2011/08/01

Post #261 Responsibility

悪いけど、今日は何も話したいこともない。
HomeTown
別に、気分が落ち込んでいるとかって訳じゃないんだけどね。体調が悪いわけでもないしね。金を振り込み、客先周りをし、仕事の電話をほうぼうにかける。そんなどうってことのない一日が、ただ過ぎただけのことだ。俺にとっては平和な一日だ。
HomeTown
俺が平々凡々に暮らしている間にも、アメリカの議会で、民主党・政府と共和党の間で妥協が成立し、大方の予想通りデフォルトは回避されたそうだな。それはそれで一安心だ。万一の時は世界恐慌になるかと思っていたんだ。金でも買っておけばよかったって後悔してたくらいさ。とはいえ、そんな銭は昔も今も持っちゃいなんだがね。
しかし、デフォルトを回避するために、政府がもくろんでいた高額所得者に対する増税は見送られたようだ。アメリカ人は、貧乏人に優しくない連中だ。イマイチ好きになれないのはそのせいかもな。しかし、金持ちが税金を出し渋るのは、何処だって同じだ。手取りが860万もある奴でも、子供手当がもらえるってのも、似たような話だ。まったく、俺のよーな貧乏人は、否応なくケツの毛まで抜かれちまうってのにな。
さて、アメリカだが、どうしてこんなに借金が膨らんだのか?
それにはいろいろな理由があるだろうが、大きな要因は、共和党政権時代にアメリカがおっぱじめた戦争のコストが財政運営に重くのしかかってるのは、間違いないだろうな。
まったくもって、戦争ってのはコストがかかるったらないぜ。どこぞの国の原発と同じだ。動き出したら、なかなか引き返せないのさ。なんてったって、それはそれでうまい汁にありつく奴らが大勢いるからな。しかも、そいつらはいつだって自分は安全なところで、偉そうにしてるんだ。間違っても自分の手を汚したり、汗をかいたりはしないんだ。
そうはいっても、民主党政権も財政再建のために突っ張ってみせて、その挙句にデフォルトを引き起こすわけにはいかないってのが正直なところだろう。オバマだって世界に対する責任があるからな。苦渋の決断だったことだろう。
責任があるからこそ、妥協しなけりゃならないってものだ。
責任の無い奴は、何時だって調子のいいことを言うもんだ。
ふむ、日本でも同じような構図があるように感じるぜ。まぁ、俺のような庶民にゃカンケーないが、世の中、難しいもんだねぇ。間違っても偉くなんかなりたかないわな。まぁ、偉い奴になる気遣いなんか、正直サラサラないけどね。それはそれで、男として寂しい限りだが、ココはいっちょう、巻懐孤高を気取ってるってことにしておこうや。カッコいいもんだぜ。ちなみに巻懐ってのは、論語に出てくる言葉だ。世間に道義が行われていないのならば、懐に巻き取っておさめてしまうように、自分が社会の表舞台に立つことなく、ひっそりと隠れるように暮らすってことだ。諸君、ご存じだったかな。
とはいえ、中身のある奴が言えば、それなりに様になろうってもんだが、俺のような道楽者が言ったって、みんなに鼻で笑われちまうのが関の山さ。
さてと今夜はこんなところで、失礼させて頂くぜ。

2011/07/31

Post #260 I Thank You

いきなりのっけから、サム&デイブの歌みたいだが、この寝言のようなブログもついに10,000PVを達成したんだ。どうもありがとう!
分かりにくい写真と、独断と偏見に満ち満ちた長ったらしい文章の二本立てだ。他所のブログのように、素敵な写真ですねなんてコメントもほとんどない。素敵な写真じゃないから、しょうがない。むしろ、ノイジーで違和感を与えるような写真だ。けれど、ようやくここまでたどり着いたんだ。大した数字じゃ無いさ、けれど数少ない読者の皆さんに支えられて、ここまでやってきた。どうもありがとう、辛抱強く付き合ってくれた読者の皆さんのおかげだ。今後もよろしくお付き合いくださることを、厚かましくもお願いさせてもらうぜ。いや、ホント、どうもありがとう。
Paris
プリントをしている時、暗室につかっている洗面所を出て、飲み物を飲みながら一息ついたりする。そんなとき、本棚から任意に写真集を取り出しては、ながめてみるんだ。
アウグスト・ザンダー、ウィリアム・クライン、ロバート、フランク、エド・ヴァン・デル・エルスケン、東松照明、森山大道、荒木経惟などなど・・・。
俺は、正規に写真を習ったことはないけれど、自分の写真が、出来ることならそれらの偉大な写真家の、偉大な仕事の系譜に繋がっていてほしいと、プリントの合間にいつも願っているんだ。おこがましい事だけれど、そう願わずにいられない。
モノクロ写真こそ、写真のαにしてΩだと俺は思っている。出来ることなら、これからも、ジジイになってもこのやり方を変えずに、ほっつき歩いて写真を撮ってはプリントしていきたいと思う。
そして、難しい事だけれど、モノクロ写真を楽しむ人が、出来ることなら若い人が、増えてくれるとうれしい。そして、お互いの写真について、語り合ったりできたら、きっと楽しい時間を過ごすことができるだろう。いつか、そんな日が来てほしい。しかし、難しいだろうな。あんまりにもモノクロ写真は手間と時間とコストがかかるからね。
Paris
スーツで決めて、ムーランルージュに向かう俺
俺の愛するロックバンド The Whoのギタリスト、ピート・タウンゼントは、生まれながらに鼻がデカかった。子供の頃からデカい鼻のおかげでさんざん周りから馬鹿にされてきた。そのコンプレックスを跳ね返すために、ひたすらピートはギターに打ち込み、バンドを成功させて世界的なロックバンドのギタリストになった。いい話だと、俺はいつも思う。
真夏のクソ熱い暗室で、汗をぬぐいながら、あるいは真冬の厳しい寒さに震えあがりながら、それでもプリントをはじめるとやめられないのは、どうしてだろう。
足を靴擦れだらけにして歩き回り、時にはトラブルになりながらも、写真を撮り続けるのは、どうしてだろう。
いつも、心のどこかで疑問に思っていた。そして、先日暗室の赤い灯の下、現像液に浸された印画紙に、徐々に像が浮かび上がってくるのを見ながら気が付いた。
俺の中には、きっと何か欠けたところがあって、それを埋めるために、必死にやっているに違いないんだろうって。言い換えれば、それは果たされる事のない復讐のようなものかもしれない。
何かに狂ったように打ち込む人間は、きっと心の中に、満たされない欠損を抱えているに違いない。
そんな欠損など、無いにこしたことはない。けれど、何らかの欠損を抱え込み、それを埋めようと足掻いてもがいて行くことで、本当の人生ってもんが始まる気がする。その挙句、ゴッホみたいに耳を切り取ったり、太宰治のように女と心中したりすることになるのかもしれないが。

なんだか、不吉な話になってしまったな。しかし、誰しも心の中に欠損を持たない人はいないだろう。俺はその欠損を埋める手立てとして、写真を選び取ったってことだろう。
人生は短いようで長い。だから人生には暇潰しが必要だ。その暇潰しによって、自らのなかにぽかりと開いた暗くて深い穴が埋まるのなら、結構なことだと思はないか?
そう、それはそれは切実な暇潰しなんだ。
OK、今夜は久々に仕事なんだ。こんなところで失礼するぜ。
読者諸君、いつもありがとう。そして、これからもよろしく。

2011/07/30

Post #259 祭りの夜に

俺の住む町では、この週末祭りがおこなわれている。
俺がガキの頃から、いやひょっとしたらオヤジのキンタマの中でフラフラ泳いでいた頃から続く祭りだ。七夕祭りだ。かつて、繊維産業が盛んだったころ、この地で働く女工たちは、織姫と呼ばれていたそうだ。で、女工→織姫→七夕という構図であるようだ。かつて、この地域で繊維産業が盛んだったころに始まった祭りだが、とっくに繊維産業がダメになった今でも続いている。市民の中には、もう繊維産業の時代じゃないんだから、止めてはどうかという声もあるが、例年何だかんだと人が集まるようなので、なかなか無くなりませんなぁ。
今も昔も、商店街のアーケードはけばけばしいアーチや吹き流しでこれでもかってくらい飾り付けられ、一見華やかに見えるんだ。華やかに見えるんだが、肝心の商店街は、シャッター通りだ。残念だ。残念きわまる。
Paris
ジプシーの物乞いは、ヨーロッパではおなじみだ。
俺は、基本的に神様の絡んでいないお祭り騒ぎは、好きじゃない。
つまり、地域振興とかいう美名のもと、人間の商売っ気とご都合主義で繰り広げられる、信仰の絡んでいない祭りは、どこか空虚で、これといった中心がなく、祭り特有の熱気ちゅうもんが感じられないんだなぁ、残念ながら。神様とマツワルから祭りなんであって、神と人が互いに交わるからこそ、共同体に熱気が生みだされ、神の恩恵が人々に及ぼされるわけだ。つまり、神様不在の祭りは、単なるお祭り騒ぎってことだ。祭りとお祭り、似ているようで、実は大きく違うわけだ。
だから、今夜も祭りにはいかなかった。写真を撮りにいかないのかとも思うが、みっともなく浴衣を着崩した小娘なんざ、撮りたかぁないのさ。吹き流しの下を人の流れにのってふらふら歩き、アニメのキャラクターをあしらったアーチをいくつくぐっても、なんだか物寂しいのさ。

子供の頃、やはりこの祭りに出かけたことが何度となくあった。そして、その中で最も印象に残っているのは、商店街に面した市役所の門前で、悲しげな音色でアコーディオンをかなで、白い着物に旧日本軍の帽子をかぶった、物乞いの一団の事だ。
俺は、まだ小学校に上がっていなかったろう。6、7人の傷痍軍人が、立てる者は立ち並び、足の不自由な者は、その前にしゃがみ込んでいた。立っている者も、盲人や腕の無い者など、五体満足な者はいない。そんな一団が、祭りで浮き立った気分の人々に、何度もなんども頭を下げ、物乞いしていた。そして、そこだけは暗い雰囲気が立ち込めていたんだ。そう、国家の仕掛けた戦争によって、心ならずも五体不満足になってしまった人々が、終戦直後から蘇ってきた亡霊のようにみえたんだ。
今なら、きっとNPOなんかが募金をしたりして、この戦争の犠牲者が、人々に直接物乞いすることなどないのだろう。いや、きっとあの亡霊のような戦争の犠牲者の皆さんは、もうお亡くなりになっておいでなのだろう。
子供心に、人間の肉体をいともたやすく損ない、タバコの吸い殻を投げ捨てるように命を奪っていく戦争は、本当に嫌なもんだと思ったものさ。そして、もし今の俺がそんな光景に出合ったなら、迷わず写真に撮るだろう。それを非難する人もきっといるだろう。けれど、俺は忘れてはならない戦争の記憶を、自らが経験することが出来なかった戦争の記憶と、その愚行の結末を心に刻みつけるために、写真を撮りたいんだ。
Amsterdam
この物乞いは賑やかなカラクリ車で人々に注目されている

幸いな事に、日本は豊かな国になり、物乞う人を見かけることは無くなった。ヨーロッパやアジアで目にするように、身障者が物乞いしているような光景にも出くわすこともない。
それだけでも、この国は大したもんだと思うぜ。舵取りさえ間違えなけりゃ、必ず立ち直るだろう。舵取りさえ間違えなけりゃね。

そんなことを想いながら、今日も家にこもってひたすらプリントしていた。アムステルダム25カット、フィルム1本半。もう一息でこのフィルムの分がカタが付く、もうひと踏ん張りだと思っていた時、引伸機の電球が球切れしやがった。人間も引伸機も、タマ無しじゃ使いもんにならねぇ。人間ならゲイバーなんかで使い道もあるかと思うが、引伸機は何ともならないんだ。もちろん、我が家にそんなストックがあるわけでもない。今日は食い足りない気分だが、撤収だ。残念だ、至極残念だ。残念きわまる。
読者諸君、今夜はこんなとりとめもない思い出話で、申し訳ない。失礼するぜ。