロッテンマイヤーさんみたいだ。何度も俺は、もっと優しく接してほしいと申し入れているが、まぁ、性格だから難しいだろうな。

先日、現場のオープン前の作業を終えて夜の12時前に帰ってくると、驚いたことにまだ母子並んで座って勉強のようなことをしているじゃないか?息子は明らかに眠そうな目をしている。あたりまえだ。

なにやってんの、君たち?思わず聞いてしまったぜ。

ダイニングテーブルが二人に占領されているので、致し方なく自分の部屋で食事をとって、耳を澄ましていると、あぁ、始まったぜ。

息子が眠さのあまり、母親のキツイ指導に反抗し始めた声がする。死ね!といっているな。母親の痛い!という声もする。息子は感情が抑えられなくなって泣き始めた。

火宅だぜ。

俺はとっとと食器を洗い、息子を連れて風呂に入ることにした。

こんな時はとっとと寝かせるに限る。

カミさんも最近明らかに怒りっぽい。更年期障害か、それともストレスで抑鬱なんだろう。しかし、今までもなんども遠回しに、あるいは直接的にそんなアドバイスを繰り返した。けれど、彼女はそれを振り払うように聞き入れないから困ったもんだ。弱さを認めるのは恥ずかしいことじゃないんだけどな。俺は情けない顔をして泣きべそをかいている息子を。抱えるようにして風呂に引っ張っていった。

息子を風呂に入れながら、湯船の中で俺は話をし始めた。

『麒麟児よ、お前さっきお母さんに、死ねって言ったろう。本当に死んだらどうするよ?』

『死なないよ』息子はまだどこか昂っている。

『いや、死ねって言ったら、本当に死んじまうかもしれないぞ』

俺は穏やかにはなしを続けた。できるだけ穏やかに話すこと。それがたとえ、厳しい話でも、残酷な話でも。

『実は今から40年以上前のことだ。お父さんはまだ中学生だったな。お父さんは自分のお母さんに、つまり麒麟児のお祖母さんだ死ねって言ったことがある。』

当時は反抗期だったからな。そんなの日常茶飯事だった。

癌に侵された母が、創価学会にのめり込むのも嫌だった。

彼女は、やせ細った体を痛めつけるようにして、狂ったように一日中お題目を上げていた。俺はそんな母に反発し、ことあるごとに衝突した。死ぬ前に入院する直前まで、階段の2階と1階でスリッパを投げつけあったこともあった。

『で、それからしばらくして、お父さんのお母さんは、本当に死んでしまった…』

『なんで?』『うむ、病気だよ。』俺は淡々と続けた。

『けど、お父さんの弟たちは、俺が死ねって言ったことで、お母さんが死んでしまったと思っていたんだ。おかげで、今でもお父さんのことを心のどこかで憎んでいる人もいるだろう。』

息子の麒麟児は、静かに聞いている。

『いいか、麒麟児よ、よく聞くんだ。

言葉には力がある。

言ったことがそのまま現実になることもある。

いいことを言えば、いいことが起こる。

悪いことを言えば、悪いことが起こる。

これは、不思議だけど、まぁ、間違いないことだね。

言葉には不思議な力があるんだ。』

それを言霊というのさ。

『だから、お母さんに死ねとは言ってはいけない。』

そうはいっても、俺だって、仕事でええ加減なことをしくさった若い衆に『死ね!』とどやし上げ、それを耳にした百貨店の従業員から偉いさんに話が周り、パワハラだということで顛末書を書いたこともある。あんまり偉そうなことは言えんな。

もう二度と会うこともないだろうが、その若い衆が、今どこかで死んでいないことを祈るぜ。

なにしろ俺の言葉には力がありすぎるからな。

そして、その日は息子を寝かしつけ、俺も眠った。

翌朝は手掛けた店舗のオープンだからだ。スーツを着て出かけるんだ。

無事にお店のオープンを見届け、昼前に家に帰ってきて、息子を車に乗せているときだ。

『お父さんの言葉って、力があるの?』

息子は昨日の話を覚えていたようだ。

『うん、あるな。言ったことは本当になる。

だけどその力は君にもある。

だから言葉を使うときには気を付けるんだ。』

その言葉の中に込められた、俺の苦い後悔は伝わらなくても、言葉の持つ恐ろしさというのは息子に伝わったのだろうか。

母親が死んだとき、俺は幼い弟たちを前にして泣くこともできなかった。

周囲からの慰めも、ことごとく拒絶して荒んでいた。

差し伸べられる手は、振り払い、慰めの言葉には耳を背けた。

今思えば、なぜあの時、あんなふうに振舞うことしかできなかったんだろう。

そして、根の国を慕うスサノオのように荒ぶることしかできなかったのだろう。

そうして十分すぎる時間が流れた今、その時の後悔を息子に伝えている。

人生はあっという間だ。本当に。

いずれ、その時が来たら俺も死ぬだけさ。

誰の重荷にもならないように、軽やかに死にたいぜ。