2014/08/16

Post #1228

Praha,Czech
時折、俺は俺の写真を見た人から脚フェチですねと言われる事がある。自分では生足よりもストッキングとかの方が好みだと思うが、そういわれたなら、肯定も否定もせずに、ニヤニヤとあいまあな笑みを浮かべる。
以前も触れたことがあるが、その源泉は幼少時に遡るんだろう。けど、それだけではなくて、もうひとつ思いあたる事がある。
あの人は、よくスパッツをはいていた。今から30年近く昔のことだ。
何年か前に、スパッツがレギンスとか名前を変えて大流行したときは、否が応でもあの人の事を思い出した。
あの人のほっそりと伸びた、それでいて決して骨ばったりしていない足は、今日まで俺のなかで確固たる好みとして残っている。
聖子ちゃんカットとかが巷を席巻していた頃、あの人は他人とは少し違う個性的なファッションセンスを持っていた。
まだ今のように。茶髪金髪が当たり前ではなかったあの頃に、フツーに金髪とかにしてたように記憶している。もっとも、それはあの人が高校を卒業してからだったと思うが。
今でも、個性的で大胆なファッションを周囲の目など気にせず楽しんでいる女の子を見ると、好ましく思う。どうぞ、そのまま自分の好みを貫いておくれって思わずにいられない。
タバコを吸う女の子も嫌いじゃない。この俺にタバコを教えてくれたのは、他ならぬあの人だった。MOREというメンソールの長くて細いタバコを物憂げに吸っていた。俺は初めてそのタバコを吸って、頭がクラクラして、あの人と遊びに出掛けていたのに、あの人をおいて帰ってしまったことがあった。遠い夏の事だった。

気がつくと俺が女性の写真ばかり撮っているのは、あの人の面影を探しているからかもしれない。単に女好きという説もあるが、それは当たらずも遠からずだ。

読者諸君、失恋する、いや失礼する。あの人の面影がまだ見つからないので、俺は写真を止められないのさ。

2014/08/15

Post #1227

今日は年に一度の敗戦の日だ。
世間では、終戦記念日という。しかし、あの戦争は単に終わったのではなく、スコンスコンに負けたんだぜ。ワンサイドゲームだ。
終戦と言えばどこか、双方痛み分けで武器を置き、講和に至ったかのような響きがあるが、大日本帝国は完膚なきまでに打ちのめされ、敗北したんだ。言葉のすり替えで、本質を誤魔化しているように思えるのさ。だから、俺は毎年密かに敗戦の日とこの日を呼んでいる。
過去に目を閉ざす者は、未来に対して盲目になる。
国にも、人間にも、いつかきちんと向き合ってかたをつけなきゃいけない事実があるものさ。
恥と後悔の多い俺の場合、数ある清算対象の一つがあの人のことだ。いつかきちんと自分の中で整理しておきたかったんだ。じゃないと俺は過去から自由になれないだろう。たまたまそれが今だったてだけだよ。
Paris
もし俺がみっともなく、二本足の豚のように太ったら、死んだほうがましだ。
たぷたぷした腹を、ベルトの上に乗せて生きるなんて、みっともなくてあの人に会わせる顔がない。

通勤電車に犇めいている、朝から疲れ果てた顔をした、目に光のないそこいらの中年のオジサンのようになってしまったら、とっとと死んだほうがイイ。そんな脱け殻みたいな男に成り下がったら、あの人はきっと俺を軽蔑するだろう。

目先の利益や快楽だけを追い求め、安楽と保身だけしか頭にないなんてつまらない男にはなりたくない。筋の通らないことでも、生活のためといって唯々諾々と従い続けて生きるなんて、真っ平ゴメンなんだ。そんな俺を見たら、あの人の眼差しはますます悲しげに曇ってしまうに違いない。
もし俺が、そこいらのつまらない奴のように、立場に胡座をかいて、実力もないのに偉そうに振る舞ったり、お偉いさんにびびって卑屈になったりしたら。あの人はきっと俺を見損なうことだろう。


そうさ、あの人の眼差しだけは、忘れられないんだ。
俺は目を閉じれば、いつだって思い出せる。たとえ他はもうすっかりあやふやでもね。何十年も想い続けているうちに、俺自身のなかに繰り込まれているんだ。
そして、その少し寂しげな眼差しは、俺の中にしっかり根を張って、俺を見つめている。あの人自身が俺の事をとっくに忘れていたって、(きっと忘れているだろう。あの頃の俺はしょせんその程度の、つまらない奴だった) あの日の眼差しは、俺のなかから俺の事を見据えている。

だから誰も見ていなくても、あの人に恥ずかしい真似なんて、断じて出来るわけがない。
俺が俺でいられるのは、あの人の眼差しが俺自身のなかから、俺を見つめてくれているからさ。
こんなこと、今迄誰にも言ったことがないけと、本当のことさ。


あの人に、いつかどこかで会えるのなら、会うことが許されるのなら、自分が今日までロックンロール・スタイルで生きてきたと、胸を張っていたいんだ。
あの人に、どうだい、ずいぶん長いこと会わなかったけど、俺はちっとも変わっちゃいないんだぜ。いや。むしろカメラ片手に男道を歩き続けて、もっとパワーアップしてるんだ、今がサイコーの俺なんだって言いたいのさ。
そして、今の俺があるのはズバリ君のおかげだよ、ありがとうって言いたいのさ。
そして何より、昔の俺は小さな男で、君の思いにさっぱり応えられなかったヘタレ野郎だった、本当にすまなかったって、心の底から謝りたいのさ。
そして、なによりも、幸せに暮らしていますかって聞きたいのさ。

読者諸君、失礼する。俺は誇り高く生きたいのさ。あの人に恥ずかしくないように。

2014/08/14

Post #1226

Dubrovnik,Croatia
俺は実は、人の顔がよく覚えられない。
正確に言うと、よく覚えていられない。
会えば思い出すんだけれども、今朝、顔を会わせたはずのカミサンの顔すら、細部まで明確に思い出すことができないんだ。
死んでそろそろ30年になろうかと言う母親の顔など、おぼろげな雰囲気しか思い出せない。まるで遠藤ミチロウの『お母さんいい加減あなたの顔など忘れてしまいました』という歌のようだ。

けれども、写真に写った顔ははっきり思い出すことができる。

考えてみれば、生きている人間ってのは、一瞬一瞬刻々と表情を変える。それは感情や意思や体調を伝える表象なんだけれども、その揺らぎが脳裏にブレとなって残り、はっきりした容貌表情を脳裏に確定しないのかもしれないな。記憶をガッチリ固めてしまうと、次にあったとき、以前会ったときとは異なる精神状態で、違う表情をしていたら、同じ相手だと認識できない可能性だって出てくるもんね。
まぁ、プンスカ起こっている相手に、あんた誰?なんて訊いたなら、間違いなく相手はますます激しく怒り狂うんじゃないかな。都合の悪い時に、すっとぼけるにはあまりいい手段とは言えないだろうよ。

その点、写真はいい。その一瞬をフリーズドライするようにして切り取り、固定する。
そこに揺らぎはない。アレブレボケはあるにせよ。
どんなに微笑んでいようが、ある意味それはデスマスクだ。
俺は写真に写った人、とりわけ自分でプリントした人の顔は、そりゃもう明確に思い出すことができる。

なんだか淋しい話だ。


その人の顔を、俺はほとんど思い出せない。


とても大切な人だったはずなのに、一生懸命思い出そうとすればするほど、頭のなかに思い描いたその人の姿形は、不定形に揺らぎ、水が指の間から流れてしまうように、明確な像を結ぶことがない。
もう20年以上会っていないから当然だろう。
俺はその人の写真を、何故か持っていない。
大切な人だったはずなのに。
時折、独りのときに思い出そうとして、どうしてもうまくいかず、やるせないような、泣きたいような気持ちになってくる。
それどころか、もし今その人と街ですれ違ったとしても、わからないかもしれない。
何しろ、歳月は俺の容貌も相手の風貌も、容赦なく変えてしまったことだろうから。
なんだか悲しい話だな。

もちろん、今のカミサンに不満があるとか、そういう類いの話じゃない。
人生の選択肢は、一度選んでしまったら、もうもとには戻せないし、それは小さな選択だったとしても、歳月がたてばたつほどに、大きな隔たりを産み出して行く。
だから、賢明な人間は、自分の過去なんか振り返ったりしないものさ。

けど、俺はバカだからな。


その人のぼんやりとした面影のなかで、ただひとつだけ、いつでも思い出すことができるものがある。

それはその人のまなざしだ。

その人が時折見せた、困ったような淋しいような、いやいや、どこかに癒しがたい悲しみを抱えているような、まなざしだ。それは戸惑いや困惑を表すような八の字になった眉とセットになっている。
そして、クリクリとした大きな目で、斜め上を見上げるようにしていたっけ。
その視線の先には、まだ若くて荒んで意気がった俺がいたり、虚空が広がっていたりした。

読者諸君、失礼する。この極めて個人的な話は、たぶんしばらく続くだろう。その人に届くことはないだろうけれど、俺がいつか死ぬ前に、俺自身が書いて遺しておきたいことなんだ。そんな与太話に付き合わせてすまないな。けど、俺にとっては、すごく重大なことなんだよ。