2012/09/02

Post #615 かつて、ある日曜日に

かつて、香港に旅行した時のことだ。
ある日曜日、九龍半島の觀塘の碼頭からフェリーに乗って香港島にわたった。
そこはどこかうらぶれた港町だった。地下鉄を降りて、碼頭までの道すがら、人の姿を見ることも少なく、港湾エリアによく見られるような倉庫が立ち並ぶ、どこか殺風景な港町だった。
フェリーに乗り込むと、乗客もまばらだった。俺はいかにも遠くまで旅に来たという思いに満足していたんだ。
フェリーは觀塘と北角を結ぶ。この北角の碼頭を降りると、そこには海港道という庶民の市場があるはずだった。俺はそれを見にゆくつもりだったのだ。
しかし、田舎くさい港を降りるとそこには、多くの女性が集まっていた。
NorthPoint,HongKong
中華系の人々ではない。南方の人々だ。なかには頭にスカーフを巻いている人もいる。イスラム教徒だろう。すべて女性ばかり。聞きなれない言葉で世間話に興じているのだ。コンクリートの打ちっぱなしの床に敷物を広げ、弁当のようなものを囲んで、数人のグループに分かれてお喋りを繰り広げている。きっと、出身地が同じ者同士が寄り集まり、親類縁者の話題に花を咲かせているに違いない。その声は、まるで無数の鳥がさえずっているようだった。
遠景に強い日差しにさらされた香港島の中心街にそびえるビル街が見える。しかし、ココはまるで別世界だ。東南アジアそのものだ。
NorthPoint,HongKong
俺はこの風景を目にしたとき、いったい何が起こったのかよくわからなかったが、その日が日曜日だったことに気が付いて腑に落ちた。
出稼ぎメイドに来ているインドネシアの女性たちが、日曜日に休みをもらい、ココに集まってきて、同郷の仲間たちとひと時の歓談を楽しんでいるのだと。
それは、どこかさびしくもあり、それでいて心温まるような風景だった。今日も北角碼頭には、何百人ものインドネシア人の女性たちが集まり、にこやかな笑みを浮かべ、故郷の言葉でさえずるように話し合っていることだろう。
ふと、出張先の港町で、そんな過ぎたある日曜日の風景を思い出したんだ。それだけのことさ。

2012/09/01

Post #614 我に九月を

Kyoto
八月も終わりだ。やっと九月になった。子供たちの夏休みも終わりだ。今年は9月の頭に土日が入るので、何だか夏休みのロスタイムのようだ。
俺にとっての八月は、苛酷な仕事が前半と後半にみっしりだった。そんな仕事にカツサンドのカツのように挟まれて、10日間の旅行といった格好で、俺の43歳の8月は埋め尽くされた訳だ。
もうずいぶん、家を空けている。そろそろ帰りたい。
もうそろそろ、フィルムの現像が上がってきているだろう。帰ってフィルムを受け取り、クソ暑い暗室でプリントしたいんだ。確かにこの時期、クーラーの無い暗室作業は殺人的な暑さが付きもんだ。構わないぜ、どうせ今の現場は毎日サウナに入っているかのように暑いんだ。毎日熱中症寸前だ。大きな窓から陽の光はさんさんと差し込むが、風は通らない。窓は開かないのさ。もちろん、クーラーなんか工事中だから入っちゃいない。一日中、汗をかきながら働いているんだ。毎日の疲労は並じゃない。誰か犠牲になって、熱中症で死んでしまわない限り、この状況は改善しないことだろう。
冗談じゃない。俺はウェストがすっかりすっきりしちまった。ダイエットにはもってこいだ。このままじゃ、真っ先に俺が犠牲になっちまうことだろう。今のうちに香典を集めておくことにするぜ。君も一口どうだい。
そりゃ飯を食うためには、仕事をして稼いでいかねばならない。しかし、俺の人生の限られた時間は、刻一刻と削り取られている。人生は長いようでいて、いつどこから剣が差し込まれるかわからない黒ひげ危機一発のようなものだ。何時時間切れになるか分かったもんじゃない。時間はないんだ。毎日まいにち冷汗脂汗で、熱中症寸前になるまで働くなんて、こんなことやってられないぜ、まったく。
他人はどうだか知らないが、俺の人生にはもっと重要なことがあるんだ。
そう、プリントだ。
暗室が暑くったって、構うもんか、誰の眼も気にせずパンツ一丁でやってりゃいいんだからな。
まだ、プリントしていないネガは山ほどある。俺のこの多忙な生活で、それをすべてかたずけることができるのか、いささか不安になってくるというもんだ。だから、こんな仕事ばかりしている場合ではないんだ。
我に九月を、芸術の秋を与えてくれ。そうしたらきっとまた、スゲーのを君たちにお送りするよ。間違いないぜ、約束するさ。出来ることなら、もうちょっと涼しくなってはくれないかな・・・。
失礼する。 

2012/08/30

Post #613 Gimme Wander

Haw Par Villa,Singapore
俺達は、見たままの世界が世界の全てだと思っている。
既に、各種の科学の発展がこの世界の神秘をことごとく葬り去った。
空に龍が舞うこともない。海の底に我々の世界とは異なる世界があると信じる者はいない。ケッタイナ姿をした深海魚や甲殻類だのが蠢いているだけだ。
白い雪を頂く山々に、神々が住むこともない。ただ、山があるだけだ。そこは空気が薄くて、人間の住む世界ではない。
神々が水晶の巨大な結晶に変化し、天竺から本朝に飛び来たることもない。ジェット機が飛び交うだけだ。
三本足の輝く鴉が、神の使いとして舞い降りることもない。鴉は早朝、ゴミをあさるだけの下賤な鳥に格下げだ。
天空に神々の座は既に無い。そこにはほぼ無限に広がる宇宙空間と互いに気が遠くなるほど離れた恒星が、孤独に回っているだけだ。
俺達は、それを科学の進歩のおかげだと思っている。さまざまな知識を得ることができたんだ、けっこうじゃないか、とね。しかし、世界は不可視の領域を、想像力の領域を失い、俺たちが接する世界は、確実に表面だけの薄っぺらなものに成り果てた。
かつて神の住んでいた森は切り開かれ、住宅地となった。
携帯電話など知らなかった、いわゆる未開の人々が世界を見るとき、現実に見える以上にイメージの世界が目の前に広がっていたんだろうってことは、俺には痛いほど想像できる。目の前のモノは、常に何かを象徴していた。風のそよぎは予兆を語りかけてきた。鳥のさえずりは、迫りくる不幸を告げた。タブーも畏れもなくなり、人間は世界に対する謙虚さを失った。親に対する尊敬芯を失った思春期のガキのようだ。それに比べて、21世紀に生きる俺たちの世界認識は、張りぼてのように表面だけの薄っぺらで、まったく以てお粗末きわまる。
Sir Mariamman Temple,Singapore
俺は、そういった薄っぺらな世界に、ほとほと嫌気がさしてる。驚きを求めているんだ。Gimme Wander だ。
だからどこかグロテスクな神々や仙人や怪物なんかを、大真面目に造形しているようなのを見ると、嬉しくなってくる。日本なら、さしずめ関ヶ原ウォーランドか。あそこも面白かったな。
そんな俺が今回の出張に持ってきた本は、平凡社ライブラリーから2冊、大昔の中国の仙人について書かれた『列仙伝・神仙伝』と、やはり大昔の中国の不思議な出来事を収集した『捜神記』だ。なかなかに面白いぜ。
家に帰ったら、澁澤龍彦の『高岳親王航海記』でも読み直してみたくなってきたぜ。かつて空海のもとで密教を学んだ平安時代の親王が、インドを目指して旅をするという素晴らしい小説だ。かつて、インドは、いかなる怪異すら起こりえる神秘の国だった。今はどうだ?発展途上国からいつの間にか新興国とかラベルが張り替えられて、IT大国だ。つまらん。
現実逃避?別に何と言われても構わないぜ。
俺は現実って奴にいい加減うんざりしてるんだ。ロマンのかけらもありゃしねぇからさ。そう、美しい女はクソもゲップもしないって、信じていたいだろう?現実と虚構の合間にこそ、神秘は生まれるんだぜ。
Gimme Gimme Wander!俺を驚かせてくれ!
読者諸君、失礼する。