2026/09/09

Post#1964 人は読書という愉しみを忘れている

Katmandu,Asan Dabu,Nepal 抽象的とは対極にある世界だ
今夜はちょっと仕事がある。

線状降水帯が居座らないことを祈るばかりだ。

気圧が低いと、頭がぼーっとして、考えることも億劫になる。

読みかけの現代イスラーム金融論を開いたまま転寝してしまう。それでも第六章までこぎつけたけどね。

頭が動いていないとき、抽象的な内容の本を読むのは骨が折れる。

鬱病の最盛期みたいに、読んでも読んでも文字の羅列にしか見えてこない。意味が頭に入ってこないんだ。

そんな時、俺は本に書いてある文章を、声に出して読んでみる。

一人で机に向かい、文章を目で追いながら、その一言一言を声に出す。小学生が教科書を音読するように。

そういえば、かつての日本人は、黙読というスキルを持っていなかった。

明治時代の初め頃に活躍した人々は、皆寺子屋で漢文を素読、つまり読み下して声に出して学んでいたんだ。

すると、さび付いていた脳の回路が少しづつ結合してくる。電気信号がシナプスの間を伝達し、脳内に抽象的なイメージが形のない形として立体的に立ち上がってくる。

自分の脳内に格納されている様々な知識と接触し、異分野の知識同士が引き合い、意味を成し、強度と奥行きを作り出す。自分自身の実生活の体験と響き合う。抽象的な意味がまるで手で触れることができるようにはっきりイメージされてゆく。イメージと意味の連環が生まれるんだ。フラクタル図形のように、次々と疑問や関連知識が引き出され回転してゆく。

経済学の本を読んでいても、人類学や、歴史学、ロックやファンクなどの音楽に関する知識などが次々立ち上がり、意味を補強し、強度を与えてくれる。

だんだんと脳の回路が形成され、思考スピードが上がってくると、鈍重な飛行機が離陸するように、音読しなくても意味が頭に入ってくる。

20分もそんなことをしていると、自分自身と向き合っている本の世界以外、どうでもよくなる。

どうして、今の人々が本を読むという楽しみを忘れているのか、意味が解らないね。

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