2026/03/22

POST#1796 公共性を取り戻す小さな営み

俺の住む町一宮
今日は朝から町内会の総会だった。
俺は無頼漢のように見えるかもしれないが、四月からは町内会の班長をやらなきゃいけないんだ。二回目だ。それだけじゃない、子供会の副会長もね。ちなみに男性で子供会にかかわってるのは俺だけだ。

総会は9時30分からだったけれど、俺は役員だからね、9時に行ったんだ。
足の悪いお年寄りを気遣いながら出迎えたり、最近姿を見かけない方の安否を尋ねたりしながら、ほかの役員さん、つまり町内会の古参住民の重鎮の方々と一緒に準備してたよ。
そうこうしてると重鎮の一人、A井さんから今回は俺に議長というか司会進行をやってほしいと直前の無茶ぶりがあった。
俺はこの町内に家を買って移り住んでかれこれ10年になるけれど、ほかにふさわしい人たちはいるだろう。いるだろうが、皆お年を召された。お姿を見かけなくなったかたも多い。
町会長なんか他にやる人がいないから、俺が越してきてからもうずっとA田さんがやっている。年々、入れ歯が合わないのか言葉が聞き取りにくくなっていく。
世代交代の時期が迫ってる。
正確には一時俺と同世代の古参住人が町内会長を買って出たんだが、その人はいろいろ嫌になって町内会を脱退してしまった。気心知れていた人だけに残念だ。

さて、そんなこともあるので、ここで固辞するわけにはいかない。やらいでか!

まぁ、100人くらいを前にして定例会議をやったりしている経験もあるからどうってことない。声もよく通ってしかもでかい。町会長のA田さんの話は、いつも論点が整理されていなくてわかりにくいし、やたら長くなりがちだ。俺に話を振ってきたA井さんもそのあたりのことは重々承知で、そのあたりをピシッと抑えてほしいと思っているようだ。

今回はゴミ回収ボックスの導入を町内会の会費を使って行うか否かという議題もある。些細なことだけれど、皆の供託してくれたお金を使うわけだから、有耶無耶のまま話が雲散霧消するようなことになって、町内のお年寄りや年齢層高めの参加者の皆さんを不安にしたりしたくもない。神社の森に棲んでいて、朝夕現場に遠征出勤する烏によるごみあさりに、みんなうんざりしているんだ。
些細なことだ。けれど俺は民主主義ってのは、小さなコミュニティーを蔑ろにしては立ち行かなくて、むしろこの小さなコミュニティーこそが民主主義の学校でゆりかごだと思っているんだ。
そう、なんの権力もなく、皆にあるべき姿、進むべきを道を説き続け説得して合意を得ることで集団をまとめる、人類学の本に出てくる首長のように民主的に行うんだ。

途中で自民党の市会議員がやってきたりアドリブもあったが、俺は何とかうまいことやり切った。正直俺は共産党か旧立憲系の市会議員にしか投票しないから、このセンセーが何者かよく知らなくて焦ったけどね。けれど、こんな町内会の総会にも足を運んで、ほんの一時とはいえ一席ぶって帰っていく自民党の機動力ってのは侮れないもんだ。共産党や中道にはこういう泥臭さが足りないんだよなぁ…。

ゴミ収納ゲージの件も、市からの補助を使いつつ、試験的に二か所導入しましょうということで、町内会の皆さんの合意も取り付けた。いずれも烏の宴会場だ。

賛成の方々は拍手でもってお答えください!
はい、ありがとうございます。
賛成多数のようですの、今申し上げたように進めさせていただきます。
今後の進展経緯に関しては、追って回覧板を通じて皆様にお知らせいたします!
皆様から質疑などございませんでしょうか?

声がでかくて議題の流れを整理してリードしてゆくのが得意というのは、たまには役に立つもんだ。現場で鍛え上げたこの声が地域の皆様のお役に立つのはありがたいこったぜ。
A井さんや民生委員のT島さん、一言居士のM地さん、町内の重鎮の皆さんもご機嫌だったぜ。
こんなことじゃ、そのうち町会長をやってくれと言われかねないぜ…。
町内会長というのは、多忙なものらしい。しかも、いろいろもめて脱退したりすると、これまた厄介だ。持ち家でローンもあるから、さっさと他所に引っ越すなんてできないしな。
俺も仕事しないと飯食っていけないんだがな。まいったな。天下御免の無頼漢で鳴らした俺も、そろそろそんなお年頃なのか。

みんな誰も彼も、その必要性がわかっていながら、いざ自分に順番が回ってくると脱退していく。けれど、それがけっして市民として正しいあり方じゃないのはわかってる。
また、意見が違うからと袂を分かつってのも大人のくせに狭量だと思う。ヴォルテールみたいに意見が違ってもちゃんとその意見を受け止めるような器量が必要だ。
とはいえ、生業を抱えながらやるには町内会長の仕事はタスクが多すぎる。
とはいえ、属人化した業務を、だれでもできるように整理して引き継いでいかないと、先行き真っ暗だ。なんとか誰もが気軽にできるようにしないと、コミュニティーの風通しが悪くなっていく一方だ。

けれど、民主主義ってのは、どのレイヤーでも面倒なものだ。なぜって、町内会だろうが国政だろうが、それはみな自分たち自身の問題だからだ。
国政のことをとやかく言うのはある意味容易い。本当に俺たちが一歩を踏み出すのは、自分の住んでいるコミュニティーからだ。

公共を再生するってのは、こういう身近な足元からはじめるしかないんだと思う。
どっちにしても俺たち庶民にはそれしかできない。
けど、それは消費者でも、生活者でもなく、市民として生きるためには避けて通れない道だろう。

2026/03/21

POST#1795 大阪都構想という名の『大阪経済特区構想』

大阪

そして維新の会の皆さんが、何度投票で住民に必要ないといわれてもへこたれない大阪都構想だ。過去2回の住民投票で否決されまたが、日本維新の会は3度目の挑戦に向けた動きを見せているそうな。こいつも「大阪経済特区」を作るようなものではないだろうか?

大阪都構想は「大阪全体を一つの強力な経済特区(ゾーン)として機能させるための土台作り」という側面が非常に強くって、俺にはリバタリアン的な「特区」の発想と共通しているように見えてるんだ。
そのポイントを洗い出してみると、こんな感じか。 
①「特区」としての大阪都構想
一元的な意思決定(スピードアップ): 府と市がバラバラに持っていた権限を一つにまとめ、大阪全体を一つの「ゾーン」として迅速に成長戦略(IR誘致やインフラ整備など)を実行できる体制を目指している。
②規制緩和の呼び水
 維新の会は都構想とセットで「国家戦略特区」などを活用し、金融やエネルギー、ライフサイエンス分野での税制優遇や規制緩和を積極的に進めています。まぁ、税制優遇ってことは、日本の納税者の納めた税金を投入してもらいつつ、その特区に来た連中は低い税率や緩い規制で大盤振る舞いしてもらえるということだ。
③統治機構の実験
 既存の「市」という枠組みを壊し、新たな「特別区」という統治形態を作る試み自体が、国家のあり方を変える一つの実験的な「特区構想」と言えるだろう。 

じゃ、なぜ「ゾーン」的なのかを深堀してみるべ。
通常の特区は特定のビジネス領域を対象にしているけれど、都構想は「行政システムそのもの」を成長に特化した形に作り替えるものなんだ。つまり、住民の福祉や生活は置き去りにされる可能性もあるんだ。
「二重行政の解消」によって生まれた財源やパワーを、成長戦略(ゾーンの価値向上)に集中投下するというロジックは、非常に戦略的でリバタリアン的な合理性に通じている。 

これに加えて、日本維新の会 が主張する 議員定数削減は民主主義の平等性の理念に反する非常にリバタリアン的な発想だとしか俺には思えない。

まさに、こここそが「リバタリアン的な合理性」と「民主主義の平等性」が真っ向からぶつかるポイントだ。
リバタリアン的な視点では、議員定数削減は以下のように正当化されるんだろう。
①「コスト」としての政治:
政治家も一種の「コスト」とみなし、行政の肥大化を防ぐために削減を求める。つまり維新の皆さんの大好きな身を切る改革だ。しかし、円安とインフレによる影響もあり、わが国の予算は毎年過去最高を更新中だ。そんな中で議員の歳費など、嵐の中の屁の一発じゃないか。まぁ、党議拘束で自分の見識も表明できないような議員なら、いらんと言えば要らんが。
②受益と負担の適正化
「身を切る改革」によって、有権者に負担を強いる前にまず自分たちの特権を削るという論理ももちろんあるだろう。しかし、これは「民主主義の理念」から見ると、次のような重大な懸念が生じると思うのは、俺だけか?

まず『多様な意見の切り捨て』
 定数が減れば、少数派の声が議会に届きにくくなり、大政党に有利な構造になるんじゃないか?
次に『一票の格差と平等性』
 1人の議員が代表する人口が増えることで、有権者一人ひとりの影響力が薄まり、参政権の平等性が損なわれる可能性があります。すでに田舎の有権者一人に対して大都会の有権者は3人前というくらいに一票の格差は開いている。これはひどい。
加えて『チェック機能の低下』
 議員が少なすぎると、行政(首長)に対する監視機能が弱まり、独裁的な運営を許しかねないというリスクがある。健全な野党が必要なんだ。

維新の会は「効率的な意思決定」を重視してる。もちろん、戦後最速の予算案衆議院通過をやり遂げた高市内閣もそうだろうけれどね。効率的だからといって、皆が納得する者かどうかは別の問題だ。
それは「熟議や多様性の確保」という民主主義のコストを削ることでもあるんじゃないかね。
この「効率(リバタリアン的)」か「プロセス(民主主義的)」かという対立は、維新の政策を考える上で最も重要な視点の一つと言えるだろう。
だいたい、ろくに話し合いもせず多数決だけで決めるなんて、小学校の学級会以下じゃないか? 

2026/03/20

POST#1794 春分の日に墓参りもいかず夢洲IRを考える

BangKok,Thai
今日は春分の日だ。
遥か昔には、女たちは日の出とともに東に向かって歩み、太陽が南中すると今度は西に向かって歩むという風習があったのだと、折口信夫🔗の文章で読んだことがある。
しかし、俺は墓参りもいかず、もちろん太陽を追いかけることもなく、ダラダラ眠り、読書して暮らしてる。優雅なものだ。老後はかくあるべしだな。

一時期、同業者の同年配の経営者、つまり日本のごく普通のおっさんたちと話をすると、かなりの割合で維新の会の支持者が多かった。
自分はその創設者たちの経済成長第一で、小さな政府を志向するリバタリアン的な数々な言動に辟易していたので、どうしても交換を持つことができなかった。また、どちらかというと右派的な国家観、歴史観も自分とは相いれない。
そんな右派的な主張を持つ維新の会が、なぜ万博を利用して夢洲のインフラ整備を行い、国家機能を弱体化させるようなIRのような特区=「ゾーン」を作ることに邁進するのか?

確かに、大阪IR(統合型リゾート)の推進は、リバタリアンの核心である「個人の自由(選択)」と「市場原理」を重視する姿勢が色濃く出てるといえるじゃなかろうか。
リバタリアン的な視点で見ると、次のようなのポイントが合致していると言えそうだ。

①自己責任と自由: 
「ギャンブル(カジノ)をするかどうかは個人の自由であり、政府が過度に禁止すべきではない」という考え方。日本は表向きはギャンブル禁止だけれど、親方日の丸のギャンブルは公認だからな…。

②民間活力の利用: 
公金に頼るのではなく、民間企業の投資によって経済を活性化させ、その収益を社会に還元する仕組みを重視しています。しかし、特区を作るために万博まで動員してインフラを整備し、地ならししてるってのは、どうなのよ?と思わずにいられない。何しろその原資は税金だからだ。

③規制緩和: 
特定の区域において規制を緩め、ビジネスの自由度を高めることで成長を狙う「特区」の考え方は、まさにリバタリアン的だといえるだろうな。

一方で、IRには「公的な認可(独占権の付与)」や「厳しい入場規制・依存症対策」といった政府による強い管理も伴う。そりゃそうだろう。日本人、特に大阪近辺の連中がギャン中だらけになっては困るってもんだ。
そこを加味すると、「経済成長のための戦略的な自由化」という側面が強いかもしれないな。

確かに、一見すると「強い国家」や「伝統的な主権」を重んじる保守・右派的なスタンスと、国家の法規制をあえて外す「ゾーン(特区)」の建設は矛盾しているように見える。
しかし、昨日も紹介したスロボディアンが分析する「破壊系資本主義(クラックアップ・カピタリズム)」の文脈で解釈すると、日本維新の会が目指す方向性には、ある種の「新自由主義的な合理性」が見て取れるといえるだろう。

なぜ彼らが夢洲の「ゾーン」実現に邁進するのか?
その背景には以下の3つのロジックがあると考えられるんじゃないかな。

①「国家」ではなく「都市」を単位とした生存戦略
彼らの主張の根底には、日本という国家全体の機能不全(中央集権の限界)への強い不信感がありる。「国家全体を一度に変えるのは不可能だが、特定のエリア(夢洲など)を切り出し、そこをグローバル資本が活動しやすい『ゾーン』にすることで、地域の経済を劇的に成長させる」という考え方だ。
彼らにとっての「愛国」とは、国全体の統制を守ることではなく、「一部のエリアを世界で最も稼げる場所に変え、外資を呼び込むこと」に置き換わっていると言えるだろう。
もっとも、本人たちは否定するだろうけど。日本維新の会といっても、その土台は大阪維新の会だからな。ずばり地域政党だ。

②「規制」こそが敵という保守観
維新の会などの勢力にとって、守るべきは「古い官僚機構や規制」ではなく、「自由な市場競争」だ。彼らにとっての「国家の弱体化」とは、ゾーンを作ることではなく、むしろ「古い規制が経済成長を妨げている状態」を指ししている。
スロボディアンが描くリバタリアン(自由至上主義者)たちは、民主主義の手続きを「成長を邪魔するコスト」と見なしているけれど、それと同じように、維新の「決定できる政治」というスローガンは、ゾーン内での迅速な意思決定を重視するこの思想と親和性が高いといえるだろう。

③ 主権の「断片化」による効率化
かつての右派は「領土の隅々まで国家の法が及ぶこと」を重視した。日本全国津々浦々だ。しかし、現代の破壊系資本主義に近い右派は、「稼げる場所(ゾーン)と、そうでない場所を分けること」を効率的だと考えているようだ。

昨日からの考えをまとめると、
米軍基地: 安全保障を「外注」するためのゾーン
IR(夢洲): 経済成長を「外注(外資導入)」するためのゾーン
ということになるのかな。

彼らにとって、これらは国家を弱体化させるものではなく、むしろ「重荷(コストや規制)を切り離し、生存の可能性を広げるための戦略的な割れ目(クラック)」として正当化されている可能性があるんじゃなかろうか。
つまり、彼らが守ろうとしているのは「均質な法治国家」ではなく、「グローバル経済の荒波で生き残るための、断片化された競争力のある拠点」なのだと解釈できるだろう。

けれど、その結果市民の福祉が削られ、法規制による市民への保護が部分的に放棄され(最低賃金や労働法規の無視や日米地位協定下での米軍族の犯罪に対する裁判権の不備なんかだな)、国や自治体が豊かになったところで、何の意味がある?
政治の役割は富の再分配であり、市民の幸福の増進だと信じている俺からすると、まったく意味不明だ。

こんなのが国土を虫食い状に侵食して言ったなら、どうなるだろう?
もちろん、在日米軍への思いやり予算もそうだけれど、こうした特区のインフラは、国民の税金からドバドバと投入されている。
残念ながら、日本はもうそんなに裕福じゃない。借金だるまだ。アメリカにもいいカモにされている。こんなことで、いいのかな?

君ならどうする?