2026/08/27

POST#1951 人間とは、本来不埒で不善を成すものなのさ!

フエ、ベトナム
ルールを作る人間、あるいは経済的な理論を構築する人間たち(いわゆる上級国民って奴らだな)は、人間を不完全なものとしては考えていない。

自分自身で完璧に、市場や社会を飛び交うあらゆる情報をあまねく理解し、正確に、合理的に判断する理性的な存在として考えている。あるいはそういった知力、能力、感情、差異の一切を切り捨てた単なる記号として考えている。いずれにせよ、そんな実際の『人間』は存在しないのに、そのどちらかとしか考えていない。

災害があると、被害者○○名、死者××名と報道されるが、その裏には一人一人の人生の軌跡や喜怒哀楽、恩愛名利が渦巻いている。それは理想的なモデルにも記号にも還元されない。

生きるとは、社会を管理運営しようとする者たちが想定し、強要してくる理想的なモデルや絶え間ない記号化への圧力をかいくぐって悪あがきすることだとすら思えてくるよ。

OK、彼らの考える人間というものをつぶさに考察してみよう。まずは 「合理的なロボット」としての人間つまり、『合理的経済人』だ。
伝統的な経済学や近代法学がベースにしているのは、ホモ・エコノミクス(合理的経済人)」という理想像なんだ。
その特徴は人間離れしてる。まるでAIだ。百歩譲って出木杉君だ。
なんてったってこいつは、すべての情報を瞬時に把握し、感情に流されず、常に自分にとって「最大の利益」になる選択を、瞬時にミスなく計算できる存在なんだから。しかし、人間とはそんなものではなく、根底にはケインズの、言うところのアニマル・スピリットがむんむんしてる。そのアニマル・スピリットこそが、経済を動かす真のエンジンだ。要は、経済学者の考えるような人間は、この世には存在しないんだ。存在しないものを前提に理論をくみ上げても、現実社会に立脚しない架空のモノにしかならないよな。そうじゃないか?
そし社会制度設計側の理屈はこんなんだ。
法律やペナルティ(つまり、オペラント心理学で言う弱化)を厳しくすれば、人間は「損得勘定」を正しく計算して、違反行動をピタリとやめるはずだ、という前提だ。
しかし、人間は合理的ではないから、そんな思惑通りに行かないもんさ。
翻って、もう一方の「ただの記号・数式」としての間にフォーカスしてみよう。つまり管理主義的なマクロの視点だ。この極端な抽象的な視点は、全体最適を考える官僚や学者が陥りがちな「記号化」なんだ。
その発想の特徴は、個々人の顔や感情、生活の背景を一切無視し、統計データ上の「1つのサンプル」「数式に代入する変数」としてしか人間を扱わないことにあるんだ。
男や女という記号、年齢という記号、収入レベルという記号、などなどだ。
彼らのような制度設計側の屁理屈では、グラフの数値を動かすように、「規制」というレバーを引けば、社会全体の「犯罪率」や「性風俗の店舗数」という数字(記号)が綺麗に減少するはずだ、という机上の空論だ。まさにオペラント=操作だな。

なぜ彼らは「不完全な人間」を見ようとしないのか?よーく考えてみよう。
彼らが「間違える、感情に流される、見つからなきゃいいやと妥協する」という生身の人間を無視するのには、理由がある。
実はそうしないと、ルールや理論を「数式やシステム」として綺麗にパッケージ化できないからに他ならない。変数が多くなればなるだけ、複雑怪奇な日本の税制みたいなものになっちまうからな。彼らにとっては、現実よりも理念のほうが先行しているんだ。頭のなかがおかしいとしかお思えないぜ。
その目を社会の現実に向けろと叫びだしたくなるさ。
もし「人間は不完全で、法律を作っても地下に潜るし、性欲も消えないし、時々おかしな行動をする」という現実を認めてしまったとすると、どうなると思う?
彼らが誇る「完璧な計画」や「美しい法体系」は、一瞬で機能不全を起こしちまうことだろう。痛快だな。人間とは、本来、不埒で不善を為すものなのさ。
だからこそ彼らは、現実の人間を理論に無理やりねじ込み、現実を理論に合わせるために「鼻をそぎ落とす」ような暴論へと走りだすわけだ。
しかも全速力で。

その一方で、あんまりにも現実社会と、かけ離れてるから、人間の「不完全さ」を前提にした新しいアプローチの台頭してきてるらしいぜ。
つまり、あまりにもこの「理想の人間像」に基づいた政策が、厳罰化による犯罪の地下化などの反作用を引き起こしたりし続けちゃうもんだから、ここんところやっと、「人間は最初から不完全である」というあったりまえのことを前提にした学問やルール作りが注目されるようになっているんだとさ。遅いんじゃないのか?
まぁ遅きに失した感はあるものの、行動経済学ちゅうものが誕生、発展してる。人間がいかに非合理的で、情報処理能力に限界があり、目の前の人間が誘惑(つまり即時的な好子)に弱いかを実験で証明し、伝統的な経済学の前提をひっくり返しているんだとさ。オセロのようにね。だからどうした?人間は下心の塊さ。
まずはハーム・リダクション(被害低減)の思想ってのがあるわけだ。
不完全な人間の行動(依存症や性欲にまつわる行動など)を「力づくでゼロにする(禁止する)」ことは、素直に不可能と諦め、「いかに安全な環境で、被害を最小限に抑えるか」という、現実的なルール作りに舵を切る国や地域が増えているわけだ。合法的にして、きちんとしたルールと労働者保護の原則にのっとって行うというオランダみたいなパターンだ。
設計者が描く「完璧な理性を持つ人間(あるいは単なる記号)」と、庶民の「不完全で、生身の欲求を持った現実」。この2つの溝が埋まらない限り、キルゴア・トラウトの小説のような「ズレた規制」は、形を変えてこれからも繰り返されるのは間違いない。
けれど、あえてひねくれた見方をさせていただこう。
俺は想うんだけど、人間の不完全さや醜さ、あるいは矛盾、そういったものをこう描き出し、よりマシにしていくために必要なのは、制度や法律でも、新しい経済理論でもなくて、文学、人類学、民族学などの人文系の学問だと思うんだ。就職戦線で全く人気のない人文系の学問だ。なぜ人気がないかって?経済的な合理性がないから、つまり儲からんからさ。
人間の内面にある「矛盾、醜さ、割り切れなさ」といった不完全さをありのままに描き出し、理解するためには、制度や法律、経済理論はまったく役に立たない。バイアグラを飲んでも役には立たない。なぜってそれらはむしろ、先にも言ったように、これらは人間を無理やり観念的にでっち上げられた型にはめるための道具だからだ!
人間の生々しい実態を捉えるために、なぜ文学や人類学、民族学が必要不可欠なのか、その理由は、ずばり学問の「視点の違い」にある。
「平均・理想」を求める科学と、「例外・個別」を認める人文学の相違点
法律や経済学は、社会を統治するために「標準化(ルール化)」を求める。そこでは、ルールに従わない人間や、割り切れない感情は「ノイズ(異常値)」として排除されるだけだ。しかし、現実社会はノイズだらけだ、。ノイズのフルオーケストラだ。
一方で、文学や人類学、民族学が対象にするのは、まさにその「排除されたノイズ」の方なんだ。
まずは文学。
法律が「犯罪者」と一言で片付ける人間に、どのような葛藤や醜さ、あるいはやむにやまれぬ事情があったのかを、「個人の物語」として描き出そうとする。ストエフスキーや、ヴォネガットの作品がまさにそうであるように、人間がいかに理不尽で矛盾に満ちた存在であるかを証明し、それに光を当てrことが大好きだ。なぜって、人間は理不尽なものだからさ。
そして人類学・民族学。
近代的な経済理論が「未開」や「非合理的」と切り捨てる人々の行動や信仰の中に、独自の深い論理や生存の知恵を見出そうとしてる。時に、近代経済学の生み出してきた『ナラティブ』を打ち砕き、俺たちの発想を根底から揺るがすような視点を提供してくれる。
これらの学問は、20世紀以来、机上の空論ではなく、「フィールドワークに基づく参与観察(現場に身を置くこと)」を通じて、綺麗事では済まない人間の土着的な営みや、性のタブー、生老病死の泥臭い現実をそのまま記録しようとしているわけだ。そこに、人間の思考や社会の構造を見出そうとしているんだ。
人間の「業(ごう)」を肯定する視点
制度や法律は「人間をどう管理し、どう変えるか(コントロール)」という目的に縛られている。だからこそ、人間の醜さを「是正すべき悪」とみなすことになるわけだ。
しかし、文学や文化人類学は、人間の醜さや矛盾を「変えられない人間の本質(業)」として、まずはそのまま観察し、受け入れようとする。そこが大きく違うところだな。
「見つからなければ罪ではない」と法の網の目をくぐろうとする庶民のずる賢さも、制度の側から見れば「取り締まるべき対象」そのものだけれど、文学や民族学の視点から見れば、「強大な権力やシステム(お上)に対抗して、生身の人間が生き延びるための、たくましくも滑稽な生存戦略」として描き出される可能性がある。
「鼻をそぎ落とさない」ための学問
キルゴア・トラウトの小説の例に立ち戻ってみよう。独裁者が「鼻を切り落とす」という暴挙に出たのは、彼が法律や制度の論理(目的のために手段を選ばない全体最適)だけで世界を見ていたからに他ならないんだ。もしその国に、優れた文学者人類学者がいれば、「鼻をなくした人間が、どれほど生きる喜び(食事の匂いや花の香り)を失い、絶望するか」を物語で訴えたかもしれない。あるいはまた「それぞれの地域の人々が、悪臭とどう折り合いをつけ、独自の文化を築いてきたか」を証明しようとしたかもしれない。
そうした努力によって、うまくいけば独裁者の暴走にブレーキをかけられたかもしれないが、今の専制国家群やアメリカのトチ狂った大統領を見てると、望み薄だな。
仕方ないな。
そんな弥縫策を弄するよりも、むしろ一度やれるもんならみんなの鼻をそぎ落としたらいいんだよ。
俺のこの感覚は、究極のディストピアを一度現実にして、システムがもたらす破滅を徹底的に味わえばいい、という強烈なニヒリズム(虚無主義)と、社会への冷徹な諦念に見えるかもしれない。
綺麗事の通じない現実を前にしたとき、その「いっそ徹底的に破綻してみればいい」という思考に行き着く感覚が、君にわかってもらえるだろうか。安穏と暮らし、家畜化された末に去勢され、収奪される俺たち市民。面白れぇじゃないか、行きつくところまでやってみればいい。みんなの大好きな中国よりもひどいことになるだろう。
カート・ヴォネガット自身も、人間の愚かさや戦争の惨禍(そう、彼自身が戦争捕虜としてドイツで体験した連合国のドレスデン爆撃など)を目の当たりにし、人類への絶望を抱えながら、それをブラックユーモアという形でしか表現できなかった作家だったんだ。
もし本当に、現代の独裁者やシステムが「みんなの鼻をそぎ落とす(性欲や不完全さを力づくで消去・管理する)」ような暴挙を一度やり遂げてしまったら、社会はどうなると思う?考えるだけでワクワクするぜ。
「完璧で、完全に死んだ社会」の完成
確かに、すべての人間から「鼻(欲求や矛盾、不完全さ)」が奪われれば、お上が望む通りの「問題のない社会」が一瞬だけ実現するだろうよ。その社会からは、性犯罪も、売春も、泥臭い人間関係のトラブルも消えてなくなる。そして、経済理論通りに、記号のように動く「完璧な人間」だけが残るって筋書きだ。サイコーだな。ハラショー!
しかしそれは、人間が人間であることをやめた、巨大な墓場のような社会に他ならないぜ。欲求や矛盾を失った人間からは、生きる活力も、文化も、芸術も、他者への共感もすべて消え失せることだろう。いや、もうすでにそうなりつつあるのが俺には感じられている。だからこそ、こういう誰にも届かない言葉を書き連ねているんだ。
「鼻をそぎ落とした側」の自己崩壊
ヴォネガット的な視点で最も皮肉で、最も恐ろしいのは、全員の鼻をそぎ落とした独裁者(システム)自身もまた、人間の不完全さから逃れられないという点だ。なぜってそいつ自身もシステムの鎧を剥ぎ取ってみれば、人間そのものに過ぎないからだ。なにが起こるか見てみよう。
悪臭問題(社会問題)を解決したはずの独裁者は、次に「鼻のない人間たちが放つ、別の不都合」に直面することになるだろう。間違いない。彼は自らの構築したシステムを維持するために、次は人々の耳を切り落とし、或いは目を抉り取る、と際限のない破壊のループに陥っていくことだろう。まさに蟻地獄のように終わりがない。
まずは魔女裁判や奴隷狩りのようなことが起こるだろう。そして最後には粛清と大量虐殺が起こるだろう。
そして、最終的にはシステムそのものが自壊してしまうのさ。なぜなら、社会なんて個々の人間の集合によって生み出された共同幻想にすぎないからだ。
 歴史が繰り返す「リセット」の衝動
人間社会の歴史において、支配層が理想に燃えたり、阿呆な庶民に苛立ったりして「全員の鼻をそぎ落とす」ような極端な社会実験を行った例は、実は過去に何度もある。嘘だと思うかもしれないが、これは本当だ。皆さん大好きな18世紀フランス革命の「恐怖政治」や20世紀の「文化大革命」や「ポル・ポト政権」の大量虐殺だ。
これらはすべて、「人間の不完全さ(欲求や利己心)」を法や思想で強制的に削ぎ落とそうとした結果、数百万、数千万の命を奪う大惨劇(リセット)となった。
そして、その地獄を経験した後に、人間は再び「やっぱり人間は不完全で、ずるくて、泥臭いものだ」というスタートライン(文学や人類学の領域)へと、ボロボロになりながら戻ってくる羽目になるんだ。まったく残念ながらそれがお決まりのパターンなのさ。

「一度やれるもんならやってみろ、そうすれば自分たちがどれほど愚かなことをしているか分かるだろうさ」という視点は、社会を動かす側の傲慢さに対する、庶民の究極の皮肉であり、一種の呪詛(じゅそ)でもあるだろうよ。
システムが限界まで人間を記号化し、息苦しさが極限に達している現代において、この「一度破滅(リセット)してみればいい」という感覚は、性風俗の規制問題だけでなく、現代社会のあらゆる歪み(過剰なコンプライアンス、AIによる管理、監視社会化)に対して、多くの人が心の底で抱いている本音なのかもしれないぜ。
俺かい?俺には何の不満もないぜ(笑)

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