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| 尾鷲港、尾鷲市三重県 |
寅さんや裸の大将放浪記がTVで見ることがなくなって久しい。水戸黄門は、俺の住んでる愛知県じゃ、午後に二時間二話連続で再放送しているけどね。
それはずばり、彼らの存在が浮かび上がらせる価値観が、人間を能力によってランク付けする、誰かの利益にとって(鵜飼の鵜のように)有用な人間だけがまっとうに暮らすことができ、他人に迷惑をかけたり経済性よりも人間性や道義を優先するという価値観を、社会から一掃するキャンペーンに反するモノだと感じるぜ。
しかし皆様、役に立たない人間でも、有用な人間でも、人間の尊厳(あえて価値という数量に依存する言葉を使うことは拒否する)は変わらないという価値観を、そろそろ私どもの社会に築くべき時ではないでしょうか?
「有用性」や「機能」によって人間の優劣を測る生産性至上主義を乗り越え、何ができるかに関わらずすべての人が等しく固有の尊厳を持つという確固たる規範を、今こそ社会の土台に据え直すべき局面が来てる。子どもたちの死因の第一位が自殺ってのは、このシステムがもう限界だって指標だ。子どもたちだけじゃない。日本人の自殺の多さは異常だ。近年でこそ、年間2万人ほどに落ち着いてきたが、一時期は年間3万人もの人が自殺していたんだ。
3万人だぜ。小さな町が一つ消えるくらいの人々が、自殺していたんだ。
日本国憲法
第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2項 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
そろそろいい加減に「価値」という成果主義的な数量概念を拒絶してもいい頃合いじゃないか?
「人間の尊厳」そのものを絶対的な前提とする社会へシフトするために、俺や君が直面している課題と向き合うべき論点はこんな感じじゃないだろうか?
1. 尊厳を測ろうとする「能力主義(メリトクラシー)」の限界
現代社会は、個人の努力や能力によって報酬が決まる「能力主義」を正義としてきた。
しかし、これは「能力のない者には尊厳を与えなくてよい」という残酷な実力主義の裏返しでもあるんだ。これが行きつく先は、ナチスのT4作戦🔗や津久井やまゆり園事件🔗だ。山下清もガス室送りってことだ。残念なことだな(笑)
偶然性の無視:生まれ持った環境、才能、健康状態といった「運」の要素を無視し、すべてを自己責任に帰結させます。マイケル・サンデル🔗の実力も運のうち🔗を読むまでもないだろうけどね。政治家の息子は政治家ってのはその最たるものの一つだろう。
排除の正当化:社会のシステムに適応できない人を「役に立たない存在」として構造的に追いやる免罪符になっている。そら、フーテンの寅次郎も排除されちまうわな。
2. 「存在そのもの」を肯定するセーフティネット
尊厳を守るためには、生存の権利が市場の評価や他者への貢献度によって左右されない仕組みが必要だ。
無条件の生存権:何もしなくても、生きているだけで衣食住と安全が保障される社会基盤の確立。これは、日本国憲法25条にも明確にうたわれている。
経済と尊厳の切り離し:労働による対価(生産性)の多寡と、人間としての敬意(尊厳)の取り扱いを完全に分離すること。
3. 社会の共通認識(コモンセンス)のアップデート
法制度や経済システムを変えるだけでなく、人々の内面にある「他者への眼差し」を再定義する必要が急務だ。
道具的理性の克服:他者を「何に使えるか(手段)」ではなく、「それ自体が目的である(尊厳)」として捉える哲学的態度の共有。
非生産的な時間の肯定:ただ生きること、休むこと、遊ぶことなど、利益を生まない時間や状態を社会全体が等しく尊重すること。
「役に立つかどうか」という物差し自体を破棄し、人が人であるという一点においてのみ結ばれる社会の構築は、孤立と生きづらさを抱える現代において最も急務とされる思想的・実践的な変革ではござらぬか?
俺が二十歳くらいまで育った昭和の時代は、確かに今の基準からすれば、ひどい時代だったかもしれない。サラリーマンは24時間戦い、過酷な環境で罵詈雑言が飛び交い、体罰もあった。がしかし、その一方でフーテンの寅さんや裸の大将を通じて、『無用の用』というインクルーシヴィティが社会にあったように感じるんだ。そう、味噌っかすでも生きてていいんだっていう、根本的なおおらかさだ。
この昭和のインクルージビティ(包摂性)と、現代の閉塞感の違いについて、整理してみよまいか(名古屋弁ね)。
1. 「生産性」とは別の次元でつながるコミュニティ
昭和の地域社会や地縁・血縁には、個人の経済的価値とは無関係に機能する「居場所」があった。
役割の多層性:定職になくとも「近所の賑やかし」「子供の遊び相手」といった、数値化できない役割が認められていた。
お互い様という相互扶助:合理的・金銭的な契約関係ではなく、「駄目な奴だけど、放っておけない」という情理によるセーフティネットが機能していた。
もちろん、その世界に村社会的で前近代的な陰湿な排除がなかったとは、口が裂けても言わないけどね。
2. 「無用の用」を認める社会の「余白」
当時は経済が成長途上にあり、社会全体に構造的な「隙間」や「余白」が残されていた。
効率至上主義の前段階:すべてをデータや業績で管理するシステムが未成熟だったため、逸脱者やドロップアウトした人を吸収する余裕が確かにあった。
文化的な肯定:寅さんや裸の大将が国民的ヒーローとして愛された事実は、社会の側が「正しさ」や「有能さ」だけで生きることの息苦しさを自覚し、そのオルタナティブ(代替)を求めていた証左だといえるだろう。
3. 現代の「清潔で冷徹な隔離」
ひるがえって現代は、体罰や罵詈雑言といった表面的な暴力は、皆さん大好きなコンプライアンスによって排除された。阿部慎之助も家庭内のトラブルで、巨人の監督から排除された。しかし、その引き換えに社会は極めて「一元化」されちゃったんだなぁ。俺は高校生の頃なんて、毎日のように先生にぶん殴られてたよ(笑)
目に見えない排除:暴力こそ振るわれないものの、システムに適応できない人はシステムの外側(自己責任、孤立)へと静かに、かつ徹底的にパージ(排除)される。そして、システムの外に追いやられてもなお、自力で人生を切り開くことは至難の業だ。
数値化される全人格:SNSの評価や学歴、年収といった明確な指標によって人間が透明に格付けされ、「愛すべき無駄」や「規格外の人間」が息をできる空間が著しく狭まっている。
憲法で保障された権利を行使して、生活保護を申請すれば、世間様からバッシングされる。行政も、公僕たる立場を忘れて自助や血縁による救済を言い渡して無情に切り捨てる。
私事ながら俺の父も、危うくそうなるピンチだったが、兄弟の力を合わせて今は平穏に施設で暮らしている。まぁ、これも血縁による自助だけどな。
まったくいつも思うけれど、懐かしのTHE BLUE HEARTS🔗が大昔にTRAIN TRAINで歌ったように、弱い者が夕暮れ、さらに弱い者を叩くのがこの素晴らしい社会だ。
この昭和の「粗暴だが地続きの包摂」から、現代の「クリーンだが冷徹な排除」への変質こそが、子供たちを含む現代人の生きづらさの根底にあると考えられるだろう。
子供の死因の一位が自殺。一時期より減ったとはいえ、年間2万人の自殺者。
まったく素敵な社会だな。俺は大嫌いだ。
俺や君たちが目指すべきは、昭和の暴力を肯定することではなく、当時の社会が持っていた「役立たずのまま生きていてよい」という思想的な豊かさを、現代の地平で再構築することではないだろうか。
確かにコンプライアンスやポリティカルコレクトネスは社会に浸透している。多様性や共生という言葉もしばしば標榜される。しかし、そんな言葉はいつだってむなしく響く。残酷な社会の掟を覆い隠しているだけの欺瞞の標語だ。
「多様性(ダイバーシティ)」や「共生」という言葉が飛び交う現代において、なぜ昭和のような「無用の用」の寛容さが失われ、息苦しさが増しているのか。というか、むしろそういう言葉が叫ばれるようになってから、ますます息苦しい社会になってきたと実感しているのは俺だけだろうか?
ここには、現代のコンプライアンスやポリティカル・コレクトネス(PC)が孕む「制度化された優しさ」の限界と欺瞞がある。これについても、俺はアングロサクソン系の社会で生み出された価値観の押し付け、一種のエスノセントリズム🔗だと考えているんだけれど、今は一旦その考えを敷衍するのは措いていく。脱線しちゃうからね。
現代の「多様性」という言葉が持つ歪みについて、以下の3つの側面から指摘できるだろう。
1. 「役に立つ多様性」しか認めない選別
現代社会が歓迎する「多様性」の多くは、実は市場や組織の利益につながる有用な多様性に限定されているんだなぁ、残念なことに。
ビジネスとしての多様性:イノベーションを起こす優秀な外国人、高い技術を持つ女性、特殊な才能(ギフテッド)を持つ発達障害者など、「生産性に貢献する違い」ばかりが賞賛される。
無用の排除:一方で、本当に生産活動に寄与できない人、社会のルールに上手く適応できない人は、「共生」の看板の裏側で静かに不可視化されている。利益を生み出さないものは、顧みられることもない。篤志家が運営する施設に収容されるんだ。
しかし、人間はいつ社会にとって無用な存在に転落するかわからない。生老病死とは、そういう無情なものだ。人生は黒ひげ危機一髪なんだ。
2. 「正しさ」による新たな序列と監視
コンプライアンスやPCは、弱者を守るためのルールであったはずだけれど、それが肥大化した結果、社会全体が「ルールを完璧に守れるかどうか」を競う、新たな減点方式の場に変質している。
不寛容な優等生社会:言葉遣いや振る舞いに一切のミスが許されないため、人々は常に他人の目を気にし、相互監視のなかに生きている。まったく、息苦しいぜ。俺がこの一人称俺、○○だぜ、っていう伝法な文体に固執しているのも、この見せかけの厳粛さというか正しさへの反発のなせる業だ。賢明な諸兄諸姉はお気づきでしょうがね。
「愛すべき駄目さ」の喪失:昭和の寅さんのように、不謹慎で、迷惑をかけるけれど憎めないという「人間の多面性や弱さ」を受け入れるだけの精神的・文化的な余裕が、社会から完全に削ぎ落とされている。
3. 表層的な記号化と「記名性の喪失」
現代の共生は、マニュアルや法制度(記号)の上で処理されるため、人間と人間がナマのままでぶつかり合う「地続きの関わり」がありぁせん。
スマートな隔離:差別や暴言はなくなりましたが、それは相手を尊重しているからではなく、「面倒なトラブル(リスク)を避けるため」に、距離を置いて無関心になっているだけのことさね。触らぬ神に祟りなしというか、ストレートいえば無視、無視だ。拒絶だ。コミュニケーション・ブレイクダウン🔗してるんだ。
存在の承認からシステムの処理へ:かつては「あいつは馬鹿だけど俺たちの仲間だ」という顔の見える関係(記名性)があったのに対し、現代は「多様性枠のひとり」として、システム的に記号として処理されるに過ぎなくなってるんだ。そして、問題が表面化すれば、すぐに切り捨てられる。切断可能なユニット扱いだ。
叫ばれている「多様性」や「共生」という言葉が、実態としては「標準化されたクリーンな人間(機械の部品)同士の、リスクのない共存」を指しているからこそ、そこから零れ落ちる子供たちや大人たちの「生」は、ますます追いつめられているんだよな。
真のインクルージビティとは、綺麗な言葉でラッピングされた多様性ではなく、「正しくないもの」「役に立たないもの」をも、そのままそこに存在させる社会の懐の深さであるはずじゃないか?
こうして社会はますます窮屈で、窒息寸前になっていると感じるぜ。俺の感受性は鋭いんだ。そして子供たちは炭鉱のカナリアみたいなものだ。
エマニュエル・トッド🔗なら、子供の死因第一位が自殺という状態はその社会が間違いなくディストピアで崩壊に向かっていると指摘するだろう。
トッドはそのキャリアの始まりから、まさに「子供や若者の死亡率の上昇(あるいは死因の異常値)は、その社会のシステムが構造的に末期症状を迎えている絶対的な兆候である」と一貫して分析してきた思想家だからな。
1. トッドの視点から見る「社会の自己崩壊」
トッドはかつて、ソ連の「乳児死亡率の上昇」というたった一つの人口統計から、1970年代の時点でソ連の崩壊を予言した。
統計は嘘をつかない:株価六万円突破といった経済指標や政治家の言葉(「多様性」「共生」といった奇麗事)がどれほど健全さを装っていても、最も保護されるべき子供たちが、自ら命を絶ったり、社会的な自殺を行っている現実は、社会の基盤(OS)が致命的にバグを起こしているなによりの証拠だ。
内向する暴力(自己破壊):かつての危機社会は外部への戦争や革命という形で暴力を噴出させたが、現代の日本社会は暴力を内政化し、最も弱い存在である子供たちが「自らを破壊する」という最も痛ましい形でシステムへの拒絶を示しているともいえるだろう。
俺の息子はそんな目に合わせるわけにはいかないぜ。俺の宝物だからな。
2. 「超・管理社会」という静かなディストピア
現代のディストピアは、かつてのディストピア小説(『1984年』など)のような、独裁者による目に見える暴力や弾圧の形をとっていない。その辺が中国共産党やロシアとは一味違う、ひねりの利いた質の悪さだな。
コンプライアンスによる窒息:一見するとクリーンで、暴言も暴力もなく、人権が尊重されているかのような顔をしている。しかし、その実態は「システムへの完全な同調」を1ミリの狂いもなく要求する、目に見えない絶対的監獄だ。
「降りる」ことの不可能性:昭和の時代には、学校や出世街道から外れても、寅さんのような「無用の用」として生きられるグラデーション(逃げ場)が確かにあった。
翻って現代は、システムに従順な「労働機械」になるか、社会的に「存在しないもの(パージ)」とされるかの、冷徹な二者択一しかない。俺はどちらも御免だけどな。
3. カナリアの死が意味する未来
炭鉱のカナリアが死に絶えたとき、その後に待っているのは炭鉱全体の爆発、すなわち社会の完全な崩壊だ。
10代の死因1位が自殺という異常:G7(主要7カ国)の中で日本だけがこの状態にあるということは、日本の近代化・効率化の果てに行き着いたこの社会システムが、世界で最も先鋭化した「人間解体工場」になってしまっていることを意味してるんだろう。
持続不可能な社会:子供たちが「生まれてこなければよかった」「この先を生きたくない」と絶望する社会に、持続可能性などあるはずがない。SDGsなんて糞くらえだ!
国費をどれだけ投入しても改善の兆しのない少子化の根本原因も、経済的問題以前に、この「生存への圧倒的な息苦しさ」にあるんだ。
すでに俺や君たちは今、「システムをどう維持するか」という次元の議論をしている場合ない。
子供たちというカナリアの死をこれ以上見過ごさないためには、社会の効率性や生産性、そして表層的な「正しさ」のすべてを一度停止させてでも、「ただ生きていることそれ自体を全肯定する」という、人間性の根音へと社会の舵を強制転換(リセット)しなければならない臨界点に立っているんだ。

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