2021/08/26

Post #1720

偉大なるドラマー、チャーリー・ワッツが死んだ。俺がストーンズのメンバーのなかで、一番好きなのはチャーリーワッツだった。強烈キャラの持ち主が多い印象のドラマーの中で、誰よりもジェントルでスマートだった。

御年80歳。病気療養のためにツアーに参加しないというニュースを先日目にしたばかりだったが・・・。心から冥福を祈るばかりだ。

しかし、ロックはとっくの昔に死んでいた。The Whoが、奴らはロックなんて終わってるっていうけど、構うもんか、ロック万歳だ、長生きするんだ!と歌ったのは、もう50年も前だ。ロック界のレジェンド超人たちは、みんな年老いたか死んでしまった。

VietNam中部のどこか

非難囂々のフジロックで、MISIAが君が代を歌ったことが、世間様の中では賛否両論だったらしい。それについて特に俺がどうこう言う立場にない。

ロック(なのかどうかは俺としてはよくわからないけど)が国家という体制に迎合したことへの失望の声、感動したという声。それに対して、ロックに対して反抗的だとか反骨だとかいうのがすでに時代遅れだという声。

あー、ロックはもうとっくに終わってるのさ。

次々に生み出されて、一般大衆に熱烈に受け入れら、ガツガツと消費され、すぐに忘れられてしまう商品ばかりだ。CDショップにはすでにろくなCDが売っていない。アルバムを作っても、もう利益が出ないんだそうだ。そう、ロックどころかロックビジネスもくたばりつつあるのさ。

どうせ商品だろ。いまどき反骨だとか反体制なんて言ったって、商品にはならないぜ。聞くほうもやるほうも、爺さんばっかりだしな。マイジェネレーションなんていっても、年金世代さ。

少年のころ、おじさんたちが50’sとか聴いているのを見て、どうしてこんな時代遅れの音楽をいつまでも聴いていやがるんだと思ったが、今じゃ俺の世代の連中はどいつもこいつも80年代のベストヒットとか聴いている。それと全く同じだったんだと、この年になって気が付く。うちのかみさんも、車の中でSpotifyでよく聴いている。懐かしくってセンチメンタルになるぜ。

ロックが反体制だ、反骨だというイメージを勝ち得たのは、その黎明期から黄金時代にかけてが、世代交代と価値観が刷新されていく時期に当たっていたからではないだろうか。

第二次大戦後に生まれたベビーブーマーが、人口の規模拡張に伴う経済成長と、その人口に物を言わせた圧力で、先行世代への異議申し立てと新たな価値観の提示を行っていく中で、ユースカルチャー自体が、旧来の文化や社会に対して、反体制で破壊的だと感じられたからなんじゃないかと、50を過ぎた私にはわかる。まぁ、若さとは、そーいうもんでありたい。

いずれにせよ、ロックはとっくに死んでいる。でなきゃ、デイサービスとかに通っている。

俺が私淑し続けている吉本隆明は、詩なんてものは自分の心に響いた一節を刻み、生きていく糧にすればいいようなものというようなことを言っていた。

出張中なので、きちんとした引用ができないが、吉本隆明の詩の一節を心に刻んで生きてきた人間がここにもいる。たとえばこんなんだ。


ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる

ぼくの肉体はほとんど苛酷に耐えられる

ぼくがたおれたらひとつの直接性がたおれる

もたれあうことをきらった反抗がたおれる


これも、おれのなかではロックそのものだ。反抗だの反骨だの時代遅れとかいいたければ、言えばいい。俺は穏やかな家畜じゃないのさ。

ロックもそう、自分が気に入った曲を、心に刻み、逆境にある時、苦難の時、ひとり自分の心の中で反芻し、生きる糧としてあればいい。

偉大なるチャーリー・ワッツよ、やすらかに。

2021/08/25

Post #1719

このコロナ大流行の真っただ中に、家族と離れて一人、成田に出張している。
我ながら、ご苦労なことだ。
取引先の担当者は、単身赴任ながらコロナに感染し、意識も混濁しているのに自宅療養だった。入院先もなかなか見つからず、俺は香典を用意しなけりゃならないかと思った。
そして、明日は我が身だと身震いした。おかげで、ワンルームのアパートに引きこもり、毎日アーサー・ウェイリー訳の源氏物語を読んで暮らしているんだ。
そう、空港のすぐそば、三里塚にアパートを借りて暮らしているんだ。あの三里塚闘争で有名な三里塚だ。
といっても、若い人は知るまい。昔々、今から五十年くらいまえ、この成田に拓かれた農業地帯に、空港を作ることとなった。
それに反対する農民の運動は、安保闘争をくりひげていた数多の左翼大学生を巻き込み、国家権力に闘争を挑み、様々な局面で数多の死傷者を出した末、完膚なきまでに叩き潰された。
その舞台となった三里塚だ。
これを境に、権力に対して異議申し立てするというのは、カッコ悪いみたいな流れになって、今日まで続いている。
権力やうなるほど金を持っている連中からしたら、しめしめだ。
これらの運動の中核を担った者たちのなかには、潜伏し、偽名を使い、何十年と生きてきたものもいた。しかし、大方の若者たちは人口動態に連動する経済成長の波に乗り遅れまいと、あっさりと社会に適応していった。反抗的なことばっかり言ってちゃ、飯は食えないからな。バブルで骨抜きにされ、それに続いたいわゆる失われた三十年で、不平不満を押し殺し、長いものに巻かれて生きるという奴隷根性が染みついた。
鴉 尾張國一宮
『三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい』高杉晋作 を思い出して

ぶっちゃけいって、人間の家畜化が進んだのだ。
それでも、君が幸せなんだったらいいんだ。
けど気をつけろ、俺たちが住んでいるこの社会は、異論を許さない社会だ。このブログを始めた10年ほど前からしても、その傾向はますます強くなっている。
弱者は顧みられることなく蔑まれ、時には路上で、時には養護施設で、入管の収容所で、何の尊厳もなく殺されていく。家畜よりもひどい。
誰もが、自分は彼らとは違う、自分はそうなならないと思っている。自分より能力の劣るものを見つけて、安心している。
俺が大志を抱いていたパンク少年のころ、ブルーハーツが歌っていたように、弱い者たちが夕暮れ、さらに弱いものをたたく世の中だ。悪無限だ。ブルーハーツは続けてこう歌っていたな。その音が響きわたれば、ブルースは加速していく。OK、加速しようぜ。

そもそも人間が老い、病み、死んでいくことはすべて免れ得ないものじゃないのかい。お釈迦さまも言っていただろう。
俺はもうずっと長いこと、畳一枚下は段ボールで眠ることになると覚悟して生きてきたんだ。いつ何時、人は弱者になるのか見当もつかない。人生はまったく黒ひげ危機一髪なんだ。

自分には資産があるから大丈夫。
自分は貧乏人には知られていない金がじゃぶじゃぶ流れる川のほとりに、バケツどころか揚水機まで用意してるから、大丈夫。
OK、それは素晴らしいことだ。
けれど、資本とはいったいなんだろうか。その価値の源泉とはなんだろうか。

その価値の源泉には、いうまでもなく国家の権力があり(現状、国家のみが通貨の発行権を持っている。)、国家権力の根底には、異論を力づくで叩き潰す暴力がある。それは冒頭にあげた三里塚闘争の例を引いてもわかる。
また、先の戦争が76年前に終わったとき、国民の資産は猛烈なインフレでその価値が雲散霧消した。高額な配当の年金をかけていたのに、結局たばこ代にもならなかったっていう話も聞いた。そんなもんさ。

国家とはなんなのか。ここ何年か沈黙していた間、そんなことばかり考えてきた。

自分が何かを言ったところで、なにも変わらない。無力感だ。
それどころか、今や迂闊なことを言えば、自分と家族の命すら危険にさらす恐れがある。
そう思って、ひっそり暮らしてきた。俺も、世間様並みに、家族が大切なんだ。死ぬまで続く家のローンもあるしな。

けれど、多様性だのなんだの理想が叫ばれる一方で、ホームレスなんて死んだほうがいいと公言する著名人があらわるに至ったいま、国民のために働くなんて、あったりまえのことを標榜しておいて、このコロナ大流行の真っただ中にオリンピックだのパラリンピックだのお祭り騒ぎをぶちかまそうなんてインパール作戦みたいな狂ったことが異論を押しつぶしながら行われるに至ったいま、自分の小市民的な生活に沈潜し狷介孤高の徒として黙っているのは、なんだか狡いんじゃないかってね。

所詮、負け犬の遠吠えだ。わかってる、よ~くわかってる。でもさ、いつか子供が大きくなった時に、お父さんはあの狂った時代に、どう考えていたの?といわれて恥ずかしくないようにしたいじゃない。まぁ、それまで生きていたらの話だけどね。ぶっちゃけ出張中にコロナにかかったら、今の医療状況じゃ、生きていられる気がしない。ワクチンだって、品薄で打てなかったしね。

人間が、人間だからというだけで尊重される。
そろそろ、そんなルールにしないと、俺たちの社会は取り返しのつかないことになっちまうぜ。
気が向いたら、明日も会おう。源氏物語読んでるほうが面白かったら、書かないけどね。

2020/11/16

Post #1718

 

Småland,Sweden

コロナのおかげで、仕事がキャンセルになった。じたばたしても仕方ない。年食ってあちこちガタのきた身体を労わってやるのさ。

いつか読もうと思って買いためた本を耽読し、子供と遊びまわり、暮らしている。

空を見上げては、地球の表面に雲が浮かび流れていることを感じ、その蒼穹こそが数百億光年の彼方、遥かな宇宙の涯につながっていることに想いを馳せ、自らの小ささと人として存在しうる時間の短さに戦き、それが故にこそ、この一刹那を無自覚に過ごすことに対する懼れの念がつのっていく。

その視点から見てみると、私たちの社会を成り立たせているあらゆるものが、現実感を失い、国家も法制度も、あらゆる情報も経済も、すべてが幻想であるかのような感覚が、日々強くなっていく。

堅固な資本主義経済体制の中で、消費者としてしか存在しえないという無力感を伴った感覚。そして、それ故に、国家や民族という幻想に没入せざるを得ないという状況。そのすべてが、いうなれば虚妄であるかのように感じる自分がいる。

あるいは、自分が人生を浪費し、何者にも成り得ぬままに、この人生が終わっていくのであろうという諦念。

この世界そのものと、ここに一回限りの稀有な生を享けた自分の本質には一切触れることなく、ただその核心の周りを、遠巻きに回っているかのようなもどかしさ。

目を閉じて、深く息をする。自分に言い聞かせる。

在るがままを肯定し、ただ生きて、死ぬだけさ。