2026/08/13

POST#1938 盛夏、百花繚乱その9

ウブド、バリ 蓮
美しい蓮の花は、仏教でもヒンドゥー教でも宗教的な象徴である。
そして、蓮の花は泥の中からしか咲かない。
人間のどろどろとした醜悪な側面、際限のない欲望、そして、あらゆる不適切な表現として今日退けられているような様々な事柄から目を背けるだけならば、人間性ってのは蓮の花のように開花しないんじゃないだろうか。
南方熊楠🔗が、なにかに書いていた話をふと思い出した。
昔、インドか西域の商人が交易に行くときに、日ごろから身持ちの悪いことで評判だった妻女が不貞を働いたらすぐにわかるように、その下腹部に蓮の絵を描いたという。半年ほど交易に出てかえってきて、真っ先に身持ちの悪い妻女の下腹部を検めるとあに計らんや、やはり密通していたようで蓮の絵が乱れていた。
さて、商人が妻女を問い詰めると、妻女は『蓮のもとには蓮根があるもの。誰かが蓮根を取りに来たのでしょう』ととぼけたという話だ。
どこに書いてあったのか、何十年も前に読んだ話だからすでに記憶があやふやで申し訳ないが、大意は間違っていないはず。何せ、読んで盛大に笑った記憶があるからね。

ふと、親鸞聖人🔗の『善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや』という言葉を思い出す。 いわゆる悪人正機🔗だ。俺は自分が善人か悪人か選ぶように言われれば、即座に悪人だと答えるだろう。心の中でよこしまなことを想ったら、やったも同じとイエス様も言っていたしね。

つねづね、いいことを言うときには、ちょっと悪いことをしているような後ろめたさを持つべきだという吉本隆明🔗の言葉を自分の中で反芻している。
そして、そこから導き出される自分の倫理は、善行は知られないようにそっと行い、悪行は堂々と行うという、一般的な価値観と転倒したものになる。仕方ない。それが俺の倫理観だ。面白いな。
そんな特異な倫理観を持つ自分からすれば、良いことをしました、よいことをやりますと!SNSなどで自己宣伝するのは、どうにも居心地が悪い。
良いことは、贈与のように見返りを求めず、称賛すら求めず、自らの内なる声に従って、ただ黙って行えばいいと俺は想う。
思うだけで、自分の生活で手いっぱいの自分が、偉そうに何を言うかという話だけどね。
明日は、不死身のクソ親父を連れて墓参りに行くのさ。なに家から車で15分。
そんなに難儀なことでもないがね。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
あなかしこ、あなかしこ

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