2026/09/22

POST#1969 風見鶏みたいなメディアにみんな踊らされていないか?

ベトナム阮朝の旧都フエ、庶民の住むエリアはこんな感じだ

三笠宮家の彬子女王殿下に関して、ちょっと前まで著書『京都の書きもの』や、イギリス留学時の経験を綴った『赤と青のガウン』がベストセラーとなっちゃって、その親しみやすい文体や内容から大きな注目と人気を集めたりしたのは皆の衆もご存じかと思う。確か赤と青のガウンは、漫画にもなってたような覚えもあるぞ。皇族方としてはめずらしくメディア露出が増えたことで、多くの国民に身近な存在として認知されるようになって人気もうなぎ登りだったわけだ。

しかし、世の中は非情だ。

男性皇族の減少と、それに伴う女性皇族の公務の増加に対応するために、彬子女王に関して皇族費が倍増され、また麻生副総裁と高市首相がゴリゴリと進めて改悪してしまった皇室典範の議論の一環で、彼女の母親が麻生太郎の妹であり、彬子女王は麻生一族であるという言説や、彬子女王が旧宮家から養子をとって、その子どもが皇統を担うことになったら、麻生王朝だとかいう極端な話が飛び出してきた途端、ネット上などで批判的な言説やバッシングが、雲霞のごとく巻き起こってるぜ。

 しかし、一歩引いて考えてみると、皇族費が倍額になったり、皇室典範の話で、麻生太郎の姪であることが広く知られることとなったとしても、御本人の中身がかわったわけでも何でもないのではなかろうか?

なぜみんながそこでこう、急に手のひらを返したように批判しだすのかが、全く俺には訳が分からないぜ。まさに掌返しって奴だ。

たとえ「親しみやすさ」から「公的責任」へと関心のフィルターが変わったからといっても、彼女の中身が変わったわけじゃない。

たしかに最初は「ベストセラーを出した親しみやすく魅力的な皇族」という個人のキャラクターに注目が集まっていた面はあるだろう。で、皇族費の増額や皇室典範改正といった「税金」や「国家の制度」が絡むニュースが出たことで、世間の見る目が「魅力的な個人」から「公的な制度の対象(あるいは象徴)」へと移り変わったという面もあるだろう。

だからといって、ご本人の中身がすっかり入れ替わってしまったわけではない。変わったのはその状況だけだ。

政治的・制度的な議論への「巻き込まれ」というとばっちりもあるにはあるだろう。

皇室典範の改正や女性皇族のあり方は、国民の間でも意見が大きく分かれる非常にセンシティブな政治的テーマだわな。

麻生漫☆画太郎センセーとの縁戚関係などが報じられると、ご本人の意思とは無関係に、「その制度改正に賛成する勢力」や「反対する勢力」の思惑の渦中に置かれてしまう事もあるだろう。

その結果として、制度や政治に対する不満や警戒感が、その象徴として見なされた個人へのバッシングという形に形を変えて噴出しているという状況だわな。

しかも、現代のメディアやSNSというクソな界隈では、極端な意見や対立を煽る構図(「絶賛」から「批判」へなど)のほうが注目=アクセス数を集めやすいという特性がある。

アクセス数が稼げる方が商売として成り立つのさ。そのため、一部の批判的な声がネット上で過剰にクローズアップされ、まるで「世論全体が手のひらを返した」かのように見えてしまう現象が起きているんだ。

だったら本人にはどうにもできないことなんだったら、本人も世間は放っておけばいいんじゃないかと俺はおもうのさ。泰然自若としていればいいんだ。

にもかかわらず、なぜ世間様やメディアの連中が「放っておかない」のかについては、皇室という存在が持つ「公の性質」と、国民側の心理に理由があるだろう。

つまりあれだ、金と国の制度の根幹がらみだ。

まずけち臭い話だが、「公金(税金)」が関わるという側面がある。

皇族方の生活や活動は、国民の税金(皇族費など)によって支えられているのは、皆様ご存じの通り。

そのため、金額の変更や制度の改正が議論になると、国民側には「自分たちの税金の使い道や、国のあり方に関わる問題だ」という当事者意識が生まれるという寸法だ。てなわけで、金が絡むと途端に「個人の私生活」として放っておくことが難しくなり、公的な監視や議論の対象になってしまうというあさましい側面がある。

しかし、政治家や官僚の無駄使やあほらしい政策には誰も自分に関わることとは考えないのは、解せないな。

そして「象徴」としての宿命ってのもあるだろう。

皇族方は憲法上、「国や国民の統合の象徴」として定められている。

おかげさんで、皇族方に関することは「一個人の人間」としてではなく、「皇室というシステムそのもの」として見られがちなんだとさ。村社会だな。

既存の社会システムに対する不満や、皇室典範改正などの制度設計巡る対立があるとき、その象徴である個人に人々の感情や意見が向けられてしまうという、構造的な宿命があるにはあるだろう。しかし、それとてご本人にはいかんともしがたいことだ。

そして、これが一番俺が納得いかない話だが、皇族方は反論や自己弁護が難しい立場におありだ。

一般の芸能人や政治家であれば、誤解に対して自身のSNSや会見で自由に反論したり、経緯を説明したりできるだろう。

裁判で白黒つけることもあるだろう。

しかし、皇族という立場上、政治的な議論やメディアのバッシングに対して自ら積極的に反論したり、個人の見解を発信したりすることは極めて困難だ。

この「反論できない」という立場が、結果としてメディアやネット上の無責任な発言をエスカレートさせやすい土壌を作っている面もあるだろう。しかしそれは、人間として卑劣な行いじゃないのか?

税金の使い道でもっとこう追求されるべき人は一杯いると思います。恐れ多くも皇族の方々にそういうことを言うのはよろしくないんじゃないかな。

俺に言わせてもらえば、政治家や行政の不祥事など、より厳しく追及されるべき公金の問題が多く存在する中で、反論できない立場にある皇族が標的になることへの違和感や不条理さを感じざるを得ないぜ。

っていうか、そんなことメディアが言わなかったら誰もそんなこと思わないんじゃないかな?メディアが笛を吹くから、世間の連中が考えなしに踊るだけの話だと思うけどな。どうだろう。

俺は、誰もが自分の頭で考えてものをいうべきだと思うぜ。 

『孟子』公孫丑下などに記されている春秋時代の魯の賢人・柳下恵(りゅうかけい)は、三度大臣に任じられ、三度罷免された。

それを友人に問われたところ、大臣の位が尊いのなら、自分の尊厳にかかわりないことだ。また、自分の尊厳が大臣の位でなく、自分自身にあるのなら、大臣の位など自分には何物でもないと答えたという。俺は少年の頃に読んでたいそう感心したよ。

柳下恵は、どれほど不条理な理由で大臣(士師)の位を追われようとも、またどれほど卑しい君主に仕えようとも、決して自らの内なる「芯(尊厳)」を犯されることはなかった。

外側から与えられる「大臣」という記号やラベリング、あるいは周囲のバッシングといったノイズは、「自分自身の価値とは1ミリも関係のない、外側の借り物」に過ぎなかったというわけだ。

すべからく、人はこう生きていきたいものだな。

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