2011/06/08

Post #208 戦後写真の巨大連峰・東松照明

なんだか最近ついてるんだ。今日も仕事はあっさりと終ったぜ。おかげさんで、今日も好きに羽を伸ばしてきたんだ。俺が以前付き合っていた仕事仲間だったら、明るいうちからピンサロやパチンコなんかに行って、せっかくの稼ぎを無駄にしたりしたんだろうが、ふふふ…、俺はそんじょそこらの駄馬のような男とは違うんだ。野生の馬だ。マスタングだ。仕事が終われば、自分の好きなことに向けて一目散に突っ走るぜ。そうだよ、俺は今日、遅れ馳せで恐縮なんだが、名古屋市美術館に作業服のまま駆けつけて、見てきたのさ。何をって?そう、『写真家・東松照明 全仕事』だ。
ポスターはもちろん代表作『太陽の鉛筆・波照間島』だ!これ欲しいわ
午後3時30分、閉館まで1時間30分ある。いささか心許無いけれど、集中していこう。500枚以上みなければならないからな。仕事以上の集中力だ。
俺は写真展に赴くと、一枚一枚の写真の前に立つ。しばらく瞬きすることすらせず、写真の中に没入する。そう、大事なことだからもう一度言おう。俺はその写真に写された時空にダイブするんだ。何十年も前に写された写真のなかに入り込み、その光や風やにおいを感じる。こちらを見据える被写体の視線を感じる。もちろん、写真に写されたのは、被写体の短くもあるけれど結構長い人生のほんの一瞬も一瞬、125分の1秒とかだったりするわけだが、優れた写真家は、その一瞬に、被写体のエッセンスを掴み取ってくる。俺は、濃密な時間を体験する。
さぁっと歩き去るように写真の前を通り過ぎる人々は、どうやって写真にふれているのだろう。俺には意味が解らないぜ?もっとも、俺の流儀じゃ目が乾燥しちまって、これはこれで結構大変なんだがな。
つまり、多くの写真を見ることは、居ながらにしていくつもの生の断片に触れるちゅうことなんだ。
これ大事。憶えといて欲しーぜ。
時に、写真の見方は人それぞれだとは分かっているが、どうしても我慢できないことがある。
写真展で、写真を見ながら、大きな声で、ああだこうだ言っている手合いをよく見かけるんだが、あれは、好きになれないねぇ。今日も沖縄のシリーズを見ながら、連れのご婦人に沖縄はどうだこうだとか、愚にもつかないことをいささか鼻につく雰囲気をまき散らしながら、しゃべり続けていた小金持ちそうな初老のおっさんがいたな。どこに行っても、写真や絵画をネタに、自分がゲージュツを愛好するコーキューな人間だと見せかけようとするやつらがいるもんだ。
俺も最初は我慢していたんだが、なにせ俺の写真ダイブには激しい集中力が必要だから、気になって仕方なかったんだ。というより、ムカつく。視覚情報と聴覚情報は、脳みその違うところで処理されているようなので、いくら集中していても、彼らのスノッブな会話が耳に入ってくるんンだ。
俺は、最も彼らに近づいたところで、言ってやったぜ、皆の衆よ。『まことに心苦しいのですが、ご歓談なさりたいのでしたら、喫茶店にでもいってなさってはいかがでしょうか。ココは残念ながら、あなた方のご自宅でもなければ、貸切でもありません。公共の場です。わきまえて振る舞っていただけませんか?』ってね。作業服姿で言ってやったぜ、俺は。彼らは、しゅんとして黙っちまったぜ。ざまぁ見ろ!
まぁ。そんな奴らの事は実はどーでもいいんだ。つまらない事だ。いつも俺は、蚊を叩き潰すように、遠慮なく黙らせてやることにしてるんだ。

1930年生まれの東松照明は、愛知県出身だ。しかも、愛知大学卒。まったくの蛇足ながら、俺の先輩だ。もっとも俺は大学中退、それも体育の授業の単位しかとっていないから、中退というのもおこがましい。言うなれば大学とニアミスしただけだ。
東松照明の写真展を地元で見るのは実は2回目だ。以前には愛知県美術館で、これまた大規模な回顧展、『愛知曼荼羅』というのをやっていた。あれもよかった。しかし、今回はすごい、なかなかこれほどの密度を持った写真展には、そうそうお目に懸れるもんじゃない。何といっても、全仕事と銘打っているだけのことはある。すごい。カメラを手にしたばかりの学生時代から、最近の作品までをまんべんなく網羅している。とはいえ、近年は高齢の為もあり、なかなかに写真集が出版されたりすることも少ない。若い読者の方には、東松照明の写真を見たことがないとか、東松照明なんて知らないという人もいるだろう。
しかし、東松照明の歩いてきた道のりは、ほとんど戦後写真のさまざまな領域に及んでいる。森山大道をはじめとする、もう一つ後の世代の写真家に、強烈な影響を及ぼしている。森山大道は、若き日、金がなくて寝泊まりしていた東松照明と細江英公の共同事務所で、東松照明のネガを深夜にこっそりと盗み見ていたというのは有名な話だし、詩人になるか写真家になるかで悩んでいた中平卓馬にカメラをプレゼントし、写真家に導いたのも東松照明だ。東松照明をリスペクトしている写真家は、実は多い。天才アラーキーだってその一人だ。
合成などの特殊技法を使った前衛的な作品から、自分の影が写り込むドキュメント写真、明治生まれの日本人を追った日本人シリーズ、戦後の占領体験に根を持つアメリカに対する好悪の入り混じった視線を感じさせる米軍基地モノの『チョコレートとチューインガム』シリーズ、長崎と原爆被害者を追い続けた一連の作品、アメリカと日本人という二つのテーマの果てにある沖縄。そして沖縄の延長線上にある東南アジア。それらは優れたドキュメントでもある一方で、その写真からはあざとさと共に、それとは相反する詩情が滲み出てくる。
それだけではない、60年代初期から70年代の初期にかけての新宿などを舞台にした作品は、異分野の芸術家を被写体に据えていたりする一方で、粒子はアレ、被写体はブレている。猥雑な被写体。ドライブ感あふれる画面。それらの写真は、東松照明こそが、後の森山大道や中平卓馬らプロヴォーク派の先駆者であることを雄弁に物語っているのだよ。俺にははっきりとその声が聞こえるし、その軌跡が見て取れる。さすがは、全仕事だ。
本日ゲットの図録、名古屋市美術館編集。2500円也。
左と中央は近年ギャラリー新居から刊行された東松照明のレアな写真集
Camp カラフルな!あまりにカラフルな!(左)と南島(中央)イイだろう?
このほかにも、1963年にアフガニスタンに赴いた時の写真も見ることができる。これはかつて一冊の写真集にまとめられたが、当然、今その写真集は絶版だ。よってなかなか見ることはできない。それが見られるなんて、さすがは全仕事と銘打つだけのことはある。
ひとりの写真家の、生涯をかけた作品群を一挙に俯瞰するような密度の高い写真展だ。6月12日まで、名古屋市美術館で絶賛開催中だ。まだ見ていない読者諸君の中で、見に行ける人は見に行った方がいいぜ。
一枚一枚の写真を、俺は文字通り食い入るように見ていたのさ。目を閉じることすら忘れていたぜ。
俺の感想?『ふ、東松照明、まったくイカれたジジイだぜ。なかなかああはなれないぜ』ってところだ。出来ることなら、あんな写真バカ一代なジジイになってみたいもんだぜ、まったく。
そして、今日もまた性懲りもなく、つい買っちまったんだ。図録、2500円。お手頃価格だ、お値打ちだ。おまけに太陽の鉛筆のポスターも買っちまった。これなんか500円だ。たったのワンコインで、日本写真史上の傑作が、いつもお部屋の壁で見ることができるんだ。幸せだぜ。こんなバカヤローな俺の部屋の壁は、本棚とCDラックとそんなポスターで埋め尽くされているんだ。
読者諸君、また明日会おう。勝手ながら俺、明日も朝早いんだ。では、ごきげんよう。

2011/06/07

Post #207 Fragment Of Fragments #18

読者諸君、ご機嫌いかがかな。こちらはまぁまぁだ。
今日からしばらくは、俺のホームタウンというべき名古屋のど真ん中で仕事なんだ。電車でGo!だ。地球の環境にも、俺の財布にも優しいぜ。電車で現場に通えば、行き帰りに写真も撮れるしな。ただし、電車に乗るのは気が重いんだ。痴漢に間違われたりしないかどうか、非常に気がかりだ。迂闊に写真なんか撮ってて、植草一秀教授みたいに逮捕されかねんぜ。
Paris
今日から乗り込みだった割には、仕事はあっさり終わったぜ。
ふふふ…、調子いいな。しかし、朝早かったから眠いんで、写真を撮ってぶらつくのは今日はお預けだ。かわりにと言っちゃなんだが、近くの美術館のB1にあるNADIFF愛知に行って写真集でも買ってくるとするか。
中平卓馬の『Documentary』(Akio Nagasawa Publishing刊)さ。これ、今年の頭に発行されていたんだけど、限りなくインディーズ出版の流れなんで、そんじょそこらじゃなかなか売っていないんだ。NADIFFで売っているのは知ってたし、以前にもお店のおねーさんに勧められてはいたんだけれど、資金的な問題もございまして、見送った経緯があった訳だ。
資金にめどがついた後も、読者諸君もご存じのとおり、殺人発狂的に忙しかったから、買いに行く暇がなかったんだ。忙しいってのは、まったく心を亡くすぜ。
うむ、イイ写真集だ。これについては、まぁ例によって近日中に紹介させてもらおうかな。楽しみにしてておくれよ。
Barcelona
ひとつだけ、俺には分かってることがある。写真でも、音楽でも、人生でも言えることだ。

『マンネリでも飽きなきゃいい』

かつて天才アラーキーが言っていたのさ。大抵の凄い奴は、自分のスタイルを持っている。時代がどんなに変わっても、自分のスタイルに確信を持っている奴は、ぶれない。そして、勁い。

俺の写真も、マンネリかな?俺はちっとも飽きちゃいないんだがね。どうだろうかね、諸君。
さて、今夜も失礼させてもらうぜ。いささかあっさりかなとも思うけれど、明日も電車でお出掛けしなけりゃならないんだからな。

2011/06/06

Post #206 東方見聞録を読みながら

昨日の昼間、俺は久々に家の掃除をしていたんだ。日曜日にまるっと休みってのは、久しぶりだったからね。天気も良かったし、絶好の掃除日和だ。
本棚の整理をしていて俺は、マルコ・ポーロの東方見聞録(平凡社ライブラリー刊上下巻)を見つけたんだ。
俺が買ったんだろうか?まったく覚えがないぜ。しかし、こんな本買うのは、俺しかいないよなぁ。

俺は、何冊もの本を気の向くままに並行して読む癖がある。ちょいとお菓子をつまむように、一度読んだことのある本の、気に入ったところや適当に開いたページを、お菓子をつまむように読んでいるんだ。おかげさんで、部屋の中には読みかけの本が何冊も放り出されている。すぐに散らかっちまうぜ。
掃除をさっさと切り上げた俺は、さっそく東方見聞録を読み始めた。
Izmir,Turk
これが滅法面白い。
まだ上巻の4分の1くらいしか読んでいないんだ。今読んでいるのは、アルメニアからグルジア辺りの黒海沿岸からトルコ、イラク、イランあたりの中近東に関する部分だ。
去年のクリスマスの時に紹介した、イエスキリストの誕生を祝った東方の三博士に関する記述もある。この伝説的な三人の博士、メルキオール、ガスパール、バルタザールの墓が、現在のテヘランの近郊にあるとか、イスラム教徒のカリフ(イスラム教の指導者というか王様みたいなもんだ)によって、改宗か死かを迫られたキリスト教徒が、山を動かす奇跡を起こした話しとか、面白い話が次々と出てくるんだ。やめられないぜ。止まらないぜ。
このあたりの内容を読むと、日本人にとって歴史的にあまりなじみのないこの地域で、現在起きている出来事の鱗片をくみ取ることが出来るような気がするぜ。
イスラム教徒と当時の支配者タルタール人(つまりはモンゴル人ね)との関係は、現代のイラクにおけるアメリカの苦境に思いを致すことができるぜ。クルド人の問題や、イスラム国家の中に暮らす少数派のキリスト教徒の圧迫された生活。これらは700年ほど前から大きく変わりはないんだ。いやむしろ、本質的には何も変わっていない。
現在の世界ってのは、実は今だに中世を生きているような世界もあるし、原始的な生活を送っている人々もいる。古代人のように生活している地域もある。腰巻一丁で槍を以て歩いているような人が携帯電話を持っていたりもするくらいだ。
そう、実に世界は多様性に満ちているんだ。
俺たちが暮らしているこの日本の生活形態だけがすべてだなんて、料簡が狭いぜ。ペットボトルのキャップくらい小さいってもんさ。
短いこの人生で、この世界のさまざまな地域で暮らす人々に、出来るだけたくさん会ってみたいもんだ。
Amsterdam
さて、俺は今日は仕事が開いていたんでプリントするつもりでいたんだ。しかし残念ながら、明日からの仕事の打ち合わせが入ってしまった。いかん、プリントするには時間が中途半端になっちまってしまったじゃないか。仕方ない、この東方見聞録を読んで中途半端な暇を潰すとするかな。
そんなわけで、暑さの和らいだ夕方、俺は窓辺に座って風に吹かれながら、東方見聞録を読んでいた。
そう、仕事の連打連打の毎日だけれど、心ばかりは旅の空、仕事をしてても上の空さ。
この西の空の向こうに、見たことのない国々が広がっている。
俺のあったことのない人々が、今日も生活を営んでいる。
俺は、本を伏せて、夕暮れの空を眺める。
旅に出たいなぁ。

最近、次の旅の行先が決まった。時期は年末年始。行先は北アフリカ、モロッコだ。楽しみだぜ。まだズイブン先の話しだけれど、読者諸君、楽しみにしていてくれ給え。頑張るぜ。

読者諸君、今日はこんなところで失礼させてもらうぜ、明日は珍しく朝早くから仕事なのさ。