2026/04/16

POST#1821 そういえば、伝統伝統という割に、紋付袴の右派政治家はおらんな(笑)

愛知、常滑

起きてる時間のほとんどが、仕事に消えてゆく。

けど、俺はおさるのジョージみたいに好奇心旺盛 だ。おれのハイスペックな脳味噌は常にいろんなことを考えて止まらない。

さてと、右派の政治家の人達って伝統 伝統とか言う割には和服を着てたり 羽織袴を着てたりあるいは ちょんまげを結ってたりする人なんて一人もいないよね。(笑)

それに 自称保守の右派の人たちの方がやたら口を開けば 改革 改革 改革、憲法改正、憲法改正、憲法改正、挙句の果てには皇室典範改正って何よ?

そんなことより、他にもっとやるべきことがあるだろ!アメリカ様のおかげ様で、止まりそうにない物価上昇、リンクして上がる税金に、切り詰められてく社会福祉。

いったいぜんたい、この国を動かしてるお偉いセンセーたちは、何がしたいんだ?

ここんとこ俺がぶち上げた俺が掲げる『ジプチ方式』と『天皇制 リベラリズム』の第一の障害になるものこそは、この自称保守の連中なんだ。奴らは一皮むけばアメリカの走狗で我利我利のリバタリアンなんだよ。

あいつらの言う 改革ってのは庶民から税金を吸い上げて 富裕層に再分配するためのシステムを構築するっていうことなんだ。これはもう再分配 っていうよりも 山分け だよね。国家的なスケールのネズミ講さ。

この切り込み口は、現在の日本の言論空間において最も「痛いところ」を突く、極めて効果的な戦術になるはずだ。

いわゆる「保守」や「右派」を自称しながら、その実態は米国の軍事・経済戦略に追従し、新自由主義的な弱肉強食(リバタリアン的発想)を加速させている人々。奴らの掲げる錦の御旗「偽物のナショナリズム」の仮面をはがし、『対米従属』で最終的にアメリカに、日本の富を貢ぐような政治をさっさとを解体しなきゃ、この豊葦原の瑞穂の国に真の独立自尊などあり得ない。

彼らの「虚」を暴くポイントは、以下の3点に集約されるのでないかな?

1. 「対米追従」と『愛国』の矛盾

自民党をはじめとする右派政党はアメリカの走狗なんだぜ。

日本の富が米国債や兵器ローンとして吸い上げられることを容認しつつ「愛国」を唱える欺瞞。

嘘はいけないと子供の頃に躾けられてないのか?

真の右派であれば、まず「主権の完全回復(地位協定の改定や独自軍備)」を最優先にするはずだろうが、彼らはアメリカの虎の威を借ることで自らの地位を守っているんだ。

だいたい、いまのアメリカ様のご乱心が日本の『存立危機事態』そのものだろ?

2. 「伝統」を隠れ家にしたリバタリアニズム

自民党の皆さんが大好きな自助努力という名の棄民。

世の中の正規の労働市場からこぼれた人間は、ギグワーカーか風俗嬢。酒とタバコといった税率と中毒性の高い嗜好品で生活苦を紛らわし、親方日の丸のギャンブルで散財する。少し目先の利くやつは、お上の旗振るNISAや投資で、高配当を信じながら、なけなしの金を資本家たちの運転資金に回してる。

伝統や家族の絆を口にしながら、実際には弱者を切り捨て、セーフティネットを破壊する構造改革を支持する。

こいつはむかしそのむかし、宮本常一が描いたような「共同体でしぶとく生き抜く日本人の互助精神」とは真逆の、冷酷な市場原理主義そのものだろう。

おまけにコミュニティに働きかけたらたちまち不審者扱いで、私服警官がやってくるのさ!素敵な国だろニッポンは!

3. 「プロイセンモデル」の亡霊

誰も彼もがこれ大昔から、日本に伝わる社会の形と、信じ込まされ騙されてきた、カチンコチンに硬直した、薄っぺらな国家観。

明治以降に作られた「上からのナショナリズム」に固執して、もっと古層に広々広がり一万年をはるかに超えてる「誰でも彼でも溶かし込み同化させてく、寛容で未来性をもつインクルーシブな日本のダイナミズム」を奴らは理解しようとしないんだ。

奴らにとっての天皇は単なる便利な「統治の道具」であって、俺がかくあれと乞い願う「多様性を包摂するオーソリティ」ではまったくない!

今に旧宮家の右派論客が、いつの間にやら男系男子と天皇陛下になる日も近いぜ!

なにせ巷のネトウヨは、畏れ多くも畏くも、上皇陛下を名指して、パヨクとからかい憚らず、我が身の不敬に気がつかぬ!笑止千万!

国民的に大人気の愛子内親王殿下が、先々御即位召されれば、男系男子の万世一系途絶えると、慌てふためき急ぐは皇室典範改正。

そんなに男系男子がいいのなら、仁徳天皇陵掘って、そこに眠れる仁徳天皇、畏れ多くも遺伝子情報サルベージして、今上陛下の玉体の御身傷つけ得た血に潜むDNAとくらべてみたらいいんじゃない?

第一伝統伝統と、伝統工芸士みたいに連呼してるあの人たち、そんなに言うなら毎日の国会質疑に答弁に、羽織袴に白足袋で現れて、有権者の皆様に向け朝の辻立ちしてみれば?

薄くなってる頭でも、いっそチョンマゲ結ってみて、これぞ日本の伝統を、その身に体現した姿!なんて外連味にたっぷりに、予算委員会で大見得きってごらんなせぇ。そこまでやるなら、その伝統も口先だけのまやかしじゃなく、本気と書いてマジと読むと、認めてやってもよござんす!(笑)

この「似非右派」どものメッキを剥がし、彼らが単なる「アメリカの利権の管理人」に過ぎないことを白日の下にさらしてみせよ。外道の本性破邪顕正!

それは、国民が「安逸な奴隷」から目覚めるための、不可欠な儀式(デトックス)になるだろう!

そんじょそこらのおじさんおばさん、お兄ちゃんお姉さんは騙せても、俺はうかうかその手には乗りはしないぜ金輪際!おかしいことはおかしいと、しっかり言わせてもらおじゃないか

2026/04/15

POST#1820 俺は自分のことをずっとアナーキストだと思っていたんだ

ベトナム、ハノイ

俺がつねづね気に入らないと思ってるのは、小はその辺のおまわりさんから、大は総理大臣まで、どいつもこいつも国家が巨大なシステムであると同時に、大小さまざまな権力の保持機能だと思っているところだ。

まさに、そこが「小利口な秀才たち」の致命的な勘違いなんだ。

彼らにとって国家は、自分たちの権力を維持し、国民を管理・コントロールするための「箱(保持機能)」でしかないんだよな。だからこそ、明治憲法のもとになったプロイセン憲法のような「管理に便利な道具」を金科玉条とし、数合わせに奔走するわけだ。しかし、俺がここんとこを展開し続けている「天皇制リベラリズム」という言葉に込めた真意、そして柳田や折口、梅原猛たちが追い求めた日本の姿は、全くの別物のはずだ。

国家は「保持」するものではなく「通過」するものだ。

16000年の歴史を見れば、権力者は現れては消える一時的な存在に過ぎまないのさ。死なないやつはいないからな。本来の「日本という形」は、権力者が保持するものじゃなく、その土地の霊性や民の営みが脈々と流れていく「川」のようなものだといえるだろう。

ゆく川の水は絶えずして、しかももとの水にあらずだ。

天皇が日本社会の中心にぽっかり口を開けたブラックホールというかクラインの壺のような「中空の権力の中心」として祭祀王=「祈る存在」であるのは、権力という汚濁を浄化し、歴史の連なりを次世代へ流すためであって、権力を握りしめるためではないという見方もできうるだろうな。

「管理」ではなく「解放」

「天皇制リベラリズム」の視点に立てば、究極の権威が政治(まつりごと)のさらに奥にあることで、世俗の権力が全能になることを防いでくれるだろう。つまり、政治家ごときが「国家は俺たちの権力保持装置だ」と傲慢になることを許さない、一種の「自由の砦」としての機能だ。

魂を数値化する罪

今の政治家が国家を「権力の保持機能」と考えるから、人間を単なる「労働力」や「消費者」あるいは「有権者数」という数字でしか見られなくなるんだ。しかし、俺たち一人一人の国民は、そんな枠に勝手にくくられるようなものでなく、つぶさに見てゆけば、ひとりひとり差異を持つユニークな存在だ。

彼らは「国家を回している」という万能感に浸っていやがるが、その実は、日本という広大な歴史の森から切り離された、ただの「管理事務員」に過ぎないことに気づいていない。

そもそも国家というのは自然権を持った自由な市民たちが自らの自然権の一部を委譲信託して生み出した一般契約による幻想のはずだ。

ホッブズ、ロック、ルソーたちが築き上げた近代民主主義の「社会契約説」から見れば、国家は市民が便宜のために作り上げた「契約上の幻想」に過ぎないんだ。

俺たち頭の先からつま先まですっぽりと包み込む、母胎のようなものとは違うんだ。

今の政治家たちは、その「市民から預かっているだけの代理権」を、あたかも自分たちが最初から持っている「固有の権力」であるかのように勘違いし、保持し、居座っている。

これこそが、俺の感じる「違和感」の法的な、そして哲学的な正体だ。

しかし、ここで面白いのは、先に挙げた「天皇制リベラリズム」と、この「社会契約による幻想」という視点が重なった時に生まれる究極の逆説だ。

まず「契約」を包み込む「16000年の器」という視点が得られる。

西洋的な社会契約説では、契約が切れたり壊れたりすれば国家は終わりだろうな。しかし、日本にはその「契約(幻想)」が書き換えられたり破綻したりしても、その下で脈々と続いてきた「土着の命の連なり」がある。そりゃ、どこの国民だって人類の数十万年の歴史を経てこの地球上に存在してるのは変わりない。しかし、その歴史の重みのすべてとは言わないが一部を体現しているのが、天皇という存在なんだ。(だから大日本帝国と日本国が連続した政体だという擬制が成立するんだよね。)

そしてそれは政治家や官僚機構による権力の「私物化」への最強のカウンターとなっているわけだ。政治家が「国家は自分たちの権力保持機能だ」と傲慢になる時、「国家は市民の委任による幻想だ」という西洋的な理屈と、「天皇は権力を超えた祈りの存在である」という日本的な理屈は、実は「政治家に全能感を抱かせない」という一点において、強力なタッグを組めるはずだ。

どうだろう?

俺は今まで自分がアナーキスト、もしくはアナルコサンディカリスト(無政府労働組合主義者)に近いと思ってたのに、実は愛国者だったと気づいて自分でも驚いてるのさ。

こんなことってあるんだな(笑)

2026/04/14

POST#1819 寝起きから警察に文句の電話を入れた


犬吠埼
眼を覚ました時には、11時30分だった。
今日はうつ病でかよっっている精神病院の予約が9時から入っていたのに。
診察とカウンセリングだ。
俺が鬱病だといっても誰も信じてくれない。この人たちだけが信じてくれるのさ(笑)
ふとLINEを見ると、父が入所しているサービス付き高齢者住宅の施設長からLINE電話が入っていたのに気が付いた。俺は爆睡していたから気が付かなかったんだ。
で、施設長に連絡してみるとこんな話だった。

俺の親父は86歳にして要介護どころか要支援もつかない健康なくそジジイなんだが、毎朝決まったルートを散歩している。ご苦労なこった。
毎日同じルートを歩いていれば、毎日通学などで顔を合わせ子供たちにあいさつをしたり、そのうちに親しくなって話したりハイタッチすることも出てくる。
どうにも施設の人に話を聞くと、その子供からは手紙をもらったり親御さんとも挨拶したりする親密な関係を築いていたらしい。
それを不審に思った地域住民が、警察に相談し、今朝警察がやってきて親父に事情聴取したうえで、施設まで連れてゆき、施設長とも話をしたという。私服警察官が3人もやってきたんだとさ!そして、『今回は警告だ』という不気味な言葉を残して去っていったという。

京都の山中で行方不明の小学生が遺体で見つかったことに関しては、同じ年頃の子どもを持つ市民としては、胸が痛む。(京都の件に関しては、いまだに事件なのか事故なのか、それとも本人自身の問題なのかわからない状態なので、ここで何かを言うのは差し控えることにする。ご了承いただきたい。)そして、そんな報道があったことで、子供に声をかける老人を不審に思う市民がいるのもわかる。現象を見て何を思うかは内心の自由があるからそれは問題ない。問題なのはそのあとだ。
怪しいと思うなら、自分から声をかけて話してみればいいだろう?それとも86歳のじいさんがおっかないのか?(ある意味あの元気さが、俺にはおっかないけどな)

誤解が解けたら理解を深めよう。

そして、警察だ。何の法的根拠があって私服警察官が3人もやってきて『警告』したのか?
子供への挨拶そのものは刑法上の犯罪ではないんじゃないのか。
が、現代の防犯活動において、警察は重大な犯罪(誘拐やわいせつ事件など)を未然に防ぐための「先制・予防的活動」として、見知らぬ大人による声掛けを「事案」として扱うことがあるのだという。やばいな。子供にあいさつをする町内の気さくなオッサンたる俺も、いつ警告されるか分かったもんじゃない。この国はいつからこんな風通しの悪い国になったんだ?

警察官から『警告』を受けた際に、背景として考慮されている可能性のある法律や根拠は調べてみるとこんなものがあるようだ。
1. 警察官職務執行法(警告の法的根拠)
警察官が父に「やめるように」と告げた行為自体は、この法律に基づく指導や警告である可能性が高いかもしれない。
第4条(避難等の措置): 人の生命や身体に危険が及ぶおそれがある場合、警察官は必要な警告を発することができます。
犯罪の予防: 警察は「犯罪の予防」を責務としており(警察法2条1項)、不審者情報が寄せられた際や、特定の状況下での声掛けが「犯罪の前兆」と判断された場合に指導を行います。 

2. 迷惑防止条例(各都道府県の規定)
多くの自治体では、特定の状況下での「つきまとい」や「不安を覚えさせる言動」を禁止している。 
不安を与える行為: 正当な理由なく、相手(特に13歳未満などの子供)に不安を覚えさせるような方法でつきまとったり、声をかけたりする行為が制限される場合があります。
卑わいな言動: 内容によっては、条例上の「卑わいな言動」とみなされるリスクもあります。 
3. 軽犯罪法
第1条28号: 他人の進路を塞いだり、つきまとったりして不安や迷惑を覚えさせる行為が該当する可能性があります。

ではなぜ「挨拶」が警告の対象になるのか?

警察の基準では、善意の挨拶であっても、子供が「怖い」と感じて通報したり、保護者から「知らない人が声をかけている」と相談があったりすると、「子供に対する声かけ事案」として記録されるそうだ。
警察は、略取・誘拐などの重大犯罪を未然に防ぐため、犯罪に至らない段階であっても、行為者を特定して「指導・警告」を行う運用を強化しているらしい。ご苦労なこった。

なぜ「警告」まで発展したのか?

現代の防犯ルールでは、たとえ挨拶であっても、子供が「怖い」と感じたり、保護者が「知らない人が頻繁に話しかけてくる」と通報したりすると、警察は「声かけ事案(不審者情報)」として動かざるを得ないのが現状だそうだ。やれやれ、世知辛い世の中だ。

刑法の条文に直接抵触していなくても、以下のステップで「警告」が行われた可能性が高いようだ。

子供・保護者あるいは地域住民からの通報: 「知らないおじいさんに毎日声をかけられて不安だ」という相談が警察に入る。あるいは「施設に入っているから地域の人間とみなされず、不審な老人が毎日こどもと親し気に接している」と地域住民から通報相談が入る。

ストーカー規制法や迷惑防止条例の準用: 繰り返し同じ子に声をかける行為が、相手に不安を与える「つきまとい」に近いと判断される。とはいえ、親父の話じゃその子からは、手紙とかももらったことがある顔見知りだったらしいぜ。

警察官職務執行法に基づく指導: 実際の事件(誘拐やわいせつ等)を未然に防ぐため、警察が「これ以上はやめてください」と公式に警告(行政指導)を行う。

まったく「今の世の中はどうなっているんだ」と納得しがたいぜ。しかし今の時代は「知らない大人からの声かけは、善意であってもリスク」と子供たちが教えられている。いわゆる『いかのおすし』だ。

それはそれでごもっともな話だ。まったく市民社会が委縮して、他人に無関心で共感力の低い冷たい社会になっていくのがするのもよくわかる。まったく以て結構なお話た。

この話しのポイントは、現代の防犯活動が抱える非常に根深く、切実な問題(ジレンマ)だ。

本来、地域社会の「挨拶」は、子供を見守り、犯罪を抑止するための「共助」の基盤だったはずだろ。オアシス運動とかあったよな。バンドのオアシスじゃないぜ、そっちはそっちで大好きだけど。

しかし、現在起きている現象は、「市民社会の委縮(ソーシャル・キャピタル=社会的なつながりの毀損)」を招いている側面が多分にあるといえるだろう。

この問題には、以下の3つの背景が複雑に絡み合っているんじゃないかな。

1. 「性善説」から「リスク管理」への転換

かつては「地域の大人はみんなで見守る」という性善説が通用したが、現在は「万が一の事件」が起きた際の警察や学校の責任問題が非常に厳しくなっている。その結果、「疑わしきはすべて排除する」という極端なリスク管理に振れてしまっている。

2. 教育現場の「知らない人にはついていかない」の徹底

現在の防犯教育(いかのおすし等)では、「知らない人に声をかけられたら逃げる」と教えられる。子供には「善意の挨拶」と「誘い出しの口実」を見分ける能力がないため、「大人は一律に警戒対象」として教育せざるを得ないという教育現場の限界があるんだそうだ。けれど俺は子供のほうが人間の本質を見抜いてると思うけどな。

3. 「声かけ事案」という統計の罠

警察は、軽微な声かけもすべて「事案」として集計し、防犯メールなどで共有するんだそうだ。ご苦労様。これにより、保護者の不安が過度に煽られ、「挨拶されただけで通報する」という過剰反応が連鎖し、さらに警察が動かざるを得なくなるという悪循環が生まれている。

さて、86歳のくそジジイが朝の散歩で挨拶をするという、かつては「美徳」とされた行為が「警告」の対象になるのは、明らかに地域のコミュニケーションの崩壊を象徴している。

俺は寝ぼけた頭でこの話を聞いて、真っ先に憲法で保障された「表現の自由」や「行動の自由」に対し、具体的な実害(つきまといや卑わいな言動)がないにもかかわらず、警察が「挨拶」を一律に禁じるのは、公権力の過剰な介入だと思ったぜ。俺は国家権力に縛られるのが嫌いなんだ。てか、好きな奴っているのかな?

俺は施設長との電話を切ると、すぐな地元の警察署に電話した。生活安全課か地域課の人間と電話越しに事情を説明し、その『警告』の法的根拠を伺いたいと話をしたんだすると警察官は、『了解』と言った。

『了解』だと?了解ってのは、あくまで上の立場の人間が目下のものに対して言う言葉だ。俺はそれく指摘し、即刻抗議した。非礼だ。

警察官が市民に対して「了解」という言葉を使うのは、ビジネスマナーとしても公務員の接遇としても極めて不適切だ。本来は「承知いたしました」や「かしこまりました」と言うべき場面だ。俺はへりくだってほしいと思ってないから『わかりました』で十分だけどね。

俺は『公僕』が『了解』なんて言葉を使うもんじゃない!と言ってやったんだ。

君はどう思うかわからないが、これは、主権者たる市民として極めて正当な権利行使なんだ。公共の安寧を守るはずの者が陥っている「勘違い」を正す重要な指摘なんだ。

そもそも警察官は国家権力のシステムの一環ではあるけれど、国家システム自体が「公僕(Public Servant)」であり、その権力は市民からの信託によってのみ成立している。俺たち一人一人の市民はもって生まれた権利=自然権の一部を国家という全体に委譲し、そのうえで司法、立法、行政などを任せているにすぎないんだ。

それがいつの間にか市民を指導・管理の対象として見下し、対等な敬意を欠いた言葉(了解)を使うことは、その信託関係を自ら否定する行為に他ならないんだぜ。

俺があんまり声高に憤ってるもんだから、別の部屋でテレワークしてるカミさんが、そう感情的になるもんじゃないとたしなめに来たほどだ。しかし、俺に応対した末端の警察官は、国家システムというものが、個人の自然権を移譲して公共の福祉のために作られたものである認識がない。俺が国家システムという言葉を発したとたんに不機嫌になるのが分かった。

ある意味仕方ない。俺の真ん中にある哲学的な視点は、近代民主主義の根幹である「社会契約説」そのものだからだ。

これは大事なことだからもう一度言うぜ。

本来、警察権力というものは、私たちが自分たちの安全を守るために「自然権(自由権)」の一部を信託し、公共の福祉のために行使させているに過ぎないはずだ。

つまり、警察官は「主権者である市民の自由を最小限の介入で守るための公僕」であるはずだ。

しかし、現場の末端警察官において、以下のような深刻な「認識の逆転」が起きているのが実態だ。

1. 「お上」意識とパターナリズム(父権的介入)

「了解」という言葉遣いに表れているように、彼らは自分たちを「市民を指導・管理する立場」と思い込んでいる。主権者から権限を預かっているという謙虚な認識ではなく、「国家という強大な権力の執行者」としての特権意識が、個人の尊厳を軽視させている。

2. 「公共の福祉」の誤用

本来「公共の福祉」は個人の自由を調整するための概念のはずだけれど、実際の現場では「誰か一人でも不安に思えば、個人の自由を制限して良い」という安易な安全至上主義にすり替わっている。

これでは、多数派の主観によって少数派(あるいは個人の善意)が排除される「専制」と同じだ。先日も卒業式の赤飯が、3月11日に不謹慎だというたった一人の苦情で廃棄された。それと同じだ。

3. 法の支配(Rule of Law)の欠如

法執行官であれば「どの条文の、どの構成要件に該当するのか」を厳格に判断すべきだが、現代の防犯活動は「事案化(データ化)」を優先するあまり、法的根拠のない「事実上の強制(行政指導)」を乱発している。これは法治国家としての根底を揺るがす事態じゃぁなかろうか。

俺は、内容がわかる人間からの連絡を要望し、内容いかんによっては弁護士に相談するといって電話を切り、返答を待った。

「調査して連絡する」という回答を引き出したことは、彼らに「安易な言葉(警告・了解)が通用しない相手である」と認識させた証拠だといえるだろう。

「弁護士と相談する」という言葉を警察に突きつけたことは、今回の問題を単なる「現場の行き過ぎた注意」から、「公権力による不当な権利侵害(国家賠償法上の問題や名誉毀損の可能性)」へとステージを引き上げる、非常に強力な布石だ。俺たち兄弟にさんざん尻拭いをさせてきたくそジジイだが、根拠なく犯罪予備軍扱いされるのは納得いかんのさ。

警察側も、これによって「適当な言い訳で済む相手ではない」と組織として認識したんだろう。早速地域課の警部さんがしどろもどろで電話してきた。

まぁ、その子どもと緊密な関係を築いているのははたからはわからない。

警察も誰からか通報があれば動かざるわけにいかんのだろう。しどろもどろで釈明していた。警察官職務執行法ですか聞いたら、その上位法である警察法という法律に基づくものだといっていたな。なんや知らんけど。

面倒だな。仕事の電話は次々かかってくるし。俺は最後に地域課の偉いさんに言ってやったさ。

『次に親父が何かしでかしたら、警告とかなまぬるいこと言ってないで、さっさと逮捕して独房にぶち込んでください。そうすれば、僕ら兄弟も親父の入所してる施設の金を払わなくて済みますから。次はぜひ思い切ってお願いします!ガハハハッ』

そもそも、俺の親父のようなケースで私服警察官が3人もやってきて『警告』という言葉を安易に使うことは、国家が市民の日常生活(挨拶という道徳的行為)を検閲し、コントロールしようとする「全体主義的な兆候」なんじゃないのか?

日本の警察もそのうちにアメリカのICEみたいに市民を標的にするようになるのかもしれない。あるいはこの国自体が中国みたいな全体主義的な専制主義国家へと変質しようとしているのかもしれない。

どっちにしても、国を守るってのは軍備で国土を死守することよりも、国としての理念を守ることだと俺は思うよ。何より、あいさつするだけで私服警官が3人もやってくる世の中なんて、ホラーすぎるだろう。俺は御免被る。