2026/08/12

POST#1937 盛夏、百花繚乱その8

Ubud,Bali アカポゲットウ
世間様はすでにお盆休みムードだろうか。

俺は二晩続けて朝の五時過ぎまで働いて、フラフラだ。

そもそも人間は夜活動するようにはできていない。

夜八時から翌朝五時までとしても、昼間の労働時間を考えたら大したことはないと思うだろう。しかし、夜働くってのは予想以上に厳しいもんだぜ。とりわけ初老のおっさんにはね。

せいぜい熱中症でぽっくり行かないように、気をつけるさ。

さ、今夜も仕事だから眠らせてもらうぜ。この暑さですっかり参ってるんだ。

よしんば、ぽっくり行ったとて、馬鹿が一匹減っただけだけどね。

あぁ、墓参りもいかないといけないな。不死身のくそジジイもつれていかないとな。やれやれ、たまらないぜ。

R.I.P

 

2026/08/11

POST#1936 盛夏、百花繚乱その7


Ubud,Bali ブーゲンビリアが咲いていた
バリ島では、死者の魂はその神聖な山、アグン山🔗へと登り、そこで祖霊と一体化すると信じられてきた。

山の日だそうだ。
古くから、日本人は山は他界だと観念してきた。
ニライカナイ🔗補陀落🔗のような海上他界の観念もあるが、大部分の日本の常民たちにとって、死者の魂が赴くところは山の中であった。
そう思うと、このお盆の直前の時期に、山の日という形で休日が設けられたのは、どこか意味深長なものを感じる。
山の奥の死者の住まう霊域から、迎え火を頼りに祖霊は里に下りてくる。
人々は、古来、その祖霊を迎え、もてなしたのだ。
生者の住まう里と、死者の住まう山中他界は画然と仕切られていた。そこには、死者への懐旧の情以上に、死者への惧れの念があるよう感じる。
いずれにせよ、山は聖なる他界だった。死者の魂は、御嶽山や白山のような霊峰に上り、祖霊と一体化すると観念されていた。

しかし、さらにさかのぼってみればどうだろう。
更に古く、縄文の頃には、円形状に組み立てられた集落の真ん中に、広場があり、死者はその広場に葬られたという。
集落の、そして都市の構造は、そこに住まう者たちの世界観を表している。
この広場で死者をしのんで踊るとき、死者たちは生者の中に混じって立ち現れ、ともに歌い踊ったと観念されていたことだろう。そこに盆踊りの源があるのではないかと夢想する。

このころ、生まれて間もなく死んだ子供や胎児は、竪穴式住居の間口に葬られたという。
家人がそこをまたぐたび、その魂が母親の股をくぐり再び体に入り懐妊し、速やかに生者の世界に戻ってくることが望まれていたと考えられるという。
いつの頃からか、生者と死者の世界は明確に区切られ、生者と死者は春秋の彼岸、そしてお盆などにしかつながらないと考えられるようになった。
死者たちは、いつしか山奥にあるいは海の彼方に追われたのだ。
しかし、俺は想うのさ。本当は死者たちは、俺たちの血の中にこそ息づいているって。

2026/08/10

POST#1935 盛夏、百花繚乱その6

路傍の朝顔と蝶
先日、Youtubeのリコメンドに、蝶とトンボをよく見る人、先祖に見守られているという動画が上がってきた。

バカバカしすぎて、見る気にもならなかった。俺は去年の秋、京都の鴨川の川面に、無数のトンボが群れを成している無限のような光景を見たが、そのあとに俺を待っていた運命は、お世辞にも先祖のお導きには程遠い無残なものだった。

昔、ある女性が自分を溺愛していた父親が、死んだ後も蝶などに姿を借りて自分の周りに現れると語るのを聞いた。

冗談じゃない。

俺にとって、家の周りを飛ぶアゲハ蝶は、息子が小学校に入ったときにもらったレモンの葉を食い散らかして丸裸にしてしまう幼虫の卵を産み付ける害虫でしかない。あの黄緑色で、盛大に糞をまき散らす芋虫だ。

近縁のキアゲハは、パスタやサラダに添えるためにプランターで育てているパセリを食い尽くしてしまう幼虫の卵を産み付ける。緑と黒の毒々しい縞模様の幼虫だ。ぞっとするぜ。

アサガオを食害するのはスズメガだ。

虫はしょせん、虫でしかない。親しい人々の魂なんかじゃない。俺の死んだ母や祖父の魂は、俺の血の中にこそ宿っている。そして、もし俺が死んだとしても、息子の血の中に俺は生き続ける。