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| Thailand、アユタヤ。有名な仏頭だけど、どこかアニミズムのイメージを喚起させる |
昨日の夜の現場は最悪だった。 ここ何年かで一番メンタルをやられた。 20人近い職方が、左官、土工、サッシ屋、電気屋、それぞれ みんな好きそれぞれに動いてて、俺はそれをまとめるのに必死だった。 理性のストッパーが外れて、暴れ出したくなる気持ちに、ぐっと手綱をひく。 人間は自分の立場でしかモノを考えられないという俺の認識は、こういう経験から打ち立てられる。 そもそも無理な工程の組み方で 制約の多い現場なんだ。 雇われの現場監督にすぎない俺に、元請けは全ての采配と責任を担わせて、誰も彼もが好き放題に主張したり、要求したりする。 感情崩壊のリミットが近づいていたのがわかった。 逃げ出すことができるものなら、一目散に逃げ出してしまいたいけれども、人生は逃げ出すわけにいかない。 吐き気を抑えて立ち向かうしかない。 そんな 過酷な状況の中でも自分の正気を保つためだけに このブログを書き続ける。目には見えない世界の構造を知覚する時、脳内から ドーパミンが出るからね。 宗教国家アメリカと宗教排除国家のフランスについて考えているときに、ふと脳内で跳躍が起こった。 いつものことだ。この脳内思考の跳躍、思考のパルクールこそが、飲まない、打たない、買わないの三拍子そろった今の俺の生きてる愉しみだ。 日本の神道の神様ってさ、宗教法人神社本庁の皆さんとかは、なんかすごく御大層なものにみたいにいってるけれどね、パプアニューギニアの人たちが信じてる祖霊や精霊、あるいは、タイの人たちが信じてるピーとかいう精霊とかと、構造的に何ら変わりはないんだよね。 |
皇統3千年の荒唐無稽な主張の神社本庁のような組織が、どれほど厳かさや国家的な権威、独自の伝統を演出したとしても、その根底にあるのは世界各地に普遍的に存在する「アニミズム」であり「祖霊信仰」という人間の極めて原初的で肉体的な精神の形なんだぜ。
それは野蛮で未開なことなんかじゃない。人間中心の世界観に打ち込まれた、今を生きる人間だけを世界の主体にしない遥かな過去からやってきた未来の思想でもあるんだ。
1. タイの「ピー」、ミャンマーの「ナッ」と日本の「カミ」の完全な一致
タイには仏教が深く根付いていますが、それ以前の土着の信仰として「ピー(精霊・祖霊)」が今も人々の生活を支配しています。ミャンマーも小乗仏教の国だけれど、人々は「ナッ(祖霊・精霊・土地の神)」を信じている人がたくさんいる。
その二面性の構造は、俺たち日本人の氏神様とかとすごく近い。
ピーやナッには、自分たちを守ってくれる「先祖のピー(祖霊)」や「土地のピー(鎮守の神)」もいれば、粗末に扱うと祟りをもたらす「邪悪なピー(怨霊・物の怪)」もいる。ナッも同じだ。人々を守護する一方で、機嫌を損ねたりすると、或いは気まぐれに災厄をもたらすんだ。こんなところも日本の神道との生き写しなんだ。 これは日本の神道が、菅原道真のような怨霊を神(天神)として祀って鎮めたり、地域の氏神を「怒らせると恐ろしいもの(荒御魂)」として畏れ、祭りを通じて「和御魂(穏やかな守り神)」へと変えていくシステムと全く同じだろう?
神社にある「御札」や「祠(ほこら)」は、タイの家々の庭にあるピーの家(サーンプラプーム)と精神の次元において完全に一致している。
実際に行ってみると、日本の家に祀られてる小さな祠みたいなのを目にする。文化が地続きなんだ。
更にギアを上げていこうや。パプアニューギニアの祖霊に見る「英霊」というフィクションの破壊だ!
パプアニューギニアの密林に生きる人々は、目に見えない無数の「精霊(スピリット)」や「祖先の霊」がすぐ近くの森や川に息づいていると感じ、彼らと共に生きている。
諸星大二郎🔗先生の『マッドメン🔗』や『海神記🔗』を読めば、それが肌感覚で体感できる。あるいは水木しげる🔗先生の戦争体験などもそうだ。水木先生は、パプアニューギニアの森の中、片腕を亡くした敗残兵として彷徨ううち、それらの存在を感知して妖怪に目覚めたんだ。
この生々しいアニミズムの視点に立つとき、国家(神社本庁の背後にあるような国家神道のシステム)が作った「お国のために死んだから、国家を護る特別な『英霊(神)』として靖国神社に祀る」という近代の政治的フィクションがいかに不自然で、歪なものであるかが暴かれることになるだろう。俺はずっと昔から気づいてたけどね。
パプアニューギニアでもかつての日本人の祖霊観でも、死者の霊は自然へと回帰する。戦争で亡くなった人々は、国家の管理物(英霊という記号)などではなく、本来はパプアニューギニアの精霊たちと同じように、「ただ生身の人間として死に、静かに故郷の山や川、自然の理法(スピリット)の中へと還っていくべき存在」なんだ。日本人は山の奥や海の向こうにそうした他界を想定した。
国家が作った「神の位」というタグを剥ぎ取り、世界共通の「ありのままの祖霊」として彼らを個人の記憶の中に還すことこそが、本当の弔いであると言えるわいな。
3. 一神教という「傲慢なシステム」への最大の反逆
アメリカや西欧の一神教に基づく近代システムは、こうしたタイのピーやニューギニアの精霊、そして日本の神道を「未開の迷信」として、かつて十字軍がやったように排斥し、単線的な進化の歴史から消し去ろうとした。少なくとも、人類の最も未開で低俗な世界観だと貶めようとしてきた。一神教サイコー!って称揚して、同じ一神教のイスラム教、ユダヤ教、キリスト教で王座決定戦を繰り広げてた。いや、今でも続いてるか。
しかしだよ、神道の八百万の神々やアイヌの人々の信仰するカムイ、ピーやナっなどのアニミスティックな信仰の普遍性こそが、人間を記号(モナド)に変えて支配する現代のデジタル監視資本主義や、一神教的な善悪二元論に対する最大の「防壁」になるんじゃないかね。
そう、八百万の神々やピーやカムイを信じる世界には、「自分たちだけが正しい選民だ」という傲慢な正義(十字軍精神)は生まれないわけだ。
そこにあるのは「他者(自然や異なる文化)のスピリットを畏れ、お互いの領域を侵さずに共生する」という、 Pierre Clastres が描いたような、支配をもたない社会の平等の知恵だって言いうことができるだろう。
神社本庁の皆さんのように、日本の神道をあたかも「万世一系の誇るべき独自の高等宗教」であるかのように語る言説は、歴史の勝者が作った浅薄なナラティブ( illusory )に過ぎない。
それを煎じ詰めて政治的な虚飾を剥ぎ取れば、そこにあるのはパプアニューギニアの森のざわめきであり、タイの路地裏に佇むピーの祠と同じ、人間がこの地球という過酷な自然(宇宙の理法)の中で、生身の肉体を持って生き抜くために共有してきた、全人類共通の「野生の知恵(アニミズム)」そのものだろう?君はどう思う?
「神道もピーもパプアニューギニアの祖霊も皆同じ」という、この多元的でフラットな視点は、国家や宗教組織が施してきたあらゆる「権威の洗脳」を無効化し、俺たち三21世紀以後の世界を生きる人間が再発見すべき、人間が太古から持っているはずの「地球の住人としての野生のロゴス(理性)」を完全に取り戻す手段かもしれないな。
これが、吉本隆明の言ってた『アフリカ的段階』ってやつかもしれないな。

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